シンラの魔女



「あのぉぉ」
 妙に間延びした声が木々の間に響いた。

 赤く熟れていくばかりの森苺を見付け、嬉しくなってしゃがみ込み、じっくり観察しながら口内に広がる甘酸っぱさをうっとり想像していたアンナは、突然破られた静寂に全身をびくっと揺らし、ぱっと勢いよく振り向いた。
 視線の先には、背の高い、手も長ければ足も長い、おまけに首も長い、全体的にひょろんとした気の弱そうな男が一般的な間合いのぎりぎり外側に突っ立っていた。

 ここに人はいない。そんな思い込みからすっかり気を抜いていたアンナは、動揺を押し隠し、表情を消して平坦な声で訊く。
「誰? どうやって来たの?」
「あ、いえ……」
 ひょろい男がしどろもどろになりながら後ろを振り返り、うろうろと辺りに視線を彷徨わせ、アンナに一旦視線を戻し、もう一度振り返り、やはり視線を彷徨わせた末に途方に暮れたような顔でぼそっと呟いた。
「どうやって来たんだろう……」

 ひんやりとした森の奥地。ぽっかりと木々がひらけた陽だまりの中には、小さな泉が清水を湛えている。水に反射した光が周りの木々を揺らめかし、絵本の挿絵のような幻想的な風景を見せている。

 ここまでたどり着ける者はいないはずなのに。アンナは驚きをなんとか呑み込むと、すっと立ち上がり、かなりくたびれてきたスカートの裾を払い、森に許された男をまじまじと観察した。
 年の頃は十代後半、いや二十代前半か。ローブを羽織っているということは、少なからず魔力を持つのだろう。それなのに、持たざる者とそう変わらない波動しか感じない。間合いを理解しているあたり、少なくとも素人や考えなしの愚か者ではない。
 持たないわけではないが、そこそこ発揮できるほど持つわけでもない、中途半端な力量。この先さらに生き辛くなるだろうな、とアンナは他人事ながら少しばかり同情した。
 とはいえ、それはまた別の話だ。

「帰り道はあちら」
 男の背後をアンナは適当に指し示す。
 その途端、輪をかけて途方に暮れたような顔で口を開きかけた男をアンナは突き出した手のひらで黙らせる。男の帰る場所の有無などアンナには一切関係ない。
「君は……」
 それこそ見ず知らずの男には関係ない。みなまで言う前にお引き取り願おう。よからぬ詮索など願い下げだ。
「お帰りはあちら」アンナは語気を強めた。「早くしないと昼の恒星が姿を隠す」

 それでも男は、いや、でも、その、とうだうだ言いながらアンナにちらちら視線を寄越し、一向にその場を動こうとしない。男の「あわよくば」という下心が透けて見える。この男の声にも視線にも誠実さを感じない。
 アンナの姿を認め、気配を殺して近付いてきた男に同情の余地はない。これだから年若い娘の姿は面倒なのだ。

「このままここにいれば森にのみ込まれる」
「だったら、君も……」
 あー、もう、本当に面倒。この男に想像力はないのか。ここに女が一人でいる意味くらいわかりそうなものなのに。
 アンナは内心で毒突きながら適当に力の一部を開放した。

 静まり返っていた森がざわめく。
 たちどころに冷気が漂い、木々の影が深みを増す。
 麗らかで幻想的な風景が一瞬にして変貌する。この森の真の姿である凄まじく物恐ろしい景色が広がっていく。

「わかったらさっさとここから出ていって」
 真正面からまともに波動を食らった男は、用心のために取った間合いが意味をなさない距離だと気付いたのか、景色が反転した怖ろしさからか、情けなく「ひっ」と短く息をのみ、気圧されるようにじりじりと後退りし、一目散に木々の間に駆け込んでいった。
 ひょろ長い手足がもつれそうな走り方──アンナがそう思ったまさにその時、森によって故意に伸ばされた木の根に躓き、男はそのまま転がされるように木々の闇へと吸い込まれていった。

「どうしてあれが私の好みだと思ったわけ?」
 いつの間にか姿を現した牡鹿が森に弄ばれる男を睨み、忌々しそうな呻り声を上げた。
 アンナの傍らに常にある存在。
 純白の雄々しく立派な角を持ち、真っ白とも虹色ともつかない不思議な光沢を放つ毛並みは恐ろしいほどに美しい。真横に並ぶとアンナの頭よりもかなり上方から見下ろされる王家の駿馬ほどに大きな躰は、みっしりと引き締まりしなやかだ。

「あれは完全に森の人選ミス。まったく、ここや私のこと吹聴されたら困るのは森でしょうに」
 どうせ森があの男の記憶を曖昧にしてしまうのだろう。
 その通りだとでも言うように、牡鹿の真っ黒な目が瞬いた。
「大体森はなんだって私をこんな姿にしたのよ」
 愚痴をこぼすアンナに同意するかのように、牡鹿は二股に分かれた蹄で大地を打ち、鼻を思いっきりふんと鳴らした。

 元々アンナは二十代後半だった。それがいつの間にか十歳ほど若返っていたものだから、恥ずかしいやら情けないやら頭にくるやらで、最初の頃は牡鹿に愚痴ばかり零していた。年を重ねるごとにこつこつ積み上げてきた自負が木っ端微塵に打ち砕かれた挙げ句、またここから年を重ねていかなければならないのかと憤った。
 肉体とともに記憶も若返ったなら、あの苦しみしかない風霜を消し去ることができたのなら、また違ったのかもしれない。

 さっきのひょろっとした男も、本来の姿は別にあるのだろう。見た目を変えればいいというものでは断じてない。
 そもそも「男の好み」を訊かれ、背は低いよりは高い方がいいかも、性格は偉ぶるより人の話を聞いてくれる方がいいかも、不器用よりは器用な人がいいかも、という「どっちかといえば」の具現化があの男なら、ため息を吐きたくなるというものだ。
 背が高いというよりは縦に引き伸ばされていた。偉そうではなかったが主体性もなかった。気配を消して年若い娘の背後に忍び寄る器用さなど要らない。しかも間合いを忘れない狡賢さをみるに、何か後ろ暗いことがあって森に逃げ込んだ輩だろう。

 たしかにアンナは男手を欲しがった。
 食べるには困らなくとも、住むには困る森での生活。アンナは切実に家が欲しかった。

 ふわっと頬を撫でるような風が吹いた。ざざっと葉擦れの音が迫ってくる。
「あのマントかな」
 アンナの予想通り、風が運んできたのはひょろりとした男が羽織っていたマントだった。ふわっと足元に舞い落ちる。少し遅れて革のケースに入ったナイフも運ばれてきた。
 森に迷い込んだ者が落としていった(ということにアンナはしている)衣類や道具を森がここまで運んでくれるおかげで、細かいものが手に入らないことに目を瞑れば、最低限必要な道具に困ることもない。

 牡鹿がマントの匂いを執拗に嗅いで、不快そうにふんと鼻を鳴らす。アンナは時折、牡鹿の本来の姿は犬なのではないかと思うことがある。今もマントに自分の匂いを付けようと、仰向けになりしつこく背中を擦り付けている。どう見ても犬だ。



 ほどよい高さでV字に広がった枝を持ち、なおかつ足元には柔らかな下草が生えている樹を探し、森がかっぱらったマントの首元を幹にくくりつけ、マントの裾をV字の枝の先に広げてナイフで切った蔓で縛る。
 これでなんとか雨はしのげる。
 この森ではどういうわけか毎晩必ず雨が降る。大きな木の根元にいればそれほど濡れはしないものの、横になってぐっすり眠れないのは辛い。
 昼の恒星が姿を隠すと、夜の恒星が顔を出す。夜は森の時間だ。昼間ひっそりと静まり返っていた森がざわめく。この森に住む生きものたちは夜行性で、昼の恒星を嫌い夜の恒星を好む。アンナと牡鹿だけがここでは異質だ。
 夜の恒星の淡い光が冴え冴えと辺りを照らす中、大なり小なり様々な生きものたちの影が蠢く。昼の恒星の下に生きるアンナには彼らの姿は見えない。この森の主であり、夜の恒星の使者の姿も。

『不自由はない?』
「自由ですが不自由だらけです」
 男とも女ともつかない、一人なのか大勢なのかもわからない、いくつもの音が重なって聞こえてくる声は、濃く深い木々の影から囁かれる。
 うふふともおほほともあははとも聞こえるユニゾンの笑い声に、アンナはこっそり溜め息を吐く。アンナの脇に身を寄せるように座っている牡鹿だけがアンナの溜め息に小さく身動ぎその角を揺らした。
「せめて昼の間は森から出してください」
 えええともむむむともげげげとも聞こえる抗議のユニゾンが辺りを満たす。
「こう言ってはなんですが、文句言っていいのは私の方ではないかと」溜息混じりにアンナは言った。「こんなふうに閉じ込められたままだと面白い話も浮かびません」
 わざとらしく驚いたようなユニゾンに、これまたわざとらしくアンナはふんとそっぽを向いた。無理に若返らされたせいか、仕草まで無垢だった頃に戻ってしまう。

 夜の恒星の使者はアンナがこれまで経験した様々なことを聞きたがった。単に話を聞くのが好きなのか、アンナの話から何かを見いだしているのか、単に人間の営みに興味があるのか──。
 使者の意図はわからないながらも、アンナ自身も話すことによってこれまでの人生を客観的に振り返ることができていた。

 畏れの森といわれるこの森は、隣接する三つの国の王家がそれぞれ禁足地としている。
 森の際に住む者たちがその端から森の恵みを多少受け取るくらいは森も見逃してくれる。けれど、昼の恒星がその光を届ける範囲を超えて分け入る者を森は決して許しはしない。森が人の姿を隠すとき、その人は二度と帰らないことから、帰らずの森ともいわれている。
 唯一魔力を持つ者は一度だけ見逃される。ただしその代償が魔力そのものであり、見逃された者は魔の力を失う。

『いいでしょう。昼の恒星が支配する間だけ。夜の恒星が支配する前に帰ってきなさい』
「えっ、いいの?」
 あっさり許しが出て驚くアンナにユニゾンの声は笑いを含んだ。
『あなたは必ず帰ってくる』
「そう……ですね、私もそんな気がします」
 そう、なんだかんだ文句を言いつつも、煩わしい世俗から隔離されたこの森はアンナにとって居心地がいい。暮らしに必要な道具さえ揃えば、ここで一生を終えるのも悪くはないと思い始めている。
 何より、アンナの願いを聞き届けてくれた森には感謝している。傍らにある牡鹿の体温にアンナは寄り添った。
 満足そうなユニゾンの含み笑いが木々の影に溶けていった。



   ◇



 早速アンナは夜の恒星が姿を隠すとともに牡鹿の背に乗って森を駆け抜けた。
 これまでアンナは何度も森から抜け出そうとしてきた。牡鹿の背に跨がり、森の向こうに広がる緩衝帯の草原が目に入り、昼の恒星の光が躰を徐々に包み込んでいき、森を抜けた! と思った次の瞬間には再び仄暗い森の奥に牡鹿ともども戻されてきたのだ。
 それがどうだろう。あの時の絶望が幻のように、牡鹿は呆気なく冷え冷えとした森を抜け、アンナは昼の恒星の生き生きとしたぬくもりに包まれた。
「うわぁひゃー!」
 アンナの間抜けな叫びに、牡鹿もやけに甲高い雄叫びを上げる。
 興奮せずにはいられない。どれくらい振りに森の外に出たのだろう。木洩れ日にはない強い光に目を眇める。真白な光はアンナから思考を奪い、眼前に広がる木々に遮られることのない平らな景色はアンナの思考そのものを放棄させた。

 いつの間にか牡鹿の足運びがゆったりとしたものにかわり、アンナはその背で伸びをしながら深く息を吸い込んだ。人の営みの匂いがする。どこかで火を使っているのか、燻った煙の匂いをアンナは久しぶりに嗅いだ。古式ゆかしい暮らしの匂いだ。

 手のひらに人の頭ほどの魔玉を出す。力を加え続けると玉は光を帯びながら徐に膨れ、内包された魔素が虹色にきらめく。
 森から出たというのに、魔力はそれまでと変わらずアンナの内に巣くっていた。魔玉に映る姿も若返ったままだ。
「ちょっとだけ期待していたのに」
 小さく呟けば、牡鹿が哀れむように振り向いた。その拍子に無駄に立派な角がアンナの横っ面をひっぱたいた。「いたっ!」と叫んだアンナの手のひらで砕けた魔玉が光を放ちながら四方八方に散り消えた。
「ちょっともう、いい加減自分に角が生えてるってこと自覚して!」
 牡鹿の真っ黒な瞳が申し訳なさそうに瞬いた。

 細く棚引くいくつかの煙を目印にしばらく進むと、小さな集落を見付けた。
「どうする? 私に付き合わなくてもいいよ」
 アンナの傍らを歩く牡鹿に訊けば、不満そうに鼻を鳴らしながらも辺りを見渡し、鼻をひくつかせ、目を輝かせ、さっと駆け出した。障害物のない草原が嬉しいのか、牡鹿は編み目のように流れる小川をぴょんぴょん飛び跳ねながら駆け回っている。真っ白な全身が昼の恒星の光を浴びて輝いていた。

 あの牡鹿にはどういうわけかアンナの言うことが通じる。それに引き替えアンナは牡鹿の言いたいことがこれっぽっちもわからない。時々歯を剥きながら何かを訴えかけてくるものの、鳴き声が言葉に聞こえることもなければ、意思が何らかの形で伝わってくることもない。

 アンナは光の中を駆ける牡鹿を気が済むまで眺めてから、集落に向かう一歩を踏み出した。
 もうどこにもアンナを知る人はいない。
 気付けばアンナは声を上げて笑っていた。それに応えるかのように、遠くで牡鹿の雄叫びが上がった。



 扉を開けるとかららんと鈍い金属音が鳴った。ずいぶんとクラシカルな来客通知もアンナの耳には新鮮に響く。
「ごきげんよう」
 どんなに小さな集落にも交換屋はある。大抵は集落の入り口に店を構え、日用品や保存食料なども扱っており、金銭での購入か魔力との交換が可能だ。
 様々な商品が整然と並べられた店の奥にあるカウンターには人の気配があった。
「人一人が住める程度の家か小屋のような魔キットはありますか?」
「取り寄せになる」
 がっしりとした体躯の店主は、愛想はないけれど声は誠実だった。アンナに向けられた真っ直ぐな瞳も澄んでいる。年の頃は今のアンナの倍ほどか。豊かな髪を後でひとまとめにし、顎にはヒゲを蓄えている。着ているものはこさっぱりとし、短く切り揃えられた爪も清潔だ。
「どのくらいかかります?」
「最低でも半年はかかるだろうな。魔キットは王都の魔商家が独占している」
「半年って……えっ、ではこの辺の人たちはどうしているのですか?」
 アンナは決して広くはないが木材をそのまま使ったクラシカルであたたかみのある店内を眺める。昼の恒星の白い光に照らされ、店主同様掃除が行き届きこざっぱりしている。
「どうしてるって、そりゃあ、人力で建てるんだよ」
 店主の疑わしげな目と声に、アンナは慌てて付け加えた。
「ああ、旧式ということですか?」
「旧式って、王都ではそう言うのか?」
「えっ?」
「えって、あんた、王都から来たんだろ?」
「どうして……」
 アンナは思わず周囲を確認した。店にはアンナと店主しかいない。店の奥から聞こえてくるかすかな生活音は、この店主の家族だろうか。
「どうしてもなにも、この辺のやつらは魔キットなんて知らないんだよ。あれは王都でしか流通していない」
 知らなかった。ショックを受けるアンナを店主は目を細めてじっと見ている。その視線はアンナが羽織るマントにも注がれていた。
 魔力との交換で必要な物を手に入れようと考えていたアンナは、あのひょろい男のマントを羽織っていた。
 いつの頃からか、魔持ちだけが丈の長いマントを羽織るようになり、いつしかそれが慣例となった。

 何か言い訳をしなければ。
 焦るあまりアンナは余計に何を言っていいかわからなくなる。自分がここまで世間知らずだとは思ってもみなかった。アンナの常識や知識はそれまで暮らしてきた場所でしか通用しないということを、この僅かなやりとりでまざまざと突き付けられた。
「お嬢さん、あんたの魔量は? 魔キットなんか手に入れようってんだから、それなりなんだろ?」
「えっ、と、そうです、それなりです」
 店主の言葉尻を捉えたアンナは平均よりも少しだけ大きな魔力を手のひらに込める。浮かび上がった拳大ほどの魔玉を見た店主が「ほう」っと感嘆の声を上げた。
「この辺りじゃそれほどの魔持ちはいないんだよ」
「えっ、でも、この程度は……」
「王都じゃどうか知らんがね、この辺にはいない。魔持ちはみんな王都に行っちまうから」
 店主の言う通りだった。魔力があれば俄然生き易くなる。城では下働きですら魔持ちだ。様々な商家でも重宝されるし、職人になるなら尚のこと魔力は必要だ。魔力の有無で人の価値は変わる。特に王都ではそれが顕著で、共通の認識でもあった。

 店主に不躾なほどまじまじと観察され、アンナは居心地が悪くなり、この集落での交換は諦めようと一歩足を後ろに引きかけたところで、店主が口を開いた。
「提案なんだが。ここいらの大工にお嬢さんが望むような家なり小屋なりを空いている土地に作ってもらい、それをお嬢さんがキット化するってのはどうだい? できるんだろう、キット化」
 確信の物言いをした店主は色を失ったアンナを見てか、慌てたように付け加えた。
「誰にも言わねーよ。どこに運ぶのかも何に使うのかも訊かない。その代わりと言っちゃなんだが、この辺りの魔具を見てやってくれよ。魔切れをおこして使えなくなった物が多いんだ。とりあえず、水車小屋の魔動機をなんとかしてもらいたい」
 店主の目は真剣だった。声には切羽詰まった響きもある。
「水車小屋?」
「もう一年も止まったままなんだ。王都に魔注入できる者を派遣してくれって申請はしているんだが、こんな僻地からの要請なんざ、いつだって後回しにされる。来たとしてあと二年は待たされる」

 森の緩衝帯は王家の管轄となり、近隣の領主たちは助けようにも一切手が出せない。それでいて王家は年に一二度見回るだけでそこに暮らすものを助けようともしない。そのせいでどんどん過疎化が進み、当然のごとく緩衝帯の維持が難しくなっているのだ、と店主は憂う。

「でもそれでは……」
 畏れの森から流れ出る水には僅かながら魔が含まれており、それを水車の力で魔動機に取り込み、魔具に魔を注入できると聞いたことがある。そんな昔ながらの道具がまだこの辺りでは使われているのか。アンナはさらなる無知を知った。
「その間は人力でなんとかするしかない。まあここは森際だから清水ってのが唯一の救いだけどな」
 魔を含んだ水は毒を取り込みやすい。森から流れ出た小川に山脈から流れ込んだ雪解け水が混ざると、途端に飲み水としては使えなくなり、濾過装置が必要になる。その動力もやはり魔力で補われる。
 その判別が出来ると言うことは……。今度はアンナがまじまじと店主を眺めた。その波動すら感じられないほどの魔量とはいかほどか。アンナの視線を受けて店主が決まり悪げに頬を指先でぽりぽり掻く。
「ほんのわずかだけどな、それこそ判別できるだけの魔力はあるんだよ、俺も」
 たとえ僅かにでも魔力を持つ者が、彼の言葉通りならなぜこの地にいるのか。訊いてみたい衝動をアンナは抑え込んだ。訊けばアンナも訊かれる。アンナが訊けないことを見越して、店主は話したのだろう。
 どこか牽制するように魔判定ができることをほのめかした店主に、アンナは溜め息混じりに訊いた。
「私って、そんなに胡散臭いですか?」
「自覚ないのか?」
 店主の細目が驚きに見開かれた。
「すみません。悪い意味で育ちがよかったもので」
 アンナが申し訳なく謝れば、一層目を見開いた店主が呆れ気味に笑った。
「そうだろうな」



 キット化はさておき、魔動機が使えないのは不便だろうと、アンナはとにもかくにも魔動機に魔を提供することにした。話にしか聞いたことのなかった歴史的遺物である水力魔動機はアンナの好奇心をこれでもかと刺激した。なんとしてもこの目で見てみたかったのだ。
「ずいぶんと古い……でもこれ、よく出来てる」
 思わず呟けば、水車小屋に案内してくれた店主が「だろ」と少し得意気に笑った。
 それは魔動機として作られたものではなく、様々なものを組み合わせて作られた、魔動機一歩手前の代物だった。
「でもこれだと効率が悪い」
「そうなのか?」
 アンナの独り言に店主が律儀に答える。
「特にここと、それからここに大きな損失がある」
 魔動機よりもやたらと大きく、単純でいて複雑な仕組みをそのまま晒しているその装置は、構造を理解して作ったというよりは、見様見真似、しかも手に入る部材だけで作ったという有り様で、アンナから見ればとにかく無駄が多い。それでも、限られた材料の中で作ったにしては本当によく出来ていた。
「どうすればいい?」
 店主の真剣な表情にはやはり切羽詰まったものがある。
「魔動機、買えないんですか?」
 この程度の魔量を生み出す魔動機であればそれほど高価ではないはずだ。集落の様子や店主の身なりを見てもそれほど窮しているようには見えない。
「売ってくれると思うか?」
 そういうことか。アンナの理解を見た店主が諦めたように笑う。

 緩衝帯は隣接する三国ともそれぞれ国の直轄であり、罪を犯した一族の追放地でもある。罪を犯した者とそれに関与した者は投獄もしくは処刑され、その一族はこの緩衝帯に追いやられる。罪を犯したわけではない、ただ同じ血が流れているというだけではじき出された人たち。
 魔動機は兵器に転用できるため、どこの国でも所持するには登録が必要になる。とはいえ、どんなに小さな集落にも必ず一つや二つはあるもので、それがなければ魔具が使えないため暮らしに欠くことはできない。魔具はそれこそ生活に密着しており、いまや食事を作るにしても専用の魔具がなければままならない。

「魔療具を必要としている者がいるんだ」
「だったら先に言ってください」
 アンナはスカートの隠し(ポケット)から取り出した魔療具を店主に渡す。
「これでなんとかなる程度なら貸します」
「いいのか?」
 口では躊躇しながらも、店主の手はしっかり魔療具を受け取っている。
「自分でなんとかできるだけの魔量はありますから」
 今にも駆け出したそうにうずうずしている店主に、さっさと行けと片手を振る。
 声高に礼を言いながら走りゆく店主の背中を見て、まるで偽善者だ、とアンナは薄く嗤った。

 柱と梁に屋根だけが架けられた水車小屋で、アンナは慎重に慎重を重ねて魔動機の動力管に魔を注入していく。ある程度注入したところで水車が軋んだ音を立てながらゆっくりと目を覚ました。魔を注入しながら洩れ出ている箇所を塞ぎ、無駄な回路を省き、効率よく魔が変換されるよう組み直していく。
「本当によく出来てる」
 本来ならアンナの膝丈四方ほどの大きさに収まるはずなのに、この手作りの魔動機はアンナの背を軽く超える。足りない物を補うために作られている様々な部品は効率こそ悪いものの、理論的には間違っていない。見様見真似で作ったというよりは、その構造こそ知らないものの、理論を理解した上で作られているような気がした。

「僕のお祖父ちゃんのお父さんが作ったんだって」
 小さな足音に気付きながらも、そこに敵意も悪意も感じられなかったことから、話しかけられるまで放っておいたアンナは、ようやく口を開いた少年を振り返った。
「とても優秀な人だったんでしょうね、あなたの曾お爺様は」
 ようやくアンナは理解した。ここはフェルミタージュ国の緩衝帯だ。そしておそらくこの魔動機の原理を作ったのはフェルミタージュの失われた研究者といわれているコルファスナ博士。魔動機の理論構築に成功し、それを独占することなくあらゆる国に公表したがために、自国の王の怒りを買った偉人。フェルミタージュでは罪人、それ以外の国では英雄。
 アンナが知るコルファスナ博士は英雄だ。

 大陸の中心にある畏れの森を囲うように位置する三つの国は、歴史を辿ると今は大陸名として残っているフェルミナという一つの国から始まる。後に王位争いが激化し、国が三つに分かれた。フェルミタージュ、フェルミナール、フェルミニティの三国はときに同盟を結び、ときに争い、ときに不干渉を貫き、長い歴史の中で足並みを揃えるように発展してきた。人種も文化も似ている三国は、王たちの思惑とは別にそれぞれの国民同士は良好な関係を築いている。

 おそらくこのコルファスナ博士の一族はフェルミナールとフェルミニティの両国民からひそかに支援されているのだろう。交換品の質もそれなりによかった。各家々の脇には畑が作られ、不自由ではあるものの飢えることのない安定した生活が垣間見える。
 実際に罪を犯したわけでもない追放一族に対し、当事国以外は寛容だ。ましてや英雄の一族となれば尚のこと手を差し伸べたくもなる。

 なんとはなしに向かった先がフェルミタージュの緩衝帯でよかったのかもしれない。偶然たどり着いたにしては上出来だった。それとも牡鹿はわかっていてここに連れてきたのだろうか。
 壁のない水車小屋から見上げる空は青い。昼の恒星の光を浴びて、何もかもが生き生きと輝いて見える。これまでこんなふうに生を実感することなどなかった。
 アンナは思いがけず胸が苦しいほどの生の喜びを感じた。
「どこか痛いの?」
 少年の声に我に返ったアンナは、涙が滲んだ目元をそっと指先で拭った。
「白の光が眩しくて」
 アンナの言い訳を少年が信じたかはわからない。ただ小さく、うん、と返してきた。



   ◇



『それからそれから?』
 興奮した子供のようなユニゾンの囁きに、アンナは続きを口にする。
「気が付くとその少年の後ろに隠れるように、魔療具を持った女の子がいました」
 ふんふん、と好奇心いっぱいの相づちがアンナの耳に静かな雨音とともにころころと転がり込んでくる。

 魔療具は主に子供の治療に使われる。大人は魔療院で治癒できるが、まだ魔耐性が完全ではない子供は高濃度の魔が漂う魔療院ではかえって魔中りをおこすため、各家庭で魔療具を用いて治療するのが常だ。
 緩衝帯においては魔療院自体が存在していないため、子供ばかりか大人も魔療具に頼らざるを得ないのだろう。
「それで、その女の子の魔療具に魔注入をしていると、その女の子の後ろにやっぱり魔切れの魔療具を持った子供が隠れていて、それにも魔を注入していると、いつの間にか子供ばかりか大人も並んでいて……」
 アンナはその光景を思い出して笑った。単純にいつの間にかできていた行列に驚いたのだ。
「水車式魔動機の立てる音がそれなりにうるさくて、その音が集落中に魔持ちの来訪を知らせていたんです」
 結局アンナは優先順位の高い魔具から順に魔注入を施した。騒ぎを聞きつけて慌てて戻って来た店主がアンナの助手となり、人々を捌き、その代金を徴収していく。結構な額となった代金でアンナは今一番必要な雨よけの布と毛布を手に入れた。雨よけの布は魔職人が手がける特別な布のためかなり高価で、アンナが手にした代金では少し足りなかったものの店主がまけてくれた。手織りの毛布は店主の妻から魔療具を貸してくれた礼にと渡されたものだ。
 夢中になりすぎて牡鹿が迎えに来てくれなければ夜の恒星が顔を出すまでに森に戻れなかったかもしれない。
 アンナがともに毛布にくるまっている牡鹿の首筋をゆっくり撫でると、牡鹿は気持ちよさそうに目を細め、鼻先をアンナの頬に寄せた。

「店の主の娘が生まれつき肺を患っているらしくて」
『はい?』
「そうです、肺。ほら、こうして人間が呼吸するために必要な臓器の一つです」
 アンナは深呼吸して見せた。
 生まれ持った病は魔の力では治せない。せいぜいそれ以上ひどくならないよう現状維持することしかできない。
『こんこん?』
 ふわふわと漂うような芯のない声が重なる。
「こんこんというよりはぜいぜいでした。まだ五歳なのにかなり呼吸が苦しそうで……」
 うーん、とユニゾンが悩ましい声を上げると、柔らかな風にのってどこからか枝になる黒い実が運ばれてきた。
『子供なら一日一粒』
 ユニゾンが急に芯を持つ大人びた声に変わった。
「期間は?」
 かつてシンラは人々を癒やした。古文書にも残る言い伝えが人々の足を畏れの森へと向かわせる。
『夜の恒星の瞬きを六つ』
 むっつ、むっちゅ、ちゅ……ふわふわの舌足らずなユニゾンが言葉の連なりを解きながら森の中を跳ね回る。
「半年ですね。この実はどこで手に入りますか?」
『森から森が選びし娘へ』
 森に選ばれてしまったアンナは不本意を顔にのせた。夜の恒星の使者の楽しげな笑い声が幾重にも森が選びし娘(アンナ)を包み込んだ。



   ◇



 魔では治せない生まれ持った病を森の力で療やす。
 初めはなかなか信じてもらえなかった。少女の運命が覆ることはない。そう誰もが決めつけ諦めていた。子供に下手な希望を持たせるなと罵られもした。
 魔を持つ者であれば自ずと知ることになる真実も、魔を持たない者にとっては真偽も定かではないただの言い伝えだ。森に分け入った者が帰らない今となっては、その信憑性はないに等しい。
 アンナは辛抱強く何度も説得した。ここで信用を勝ち得たいというアンナ自身の思惑もあった。純粋な善意ではないことを敏感に感じ取った集落の老大人たちは、アンナを胡乱な目で睨め付け牽制した。

 そんな状況の中でもアンナは乞われれば魔の注入をほとんど無償で施していた。毎日少女のもとを訪ねると同じく水車式魔動機の具合も確かめ、折を見てはさらに効率がよくなるよう改良に明け暮れた。

 店主の娘がアンナの手のひらに乗る小さな黒い実を口にしたのは、浅い呼吸を繰り返す少女自身の決断だった。幼いながらに何かに縋りたくなるほど苦しかったのだろう。先細りとなった命の灯火は消えかけていた。
 家禽が突くだけで咥えることなく、家畜たちは吐き出して二度と口に入れようとはしなかった黒い実を、少女は恐る恐る喉の奥へと落とした。その渋さにか苦さにかひとしきり嘔吐いた少女はふと動きを止め、怪訝な表情を見せながらも目を瞬かせ、思い切った様子ですうっと大きく息を吸い込んだ。
 嘔吐く娘を介抱しながら戸惑いと恐怖と憎悪の入り交じった気配を身に纏っていた店主夫婦は、己の娘が深呼吸する姿に目を見張り、ゆっくりと何度も大きく息を吐く娘を涙ながらに抱きしめた。
 少女は半年間毎日欠くことなくアンナから受け取る渋く苦い実を内服し続け、ついに病を克服した。

「森にお礼がしたいの」
 健やかさを手に入れた少女はアンナにそっと耳打ちした。
 アンナは少女にだけは本当のことを教えていた。森が手を貸してくれたのだと。アンナが昔語りに登場する森に選ばれし娘であることも。
 その代わりに少女はまだ両親も知らない魔の芽生えをアンナにこっそり打ち明けた。
「森へのお礼は魔の力なんでしょ。わたしの魔力はシンラに還りたがっているの」
 確信を持って言い切る少女をアンナはじっと見つめた。森の恵みを取り込んだ少女はその年頃にしては色濃い知性を目に宿している。

 それは真理であり禁忌だった。

 太古の昔、向こう見ずな勇気と根拠のない自信で身を固めた蛮族の男は、シンラと呼ばれた森から始まりの力を奪ってフェルミナ大陸を統一し初代の王となった。
 森は全てを生み出す始まりの場所であり、全てを包み込む終わりの場所でもある。
 始まりの力を奪われたシンラは夜の恒星にのみ込まれていった。始まりの力を手に入れた人間たちは昼の恒星の恩恵を享受した。
 一定以上の力ある魔持ちだけが自ずと知ることになる真実。
 手のひらに森を映し、これ以上シンラが闇に沈まぬよう、誰に教わるでもなく夜の恒星が目を瞑る朔の晩に己の始まりの力(魔力)をあるべき場所に還す。祖先の行いを詫び、理を元に戻すために。

 水車式魔動機の微調整をしながら、アンナは静かに少女に話して聞かせた。魔動機の立てる音がアンナの声を少女より他へと流れるのを防いでくれる。
「今のナーシャの魔力を森に還すより、大人になって安定した魔力を朔の晩ごと還す方がシンラは喜ぶと思うわ」
「本当?」
 今しか見つめることのできなかった少女の目の奥に先を見据える小さな光が宿った。
「本当。シンラの魔女が言うのだから間違いないわ」
「じゃあナーシャはシンラの魔女の弟子になる!」

 アンナはこの集落における信頼の絆をなんとか結び終えた。最後までアンナを認めなかった老大人たちもナーシャが大地を駆け回るころにはアンナにそれぞれの家の歴史を話して聞かせるようになった。
 大工たちによってアンナが望んだ以上の家を造ってもらうと、キット化して森の際に夜の恒星の使者の許可を得て設置した。家の入り口はかろうじて昼の恒星が支配する領域にあるが、家に一歩踏み込めば夜の恒星が支配する領域だ。
 そこでアンナはなぜか家に押し入ってきた牡鹿と一緒に暮らしている。大工に頼んで馬小屋ならぬ鹿小屋を造ってもらったというのに。おかげでそれなりの広さの家が狭苦しくて仕方がない。
 木の枝と蔓と生え替わりの際に抜け落ちた牡鹿の角とでアンナが苦心して作った家を取り囲む柵の入り口には、注意書きの薄い板がぶら下がり、そよぐ風にかこんかこんと音を立てて揺れている。

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│ 扉の内はシンラの領域なり │
│ 努々決して踏み込まぬよう │
│  ※各種魔草あり〼 時価 │
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   ◇◇◇



 これは、フェルミナ大陸における三国の均衡が崩れつつある頃のお話。
 国の要であり大いなる魔持ちである王妃を失ったフェルミニティ国はゆっくりと傾き始めていました。
 誰よりも始まりの力を湛えた娘は幼馴染みを補佐として魔を極めるために心血を注いできましたが、その膨大な魔力ゆえ国王に国母となることを強制されてしまいます。強制された婚姻に強要された懐妊。常に国境を巡る魔防壁に魔を注ぎ続ける疲労からか、王妃に宿った命は昼の恒星の祝福を受けることなく夜の恒星に召されてしまいました。
 二度と子を産めなくなった王妃は補佐との不義を仕立てられ、揃って畏れの森へと追放されてしまいます。王妃は魔を持たない補佐の助命を懇願しましたが、王はただ嘲笑うだけでした。
 国の非道な仕打ちにフェルミニティの魔持ちたちは大いに反発し、国を捨てるものがあとを絶ちません。
 昼の恒星に愛されし王妃の追放により、鉄壁だったフェルミニティの守りが綻び始めました。他の二国からの侵略も時間の問題です。国中に不穏な噂が蔓延するようになりました。そこで王家は、近頃噂になっているシンラの魔女を頼ることに決めました。しかし、何度王家の使いが訪ねてもシンラの魔女から快い返事はもらえません。ついに業を煮やした王は自ら要請に赴きます。
 傲慢な王は注意書きを鼻であしらい、頑なに扉を開けないシンラの魔女を口汚く罵り、周りの必死の制止も聞かず、扉を力尽くで破壊して押し入りました。その途端、王の胸は神秘の牡鹿の角に貫かれ、シンラの闇に跡形もなく消え去ったのです。



   ◇◇◇



「なぜ諸悪の根源を討ったのに鹿のままなんだ!」
「ちょっと家の中で角振り回さないで! でもよかったぁ。話せるようになって」



 シンラと共に生き、魔草薬の先覚者であったシンラの魔女の傍らには、常に牡鹿が寄り添っていたという。



posted on 9 August 2019

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