月影奇譚
第二章 繋いで
11 スイッチとオーブンとショートヘア


 このところタロンの機嫌が悪い。原因はエアコンの風だ。人工的なあたたかい風がどうも苦手らしい。
 ぐっと冷え込んできた昨今、昼間はまだしも朝晩は暖房なしでは過ごせない。

 そんな話をお湯を沸かしながらお隣の息子さんにしたところ、訝しげに眉をひそめられた。
 秋に兄が来て以来、お隣の息子さんはウッドデッキではなく家の中で珈琲を飲むようになった。兄を間に挟んだ途端、お互いの存在が馴染んだ気がする。兄はそんな作用をもたらす人だ。
「ここには床暖房が入っているだろう」
 なぜ知らないのか、と訝しげな顔で言われ、聞いていなかった、とぼそぼそ答える。逆になぜ知っているのかを訊けば、この家をリフォームしたのはお隣さん親子だと聞いて驚いた。

「ここに住むものは大抵手に職を持っているんだ」
 お隣さんは大工さん、ほかにも建具屋さん、石屋さん、金物屋さん、お医者さん等々、大抵のことは山を下りずとも事足りる程度の職種が揃っているらしい。田畑に狩りもやっているから専業農家だと思っていたら、ここに住む人たちはみんな兼業農家らしい。お隣の奥さんは美容師さんだと聞いて、ついでのように予約をお願いした。

「これがスイッチ」
 教えられたのは、これなんだろうと思っていたリモコンパネル。ワンルームに改装されているこの家のほぼ全てのスイッチが集結する場所に存在していた。あまりにスイッチがたくさんあって、それがどれだかわからず匙を投げ、普段使うものにはマスキングテープを貼ってわかるようにしていた。

「普段使っているのが中央の照明だけってことか? そういえばこの間も暗かったな」
「たくさんあってどれがどれだか……」
 ほんの少しだけ呆れた顔をしながら、昔ながらの真鍮っぽいつまみを上げ下げする。アンティークっぽいそのおしゃれなスイッチは全て照明のオンオフ、これが給湯、これが空調で……と説明される。慌ててマスキングテープを持ってきて、言われた通りに書き込みながらそれをぺたぺた貼っていく。
 ひとつひとつ確かめればどれかが点くのだからぱちぱちしてみればいいものの、面倒でいつも決まったスイッチだけを使っていた。

「風呂の温度が三十八度って、温くないか?」
「あ、温いと思ってました」
 思いっきり呆れた顔をしながら温度設定を上げてくれた。苦手なのだ。こういった類いが。

「パソコンは使えているのに……」
 それは全て兄が設定してくれるおかげだ。何かあれば兄がリモートで解決してくれる。
「兄は得意なんですけどね、私は苦手で。触ると大抵さらに悪化するので、基本触らない方向で」
 だから、コーヒーメーカーではなくハンドドリップなのだと珈琲を淹れながら話せば、なんともいえない顔が返された。

 そんなわけで、せっかく用意されている業務用っぽいオーブンも使いこなせていない。常に温度は二百度、時間は二十分の設定のまま、張り付いて様子を見ながら焼いている。それを話したら、「勿体ない!」と珍しく大きな声を出された。
 どうやらお隣の息子さんは料理が趣味らしく、この家のオーブンはずっと使ってみたいと思っていた外国製らしい。道理で見慣れない感じだと思っていたのだ。だから余計に手が出せなかった。

「よかったら、使ってください」
「いいのか?」
「つまみ食いさせてもらえれば」
 それに満面の笑みが返された。ここまでの笑顔は見たことがない。それほど嬉しいのだろう。
 クッションに伏せて様子を窺っていたタロンが顔を上げ不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「じゃあ、週末にでも。家族揃ってお邪魔させてもらうよ」
 それに私が応えるよりも先に、タロンが「うぉふ」と了承した。



 驚いたのは、お隣の息子さんだけじゃなく旦那さんも嬉々としてキッチンに立っていることだ。
「任せておけばいいのよ、きちんと後片付けもできるから心配ないわ」
 そうお隣の奥さんが自慢気に笑っている。

 二人がキッチンに立っている間はすることがないからと、お隣の奥さんにウッドデッキで髪を切ってもらった。分厚かった前髪の理由に、「そんなこと気にしてたの? 正直ちょっと変だと思ってたのよ」と笑われながらハサミを入れられる。

 大胆に切り落とされていく髪を、私以上にタロンが不安そうに眺めていた。

 無意味に伸ばしていたロングヘアがなんだかおしゃれなショートヘアに変わった。様子を見に来た旦那さんに「ずいぶんばっさり切ったな」と感心されるほどだ。鏡に映った自分が自分じゃないみたいで、どれほど見ても飽きない。なんだか生まれ変わったような気がして、不思議な高揚感に包まれる。

「気に入った?」
「はい! 初めてなんです、こんなにおしゃれな髪型」
 いつだって分厚い前髪で額を隠す、こけしみたいな髪型だった。
「うん、かわいくなった。私も満足!」
 お隣の奥さんがカットされた髪を箒で掃き集めながら朗らかに笑う。これでカット代二千円だなんて信じられない。
「お店を持っているわけじゃないから、そのくらいで十分なのよ」
 何度もお礼を言えば、「またのご利用をお待ちしております」とにこやかな笑顔をもらった。

「似合う?」
 タロンに訊けば、神妙な面持ちで頷かれた。いつもと違う反応に戸惑っていると、お隣の奥さんがにやりと笑う。
「惚れ直した?」
 それにタロンがなんとも中途半端な感じで、うぉふん、と答えた途端、お隣の奥さんが声を上げて笑い出した。
「きっとうちの息子も同じような反応すると思うよ」
 その予想通り、お隣の息子さんも落ち着かなそうに目をそらしながら「似合ってる」と、少しどもり気味に答え、奥さんに大笑いされていた。逆に旦那さんはこれでもかとお褒めの言葉を並べてくれた。
 嬉しくて照れくさくて、心がふわふわと舞い上がる。

 出来上がった料理は、一言で言えばフランス料理みたいだった。確かジビエはフランスが本場だと聞いたことがある。私に合わせてなのか、キジ肉を料理してくれた。
「おいしい、すごくおいしい」 
 ほかに言うことはないのかと自分でも呆れるくらい、同じ言葉を繰り返した。シンプルな味付けは私が作るものと同じはずなのに、焼き加減なのか塩加減なのか、とにかくおいしい。
 親子はしきりにキッチンの使いやすさについて話している。二人がリフォームする際、キッチンに関しては任せてもらったのだと聞き、そういえば祖父母は食べることにさして関心のない人だったことを思い出した。うちの家族でいえば、兄が一番食べ物にうるさい。というか、兄は全てにうるさい。この家のリフォームも最終的には兄の監修のもと施工されたらしい。兄……何もかも知っていて黙っているとは……。

 お隣の旦那さんも奥さんも息子さん同様、額を見ても特に何の反応もない。むしろ見えていないんじゃないかと思うほど、見事にスルーされた。
 兄の言う通り、ここは楽だ。心がどんどん軽くなる。傷みがどんどん癒えていく。



 みんなが帰ったあと、タロンと一緒にソファーでほんの少し前の余韻に浸る。
 タロンがソファーにのるとその大部分が占領される。端に腰掛け、タロンの顎を膝にのせ、その首の毛に指先を埋める。

 少し酔ったのか、何もかもがふわふわしている。お隣さんがワインまで用意してくれ、まだあまりお酒を飲んだことがないからと、少しだけいただいた。初めて飲んだワインは、おいしいのかおいしくないのかすらよくわからなかったけれど、なんだか大人の気分にさせてくれた。
 お風呂に入ったせいで酔いが回ったのかもしれない。短くなった髪は、あっという間に乾いた。シャンプーがとにかく楽で、おもしろくてついがしがし洗った。

「タロン」
 意味もなく呼べば、「ん?」と喉の奥で答えるような音が返される。いつの間にか抱き込まれていた肩から伝わる手のひらの熱に心も身体もほぐれていく。
 寄りかかれば、抱き寄せられる。
 ああ、眠ってしまったのか、そんなことを思えば、ゆらゆらと揺れ始めた。抱き上げられ、月明かりに浮かぶベッドに運ばれる。ぎゅっとしがみつけば、ぎゅっと抱きしめ返される。
「ありがと」
 それにも、「ん」と返され、おでこをぺろんと舐められる。タロン顔が顕わになった首筋を舐める。抱きかかえた頭から首にかけて指を滑らせた。首の付け根まで続くなめらかな毛。人の髪のように境目がはっきりしていないんだな、そんなどうでもいいことを思いながら、幸せな微睡みに沈んでいく。