月影奇譚
第二章 繋いで12 ぼたん鍋と見合いと偽装
月に一度か二度、付かず離れずのちょうどいい間隔でお隣さん一家がキッチンを借りにやってくる。冬は農作業が一段落するせいか、それなりに趣味に時間が割けるらしい。
今日はぼたん鍋をごちそうになった。イノシシ肉が思っていたよりもずっとおいしくて、やっぱり「おいしいおいしい」を繰り返してしまった。
「お正月は実家に帰るのかい?」
お隣の旦那さんの問い掛けに、つい先日兄から送られてきた文字を伝える。
「いえ。兄がこっちに来るそうです。お布団ないのにどうするんだろ」
この家は来客を想定していない。だからこそのワンルームなのだけれど、そこに泊まりに来ると言い張る兄はソファーで寝るとふてくされていた。
子供の頃は年が離れていたせいか、当たり前のように兄のベッドに潜り込んでいた。何気に中学を卒業するくらいまでは兄にべったりだった気がする。私の小さな世界は兄を中心に回っていた。
だからといって、さすがにこの年で兄と一緒に寝るのは嫌だ。
「うちの客布団貸す?」
奥さんの提案に苦笑が浮かぶ。
「そうさせていただこうかな。一応兄に聞いてみますけど……最悪勝手にお布団買って送ってきそうで。押し入れないのに……クローゼットに入るかな」
「最悪ベッドを買って送ってくる気がするなぁ」
息子さんのからかうような声を慌てて否定する。
「やめてくださいよ、さすがに受け取り拒否します」
自分がブラコンだという自覚はある。こんなふうに兄の話を外ですることは極力避けてきたせいか、話せることが楽しくて仕方がない。お隣さんたちは私のブラコンを馬鹿にするでもなく、ごく当たり前に受け入れてくれる。
お隣さん親子はとにかく仲がいい。うちはどちらかといえば、父と母、兄と私がひとつの括りだった。両親がエジプトと日本を行ったり来たりしていたせいもあるけれど、家族四人で何かをするということがあまりなかった。兄は兄というよりも親代わりだった気がする。学校行事には常に兄が来てくれた。
お隣さんは家族三人でひとつの括りだ。そこに私とタロンを混ぜてもらう。ここでは私とタロンがひと括り。
「面倒だからうちに泊まってもらえばいいんじゃないかい? みんなでうちに来ればいいだろう」
お隣の旦那さんの提案はとっても魅力的だ。けれど、お断りする。すごく残念だけれど、毎年お正月は兄と二人、一緒に過ごすのが決まり事のように染み付いている。それもきっと兄が結婚するまでのことだ。
「あの人、結婚するかなぁ」
息子さんの心底心配そうな声に思わず同意する。兄は私が結婚するまでは結婚しないような気がする。その私は結婚する気がないのだから、ひいては兄も結婚しない。
「そもそも彼女とかいるんですかね? 私、一度も聞いたことないんですよ」
「それなりにいると思うけど……どうだろうなぁ。俺が知ってるのはずいぶん前の話だからなぁ」
そんな息子さんの声に、奥さんが「もてそうなのにねぇ」と呟けば、旦那さんが「あれは結婚に向くタイプじゃないだろう」とにやりと笑う。それに息子さんまでが同意して、みんなで声を上げて笑った。
「そうそう、結婚といえば、表の家からあなたにお見合いの話がきたんだけど、どうもね、年寄りたちと揉めているらしくて、一旦棚上げになっているの。正式に話が来たら断っちゃっていいのよね?」
面倒だと顔に出たのか、お隣の奥さんが話しながら笑っている。
「お断りしてください」
「どっちにしろ、正式な話も立ち消えそうなのよね。年寄りたちがいきり立っちゃって」
お隣の奥さんが聞いたところによると、私は山神様のものだから誰も手を出すな、とのお達しが出ているらしい。
「何言ってるんだって思うでしょ。でもまあ、年寄りたちがそう言うのもわからなくもないというか……」
お隣の奥さんが年寄りたちと呼ぶ齢百を超えようかという長老のような人たちがまだ子供の頃、山神様がお隠れになったらしい。それ以来、女の子が生まれなくなったのだとか。そもそもここでは第一子は必ず男の子が生まれるらしい。そっちの方が不思議に思える。
「たまたまだと思うんだけどね。ポチを山で見かけるようになった途端、女の子が生まれちゃったもんだから、もう大変」
奥さんが面白おかしく話すのを、一緒に笑いながらも真剣に聞いた。
「そのポチが懐いているあなたは山神様のものだからって、うちにまで手を出すなって言ってくる始末なのよ」
ここに住む人たちは山神様との縁を大切にしている。その縁のおかげで、家が絶えることなく続いているのだとか。どんなときでも飢えることなく、誰一人事故に遭うことなく、大きな病気になるでもなく、連綿と寿命を全うしているそうだ。誰も彼もが大往生。
「すごいですね」
「でしょ、嘘みたいな本当の話なのよ、これが」
それが、山神様がいなくなった途端、事故に遭うわ、大病になるわ、突然死するわで、大わらわだったそうだ。私たちにとってそれは確率の問題で当たり前に起こり得ることだけれど、それまでとの違いをまざまざと感じた年寄りたちの絶望感は半端なかったらしい。それがタロンが来た途端ぴたりとなくなったというのだから、騒ぎたくなるのもわからなくはない。
タロンは元々この山で生まれたわけじゃない。カイロから兄が連れてきたことはお隣さんも知っているはずだ。それを言えば、お隣の奥さんも難しい顔をする。
「年寄りたちもね、知ってるのよ、それ。その上で、山神様だって崇めているの。わけわかんないでしょ?」
からからと笑うお隣の奥さんにつられるように、旦那さんと息子さんも笑う。けれど、二人の目は笑っていなかった。何かあるのかもしれない。
タロンは知らん顔だ。自分のクッションに顎をのせてぬくぬくの床で寝そべっている。聞こえているはずなのに、一切反応しない。長く大きな耳がぴくりとも動かない。それが少し不自然で、ますます疑わしい。
かなり疑わしいけれど確かめない。私は知らないふりをする。
「でも、私はタロンと一緒にいられればいいって思ってますから、あながち間違ってもいないような……どっちかと言えば、都合がいいような気がしますけど」
「そう言うと思った。だから私も否定しないで黙ってるのよ。うちもこんなふうに仲良く付き合っていければいいなって話していたところだから」
奥さんの言葉に嬉しくなる。
「それでも面倒になったら、うちの息子と偽装結婚しちゃえばいいのよ」
どうやら最近見ていたドラマのテーマが偽装結婚だったらしい。呆れた息子さんに暴露されていた。
そのあとはいかに偽装結婚を成功させるかをなぜかみんなで真剣に考えた。間違いなくみんないい感じに酔っていた。最終的には、どちらかに愛が芽生えたらお終いなのよ! でもそれがロマンなのよ! と力強く主張する奥さんの言葉で締め括られた。
ふわふわと心地よい酔いに浮かれながら、奥さんと一緒に食器の下洗いをする。この家には食洗機まで備え付けられているので、後片付けも楽だ。
「偽装結婚のこと、考えてみて」
耳打ちされた瞬間、一気に酔いが醒めた。一瞬タロンに目を向ければ、そっぽを向きながらも耳がひくひくと動いている。
「共同生活のパートナーとしてでいいの。少し考えてみてくれる?」
奥さんとしても息子さんの先が心配なのかもしれない。今は離れているというお子さんのことも一因かもしれない。それでも、本人から言われない限り、応えようがない。
曖昧に笑って誤魔化せば、複雑な表情のまま口元に無理矢理笑みを浮かべた奥さんは話題を変えた。
「山神様にも寿命ってあるのかな」
夢の中で呟けば、抱きしめる腕の持ち主が肩をすくめた。
「タロンが私より先に死んじゃったら嫌だな」
ぺろんぺろんと額を舐められた。ゆっくり何度も舐められているうちに、慰められているのだと気付く。
「いなくならないで」
首を甘噛みされる。
夢の中では子供のように思っていることがぽろぽろと零れ出る。
はあ、と吐き出す息にせつなさが宿る。
繋がれた手に力がこもった。