月影奇譚
第二章 繋いで17 クロとヒモとキーパーソン
ここで暮らすようになって一年が過ぎた。
テレビのニュースでは各地で桜の開花を競うように伝えてくるものの、ここではつぼみが膨らむどころか、まだその存在すら確認できない。それでもようやく暖かさを感じる日が増えてきて、寒さに縮こまっていた身体がゆっくりと緩んでいくような、そんな心地よさがある。心から春を待ち侘びる。
あれから、特に何も変わらない生活が続いている。私もタロンも言えない何かを隠したまま、それまで以上に寄り添っているような気がする。
お隣の息子さんとも特に変わりないお付き合いが続いている。お隣の旦那さんと奥さんからは、二人とも賛成していることをさりげなく伝えられている。ただ、結果がどうあれ今までと同じように付き合っていけたら、とも言われていて、その心遣いに感謝している。時々さりげなく孫のかわいさをアピールされてはいるけれど。
誰かに受け入れてもらえることが嬉しい。兄以外に額の存在を意識しない人がいなかったせいか、お隣さんを始め、ここに暮らす人たちの存在は私にとって得難いものだ。
冬の間はお隣の奥さんのところに髪を切りに来る人たちが、私にもお裾分けを用意してくれ、奥さんと一緒にうちに寄ってくれる。他愛のない話をしながら過ごす時間が私にとってはかけがえのないものになっている。
ここではみんな屋号のようなもので呼び合っている。裏門を守るお隣さんは「裏の」で通じる。表門を守るお宅は「表の」、お店を開いているわけではないものの味噌を造るお宅は「豆の」、パンやクッキーなどを作るお宅は「粉の」など。私は「珈琲の娘さん」と呼ばれている。未婚の場合は誰もが娘さんらしい。
なにせみんな同じ苗字なのだから仕方がない。
そして、兄に文字を送り問い詰めたら、音信不通になった。逃げられた。間違いなくクロだ。
必要にならない限り教える気はないのだろう。知っている方はそれでもいいだろうけれど、知らない方は気が気じゃなくて落ち着かない。タロンに愚痴るたびに気まずそうに目をそらされる。
「タロンが悪いわけじゃないから」
そう言ったところで、心のもやもやが晴れることはなく、ついつい愚痴ってしまう。
「まさか秋までこのままなのかな。なんか、気になりすぎてストレスでハゲそう」
タロンの喉が、ぐう、と詰まるように鳴った。
兄の秘密にタロンが関わっていることは間違いないだろうけれど、そこに私がどう絡んでいるのかがわからない。こうなると子供の頃の誘拐も怪しくなってくる。私がはっきり関わっていると知らされているのはそれだけだ。
そのお腹の中が真っ黒そうな兄がいきなりやって来た。
私が散々お隣の息子さんに「兄が隠し事をしている」と愚痴っていたせいで、駅まで迎えに来てもらえなかったらしい。
「マジなんなの! 登山じゃんもう!」
裏門でタクシーを降ろされた兄が、前回同様えっちらおっちら登ってきた。思わず「お疲れ様」と言いながらにやけてしまう。すでに隠すつもりのないタロンは歯を剥いて笑っていた。
「急にどうしたの?」
訊いた途端兄が不敵に笑った。嫌な予感。
「昼から荷物届くんだけど、俺のスペース作って」
「は? どういうこと?」
「兄は仕事を辞めました」
なぜか胸を張られた。
「は? どうやって生活するの?」
「しばらくはかわいい妹のヒモ?」
「最低」
罵りを聞き流し、携帯電話に文字を打ち込んでいる。どうやらお隣の息子さんに荷物が届くから運んで欲しいと依頼しているらしい。折り返しかかってきた電話に兄が事情説明しているのをタロンと呆れながら眺めていたら、怒鳴り声が漏れ聞こえてきた。慌てたように携帯電話を耳から離す兄。ざまあみろと思った私は悪くない。きっとタロンも思っている。
図々しくもお昼ご飯を無心し、勝手にソファー回りを自分のスペースと決めた兄に、運んできた荷物を降ろすなりお隣の息子さんが説教を始めた。正座させられている兄を見て、再びざまあと思っているのは私だけじゃない。「いい歳して何してんですか!」とはよくぞ言ってくれた。お隣の息子さんは兄を前にすると少しキャラが変わる。
「だってほら、そろそろ戻る準備しないと」
その兄の言葉に、お隣に息子さんの説教がぴたりと止まった。タロンが「ぐるっ」と唸る。
「そろそろ潮時だろう?」
それにお隣の息子さんが大きなため息をついた。なんのことかと訝しんでいると、兄が足を崩してよろけながら立ち上がり、ソファーにぽすんと腰を落とした。
ラグの端で膝を抱えて座り、兄とお隣の息子さんの様子を眺めていた私と視線がかち合う。
「あのな、俺は月向こうにある世界の特使なんだよ」
真面目な顔で痛々しいことを言い出した。兄は時々イタイ人になる。別の世界の使者だとかトチ狂ったことを子供の頃から恥ずかしげもなく言っていた。
そんな痛々しい発言なのに、なぜかお隣の息子さんは笑いもせず、ふざけるなと怒るわけでもなく、神妙な顔をしている。思わずタロンを見れば、タロンまできちんとお座りして真面目な様子を見せている。
なにこれ。
「で、お前は月向こうとここを繋ぐためのキーパーソンなんだよ」
なにそれ。
「神奈尾に住んでいる人たちは本当は月向こうの人たちで、お前がタロンと名付けたそいつは月向こうから来た特使なわけ」
兄が本気でヤバイ。どうしようと縋るようにタロンを見れば、なぜか頷かれた。お隣の息子さんに至っては目に気遣いを浮かべている。なにこのアウェイ感。
「お前のその痣な、痣じゃなくて目だから」
やだもう。兄がイタすぎる。
「お前のその目が開かれると、月向こうに渡れるようになるんだよ。つまりお前が山神様ってわけ」
タロンじゃないのか。咄嗟に浮かんだのはそれで、とりあえず散歩に行くことにした。兄とお隣の息子さんは荷物の片付けをするそうだ。
気付けばあの切り株に腰掛けていた。目の前には気遣わしげなタロン。
「タロン……」
それ以上続かなくて、タロンの首にしがみついた。しっかりコートは着てきたらしい。マフラーは忘れた。兄に言われたことがいまいちの見込めなくて、どうにも記憶があやふやだ。タロンが一緒にいてくれたことが嬉しい。
「兄の話、本当?」
肩にのる顎が頷くように、とん、と動いた。タロンのことは信じられる。兄は若干怪しい。
「私が山神様なの?」
それには応えない。
「山神様っていうのは、たとえみたいなもの?」
とん、とタロンの顎が肩を打つ。
「じゃあ、目が開かれるっていうのも?」
同じように肩を叩かれた。
痣の下に目があるとは思えない。触ったところで骨があるだけだ。眼孔のような穴もなければしこりのようなものもない。むしろあったら困る。
「なんとなく生け贄感があるんだけど、私って死ぬわけじゃないよね」
それには、ぐるっ、と唸られた。よかった。
「タロンと一緒にいるには、その月の向こうの世界に行かなきゃいけないってこと?」
抱きしめていたタロンが身体を離した。そして真っ直ぐに見つめられながら、頷きを返してきた。
「月の向こうって何?」
それにタロンはせつなそうに瞳を揺らした。
「ごめん。説明は兄に訊けばいいよね」
言葉で伝え合えないのがもどかしい。
兄のせいで今日は仕事にならない。兄を養っていくならもう少し仕事量を増やさないと。模様替えして兄のスペースと私のスペースをきっちり分けないと。やらなければならないことが次々と事態がのみ込めないままの頭を埋めていく。
「とりあえず、兄が来たってことは、兄も月の向こうに行くってことだよね」
頷くタロンを見ながら、だったらまあいいかと思う。両親や祖父母には申し訳ないけれど、私にとって一番近い肉親は兄だ。兄がいればなんとかなるような気がする。
ここにいる人たちも月の向こうに行くのであれば、場所こそ変われど今の生活と何も変わらないはずだ。転校や引っ越しと同じだろう。その辺りも確認しないと。
ふと足元に小さな芽吹きを見付けた。ちゃんと春は来る。漠然と、前に進むべきだと思った。