月影奇譚
第二章 繋いで13 雪と痕と兄
あまりにも静かな目覚めに、一瞬、ここがどこだかわからないあやふやさに溺れかけた。ぺろんとおでこを舐められて現実の端を掴む。すぐそこにある琥珀色の瞳に心許なさが吸い込まれていった。
おはようの挨拶をした途端ベッドから飛び降りたタロンは、リビングの掃き出し窓のカーテンの隙間から外を熱心に眺め始めた。何事かと寝ぼけ眼で彼の後に続こうとして、いつになく冷え込み、しんと静まりかえっていることに気付く。
ベッドの足元にかかっていたブランケットを身体に巻き付け、あたたかい床をひたひたと素足で歩き、カーテンを開けた瞬間飛び込んできた目映さに、一気に目が覚めた。
「雪!」
思わず叫べば、珍しくタロンが「わふ」と吠えた。
ほんの数センチ、地面が見えそうで見えない程度に積もっている雪に年甲斐もなく興奮する。子供の頃から雪は特別だった。
「タロン! 私も一緒に朝の散歩に行く! ちょっと待ってて!」
急いで支度をする。これでもかと着ぶくれて、タロンと一緒に外に出た。
「さむ! さむ!」
雪が嬉しくて無意味に何か叫びたくなる。足跡が白い窪みになるほどには積もっていない。踏みしめたところから地面が見えてしまう。それが勿体なくてそれ以上歩き出せずにいた私の背をタロンが鼻先で押し出した。
「あの切り株の場所に行く?」
またしても、わふ、と吠えた。タロンも興奮しているのかもしれない。
見慣れるほどの年月を暮らしたわけではないけれど、それでも昨日とは違う景色が輝いて見える。
木の枝に積もる雪が時々その重みに耐えかねて、とさっ、と控えめな音を立てながら地に降りてくる。朝の光が白に反射していつもより眩しい。
「いつの間に降ったんだろうね。昨日の夜は雨も降ってなかったのに」
自分の声がはしゃいでいる。背に乗せた手のひらはタロンから伝わるぬくもりが温めてくれる。もう片方の手をポケットに入れ、カイロを持ってくればよかったと浮かんだ後悔も、あっという間に一面の雪景色に掻き消されてしまう。
霧の代わりなのか、風にのって雪が舞う。三百六十度、全てがきらきら輝いて見える。目映さに目を眇めながら、タロンに導かれてただひたすら白の中を歩く。まるで別の世界に迷い込むようだ。
目映さが徐々に薄れ、けれど白がどんどん迫ってくる。
歩けば歩くほど雪が少しずつ深くなり、足跡が白い窪みになって後ろから追いかけてくる。
躓かないよう足元だけを見て歩いていたら、不意にタロンが立ち止まり、顔を上げればそこは白銀の世界だった。
すごい。ほんの少し登っただけなのに、景色が違う。
いつも腰掛ける切り株にもこんもりと雪が積もり、ふかふかのクッションのような丸みを帯びている。
座ってみたい。けれど座ればお尻が濡れてしまう。きっと子供の頃なら気にせずはしゃぎながら座っただろう。大人になってしまったことがあまりにも残念で、悩ましいため息が白く煙った。
ぐるっと辺りを見渡す。真っ白だった。木の幹の茶色すら、白が反射していつもよりずっと薄く見える。
腰を屈め、タロンと目線を同じにする。タロンが見ている景色を見たくなった。
「うるわしいね」
そんな言葉がしっくりくるような景色だった。ほんの数十センチ下がった視線は、朝の光を受けてきらめく白がより一層迫り、憧れを抱きたくなるほど空が少し遠離った。
首にぐるぐるに巻いてきたマフラーをかぎ爪で引っ張られる。
「ちょっと、毛糸がほどけちゃう」
慌ててマフラーを緩めると、凍えそうな空気と一緒にタロンが首筋を舐めた。舐められたところが冷たい空気に触れてきんと冷える。さらにぐっと首元を寛げる。
「いいよ」
言った瞬間、首筋に甘く気怠い痺れが走った。タロンにとってこの甘噛みはどんな意味があるのか。首筋に残る真四角に四つ並んだ犬歯の痕が、日に日に濃くなっていく。
ふと、甘噛みしているタロンの身体が光って見えた。雪の反射でそう見えたのか、神秘に触れたような気がして、いつも以上にタロンの首を強く抱きしめた。
戻って来たら、家の周りの雪は日に照らされてきれいさっぱり消えていた。
ぬかるんだ地面を見て写真に撮っておかなかったことを悔やむ。
「そうかそうか、そんなに雪が嬉しかったのか。兄はちゃんと昨日の夜も連絡したよな、朝一で行くって。さすがに朝も早すぎて迎えに来てもらうのもどうかと思ってタクシーに乗ったら途中で下ろされるし、重い荷物持ってひたすら坂道登ってようやくたどり着けば、妹は雪にはしゃいで兄のこと寒空の下二時間以上待たせるし。俺凍死したの?」
「よくしゃべるね」
寝袋を持って兄が来た。
戻って来たら玄関の前で仁王立ちしている兄を発見し、雪を見に行った興奮をひとしきりぶつけ、そこでようやく兄が震えていることに気付き、家の中に入った途端、今度は兄が文句をぶつけてきた。震えからカチカチ歯が鳴っていて、申し訳なく思いつつ、率直な感想が口を衝いた。
タロンのためにぬるま湯を汲んでたらいに入れると、タロンより先に兄がお湯で指先を温めていた。
「お風呂入って温まる?」
「そこまでじゃない」
「ごめんね」
謝れば、濡れた手から雫が飛んできた。
「髪、似合ってる」
急に声から棘が消えた。しみじみと見つめられることに照れを感じ、その場から逃げ出してタロンを拭くための蒸しタオルを用意し持っていけば、先に兄の手が拭かれた。タロンが不満そうだ。ごめんねを言いながら、タロンの身体を拭く。少しだけ八つ当たりするようにおでこを鼻先で突かれた。思わず笑いながらその首に抱きつけば、兄の舌打ちが聞こえた。
「なぜ兄の前でいちゃつく? 俺よりこいつを優先する?」
「何言ってんの?」
「こないだまで俺の後くっついて歩いてたのになぁ」
「だから、何言ってんの」
「兄は淋しい」
「なんなの?」
兄に付き合っていると日が暮れる。足を洗ったタロンのたらいの湯を外に捨てに行き、足ふきマットとすっかり冷えた濡れタオルを洗面所に持っていく。天気がいいからついでに洗濯もしてしまおう。明日は朝からお隣さんが来て一緒におせちを作ることになっている。
「兄の歓迎会は?」
「は?」
後をついて回る兄が鬱陶しい。こんなに鬱陶しい人だったっけ?
「私朝ご飯まだなんだけど、兄も何か食べる?」
「食べる。俺も朝ご飯食べてない」
クッションに寝そべるタロンが、うるさそうにそっぽを向いた。
昨日作り置いた具だくさんお味噌汁に冷やご飯を入れて簡単雑炊にする。朝はゆるいご飯がいい。卵を溶き落として火を止め蓋をしたところで、兄がじっと見ていることに気付いた。
「なに?」
「ん、ちゃんとご飯作って食べてるんだなって」
「最初の頃はね、グラノーラとかレトルトとかそんなのばっかりだったんだけど、お隣さんからもらうお野菜がおいしいから、段々そういうのが口に合わなくなってきたっていうか……」
ちゃんと、という言葉が褒められているようで嬉しかった。
「お味噌もね、どこだったかのお宅で作っているとかで、わけてもらったの。ここはなんっていうか、昔ながらっていうか、みんな丁寧に生きている感じがするんだよね」
器に装ってテーブルに運ぶと、揃っていただきますと手を合わせる。
「この味噌旨いな」
「でしょ? だからちゃんと出汁も取るようになったんだよね」
へえ、っと感心したような声が嬉しい。
ここに来て、生きていることを実感する日々が続いている。それを兄に話せば、目を細め「よかったな」と子供の頃から変わらない陽だまりのような笑顔が返された。
「そうだ。今年もクリスマスのお菓子が届いたよ。兄の分も一緒にって贈られてきてるんだけど……半分はお隣さんにお裾分けした」
「よくもらってくれたな」
「なんか、見たことないどぎつい色がおもしろいって。奥さんが周りにも配りたいからってもらってくれた」
毎年クリスマスからお正月までをアメリカで過ごす祖父母からお菓子が送られてくる。これがもう、歯が痛くなるほどの甘いチョコレートやどぎつい色のマシュマロやキャンディーを面白がってこれでもかと詰め込んでくる。正直口に合わないものの、捨てるわけにもいかず、毎年兄と二人数ヶ月かけて平らげている。おかげで我が家にはバレンタインデーもホワイトデーもない。その頃になってもまだチョコレートもマシュマロも残っている。
「半分ももらってくれたのはありがたいな。残りは年明け会社に持っていくよ」
「会社の人もよくもらってくれるよね」
「ひとつやふたつなら苦にならないんだよ」
だよねー、と言いながら、今年送られてきた箱を見せる。これまたど派手な箱に入って送られてくるので、受け取るときに恥ずかしい。お隣の息子さんが持ってきてくれたときも、なんだこれ、と顔に書いてあって、ちょうどいいからと事情を話し、少しお裾分けさせてもらったところ、奥さんが面白がって半分もらってくれた。
その日は移動と年末の仕事の疲れか、一日ソファーでだらだらと過ごした兄は、寝る段になって愚痴愚痴言い出した。
「なあ、俺が寝袋でそいつがベッドっておかしくないか?」
「いい歳した兄妹で一緒に寝る方がおかしいでしょ」
タロンは素知らぬ顔でいつも通りベッドに潜り込んでいる。その隣に私も潜り込む。ぬくい。
「よく考えろよ、そいつと一緒ってとこが問題なんだろうが」
「自分が寝袋でいいって言ったくせに。やっぱりお隣さんからお布団借りればよかったんだよ」
「そうじゃなくてさ……」
いつまでもうるさかった。