ワンダーランドにエスケープ



 見上げているのは月に照らされた鉄塔。
 これに登るために僕はボルダリングをがんばったんだ。

 夜は春の終わりの匂いがした。
 少し肌寒い。指を舐めて宙にかざす。風はない。
 このくらいの寒さなら身体を動かすうちに気にならなくなるはず。指先から手首、首を回しながら足首までを丹念にほぐしていく。少しずつ身体が温まってくる。
 僕は少し興奮していた。なんだかすごく気分がよかった。

 いつもは閉まっている屋上への扉はあっさり開いた。ポケットに忍ばせたマスターキーが無駄になった。管理室からこっそり借りてくるときあんなに緊張したのに。
 音を立てないよう鉄の扉をそーっと開けて屋上に出ると今度はそーっと閉めた。用意しておいた「こっそり借りてごめんなさい」のメモと一緒にマスターキーは扉の中に置いておく。小さく「バイバイ」と声をかけたら、鈍い金色の鍵が月明かりにきらりと光った。

 屋上を見渡しながら、思いっきり夜の空気を吸い込む。ほんの少しだけ夏の始まりの匂いがした。

「よし」

 小さく声に出して気合いを入れる。
 まずは屋上にぽこんと飛び出ている階段室の上に登る。通信用の鉄塔は階段室の上に生えている。
 ドアのノブに足をかけ、そこからえいやとドアの上に飛び出ている庇に飛び移る。身体を反らしながらの跳躍は難しい。一度目は失敗した。二度目は惜しかった。三度目に成功した。

 初めて間近で見上げた通信用の鉄塔には、上部まで続くハシゴがくっついていた。驚きすぎてあんぐりと口が開いた。

「えぇぇ……僕ボルダリングがんばったのにぃ」

 僕の最初の計画では、庭の端にある高圧電線を上部で掴んでいる鉄塔に登るつもりだったんだ。
 でも直前になって、万が一感電したら意味がない、と屋上にある通信用の鉄塔に急遽変更した。計画には変更がつきものだ。
 きっと高圧線の鉄塔に登ったところで感電なんてしないだろうし、通信用の鉄塔が感電しないわけでもないだろうけど、僕の勘がこっちだと言ったんだ。
 僕は僕の勘に従う。
 それに、よく考えるとあそこは管理室の窓から見えてしまう。こんな明るい月夜はそれこそはっきりと。


 耳を澄ます。何もかもが月夜に息をひそめている。
 よし、と腹を決め、そびえる鉄塔に足をかけた。掴んだハシゴは錆び付いてざらざらしていた。
 まん丸の月がまるで穴のように見えた。鉄塔の先が穴に吸い込まれている。僕はいよいよ興奮した。鉄さびの匂いに鼻がむずむずする。その匂いが僕を咎めているようで、僕はますます興奮した。

 ちゃんと手紙は残してきた。これは僕の意思だという決意表明だ。そうしないときっと僕の周りの大人たちが処罰される。
 次第に頭の中が研ぎ澄まされていく。ひたすら月へと伸びるハシゴを登っていく。

 人類はここ百年ほどでそれまで頭打ちだった寿命を一気に倍に延ばした。同時に子供の数を激減させた。

 僕は最後の子供だ。
 最後の子供は世界中にいる。ただしひとつの国に一人だけ。
 子供の減少に伴い、子供が絶えた国は子供のいる国にのみ込まれ、国の数は半減した。
 激減した子供は十五歳になると一カ所に集められ、繁殖機に繋がれることになった。

 おぞましい。

 ここ数年で一気に流行した新種のウィルスが数少ない子供たちを一気に奪っていったのだ。ここで生き残った子供は僕一人。だから僕は最後の子供になってしまったんだ。
 おぞましさまであと半年。

「うわっ」

 ハシゴの一部が腐蝕していた。足をかけた途端折れた。心臓が縮み上がった。ぱらぱらと小さなカスが落ちていった。
 足首を回してみる。大丈夫。痛みはない。ちゃんと動く。ふーっと深呼吸した。

 僕に必要なのは健康な心と身体だけらしい。
「これ以上の知識は与えられないんだ」と、悲しそうな顔をしたのは僕に勉強を教えている男の人だ。

 ある冬の日、目覚めた僕の枕元に置かれていた一冊の本。
 女の子がウサギ穴に落ちて不思議の国に行くお話。

 僕は庭を駆け回りながらウサギ穴を探した。
 ウサギ穴は見付からなかった。ウサギはとっくに絶滅していた。かわりにネズミ穴を探した。
「この僕のための居住区(コロニー)にネズミはいないのよ」と、さもいいことだと言わんばかりの顔で、僕の世話をしている女の人が胸を張った。

 ここは前世紀の建物なのだと僕に勉強を教えてくれる男の人が教えてくれた。前世紀はどれくらい前かを訊いたら、百年よりもっと前だ、と教えてくれた。まだ子供たちがかろうじて普通に生まれていた時代のことだ、とも付け加えられた。

 高い塀で囲われた庭の隅々まで探した。どれだけ探しても、季節が変わっても、一向に穴は見付からなかった。
 ならば仕方がない、と僕は庭に穴を掘った。穴がなければ作ればいい。あっという間に見付かってこっぴどく叱られた。せっかく掘ったなら、とそこに若木が植えられた。僕はがっかりした。

 穴がない。落ちることができない。
 僕は考えた。寝る間も惜しんで考えた。勉強の時間に居眠りして叱られるくらい考えた。
 穴はない。でも、落ちることはできる。

「自力で高いところに登れるようになりたい」

 いつも一緒に運動する男の人がボルダリングを教えてくれた。そのためだけに居住棟の壁に大小色とりどりのぼこぼこが打ち付けられた。必死に登った。失敗してもがんばって登った。指先が硬くなった。僕はそれまでよりも健康になった。
 結局意味はなかったけどね。そういうこともあるよね。

 僕は知っている。
 大人たちはきっと知らない。
 僕には生まれる前の、人の胎から人口子宮に移されたあたりからの記憶がある。誰かがそこで馬鹿みたいに研究成果を自慢し合っていた。

 天然繁殖の子供は十五歳になると繁殖機に入れられる。ただ精子や卵子を排出するだけの機械の一部に組み込まれる。

 初めは意味がわからなかった。定期的に訪れる僕の身体を管理する男の人との雑談の中で、少しずつその意味を理解していった。
 おぞましい。
 僕を作り出した胎の持ち主は、たくさんの優遇を受けているのよ、と僕の世話をしている女の人が羨ましそうでいて怒ったように僕に勉強を教えている男の人と話しているのを物陰で聞いた。
 でもそれは間違っている。その人も僕が人工子宮に移されたあと繁殖機に繋がれたはずだ。誰かが「ぷろとたいぷ」だと言っていた。その意味は今でもわからない。僕が読める本の中にその言葉はなかった。

 僕は知っているんだ。
 僕に勉強を教えてくれる男の人も、僕と一緒に運動してくれる男の人も、僕の世話をしてくれる女の人も、僕の健康を管理してくれる男の人も、僕の周りにいる大人たちは僕を憐れんでいる。
 僕はそれをちゃんと知っている。



 だから僕は不思議の国に行くことにしたんだ。

 鉄塔の天辺近くまで登った。途中三回ほどハシゴが折れた。そのたびに息を呑むような気配がした。しばらく息をひそめてみたけど、物音ひとつしなかった。だからたぶん気のせいだ。三回目に少しだけ足を痛めた。でもまあ、大丈夫だ。きっと。

 見下ろす地面はずっと遠く、闇にのまれて消えていた。
 穴のような月に手を伸ばす。
 風が少し出てきた。熱った身体に気持ちいい。

 今日は僕が一番好きなカボチャのシチューだった。何かいいことがあったのか、普段は月に一度なのに「今日は特別」と、僕の世話をしていた女の人が甘いお菓子も作ってくれた。
 勉強を教わっていた男の人も、一緒に運動していた男の人も、今日は機嫌がよかったのかたくさん褒めてくれた。しつこいくらい頭をわしわし撫でられた。
 ついこの間来たばかりなのに、僕の健康を管理していた男の人が「近くに来たから」と顔を見せて、やっぱり頭をわしわし撫でて僕をぎゅっと抱きしめていった。

 今日はなんだかとってもいい日だった。今日を決行日にしてよかった。

 コロニーは高い塀に囲われている。
 塀の向こうは見渡す限りの暗闇。月明かりに浮かぶ影から、ぽつぽつと木が生えていることはわかった。庭に立つ鉄塔の先っぽから高圧電線があっちとこっちに伸びている。どこから来てどこへ行くのか、僕は知らない。

「ハロー、ハロー。聞こえますか? こちら僕。今からいきます。僕の受け入れ準備を始めてください」

 僕の背中には枕カバーを改造した袋がある。
 ためしに「枕が背負えたら面白いよね」と言ってみたら、まんまと世話係の女の人が作ってくれた。あまりに首尾良くいったことが嬉しくて、何日も枕カバーを背負っていたら、みんなにたっぷり笑われた。
 そこに僕が知っている中で一番おいしいお茶の葉と今日の甘いお菓子が入っている。ひとつだけ食べて、あとは食べたふりしてそうっとポケットに忍ばせたんだ。
 あとは着替えが少し。歯ブラシも忘れない。ハンカチも入れた。あ、靴下は忘れたかも。

 僕の人生で今が一番ワクワクしている。こんなにドキドキしたことはない。

 大きく息を吸って、図鑑で見た絶滅した鷹のように両手を広げ──僕は鉄塔の天辺から月に向かって飛んだ。



 一緒にお茶を飲もう。
 ここではない不思議の国で。



posted on 4 December 2017

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