月影奇譚
第二章 繋いで18 声帯と狼人とサーモン
兄がお正月に駆けずり回っていたのは、月の向こうに戻る準備の一環だったらしい。
お隣の奥さんが年寄りと呼ぶ方たちが若かりし頃、人類が月に着陸した。そのせいで、遙か昔より月を媒介にひっそりと月向こうの世界から行き来していたルートが途切れてしまったらしい。月向こうの世界を知る彼らは、生きているうちに元の世界に戻ることを悲願としていた。
「でも、タロンのことを山神様だって思ってたんでしょ?」
「実際山神様なんだよ。月向こうの山神様がそいつ。この世界の山神様がお前」
タロンと私をそれぞれ指さしながら説明される。
ゆっくり家に戻れば、兄がせっせとお米を研いでいた。ヒモ人生に片足をつっこんだようでかなり嫌だ。代わろうとすれば妙に楽しそうに断られた。鼻歌まで聞こえる。
ちなみに貯金額を聞けば、それなりの額だった。確か兄はそこそこ高給取りだったはずだ。ヒモなどしなくても一年や二年は地味に暮らせるだろう。派手には無理でも。
兄が用意した食事は最低だった。兄の食生活が思いやられる。前回あれだけちゃんと料理していることを褒めてくれたから、てっきり自分もちゃんとしているのかと思いきや、出てきたのは食品ストッカーに残っていたレトルトカレーだった。久しぶりに食べたからおいしく感じたけれど、この先もこんなご飯が続くのは嫌だ。
「次からは私がご飯作るから」
「お願いします」
素直でよろしい。
そもそも、一緒に暮らしていたときだって私が食事の用意をしていた。なぜ今更やってみようと思ったのか。ヒモという言葉に惑わされている気がする。
「タロンは特使なんでしょ? だったら私も特使なの?」
「そう、本来はね。でもお前まだ小さかったから、俺が代わりに特使になったの」
「代われるの?」
「代われたの」
特使だけはルートがなくとも行き来できるらしい。私の最初の誘拐は、月向こうの世界に特使として召還されていたとかで、目の前でイリュージョンのように霞んで消えようとする私を咄嗟に抱きかかえた兄も一緒に召還されてしまったというオチだ。幼かった私が特使として動けるようになるまで兄が代わってくれていたらしい。
「まさか、兄の仕事って……」
「そう、月向こうの世界との貿易」
一体何をやっているのか。怪しすぎる。
「向こうの世界にはタロンみたいな人もいるの?」
それに兄は曖昧に笑いながら「そうだな」と誤魔化した。考えてみれば、ここに住む人たちは私たちと同じ姿をしている。タロンは特別なのかもしれない。古代エジプトの神々のような、そんな存在だったらどうしよう。ずっと一緒になんていられないかもしれない。
「縁があるってどういうこと?」
「簡単に言うと、月向こうに住むことができるってこと。元々は月向こうから来た人たちの血を引いてるってのが一番大きい。かつては交流が盛んだったみたいだから」
ここ以外にも世界中に月の向こうに繋がるルートが存在している。エジプトやマヤ、インドやチベット、ローマやギリシャ、ほかにも至る所に存在していたものの、時をかけて廃れていった。
今でも残るのはここのほかに僅かな地域だけらしい。
「向こうに行ったら、タロンと話すことできる?」
「無理だな。声帯が違う」
これ以上ないほどきっぱり返された。思わずタロンを見れば、下を向いたまま目も合わせてくれない。
「お前は神奈尾か月向こうの人となるべく早く縁を結べ」
人、というところに力を入れた兄は、怖いくらいの真顔だった。
「縁を結ぶって、結婚するってこと?」
「まあ、そうだな。ロマンチックに言えば心を込めたキスをするってことだよ」
「なにそれ。ペラい」
「ペラい言うな。お互いに心を込めてキスするって、結構難しいと思うぞ」
そんなものか。したこともなければする予定もなかったせいか、憧れこそすれ実際にどうこうなんて考えたこともなかった。
「兄はお隣の息子さん推しなんだよね」
「あいつはいいやつだからな。お前を任せられると思ってる」
思わずため息をついた。いい人だとは思う。かなり気心も知れてきた。けれど、どうしてもしっくりこない。
「タロンじゃ──」
「ダメだ!」
強い口調での否定に、びくっと身体が震えた。
「なんで? タロンが──」
「ダメだ。こいつはダメだ。こいつと縁を結ぶくらいなら最悪俺と縁を結べ」
「はあ? 兄妹なのに?」
「それくらい有り得ないってことだ。種の起源が違いすぎる。犬と結婚するようなもんだぞ」
兄の顔が怖い。
「でもタロンは……」
「そうだ、犬じゃない。狼人だ。こいつは血を糧に生きている。人とは違う生きものなんだ」
月の向こうの世界には、私たちと同じ姿の人と、タロンのような獣の頭を持つ人がいる。人は陽の生きもので、獣の頭を持つものは陰の生きもの。陽の生きものと陰の生きものは相容れないらしい。
「こいつの指にかぎ爪があるだろう、あそこから血を取り込むんだ」
ヴァンパイアみたいに牙からじゃないのか。タロンはサーモンも好きなのに。
タロンはじっと下を向いたまま身じろぎさえしなかった。
その夜、兄が強く否定するせいでタロンと別々に寝た。かすかにシーツから香るタロンの匂い。それがせめてもの慰めだった。いつも感じていた存在がすぐそこにない。だからなのか、もうずっと見ることがなかった嫌な夢を見た。
──高校に入り、少なからず友人と呼べる存在ができた。額に痣があることは話してあり、けれど決して見せたことはなかった。さすがに高校生ともなれば、無理矢理額のテープを剥がされることもなく、それまでとは打って変わって穏やかな学生生活が送れていた。
淡い恋心を抱いたのはいつだったか。気付けば目で追っている同じクラスの男子がいた。それに目ざとく気付いた友人に事あるごとに告白するよう勧められるも、見ているだけで十分だと笑って誤魔化し続けた。
「卒業したらなかなか会えなくなっちゃうんだよ!」
そう強く言われ、ついその気になった。
告白するだけならと卒業間近の放課後、彼女のお膳立てのもと告白した。ただ気持ちを伝えるだけで十分だった。返事はいらなかった。
誰に対しても公平に優しい人だった。まさか気持ちを受け入れてもらえるとは思わなかった。嬉しいより怖かった。付き合うつもりはないとその場から逃げ出した。
のぞき見していた友人が追いかけてきて、逃げ出した理由を聞かれ、額の痣だと話した。彼女の視線が背後に移り、その瞬間、後から伸びてきた手に額のテープを無理矢理剥がされた。
翌朝登校し、教室の扉をくぐろうとしたところで彼らの声が聞こえてきた。
「だって、気持ち悪くない?」
「さすがにあれはない。化け物じゃん。よく生きていられるよな。俺なら自殺する」
聞こえてきた彼女と彼の声。面白おかしく話す彼らに、回りから嘲るような笑いが起きた。その場のノリかもしれない。本心は違ったのかもしれない。けれど私はそのまま家に引き返し、卒業まで登校しなかった。卒業証書は兄が代わりにもらってきてくれた。
優しい人たちだと思っていた。実際に痣を見るまではたとえその場のノリであっても人を傷付けるようなことを言う人たちじゃなかった。この痣は人を狂わせる──。
慰めるように額を舐められている。眉間に寄っていた皺が舌先で解される。
手を伸ばせば指先に触れる馴染みきった毛並み。
一緒じゃないと嫌な夢を見る。抱きしめてもらわないと心地よく眠れない。
額の痣に自ら触れるのはタロンだけだ。兄ですら触れない。そう、触らないのではなく触れない。今になってわかった。
あの頃抱いた淡い想いは恋だったと自覚できている。
だとしたら、タロンに抱くこの想いはなんだろう。それがわからなくて途方に暮れる。兄の言葉に反論できない。
犬と恋がでいるかと言われれば、できないと答える。どれだけ大切に想っていたとしてもそれは恋じゃない。
けれど、タロンという存在は……答えが出ない。
私の知る限りタロンは人と同じ感情を持っている。夢の中のタロン顔は間違いなく人だ。
私の知る恋心とは違う、もっと強くて執着に近い感情。大切で失えない。きっと代わりはいない。誰だってそうだ、誰かの代わりはいない。兄の代わりはいない。タロンの代わりもいない。
夢の中で思考が渦巻く。
結婚は恋をしないとできないのか。
心を込めるというのは、恋愛感情だけのことなのか。
縁を結ぶのは自分と同じ姿の人じゃなければならないのか。
どうすればタロンと一緒にいられるのか、渦巻く思考の中心はそれだけだった。
目覚めると、ベッドの端から腕を降ろし、床に伏せるタロンに手を伸ばしていた。
ふと視線を感じ目を向ければ、なんとも言えない表情の兄がじっと何かを考え込むように睨みつけていた。