月影奇譚
第三章 因んで
19 印とチューブとスーツ


 月向こうの世界と今いるこの世界、そこに大きな違いはないらしい。
 特に日本は大差ない。アメリカ大陸などは北と南の発展が逆転しているらしく、アマゾン川の河口辺りが超高層ビル群で、逆にアメリカとカナダの国境にある五大湖周辺は未開の地らしい。ヨーロッパ辺りはアフリカ大陸と国が入れ替わったかのような様相。人々の生活に大きな違いはないけれど、大まかな宗教観は違い、自然崇拝やアニミズムが主流らしい。
 月向こうの世界は地球と瓜二つの惑星で、月の影に隠れて存在している。どうしてそれに誰も気付かないのか、それは次元が違うから、そんな兄の説明がいまいち理解できないままだ。それならどうして月向こうの世界の人はこっちの世界のことを知っているのか。それは兄も知らないらしい。

 兄と一緒に暮らすようになって、ぽつぽつと月向こうの世界のことを教わる。私が今解読している上下左右が反転されている古代の遺物も、月向こうのことが綴られているらしい。
 兄が解読を手伝ってくれるおかげでさくさく進む。こっちの世界で解読されていいものなのかを訊けば、特に問題はないらしい。似たような文明を発展させているらしく、解読されたところでどっちの世界の事柄だと明確に言い当てられるのは、月向こうの世界を知る人だけだと暢気に笑っている。



 桜舞い散る麗らかな春の夜。
 満月に煌々と照らされた山神様の祠の前に、縁ある人たちが勢揃いした。

「眉間に意識を集中して。力を解放するようなイメージで」
 たったそれだけでぺかーっと祠の中が光り、あっさり月向こうの世界と繋がった。なんとも胡散臭い。一応、今日のこのタイミングじゃなければ難しいことだとは聞いていたけれど、それにしたって胡散臭い。
 大人たちの「おおー!」という地鳴りにも似た響めきに、きゃいきゃい騒ぐ子供たちの声がほどよくブレンドされている。祠に向かって先頭に立つ私の背後では、誰もがすんなり異様な事態を受け入れ、興奮していた。

 額にある痣は月の力を集めるための印で、それを持つものはそうは生まれない。同じ印を人工的に刻んでも力は集まらない。兄は私からその力を受け取って使っていたらしく、それを可能とする月の石があり、私が身に着けている子供の頃に兄からもらったお守りのブレスレットがそれらしい。石だけを時々こっそり入れ替えていたとか。

 この世界では太陽光をエネルギーとして使っていたけれど、月向こうの世界では月光をエネルギーとして使っている。
 過去に何度か誘拐されたうちの最初の一回は月向こうの世界からの召還で、それ以外は月の力を奪おうとする月向こうの世界を知る人たちに攫われていたらしい。額の痣に月向こうの世界で開発されたテープを貼ることで目眩ましになり、誘拐されることもなくなったとか。医療用テープだと渡されていたものがかなり高価なテープだと知ってちょっとびびった。時々食べ残しのお菓子の封をそれでしていたとは言えない。

 次々と祠の中に吸い込まれていく人たち。先陣を切ったのは待ちわびていた年寄りたちだ。続いて子供たちが我先にと駆け込み、子供のように目を輝かせた大人たちが続く。お隣さん一家も息子さんの子供と一緒に祠の中に吸い込まれていった。
 嘘みたいな出来事が目の前で起こっている。なぜ疑いもせずそんな怪しいところに足を踏み入れられるのか。

「ほらいくぞ」
 兄に声をかけられ、ようやく我に返った。つい他人事みたいにぼーっと眺めてしまった。
 あまりに嘘くさくて、どんな仕掛けかと疑ってしまう。眉間に意識を集中するだけで別の世界に繋がるなんて、有り得なさすぎて信じられない。ついタロンの背に手を伸ばし、タロンの存在から現実を感じ取る。タロンの目を見れば、大丈夫だとでも言いたげに瞬きがゆっくり返された。

 で、祠の先にあったのが、あの切り株だった。一歩祠の中に入った瞬間、切り株の上にひょこんと現れた。なんだろう、なんとも表現し辛い。ひょっこり現れた意外に言い様がない。
 胡散臭い思いで周りを見渡せば、神奈尾に住むみんなが高揚した顔で待っていた。お隣の奥さんに手招きされ、切り株の上から、とん、と飛び降りる。
 振り向いたそこには、空へと伸びる淡く光るチューブみたいなものが切り株から生えていた。上に行くほど光が霞んで見えなくなっている。幻想的な光景なのに続いたタロンと兄が光のチューブを素通りし、切り株の上からごく普通に下りてきて、幻想感が薄れた。
 月明かりに浮かぶ見慣れた景色。けれど、ここは月の向こうの次元が違う世界らしい。気持ちの切り替えができない。狐につままれた気分だ。光のチューブだけが胡散臭く仄かに輝いている。

「ほんじゃ、帰って寝るか。珈琲の娘さん、ありがとな」
 ありがとう、ありがとね、ありがとさん、たくさんの感謝の言葉をかけられ、高揚し、にこにこ笑う年寄りたちがかくしゃくと歩き出した。それに興奮ではしゃぎ回る子供たちが続き、隠しきれない興奮を抱えた大人たちも移動し始める。事態がのみ込めていない私だけが興奮からほど遠い。

「帰るって、どこに?」
「自分の家だよ。一言で言えば、鏡の向こうの世界みたいな感じかな。ここはほぼ反転してないけど」
「うちもあるってこと?」
 頷く兄について歩き出す。なんとなくタロンの背に手を乗せてしまう。

 いつもとは違って霧にのまれることなくあっさり家に着いた。そのことに少し驚き、タロンに目を向けると、その途端タロンが一歩後ろに下がった。
「おまえはここまでだ」
「どうして?」
「こいつは報告に行かなきゃならないんだよ」
「だったら私だって……」
「お前はいいの。代わりに俺が行くから」
 兄が家の中に当たり前に入っていった。

 そのすきにタロンに抱きつく。兄が来て以来なかなかタロンに抱きつけなかった。首元に鼻先を埋め、額を付けると、タロンが首筋を甘噛みする。

 そこにたくさんの想いが込められているような気がした。
 たくさんの想いを込めたような気がする。

 背後から聞こえた物音に、急いでタロンから離れる。
 ぱちっと灯った外灯に照らされた兄の手には、シャツやスーツ、革靴などの着替え。それをそのままタロンに押しつけようとしているのを見て、せめて家の中で着替えるよう言えば、渋い顔の兄と一緒にタロンが家の中に入っていった。

 ウッドデッキにあるのはそれまでと同じガーデンテーブルにチェア。どこからどう見ても今まで住んでいた家と同じだ。ここが月向こうの世界だと言われたところで理解もできなければ納得もできない。
 見渡す庭の景色も同じ。一年ほど前に敷きつめたウッドチップすら同じなのだから、納得できるはずもない。よくよく見れば、庭木の枝振りや葉の感じが少し違うような、ウッドチップはもう少し小さな欠片だったような気はするものの、気のせいだと言われてしまえばそれまでだ。決定的な違いを見付けられない。

 兄の声が聞こえ、二人が揃って出てきた。そう、二人。
 夢の中で見たタロン顔がそのままスーツを着て歩いていた。その逞しく大きな身体は夢の中と同じで、思わず手を伸ばしそうになって、ぐっと指先を握り込んだ。
 兄のスーツを貸したのかと思えば、あつらえたように身体にぴったりなそれはタロンのために作られたものだ。どうしてそんなものがうちにあるのか。ついさっきまでタロンの首にあったネクタイがシャツの上にきちんと結ばれている。

「じゃ、行ってくるから」
 兄の軽い声に「いってらっしゃい」を返す。それはタロンにも向けたものだったけれど、タロンは上からじっと見下ろしたまま応えなかった。

 ひき込まれそう。

 いつもは下から見上げられていたのに、見下ろされている。どうしてか恥ずかしいような、嬉しいような、よくわからない複雑な感情に心が波立つ。夢の中のように何も考えず抱きついてしまいたい。そんな子供っぽいわがままを笑顔の下に隠し、ざわめく心を宥めながら、落ち着かない思いで二人を見送った。



 家の中も変わりない。今まで使っていたものがそのまま同じ位置に収まっている。
 ぐるっと家の中を確認して気付いた。タロンのクッションがない。慌ててもう一度洗面所を見に行けば、たらいやタロンの足ふきマットもなかった。

 言い知れない不安が心臓を強く打ち付けてくる。すっと背筋が冷えていく。

 何かないかと探し回り、見付けたタロンの歯ブラシ。クローゼットを確認すれば、ネクタイもちゃんと並んでいた。ここでのタロンは犬の姿ではないのだろう。きっとそう、たぶんそう、言い聞かせるように頭の中で馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返した。

 ふと思い付いてテレビの電源を入れる。最初に映し出されたのはいつもタロンが観ていたニュース番組。
 使われていないはずのリモコンのボタンを押せば、似たような番組が映し出された。次々と空きボタンを押し、ニュース番組に切り替える。キャスターが見知らぬ人というだけで、新番組だと言われたらわからない。言葉も文字も当たり前のように同じで、彼らの服装や髪型に違和感はない。

 ふと街の風景の中にタロンのように頭が猫の人を見付けた。よくよく見れば、犬や猫、熊のような顔が見える。じっとそれを見ていると、私たちも同じように頭が猿ではないかと思ってしまう。どうやら角のない哺乳類の頭部を持つ人がここには存在しているらしい。角を持つ牛や羊のような頭やトカゲや鳥、魚や虫の頭を持つ人は一人も見当たらない。
 決定的な違いを目の当たりにして、急にすとんと落ち着いた。ここは別の世界、それがようやく理解できた。

 今まで観ていた番組と初めて観る番組を交互に眺めながら、一人静かにご飯を食べ、お風呂に入っても二人は帰ってこなかった。