月影奇譚
第二章 繋いで14 秘密と秘密と秘密
兄は毎日精力的に活動している。どこに出掛けているのかも何をしているのかも、のらりくらりと躱されて教えてくれない。お隣さん一家と一緒におせちを作っている間も、軽トラックを借りてどこかに出掛けていた。
大晦日と元日だけは家にいて、タロンを交えていつもよりおいしくて豪華なおせちで年越しをした。
初詣は正月二日の午前中と決まっているらしく、お隣さんと一緒に山神様の祠に詣でれば、なぜかすれ違う人たちがごく普通に兄と挨拶を交わしていることに首を傾げる。お隣の奥さんが年寄りと呼んでいた人たちとも親しげに話し込んでいる。
思わずタロンに、「怪しくない?」と耳打ちすれば、琥珀色の目がきらんと光り、にやりと笑ったような気がした。
兄やお隣さんたちに強く言われ、額を隠すことなく初詣に来た。縁日で顔見知りとなった人たちに怖々と挨拶すれば、まるでホクロかシミでも見付けたかのような、驚くほどあっさりした反応が返ってきた。額に痣があったのかと驚きはしても、気味悪がられるでも怖がられるでもなく、それを何かに見立てることなくただの痣として見ている。年寄りたちに至っては、まるで縁起物でも見たかのような嬉しそうな顔をされていたような気がする。お正月だからだろうか。
今までとあまりに違う反応に狐につままれたような思いがした。
「な、平気だっただろう?」
帰りの軽トラックの荷台で兄とお隣の息子さんが穏やかに笑っていた。誰もがなんの反応もしなかったことが信じられなくて、ずっとタロンにしがみついてぼうっとしていた。タロンが額を舐めるのを見た兄が渋い顔をしていたような気がしたけれど、正直あまり憶えていない。
「ねえ、兄は毎日何してたの?」
「挨拶回り」
だから、誰になんの挨拶回りをしているのかを訊いているのに。すっとぼけた顔を見る限り、話す気はなさそうだ。
「それって、ここにタロンを連れてきたことに関係してる?」
「そりゃあね。そいつを山に放つ許可をもらったし」
ふと気になった。
「兄はタロンの本当の名前知ってる?」
「お前がつけた名前だろう?」
「タロンはね。そうじゃなくて、その前の、元々の名前」
「お前がつけた名前がそいつの名前だよ。だろ?」
兄が最後にタロンに問い掛ければ、タロンはその通りだとばかりに、うぉふ、と答えた。
「兄は普通にタロンと会話してるよね」
「ああ、だって通じちゃうんだから、隠しようもないよな」
またよくわからないことを。タロンまで、うぉふ、と機嫌良く答えているし。どうせ訊いたところで誤魔化されるに決まっている。
「お隣さんたちもタロンが言葉を理解してること知ってるみたいだし」
「そりゃあ、お前が気付くくらいだから、みんなも気付くんじゃない?」
何気に馬鹿にされたし。
三箇日の最後、今日こそは教えろと詰め寄ったところで無駄だった。大袈裟にため息をつけば、にやりと笑い返される。
兄は明日の朝帰る。たった数日でリビングのラグ回りがすっかり兄の居住スペースに様変わりし、今はそれを元に戻そうと、夕食のあと荷物の整理を始めた。私はタロンと一緒にソファーの上から膝を抱えて兄が動き回るのを眺めている。
「兄さあ、結婚しないの?」
「できると思う?」
「秘密主義やめれば」
嫌味に、はは、とわざとらしい笑いを返したかと思えば、急に手を止め真顔になった。
「俺ってさ、そんなに顔濃い?」
「濃い」
がくっと項垂れた兄は顔が濃い。生粋の日本人なのに、エジプトで現地の人に間違われるくらい濃い。父も母も私も特別濃くはないのに、両親を濃いめに抽出すると兄になる。
「なに、顔が濃いってふられたの?」
「顔がうるさいって」
なんて残酷な言葉。的確すぎてフォローできない。生まれたときから見慣れている私はなんとも思わないけれど、他人から見ると表情筋が動きすぎるらしい。
「表情豊かな人が好きって人もいるよ」
「もし俺が結婚できなかったら、老後の面倒見てくれる?」
「いいけど……できるだけ努力して」
余程こっぴどく振られたのか、思いっきり落ち込んだ兄がタロンに愚痴っている。タロンはどっちかと言えばしゅっとした凜々しい系だから、きっと兄の気持ちはわかるまい。
「お隣さん親子も濃いといえば濃いよね。っていうか、この辺の人みんな濃いめだよね」
「あれは、まあ、そういう種族なんだよ」
種族ってなに。一族の間違いだろう。高校入学前までエジプトにいた影響か、兄は時々日本語がおかしい。
「俺もここに混ざれば目立たないのか……」
何を言い出すのやら。そんなにショックだったのか。ここに混ざっても兄の顔芸が薄れることはない。
「縁があって仕事があるなら兄も引っ越してくれば?」
「俺の仕事何か言ってみ」
「貿易商」
「ここに引っ越してきて仕事あると思う?」
冗談で言ったのに、ムキになって言い返された。顔だけじゃなく口もうるさい。兄妹だからこそ慣れと耐性があるけれど、夫となるとどうだろう……。ちょっと嫌かも。
「お前さ、ここに暮らすようになって、一度でもここから出たことある?」
何気なく聞かれ、そういえばと自分でも驚いた。
「ないかも。っていうか、ない。やだ、自分でもびっくりの引きこもり」
春先、ここではまだ冬の終わりに引っ越して以来、一度もここから出ていない。必要なものはネット通販で手に入るし、卵や牛乳などはここに住む牛乳屋さんが私の分もお隣さんに配達してくれる。新鮮な野菜はお隣さんがお裾分けしてくれる。
今まで感じることのなかった些細な季節の移ろいをはっきりと感じるせいか、毎朝リビングのカーテンを開ける瞬間が楽しみで仕方がない。陽射しを感じ、目映さに目を細め、風を感じ、その匂いを吸い込み、雨を感じ、木々の美しさを知る。日々小さな感動の連続だからか、新鮮さが勝って退屈さを感じる間もなかった。
「まあ、下りたところで何があるってわけじゃない場所だからなぁ」
「だよね。駅前とか閑散としてた」
なによりタロンを置いて出掛ける気にならない。さすがにタロンをタクシーに乗せて出掛けるわけにもいかないだろうし。
「私でも運転免許取れるかな」
「お前には無理だと思う」
清々しいほどきっぱり言われた。自分でもそう思う。運転しながらウインカーとかワイパーとか色々操作できる気がしない。あんな狭い空間にたくさんのスイッチがずらっと並んでいるなんて、目が回りそうだ。
「とりあえず、ゲームのコントローラ使えるようになってから考えろ」
つまり無理ってことだ。ゲームは苦手だ。
「じゃあな。また稲刈りには来るよ」
「田植えには来ないの?」
「その頃忙しいんだよ」
そんな言葉を交わし、兄は帰っていった。最後にタロンに、「無理に開くなよ」と意味のわからないクギを刺して。
「開くって何を?」
訊いてもタロンは答えてくれない。言葉が話せないって、こういうときは不便だ。
兄がいたのはたった数日なのに、いなくなった喪失感がすごい。稲刈りの時はお隣さんのところに泊まっていたせいかそれほどでもなかったのに、ただ眠るときに兄の気配があるかないかの違いが忘れかけていた一人の孤独を蘇らせた。
いつも以上にタロンの存在を感じたかった。いつも以上にタロンがそばにいてくれたような気がする。いつも以上に夢の中で甘えた気がする。いつも以上に甘やかされたような気がする。
子供の頃、兄と二人の生活に不満はなかったけれど、両親の不在に淋しさを覚えなかったわけじゃない。父は父で、母は母で、兄は兄でしかなく、兄が父にも母にも成り代わってはくれたけれど、兄は父でも母でもない。幼い頃はそれがわからなくて、兄に八つ当たりのような淋しさをまぶした癇癪をぶつけていた。
あの兄がただ黙ってそれを受け入れてくれるわけもなく、理路整然と両親の不在理由云々を冷静に話して聞かせたうえで、さあそれでも八つ当たりしたければすればいいとばかりに満面の笑みで両手を広げるものだから、泣きながらその腕に飛び込むしかなかった。言葉で八つ当たりできなくなった代わりに、涙と鼻水を兄の服にたっぷり染み込ませた。
そんな昔話をタロンに聞かせ、夢の中でも聞かせ、淋しさを紛らわせていった。
一人じゃなくてよかった。タロンの毛並みを感じながら、しなやかな身体に抱かれながら、しみじみ思った。