月影奇譚
第三章 因んで25 右目と左目と鼻
部屋に用意された朝食はお膳だった。お膳で食事などしたことがないものの、ようやく場に合った食事風景が目に馴染む。誰も見ていないのをいいことに、マナーなど関係なく好きなように食べた。ただ、考え事をしていたせいか、すごくおいしかったことは憶えているのに、何を食べたかはうろ覚えだ。
タロンは私と一緒にいようとは思わなかったから姿を消したのだろうか。そう思う一方で、そんなことないとも思っている。言葉にされたわけじゃない。けれど、伝わってくるものはあった。タロンも同じ思いでいると信じている。ただの思い込みかもしれないけれど、私は自分の感覚を信じたい。
はっきりさせるためにも、タロンに会いたかった。そこで否定されたのなら、大人しくみんなが決めた人と縁を結べばいい。
結果はひと月後、次の満月までに決めればいいと言われている。ここでのひと月は満月から満月までの期間のことで、一ヶ月はカレンダーのことをいう。次の月と翌月や来月とでは同じように意味が違ってくるので注意が必要だ。
帰り支度をしている最中、第一王子の背後に控えていた男性が訪ねてきた。
御簾越しに会話するのがまどろこしい。おまけに前置きが長い。足が痺れてきてうんざりしかけたところで本題に入ったものの、遠回しな言葉がわかりにくい。こっそり足をもぞもぞさせていたら、同じく御簾の中にいる医者のおばあに笑われた。
要するに、私が縁を結びたいと主張しているのは陰の生きものであり、本来ならば縁を結ぼうとは思わないだろうというようなことを、やんわり回りくどく言われているような気がする。
「私はこの世界の人間ではありません。陰だろうが陽だろうがあまり関係ないと思っています。単純にあの人と縁を結びたいと思っているだけで、それ以上でもそれ以下でもありません」
それに御簾向こうの男性は、考え込むように口を閉ざした。
どこか遠くから聞こえてくるさえずり以外は物音ひとつしない。そのせいか、庭に面して思いっきり開け放たれているのに、閉塞感がすごい。それとも圧迫感だろうか。とにかく息苦しくなるような静寂に、意味もなく呼吸が速くなっていく。
沈黙に耐えきれず思わず口を開いた。
「あの特使のこと、何かご存じですよね」
「私からは何も申し上げることはございません」
きっぱりと逃げられた。さっきまでのもったいぶった言い回しは何だったのかと思うくらいきっぱり言い切られ、むっとした。
「ではその特使に伝えてください。一度会いたいと。まずは彼の無事が知りたい。そのうえで、彼が何を考えているのかを知りたいんです」
わがままを言っていることはわかっている。この男性に言ったところでどうにもならないことかもしれない。深々と下がる頭を御簾越しに眺めていた。
私は一体どうしてこんなところにいるのだろう──急にそんな思いが頭をもたげた。
帰りの車では、兄の同乗を強く希望してなんとか叶えてもらった。成人した男女が二人きりになるのはたとえ兄妹であっても好ましくないとやんわり遠回しに言われたものの、そんなの知るかだ。そもそも運転手や護衛の人がいるのだから密室ではない。前の席とは透明な壁で仕切られているけれど、丸見えなのだから密室じゃない。
兄に、第一王子の香の話とベール越しとはいえ痣に触れらたこと、王家の人間も月の力を持つこと、おそらく第一王子のお付きの人はタロンのことを知っているだろうことを、万が一を考え、前の二人に口を読まれないよう口元を手で隠しながらこそこそ話す。盗聴器がないことを祈る。
「俺も色々聞いたんだよ。どうも俺たちが聞いた神話が違うみたいなんだ。学者が日本神話の研究をしているみたいで、仮説を聞いた」
兄が学者と呼ぶのは、見合い相手の代々学者の家系の息子のことだ。
「闇の獣が、そもそも日の神だったんじゃないかって。もしかしたら日蝕や月蝕と関係しているのかもしれないとか」
「でも、確か月の神は日の神の妹だよね」
「ほら、神話の神ってそういうの平気じゃん」
ないわー、と思わず呟く。兄とどうこうなど考えただけでも身の毛がよだつ。思わずぶるっと震えると、兄も同じような顔をしていた。思わず顔を見合わせ、ないよな、とお互いに無言で同意し合う。
「始祖神の右目から日の神が生まれて、左目から月の神が生まれたらしい」
「兄妹の定義が揺らぐね」
「神話だからな。鼻から生まれた神もいるって言ってたし」
神話なんてそんなものかもしれない。何が本当で何が隠されているのかなんて、当時を生きた人でなければわからない。そもそも実在したのかも不明だ。鼻から生まれるとか嫌すぎる。
「で、二人の間に生まれた忌み子が大王に繋がっているんじゃないかって」
「大王って陰の生きものなの?」
「いや、人の顔をしてるって。学者も見たことあるらしくて、やっぱり俺が最初の召喚で会ってたのは大王らしい。学者から聞いた人相と同じだった」
その学者は元の世界の神話に興味があるらしく、渋る年寄りたちにしつこく頼み込んで公民館での滞在許可を得たらしい。
「公民館って泊まれるの?」
「泊まれるらしい。ちゃんと布団も風呂もあるんだって。災害時の避難所兼ねてるからなんだろうけど、生活できるようになってるらしい。キッチンもあっただろう?」
見合いのあとでみんなのお茶を入れているときに使ったのは、キッチンというよりも厨房のような感じだった。
「月の力を持つものが痣に触れるなら、兄も触れたはずだよね」
「俺自体が力を持っているわけじゃないからなぁ」
「でもさ、第一王子が月の力を持ってたんなら、わざわざ私を召喚する必要なくない?」
「お前ほどじゃないとか?」
「そうかもしれないけど、なんか納得いかない。だいたい、なんでこっちの世界の力があっちの世界で生まれた私にあるの? うちって元々は月向こうの人だったの?」
「違うって言われた。最初の召喚の時に色々聞いたんだけど、そんときにはっきり違うって言われてる」
「じゃあ、月の力を持つものは元の世界に出現するってわけ?」
「それもたまたまらしい。月読みでその結果が出たとき、かなりの騒ぎになったらしい」
高速道路を下りた。それまでの単調な景色から一変する。お互いに考えながら話しているせいか、それなりの時間が過ぎている。一切停まることがないせいか、信じられないくらい順調だ。
ふと気になった。
「ねえ、月読みって誰がするの?」
「大王っていわれてる」
「月を読むって、月の力がないとダメなんじゃないの? だから、月の力を持つとか? 第一王子が一番強いって言ってたよ。なんか悪い噂が出そうな人じゃなさそうだったけど……」
はっきりと悪い人じゃないと言い切れるだけの接触はないから、第一印象だけだけれど。
「もしかしたら、第一王子が月読みしてるのかもな。だから公務できないとか。でもなんか、影薄かったよなぁ。気配消してる感じ?」
「そうかも。足音も立てないし、布がこすれる音もしないんだよ。ふぁさふぁさドレスの音立てて歩いたり座わったりする自分が本当情けなかった」
「言われてみれば、大王(おおきみ)も太后(おおきさき)もあんま音立てないな」
「あんまどころかまったくだよ」
「なんか、すごいな、王家」
「さすが王家だよ。あそこに住むことにならなくて本当によかった。ありがとね」
「すげー年寄りたちが必死だったんだよ。お前取られてなるものかー! って。珈琲の娘さん死守! ってハチマキしそうな勢いだった」
言いながら兄はその時のことを思い出したのか笑い顔になる。
背を正し兄の目を真っ直ぐ見つめる。
「あそこに住めて本当によかった。兄のおかげ。ありがと。祖母にお金使わせてしまったのは申し訳ないけど」
「いいんだよ。祖母もなんかしてやりたいってずっと言ってたから」
「転校の手続きとか全部してくれたのに。学校探してくれたのだって祖母なのに」
どうしてもエジプトにいることが多い両親より、祖父母に頼ることの方が多かった。
「痣をさ、俺みたいに真っ直ぐ見られないことをずっと悔やんでるんだよ」
「そんなの……」
いいのに、とは言えない。ずっと悲しかったのは本当だ。それが祖母に伝わっていることも、悔やんでいるだろうこともわかっていた。
「いいんだよ、それで祖母の気が晴れるんだから。お前もありがたいって思ってるだろ? それでいいんだよ。実際『月子が何度もありがとうって言ってくれるの』って嬉しそうだったし」
似ていない祖母の真似をする兄の言う通り、それでいいのかもしれない。祖母のことは大好きだし感謝もしている。ただほんの少し、淋しさを抱えているだけだ。
誰しもが誰かの全てを受け入れられるわけではないのだろう。どれだけ愛していても無理なこともある。子供のころにはわからなかったことも、大人になるにつれて理解していった。
無性にタロンに会いたい。会いたくて会いたくて仕方がない。
「ねえ、なんで私って誰かと縁を結ばなきゃならないわけ?」
「お前、それ今聞く? もっと前に聞いとけよ」
兄の顔が思いっきり呆れを伝えてくる。
「なんか急に今朝そう思って。なんで私ここにいるんだろうなーって」
それまでは、なんとなくなるようになれと思っていた。
「お前って神話の神の復活的扱いなわけ。利用価値高そうだろ? 一般人だとお前のこと守りきれないから、守れそうな人と縁を結んどけって話」
「兄が守るんじゃダメなんだ」
「俺一般人。権力も財力もない。お前の見合い相手って、全員王家に連なってるんだよ。神奈尾に住む人たちもそう」
「そうなると、第一王子が一番適任なんだろうね。なんか静かだったし」
「お前それ嫌味?」
「別に。一言も兄がうるさいなんて言ってないじゃん」
「今言ったじゃん」
兄といると一人の時間がほしくなる。
「でも、宮中で暮らすのは無理」
「それは平気だと思う。お前と縁を結ぶと、第一王子って廃太子になるらしい。そんでもって神の婿的な立場になるらしい」
「それって、本人的にいいのかな?」
「さあ。納得してるんじゃないの?」
本人が望んでいないなら、第一王子も無理な気がする。誰を選んだとしても、その未来を潰すことになりそうだ。これじゃあ、神は神でも疫病神だ。
「兄はさ、今でも反対?」
何を、とは言わなかったのに、兄はわかってくれた。
「前にも言ったけど、お前が幸せならそれでいいんだよ。どんなに辛い環境だって、お前が幸せならそれでいい。でも、環境に潰されるってこともあるだろうから、そこは心配しているし、できればそんな環境に置かれない人を選べ、とは思う」
真っ直ぐ前を見ながらそこまで言ったあと、兄は窓の外に目を向け、ふうっと大きく息をついた。
「でもお前は昔からこれって決めたら絶対それだったし、最初からそうじゃないかって思ってたし、お前だって自分でもどうしようもないんだろう?」
どうしようもない、その一言に尽きる。どうしようもないのだ、自分の想いが。
「お前はさ、諦めないんだよ。諦めるってことをしない。転校でもさせなきゃ、お前はずっと諦めずに学校に通い続けただろうって今でも思ってる。それで、ある日突然終わらせるんだよ。諦めないまま、終わりを選ぶ」
窓の外を見たまま言葉が続く。
「高校の最後で、初めてお前は諦めたんだ。俺はほっとしたよ。これで月子は生きていけるだろうって」
自殺なんて考えたこともなかった。けれどきっと、兄の言う通りなのだろう。今ならそう思う。ゆっくり振り向いた兄に私はどれほど心配をかけてきたのか。
「ごめんね」
「あとで泣いても俺はもう知らん」
そう言って突き放すくせに、兄は柔らかな笑顔を見せた。
「でもな、俺は諦めない月子が好きだよ。諦めないお前の純真さが俺はずっと昔から好きだ」
いま、泣きそうだよ。
「兄はお嫁さん見付かりそう?」
「そんな簡単に見付かったら、とっくに結婚してるわ」
だから、からかった。
到着した裏門には、お隣の旦那さんが迎えに来てくれていた。