月影奇譚
第三章 因んで
20 歯ブラシと霊山と禁足地


 眠れないまま夜を明かし、鳥のさえずりに紛れる砂利を踏みしめる足音を寝不足の熱っぽい頭でなんとか拾い、足をもつれさせ、よろけながら急いで玄関に向かった。
 と同時に扉が開いた。そこには兄一人。
「タロンは?」
「その前に言うことは?」
「おかえりなさい。タロンは?」
 続けざまに訊けば、靴を脱ぎながら兄の顔が歪む。
「あいつは……自分の家に帰った」
「だって、タロンの家はここじゃないの?」
 ずっと一緒に暮らしてきた。その前はこの山に住んでいた。鏡の向こうのような世界だというここにタロンの家があるとは思えない。
 兄は答えることなく洗面所に向かった。

 兄がお風呂から出る気配に洗面所の扉の前に待機する。衣擦れの音が止み、しゃこしゃこと歯を磨いている音が聞こえてきた。
「開けるよ」
 声をかけ、中から聞こえてきたくぐもった返事に扉を開ける。目に飛び込んできたそれに頭を殴られたかのようなショックを受けた。
「どうして兄がタロンの歯ブラシ使ってるの?」
 声が震えた。口をゆすいだ兄が何を言っているんだと、鏡越しに訝しげに口を開いた。
「これ、俺がここで使ってた歯ブラシだけど」
 目の前が暗くなった。

 その場にしゃがみ込んだ私に兄が慌てた。どうした、大丈夫か、そう何度も声をかける兄に答えることもできず、兄の肩を借りながらベッドに移動する。
「たぶん気付いてないと思うけど、かなり力を使ったんだよ。おまけに寝てないだろうお前。そりゃ立ちくらみもするよ」
 とりあえず寝ろ、俺も寝る。ベッドに寝かされながら聞こえてきた声。それどころじゃなかったのは、ベッドからタロンの匂いが消えていたからだ。いつもふわっと香っていた、香草のようなタロンの匂い。洗っても完全に消えることのなかったかすかな香り。
 気を失うように眠りに落ちる。

 いつもの夢も嫌な夢も見なかった。
 それが悲しくて、夢の中で泣いた。



 朝が来て、夜が来る。当たり前のように日々が過ぎ去っていく。

 ここは月向こうの世界と今までいた世界がクロスする場所らしく、表門から山を下りれば今までの世界、裏門から山を下りれば月向こうの世界になるらしい。月向こうの世界にとっては、裏門が表門になる。戻ってくるときに間違えそうだと言えば、ここに縁を結んでいる人はどちらの門から戻っても平気らしい。
 ただし、ふたつの世界が繋がっている今、月向こうの世界を知らない今までいた世界の人が表門から訪ねて来て、裏門から出てしまうと月向こうの世界に迷い込んでしまうらしい。神隠しとはそんな人たちのことを言うのだと説明された。
 月向こうの世界ではこの山は霊山として禁足地になっているらしい。

 時々、お隣の息子さんに連れられて、彼の子供も訪ねてくる。子供らしくはつらつとした様子に私も兄も目が和む。
 お父さんが大好きで、学校から帰ってくると真っ直ぐ手伝いに来て、おばあちゃんと呼ばれるたびに嬉しくて、と頬を緩めるお隣の奥さん。最近の話題はもっぱらお孫さんで占められている。
 
 いままでと何も変わらない。
 両親や祖父母と今まで通り連絡が取れることも、ネット通販で必要な物を手に入れることも、お隣さんたちからお裾分けしてもらうことも、お礼に珈琲やお菓子を用意することも、時々キッチンを借りにお隣さん一家がやってくることも、お礼にとおいしいご飯をみんなで食べることも。

 待ち望んだ春が駆け足で過ぎ去っていった。そして、ナイフで突き刺すような強烈な日射しの夏が来て、あっという間に夏が終わると秋が急ぎ足で色濃く深まり、凜として煌めく冬がやってくるのだろう。

 兄とお隣の男の子が増えたために席が足りなくなり、ダイニングチェアが買い足された。お隣の男の子が懐いてくれた。お隣の息子さんとの距離がまた少し縮まった。首に残る甘噛みの痕が薄れていく。
 変わらないようで変わっていく毎日に、タロンだけがいない。



 変わらずお隣の奥さんが髪を切ってくれる。今は肩にかかるほどのふわっとしたミディアムヘアだ。
「縁談、すごいんでしょ?」
 訊かれたことに黙ったまま頷きを返すと、奥さんの手が止まり思案顔になる。
 
 この山に暮らす人たちのことは、月向こうの世界でも一部の人しか知らない。私の存在も、過去に何度も誘拐されたことを受け、大っぴらにはなっていない。元々この山は霊山ということもあって常に警護の人たちが要所要所に配置されている。そんなことをなんとなく聞いている。
 私には縁談が数多く舞い込んでいる。それこそ、世界中の地位の高い人やその子息ばかりで、兄が音を上げるほど、その数も圧力も相当なものらしい。

「どうせ力が欲しい人たちばかりなんでしょ?」
「全て断っているので会ったことはないんですけど……たぶん?」
「面倒ね」
 渋い顔をしたお隣の奥さんに頷き返す。
「やっぱりうちの息子と偽装結婚する?」
 いつかと同じように笑って誤魔化した。

 誰もタロンのことを口にしない。始めからいなかったかのように一切話題に出てこない。口にすればそれは夢だと言われそうで、もしかしたら本当に夢だったのかと思い込みそうで、私自身も口を噤む。

「さすがに笑っていられる状況じゃないと思うわよ。噂では王家からも内々で声がかかっているっていうじゃない。さすがにそれは断れないんじゃない?」

 馬鹿馬鹿しいことだと思う。月向こうの世界では皇室ではなく王室だ。その違いなど知らない。それこそ住む世界が違う。ただ額に痣があるだけの引きこもりの女が王室に入るというのか。あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いさえ出る。

 神奈尾に住む人たちは貴族並みの待遇らしい。日本でいうところのかつての華族がここでは今でも存在している。
 私は神奈尾に住む人たちに護られている。その代表となる年寄りたちが首を縦に振らない限り、私がこの山を下りることもなければ、誰かと縁を結ぶこともない。それは、王家の要求すらはね除ける力を持つらしく、年寄りたちは私の好きなようにしていいと言ってくれる。その根底には、この山に住むものと縁を結んで欲しいとの願いが込められているのだろう。



 何度も兄と話し合った。
 タロンたち陰の生きものは表向きには差別されていない。陰の生きものたちが主導する国家もいくつかある。エジプトやインド、メキシコなどがその代表国だ。
 けれど、陽の生きものが陰の生きものと縁を結ぶことはない。一切ないわけじゃない。稀に覚悟の上で縁を結ぶ者もいる。それは、言うなれば迫害の始まりらしい。陰の生きものたちからも、陽の生きものたちからも、二人が受け入れられることはない。

「俺は、お前をそんな目に遭わせたくない」
 兄のその言葉が重くのしかかった。迫害までいかなくとも、忌み嫌われる辛さはもう十分すぎるほど知っている。きっとそれ以上に辛い現実が待っているのだろう。
「そもそも、縁を結ぶってことは結婚するってことなんだよ。おまえ、犬と子供作れるのか?」
「タロンは犬じゃな──」
「犬なんだよ。遺伝子が違う。人とは違う遺伝子を持っているんだよ、陰の生きものは」
 兄の言葉はあまりに厳しく、つい言い返したくなる。
「だったら子供なんてできないでしょ」
「できるんだよ、お前は。月の力を持つお前だけはできるんだよ。だから、みんなが必死になって護ってるんだよ」
 兄の苦悶の声が遠くに聞こえた。それなら私はどんな生きものなのだろう。

 化け物。
 ふと心に突き刺さったままの過去の言葉が浮かび上がる。
 月の力を集めることができる。世界を繋ぐことができる。本来生まれないはずの子供が生まれる。それは、人ではなく化け物じゃないのか。

──遙か昔、月の女神が闇の獣に攫われた。その時生まれたのが陰の生きものたち。想像だにしないほどのひどい仕打ちに、女神はこの世界を呪った。そのせいで月の力を集められるものが生まれにくくなり、この世界は月の陰に隠された──。
 そんな神話が残っているらしい。

「兄は……私の額に触れられる?」
 訝しげな顔で見つめ返していた兄は、諦めたかのように小さく息をついた。
「お前のその痣に触れられる人はいないよ。力の塊なんだ、その印は」
「でもタロンは──」
「あれは、特別なんだよ。あれは……本来生まれるはずのない、陽の生きものから生まれた陰の生きものなんだ」
 タロンに会いたい。夢の中だけでもいい、タロンに会いたい。

 そんな願いも虚しく、朝が来て、夜が来て、繰り返される日々だけがただひたすら通り過ぎていく。首の痕が薄れていく。

 私にとって、兄以外に初めて完全に心を許せた存在がタロンだ。兄には明け渡しきれなかった心の奥底までをも預けられた存在。失って初めてわかったその大きさは、心にぽっかり空いた穴に知らしめられた。