テディ=ベア
第三章 山田花子(仮)は腹が黒い クマ五郎と一緒に、家令の案内で領地の視察に来ている。侍女も一緒だ。
エロ爺の事業とは、領地管理だ。知事みたいなものだろう。
「お前さ、自分の領地見たことある?」
クマ五郎に訊かれて首を横に振れば、見に行くべきだ、と珍しく真面目に言われた。しかも、善は急げとばかりに即座に馬車に押し込められた。
この馬車が最悪で、ものすごく揺れる。揺れるというよりは跳ねる。どれだけクッションを重ねても、お尻を打ち付ける。最悪座面から落ちる。ものの五分で根を上げた。絶対にお尻が痣になっている。
クマ五郎が「やれやれ」と呆れながら膝に乗せてくれた。もふぶっとい腕のシートベルトが腹回りに装着され、もふいクッションがお尻を支えてくれる。ぴょこぴょこしない。なにこれ快適。超快適。
小窓から見える御者台にいる家令も、一緒に乗っている侍女も、何食わぬ顔で座っている。ぴょこぴょこお尻が跳ねるのは私だけだ。
コツでもあるのかと、じっと侍女のお尻を見ていたらさり気なく角度を変えられた。痴漢じゃないから。クマ五郎はその重量のおかげで飛び跳ねないだけだと思うから参考にならん。
二時間ほど馬車に揺られて到着したアストン領は、最低だった。
家令の説明によると、領地経営は小麦のような穀物栽培で成り立っている。風にそよぐ立派な小麦畑とは裏腹に、農民たちの住んでいる家が酷い。到底家とは呼べない、明らかに掘っ立て小屋だ。農民たちの服装も酷い上に、顔色が悪く痩せ細った姿は、見ているだけで不安になる。
聞けば、納税は収穫の八割。残り二割では大人二人がどうにか食べていける程度だそうだ。穀物農家以外の課税も似たようなものらしい。学校もなければ病院もない。街道と領主の館周辺だけが整備されたきれいな道になっていて、それがものすごく不気味に見えた。
「どうして逃げ出さないの?」
「逃げ出したところで他の領地も似たようなもんだ」
「例えば、家族四人が一年を通して十分な生活ができるのは、収穫の何割?」
「少なくとも三割程かと」
御者台から振り返った家令が答える。クマ五郎が厳しい目つきで馬車から見える景色を眺めている。
領地はそれほど大きくはなかった。ものすごく大雑把な地図を見ると、多分東京二十三区分くらい。領地というくらいだからもっと広大な、ひと県分くらいあるのかと思っていた。とはいえ、二十三区分でも大きな方らしい。しかも中央と呼ばれる首都に隣接している要所であり、肥沃な土地なので作物の質もいいらしい。
領主の館は領地のほぼ真ん中にあった。領主の館だけが豪華で、むしろその豪華さが恥ずかしくなるほど周囲から浮いていた。
領主の館を中心に、宿や商店などがぽつぽつ並んでいて、一応街並みらしいといえなくもない。県庁所在地のような地区なのに、賑わいが全くない。はっきり言って寂れている。
商人が領地に入り込むことを嫌ったエロ爺のせいで、領民は自給自足が当たり前となり、商店や食堂、宿などは必要最低限の数しかないのだと説明された。
寂れている中でも一番マシに見えた食堂でお昼を食べることにした。
うん。お金取っていいレベルじゃない。まるで適当に作った賄いを出されたような、なんとも中途半端な料理だった。
客が来ないから料理人の腕も上がらない、客が来ないから食材も揃えられない、客が来ないから給仕は接客の仕方もわからない。そんな負の連鎖がはっきり見えた。なんだか切なくなってきた。
領主の館周辺には人の気配はなく、潔いほど静まり返っている。
抜き打ち訪問を出迎えた館の管理人夫婦は、それはもうわかりやすく挙動不審だった。二人ともやたらと血色がよく、領地で見た誰よりも丸々と肥えていた。着ているものも明らかに上質だ。どこからどう見ても怪しい。わかりやすく怪しい。
家令に抜き打ち訪問に対する嫌味を言いながら、侍女と一緒にいる私の存在を訝しんでいる管理人夫婦を一旦下がらせた。
「みんなの家族か知り合いに、ここの管理を任せられそうな人いない?」
こっそり訊くと、家令の末の弟がもうすぐ成人、侍女の妹は去年成人していて、二人とも職探しに難航しているらしい。
すぐさま二人を雇うから、その二人に管理人夫婦の不正を探らせ、証拠を見付け次第解雇するよう、家令と侍女の三人でこそこそ相談し合う。二人とも即座に賛成してくれた。
館に一歩足を踏み入れようとして動きが止まった。玄関ホールは全体的に白っぽかった。見事なくらい白い。一瞬こういう内装なのかと思うくらい白い。窓から射し込む光に反射して、粉雪のようにホコリが舞っている。
館を管理する名目で雇われているはずなのに、この積もり積もったホコリはなんだ? そもそも、庭だって草ぼうぼうだし、窓だって曇っている。控え目に言っても廃墟だ。
おかげであの二人が歩き回った足跡がそっくりそのまま残っていた。鑑識いらずだ。
玄関ホールに飾られていたであろう、壺なのか彫刻なのかがあったらしき、ホコリの山積から免れている丸い箇所を見付けた。最近持ち出されたのだろう。不正を探らせるまでもない。明白すぎる。どうしてこういうわかりやすいことするかなぁ。せめてもう少し隠そうよ。隠蔽しようよ。
いつの間にか側にいたクマ五郎に窃盗の痕跡を指差せば、それに気付いた家令も珍しく顔をしかめた。ちなみに、全員玄関に一列に並んだまま中に入ることを躊躇っている。私なんて、うっかり転んで埃まみれになりかねない、と失礼なことを言われて、クマ五郎の片腕に抱えられた。クマ五郎だってうっかりモップになりかねないのに。
解雇決定。
侍女は早速とばかりに領地にいる家令の弟と自分の妹を迎えに行った。ちなみにうちの侍女、馬車も御せるスーパー侍女だ。かっこいい。
家令からは、ここ数年は忙しさのあまり管理人からの報告を受けるだけで、足を運んで館の中まで確認していなかったことを謝罪された。謝罪は頭だけを下げる。項垂れる感じだ。日本人のように腰は折らない。この埃だらけの中で平伏されたらどうしようかと思っていたのでほっとした。
改めて家令に呼び出され、在ったはずの壺のありかを訊かれた管理人夫婦は、エロ爺に売るよう言われた、としれっと嘘をついた。しかも、三日前に指示された、と平然と言ってのけた。エロ爺の葬儀は二十日以上前に終わっている。なにそれ幽霊? ってか、自分の雇い主が死んだことも知らないってどうなの?
家令によってあっさり解雇された管理人夫婦は、わかりやすくごねた。言い訳しようが情に訴えようが完全無視の家令に逆ギレして、今度は怒鳴り散らした挙げ句恐喝まがいに脅してきた。それでも眉一つ動かさない家令に業を煮やした管理人夫妻は、周囲に視線を彷徨わせたところで、ようやく玄関の脇で事の成り行きをにやにや眺めているクマ五郎に気付いた。これでもかと目を見開いたまましばしフリーズした管理人夫妻は、がっくりとホコリだらけの床に膝をつき、何もかも諦めたように項垂れた。そういえばクマ五郎は推定警察官だった。もしくは自衛官。最悪無職。
推定警察官によって、領地追放を言い渡された管理人夫婦の家からは、ひくひくと鼻を動かして家中の匂いを嗅いだクマ五郎によって、ざっくざっくと隠し金が発見された。一体どんだけ売り払ったんだ。ってか鼻が利くなクマ五郎。そっか、クマさんだからか。
当然全て没収。泣こうが喚こうが全て没収。血も涙もないとは言いがかりだ。むしろ損害賠償請求したいくらいだ。
小一時間ほどで侍女が連れて来たのは、家令の弟と侍女の妹の他に、家令の父親と侍女の母親も一緒だった。
考えてみれば、家令のお父さんは元家令、侍女のお母さんは元侍女だ。誰よりもこの館のことを知っている。彼らに館の掃除と管理を任せ、一旦屋敷に戻って作戦会議だ。
馬車に乗り込み、クマシート再び。超快適。あまりの快適さにうっかり寝た。
どうしてこの子は普通に笑わないの?
──どうして心から笑えなかったんだろう。
どうしてこの子は甘えてくれないの?
──どうして素直に甘えられなかったんだろう。
どうしてこの子は泣かないの? この子の涙、見たことある?
──どうして、一度も泣けなかったんだろう。
「起きろ。ヨダレ垂らすな。きたねぇ」
相変わらずクマさんは口が悪い。もっと優しく起こしてほしい。首がもげるかと思うほど揺さぶられて目が覚めた。
クマ五郎の胸にできた自作のヨダレ溜まりを避けながら、そそくさとクマシートから降りて、そのまま馬車も降りた。いつの間にか屋敷に到着していた。
また嫌な夢を見た気がする。どうせいつもの夢だから思い出さない。
嫌な余韻が残っている。不安ややるせなさ、焦燥や孤独。あの夢を見ると、とことん落ちる。心底嫌な気持ちになる。
いつになったら見なくなるんだろう。見なくなる日が来るとは思えないけど。
ふと見れば、クマ五郎が鼻の頭に皺を寄せながら、侍女から手渡された布で胸にできたヨダレ溜まりを拭きながら馬車から降りてきた。すまん。今日の夕食のおかわりは許す。
揃って夕食を食べた後、早速作戦会議だ。
ちなみにおかわりを止められなかったクマ五郎は、みんなの四倍食べた。少しは遠慮しろ。
領地運営に関しては、エロ爺は家令にほぼほぼ丸投げしていたらしい。だからなのか、家令は領地に関するあらゆることを知っていた。もう家令が領主でいいんじゃないかと思う。
「今年は収穫の献上を七割に致しましょう。税も同等まで引き下げます。ひとまずはそれで様子を見ます」
国に納める税はおよそ収穫の三割ほどらしい。
「学校って領地にはないものなの?」
「領民の場合、読み書きと簡単な算術を教える程度は、本来であれば領主主導で行われます。それ以上は領主の推薦を受けて中央にある学舎で学ぶことができます。その際の費用は領主が負担します」
「つまり、前領主はそのどちらもしていないと」
「はい。無駄だと」
無駄じゃないだろうが。ケチを通り越してバカなんだな。
「みんなのご両親って読み書きできる?」
聞けば四人とも頷いた。彼らは親に習ったらしい。彼らは代々領主に仕えてきた家系だからか、教育もキチンとされてきた。エロ爺の代になって、それがなくなったらしい。仕える人数も最低まで削られた。
うちの従業員たちは揃って長男長女だ。彼らが家族を養ってきた。あんなに少ない手当で。
彼らのそれまでのお給料は、サラリーマンの平均年収の四分の一だった。それなのにたった四人でこの広い館を管理し、家令は領地の管理までしていた。もっとお給料上げないと。
「じゃあ、四人のご両親を読み書きの先生として雇うから、子供たちに読み書きや算術を教えてあげて」
平伏そうとする四人を止めたのはクマ五郎だ。「そういうのは後にしろ」だって。後でもしないでほしい。
「あと、医者はいる?」
「簡単な医術の心得がある者と、薬師、産婆が一人ずついます」
たった一人か。そりゃだめだろう。人口が違うにしろ、二十三区全域で医者一人って。どんな医療過疎地だ。
「医者って雇えるの?」
「難しいかと。いま領内にいる者も、好意で留まってくれているだけですから。そもそも医術の心得のある者の数が少ないのです」
クマ五郎を見れば頷いている。流れだと言うクマ五郎が頷いているならそうなのだろう。
ならば、医者を一から育てるしかない。
私が思い付くのはその程度のことだ。領民の生活向上と教育、医療、ほかは何が必要だろう。災害時の備蓄も必要だ。どうせエロ爺は無駄だと切り捨てていただろう。
手段も方法もここではどうすればいいかわからない。そこは家令たちに任せるしかない。
「あのさ、領地にも領主の館ってあったけど、この家って何?」
「ここは中央で社交などに使われる館です」
江戸藩邸みたいなものか。
「でもどう考えても社交には使われてないよね」
「……無駄だと」
なるほど。どれだけケチなんだ、本当。
それなのに領地には帰らずここで生活していたのはなぜだ? 領地の方が色々ケチりやすいだろうに。
「前の領主はなんでここで生活してたの?」
「……娼館がありますから、中央には」
……エロ事情か。最悪だな。
クマ五郎が家令に「子供に聞かせるな」って怒っている。いや子供に見えても、既にバツイチなんだよ。実は中身もおばちゃんなんだよ。
その夜はなかなか寝付けなかった。
馬車の行き帰りで眠ってしまったせいか、嫌な夢の余韻のせいか、真っ暗な部屋に一人でいると心細くて泣きそうになる。
本当にここはどこなんだろう。
不安なのは、元の場所に帰れるかどうかじゃない。
帰りたいと思えないことだ。