月影奇譚
第二章 繋いで16 羽衣と本能と条件
表面上はいつもと変わっていないようでいて、見えない何かが変わってしまった。
タロンは何かを考え込んでいるような、そんな気がする。朝夕の散歩の時間が前より少し長くなった。お隣の息子さんの提案を聞いてからなのは間違いない。
気付いていることはある。
使った覚えのないタオルが洗濯カゴに入っていたり、時々トイレットペーパーがミシン目じゃないところで切れていたり、ソファーでうたた寝した翌朝は必ずベッドで目覚めたり。細かい違和感はもっとある。日常の中に、あれ? と思うことは度々ある。
私は知っている。
けれど、それを認めてしまえば、昔話のように何かを選んで何かを諦めなければならないような気がして仕方がない。
タロン同様私も考え込んでいる。
悶々と考えているうちにあっという間に一週間が過ぎ、雨が降ることをどこかで期待しながらも水曜日は憎らしいほどの快晴で、タロンはいつも通り狩りに出掛けた。
迎えに来たお隣の息子さんは、先週の提案なんて忘れてしまったかのように今まで通りで、いつもと違っていたことといえば、身構えていた私に苦笑したくらいだ。本当に答えはいつでもいいらしい。
仕事の合間に読み解いた、山神様の祠に書かれていたたったふたつの意味。解読が正しければ、「結ぶ」や「繋ぐ」というような意味と「開く」や「解く」というような意味。背後に書かれていた劣化した文字は、やはり解読できなかった。もしかしたら、兄は何かを知っているのかもしれない。兄も古代文字の解読ができる。タロンに言っていた「無理に開くな」とは、これに繋がるのかもしれない。
わかりそうでわからない。何かを失いそうで誰にも訊けない。
羽衣は誰の手にあるのだろう。
「タロン」
膝を抱えてソファーに沈むように考えていた。何気なく呼んだ声に、タロンが目の前までやって来てお座りする。恐る恐る手を伸ばせば、彼からその首を差し出した。しがみつくように抱きしめる。
いくら考えたところできっと答えは出ない。いざというときは本能に従うまでだ。
「ずっと一緒にいて」
それだけは偽らざる本心。タロンの顎が肩にのる。
こんな時、言葉で伝え合えないことを不安に思う。一方的に伝えることができる私と一切伝えることのできないタロンでは、きっとタロンの方がもどかしいだろう。抱きしめる瞬間、タロンの瞳が揺れていたような気がした。タロンは何に迷っているのだろう。
その晩、ついに兄に連絡を入れた。さすがにこんなことを兄に相談するのはどうかと思ったけれど、兄以外に相談する人はどう考えてもいなくて、お隣の息子さんに言われたこととタロンとずっと一緒にいたいことを簡潔な文字にした。今どこにいるかわからない、それこそ時差のことも考えて電話ではなくメッセージを送る。翌朝には返信があることを祈って、タロンと一緒に眠りについた。
ゆっくり時間をかけて考えればいい。
それが兄の答えだった。お隣の息子さんと同じことを言う。そうかもしれない。タロンがいなくなったわけじゃない。今もここにいる。
「タロン、あの切り株まで散歩しようか」
うぉふ、と答えるタロンが何を考えているのか、少しでも知りたい。
三寒四温、今までならもうそんな時期に入っているはずなのに、ここではまだまだ冬のままだ。春は遠い。指先がかじかむ寒さの中、冬枯れの道なき道をタロンの背に導かれて歩いて行く。当然のように霧にのまれ、視界が白に閉じ込められる。
ふと閃いた。山神様の祠が真北にあるとすれば、きっとあの切り株は真南にある。
まるで鋭利な刃物ですっぱりと切られたか、丁寧に磨かれたであろう切り口。その周囲は苔むし下草に覆われているのに、あの切り株だけはきれいなままだ。落ち葉ひとつのっていたことがない。
ふわっと開けた視界には、落ち葉に避けられた切り株。もしかしたら、祠同様神聖なものなのかもしれない。
「ねぇタロン、今更なんだけど、あの切り株に腰掛けても平気?」
切り株に向かいながら訊けば、頷きが返される。タロンがいいと言うならいいのだろう。そう思うことにした。おそらくここはタロンの許可がなければ来られない場所だ。
色々考えて、訊くことをひとつに絞った。
切り株に腰かけると、タロンがすぐ目の前に座る。真っ直ぐな視線は、タロンも何か訊かれることがわかっていて、ここに連れて来てくれたのだろうと思わせた。
「あのね、もしこれから訊くことでタロンと一緒にいられなくなるなら、答えなくていいから」
それに小さく頷かれる。
飲み込んだ唾がごくっと鳴った。緊張する。こんなに寒いのに、手のひらに汗が滲む。すうっと息を吸い込んで、緊張のあまり吐き出すときに軽くむせた。心配そうなタロンに情けない思いでへらりと笑いかけ、気を取り直すようにもう一度、今度は慎重に深呼吸する。
「私は、タロンとずっと一緒にいられる?」
目の前にあるタロンの瞳が揺れた。
「もしかして条件がある?」
それには小さな頷きが返された。
「その条件は答えられない?」
これにも頷きが返された。
「その条件は、今のままの生活を続けること?」
再び瞳が揺れた。
「今のままじゃダメなのね」
頷かれる。
「その条件は……タロン側にある? 私側にある?」
最後の言葉で頷きが返される。そして、不意に額を舐められた。これ以上は答えられないのかもしれない。
「私がお隣の息子さんと一緒に生きることになったら、タロンはいなくなる?」
タロンの瞳が大きく揺れた。
「もしかして、一緒にいられるけど、タロンが嫌?」
ぐうっとタロンの喉が鳴った。
どうしてこんな気持ちになるのか自分でもわからない。
自分の思考がどこかおかしい気がするものの、素直に嬉しかった。
「私もタロンが私以外の人と一緒に住むのは嫌だな。私以外の人が触るのも嫌」
ぽろっと零れた言葉は素直で、タロンがどんな存在なのかも、何に惹かれているのかもわからないまま、それでも何ものにも代え難い存在だということはわかっている。
タロンは犬の姿をした何かだ。インプのように犬の頭を持つ人なのか、それともそれとは別の本来の姿があるのか。少なくともタロンと夢の中のタロン顔の男性が同一人物だということはわかっている。私の想像力が乏しいわけではないはずだ。それとも、想像力が乏しいからタロン顔のままなのか。
それを訊いてもいいのかがわからず、迷うくらいなら訊かない方がいいと口を噤んだ。
「どんなタロンでもいい」
小さく零したその言葉はタロンにちゃんと届いた。大きく長い耳がひくひくと震えている。
自分の気持ちを言葉にするのは難しい。犬に対する感情とも、人に対する感情とも違う。タロンという存在そのものがとても大切で何があっても失いたくない。
「ああ、あともうひとつ。兄は全て知ってる?」
これには、うぉふ、とはっきり答えた。兄は何者だろう。私の兄だけれど、得体が知れない。
「兄って何者?」
これにタロンは、あからさまに目を泳がせた。ただの犬じゃないとは思っているけれど、せめてもう少し犬っぽく振る舞って欲しい。思わず吹き出すように笑うと、額をしつこく舐められた。くすぐったくて笑いが止まらない。
タロンに関しては、何者であってもタロンがタロンであればそれでいいと思えるのに、兄に関しては突き止めたくなる。昔から何かと怪しかったのだ、兄は。
「もしかして、タロンに訊くのはナシだけど、兄に訊くのはアリ?」
それに小さな頷きが返された。そうだよね、大っぴらに「いい」とは言えないよね。
そうだ、昔話でも第三者から正体を明かされて退治したりしている。タロンは退治しないけれど。
「なるほどね、その上でお正月はすっとぼけていたってわけか」
つい、むっとした物言いになってしまった。タロンが宥めるようにおでこを舐める。
ふと気になった。
「もしかして、この痣って関係してる?」
再び目が泳ぐ。そうだ、タロンは元々カイロにいて、誘拐されるたびに私を見付けてくれた。その誘拐の理由が「ウアジェトの目」だと勘違いされた痣にある。
「この痣があるから、タロンは私のことを見付けられた?」
半信半疑というよりは半ば冗談で訊いたのに、ぐうっ、とタロンの喉が鳴り、気まずそうに目をそらされた。
うそでしょ。
妄想が現実になった。この痣は何かの印らしい。だからタロンはこの痣を舐めるのかもしれない。何かの印なら、せめてこんな目立つ場所じゃなくて隠れた場所にあればよかったのに。そんなどうでもよくも切実なことが頭をよぎった。
※インプ=アヌビス