テディ=ベア
第三章 クマゴローは腹が黒い


 アストン領はあのケチな侯が治めていたとは思えないほど、知行は健全だ。時々僅かな誤魔化しはあるものの、それすら領に還元されているため、中央も目を瞑っている。
「領知はどうなっている?」
「滞りなく」
 驚くことに、アストン領を実質知行していたのはこの家令らしい。領主になれるほどの器だ。
「お前、よくやってたな」
「私もそう存じます」
 しれっと言いやがった。こいつ、フィルに会わせてやりてぇ。間違いなくフィルは気に入る。
「お前さぁ、中央で働く気ない?」
「ありません。私はヘナコ様に一生ついていくと誓っておりますゆえ」
 あっさり断りやがった。普通なら飛びついて食らいついて何があっても離さないほどの職だぞ。本当にこいつらは面白い。
 しかもだ、家令の補佐は庭師が務めているらしい。庭師を中央に誘っても家令と同じように断りやがる。
おまけに、賄い方はまるで密偵だ。こいつもあっさり断りやがった。この二人はラリーが気に入りそうなんだよな。こいつらは揃いも揃って面白い。
 アストン侯はこいつらの価値をまるでわかっていなかったようだ。逆にヘナコはこの短期間でこいつらの価値を理解している。
 どこの誰とも知れぬヘナコをあまりにあっさり受け入れるから、当初は余程の無能なのかと思ったが、逆だな。有能ゆえにヘナコの本質を見抜いたか。ヘナコは身分に左右されない目を持つ。それは持とうとしてもなかなか持てない、かなり貴重な資質だ。

「ヘナコをアストン領に連れて行く」
「かしこまりました」
 ヘナコを連れ、馬車でアストン領に向かえば、馬車に乗り慣れていないのか、ヘナコは馬車が揺れる度にその小さく軽い体を跳ね上げている。これでは尻の痣が増えかねん。
「やれやれ。お前は馬車の乗り方も知らないのか」
 ヘナコをひょいと抱え、膝の上に乗せ、その薄い腹に腕を回して支えてやる。しばらくすると強張っていた体から力が抜け、素直に体を預けてきた。
 一緒に乗り合わせている侍女が驚いたように凝視している。こいつは俺にだけ体を預ける。たとえ獣型であっても。それはとてつもない優越感だ。俺の中のどこかが満たされる。
 囁くように「快適、快適」と呟くヘナコは、うっそりと満足そうな顔をしている。この満足そうな表情を引き出したのも俺だ。それが妙に誇らしい。



 アストン領を目にしたヘナコの表情が明らかに険しい。
 家令に領知について聞かされるうちに、どんどんとその表情が険しくなっていく。アストン領は確かに厳しくはあるが、このあたりではこれが当たり前だ。何がヘナコの表情を険しくしている?
「どうして逃げ出さないの?」
 逃げ出すとはどういうことだ? ヘナコにとっては厳しすぎるということか?
「逃げ出したところで逃げ切れん。他の領知も似たようなもんだ」
 御者台に向かって付いている小窓から、家令に知行の確認をしているヘナコは、何かを決意したような顔付きになった。
 思わず馬車の小窓からアストン領を眺める。俺にとっては当たり前に見えていた景色が、ヘナコにとってはその表情を険しくさせるほどの景色らしい。俺は何を見落としているんだ。

 領知のほぼ中央にある領主の館の周りは、本来であればもっと栄えているはずなのだが、どこからどう見ても廃れている。実際にこの目で見ないとわからないものだ。
 一件しかない飯屋で昼飯を取る。その味の悪さに食う気にならない。出されたものを必死に食べようとするヘナコを見て、家令も侍女も心配そうな顔をヘナコに向け、俺にはなんとかしろと無言の圧を向けてくる。こいつらは本当にいい根性してやがる。
 仕方なくヘナコから料理を取り上げ、代わりに食ってやる。食えなくはないが食いたいとは思えない料理を一気にかき込めば、ヘナコの顔に微かな安堵が浮かんだ。その顔だけで俺の腹は気持ちよく膨れていく。

 馬車に戻れば、侍女が口直しにと焼き菓子をヘナコに差し出す。顔を微かに綻ばせ、侍女に礼を言って受け取り、嬉しそうにちびちびと一生懸命頬張るヘナコを見て、侍女は満足そうな顔をしている。
 ヘナコは使用人たちにもちゃんと礼を言う。あまりに当たり前にさらっと言われるせいか、彼らもそれを咎めずに、ヘナコの好きにさせている。屋敷にヘナコを見下すような者がいないからこそだが。

 領主の館はどういうわけかいやに小汚い。曲がりなりにも侯爵家の本屋敷だぞ。手入れしてないのか? 中央の屋敷に使用人が四人しかいないくらいだ、ここにも使用人は最低限しかいないのかもしれない。それにしても度が過ぎる。庭だけをみればまるで廃墟だ。
 館の周りをぐるりと見回ってから、正面に戻ると、家令と侍女にヘナコが面白そうな話を持ちかけている。

 いざとばかりに屋敷に足を踏み入れようとして、全員が躊躇した。そのくらい館の中が埃っぽい。汚れないようヘナコを抱き上げてやり、正面扉からの中を見渡せば、どこもかしこも埃が積もり、全体が白っぽく見える。
 不意にヘナコが指差す場所に目をやれば、家財を持ち出したであろう痕跡がはっきりと残っていた。
「大変申し訳ございません。館の管理にまで目が行き届いておりませんでした」
 館の管理を任せているアストン侯の遠縁がその管理を怠っているばかりか、どうやら館の家財を勝手に売り払い、懐に入れていたようだ。

 家令がその遠縁だという管理人夫婦を呼びつけると、こそ泥たちは家令のくせに呼びつけるとは何事かと文句を言いながらやってきた。お前たち、あからさまに肥えすぎだろう。己の体型に気付かないのか?
「こちらには、先々代の当主が購入した腰高の大きな壺が置かれていたはずなのですが?」
「ああ、それなら三日ほど前に侯に言われて売り払ったさ。どうせまた色事に使う金が必要になったんだろうよ」
 下卑たアストン侯の笑い方とそっくり同じに笑うこの男は、確かにかの侯の縁者なのだろう。領知を継げるほどの血の濃さはなくとも。
「アストン領は代替わりしております。葬りの儀はすでに二十日以上も前に済ませております」
 慌てふためいて言い繕うこそ泥夫婦の姿は醜悪だ。情に訴えられないとわかると、今度は遠縁であることを盾に自分たちを領主に据えろと家令に脅しをかけてきた。でないとアストン侯の色狂いを公にしてやるときたもんだ。おいおいお前たち、脅す相手を間違えてるぞ。この家令にそんな脅しが通用するわけなかろう。そもそもかの侯のケチと色狂いはすでに知れ渡っている。
「こちらがアストン暫定侯爵となられましたヘナコ様でございます」
 家令に言い返そうとした管理人夫婦が初めて俺の存在に気付いたのだろう、これ以上ないほど目を剥いて、観念したのか膝を折って項垂れた。

「本来なら収監されるところだが、領知追放にて手打ちにしてやる。とっとと出て行け」
 慌てて自分の家に戻ろうとする奴らを家令が取り押さえ、その間に奴らの家を確認すれば、至る所から小分けにされた小袋が面白いように出てきた。
「こいつらどれだけ売り払ったんだ?」
「ざっと確認したところ、趣味の悪いものばかりを選んで売り払っていたようです。売り払う手間が省けたと思えば、痛くも痒くもございません」
 趣味が悪いって……たしかに残っていた家財は派手さには欠けるが品よく質のいい物ばかりだ。売り払った奴らにとっては金目の物でも、家令にとっては趣味の悪いもの、か。まさか目利きまでできるとはな。

 そこに侍女が人を連れて戻ってきた。この侍女は馬車も御せる。本当にこいつらは優秀すぎる。
 家令の弟に侍女の妹、それぞれの片親が馬車から降りてきたのを見て、珍しく目を丸くするヘナコは、次の瞬間にはその表情を微かに緩めた。
 家令によってヘナコが紹介され、また侍女によってそれぞれの家族が一人ずつ紹介されていく。「よろしくお願いします」と微かな声で精一杯笑おうとするヘナコを見て、彼らは見守るような穏やかな表情でヘナコに敬意を示している。俺の存在については侍女に説明されたのであろう、目礼だけで済ませてくれた。

 領主の館を彼らに任せ、ヘナコを抱えて馬車に乗り込めば、馬車を走らせてすぐにヘナコは落ちるように眠ってしまった。
「ヘナコ様、普段からよくお休みにはなれないようです」
「そうか」
 確かにこいつの寝息は明け方になってようやく聞こえてくる。それもあってか、侍女は必ずヘナコを昼飯の後軽く休ませている。
「睡薬を用意した方がいいか?」
「できるならば。ヘナコ様は一度お慣れになれば、その後は落ちついたご様子となりますので、まずは眠ることに慣れていただいた方がよろしいかと存じます」
「だがあれは人が常用できる物ではないぞ」
「そのあたりは殿下のご判断で。ですが……、殿下の腕の中であれば、ヘナコ様は安らかにお眠りになるのですね」
 こいつは。わかってて言ってるな。
 ふと見れば、眠っているはずのヘナコの表情が、少しずつ少しずつ歪んでいく。悪い夢でも見ているのか、ぎゅっと俺の胸のあたりの服を握りしめ、擦り寄るかのようにその頬を寄せる、縋るようなその仕草に、あの日裏広場で見たヘナコを思い出した。どうしようもないほどの寂しさを湛えた目と儚すぎるほどの笑み。
 ん? なんだ? 胸のあたりが冷た……ちょっ、ヘナコ! どんだけヨダレ垂らしてんだよ。
 脳裏に浮かんだ儚げなヘナコの面影が、一瞬にしてヨダレを垂らして寝るヘナコに取って代わった。
 揺り起こせば、むすっとしながらも目を覚まし、自分が作ったヨダレのシミを汚らしそうに見て、いつもとは違って素早く俺の膝から降り、そのまま馬車からも降り、いつの間にか到着していた屋敷の入り口に向かって歩き出す。
 侍女がそれはもういい笑顔で俺に手布を渡すと、シミ取りに手を貸すでもなく、颯爽とヘナコの後を追いかけた。御者台にいたはずの家令の姿もない。あいつら……。



 夕食後、ヘナコが領知について家令たちと話し合う。
「今年は収穫の献上を七割に致しましょう。税も同等まで引き下げます。ひとまずはそれで様子を見ます」
 家令の言葉に満足そうに頷くヘナコを見て、ヘナコの指示通り言葉を多少くだけたものに変えた家令も満足そうだ。
 お前たち、そんなに簡単に税を引き下げていいのか? まあ、この家令がいれば大抵のことはなんとかなるんだろうが。本気で中央にほしい人材だ。無能共と挿げ替えたい。
 ヘナコが他に気にしたのは学舎と医師だ。領知での学びはアストン侯が無駄だと切り捨てたらしい。アホだな、あの爺は。逆にヘナコは学びの重要性をよくわかっている。おまけに備蓄にまで言及している。
 ヘナコは領を見ていたのではない、民を見ていた。それがどれほどのことなのか、きっとヘナコ自身はわかっていない。
「医師って雇えるの?」
「難しいかと。いま領内にいる者も、好意で留まってくれているだけですから。そもそも医術の心得のある者の数が少ないのです」
 家令の言葉に頷いてやれば、ヘナコが納得顔になった。俺の頷き一つで納得するとは、本当にこいつは可愛い。
 アストン領には、医師も薬師も産婆も一人ずつしかいないらしい。さすがにそれはダメだろう。せめて集落に一人の薬師は必要だ。二三の集落に一人の産婆、五つの集落の中心に医師が一人は必要だ。確かアストン領は、小さな集落が三十ほど、大きな集落が十ほどあるはずだ。
「前の領主はなんでここで暮らしてたの?」
 なにを疑問に思ったのか、ヘナコが家令に尋ねている。たしかに侯ほどケチなら中央に館を構えることなどしそうにもない。社交に使われていたわけではないなら尚更だ。
「……娼館がありますから、中央には」
「おい、そんなこと子供に聞かせるな」
 家令が「申し訳ございません」と、言葉とは裏腹な態度で謝罪を口にする。
 そういえば、ヘナコはいくつなんだ? 体格からしてまだ子供に見えるが、あの艶のある声は子供とは思えない。成人手前くらいだろうか。
 ふと、あの心地好い高音を思い出した。うっかり熱が集まりそうになる。発情期でもあるまいし、獣型で発情を促されるとはどういうことだ。


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