月影奇譚
第二章 繋いで10 誘拐と神奈尾とバツイチ
木々が色付き始めた。まだ初秋といってもおかしくない時期なのに、ここではすでに中秋か晩秋の気配が漂っている。
「この分だとあっという間に冬になりそう」
何の気なしに呟けば、タロンも気のない素振りで、うぉふ、と答えた。
陽射しが和らいだ縁側のガーデンチェアにブランケットにくるまりながら座り、タロンと一緒に少し休憩。
新しく入った仕事が完全に行き詰まった。珍しく祖父から依頼された下訳の仕事は、近年新たに発見されたものらしい。これがずいぶんと文字を崩して書かれており、解読に時間がかかっているようで、私にまでその依頼が回ってきた。絶対に字が下手な人が書いたものだ。そう八つ当たりしたくなるほど、遅々として作業が進まない。
それを祖父に愚痴るついでにどうしてこの家を買ったのかを訊いてみたら、なんと兄に勧められたらしい。しかも、兄とお隣の息子さんは知り合いらしい。なにやら兄の思惑が透けて見えそうで嫌だ。
兄は私にフラットだ。家族の中で唯一、いや、人間の中で唯一かもしれない、私の額を見ても何も思わない人だ。兄以外は家族ですらどうしても視線にさまざまな感情が含まれる。兄だけは、そこに目や鼻があるのと変わらない、タロンと同じ視線をもつ。
そんな兄が身近にいたから、きっと私は自暴自棄にならずに済んだのだと思う。
カイロにいた頃、何度も誘拐されかけたらしい。私はあまり憶えていないけれど、額を見たカルトやサイコな人たちに誘拐されかける度に兄の機転で難を逃れてきた。「ウアジェトの目を持つ女の子」そんな恥ずかしい異名がつけられていたと、いまだにからかわれる。
神の目を持つというのであれば、もっと御利益があってもよさそうなものだが、いまだかつて災いしかもたらしてくれない。
思春期の頃、「これはきっと何か特別な印だ」と自分を慰めてきた現実逃避の忌々しい記憶は、絶対に兄には秘密だ。死ぬまでからかわれる。兄は恥ずかしげもなく「俺は別の世界の使者だ!」とトチ狂ったことを言っていたけれど。若気の至りは恐ろしい。
年の離れた兄は言う。お前の場合は一人では生きられない、寄りかかることができる存在を死ぬ気で探せ、と。
私が高校に入る頃、兄は私に一人でも生きていけるよう、今の仕事の足掛かりを作るために両親を説得し、私に簡単な仕事を始めさせた。おかげで今の私がある。
「ねえ、タロン。寄りかかってもいい?」
それにタロンが頼もしく、うぉふ、と答えてくれた。わかっているのかいないのか。
その兄が訪ねてきた。しっかりお隣の息子さんに駅まで迎えに来てもらったらしい。あの裏門を通らず、裏道からここまで歩くことなく車でたどり着いたと聞いて、ずるい! と思わず文句を言った。
「知り合いだったんですね」
こそっとお隣の息子さんに訊けば、ばつが悪そうな顔で兄が学生時代のバイト先の先輩だったことを教えてくれた。
「お前、当たり前にいるな」
兄がタロンに向けて放った言葉に首を傾げる。
「兄、タロンのこと知ってるの?」
「知ってるも何も、ここに連れて来たの俺だもん」
「もしかしてタロン、カイロにいたの?」
驚いて声が裏返る。当然とばかりに頷かれた。
「誘拐されるたびにお前を見付けてくれたの、こいつなんだよ」
驚きながらタロンを見れば、うぉふ、と大威張りで答えた。心なしか胸を張っているように見える。
「一足先にお前が日本に戻った後、こいつが大暴れで、こいつが住めそうな場所見付けるのに苦労してたら、この山のこと聞いて、一か八かで連れて来てみたら棲み着けたってわけ」
なんだか含んだ言い方が気になる。
「兄、何か知ってるの?」
「知ってる。けど、上手くやってるんだろう? ならそれでいい」
きっぱりと言外にこの会話の終わりを告げられる。こうなった兄は頑なだ。絶対に教えてくれない。しかも来たばかりですでに帰ろうとしている。何しに来たのか。
「もう帰るの?」
「今日は下に泊めてもらうことになってるんだよ。また明日来るから」
下とはお隣さんのことらしい。毎年お隣さんの稲刈り時期に来ては手伝い、その見返りに新米を貰うことになっているらしい。
「タロン、私のこと知ってたの?」
ゆっくりとした瞬きで応えられた。
私にタロンの記憶はない。家に棲み着いていた臭い犬とは毛の色も大きさも違う。カイロには野良犬が多くいて、正直ほかの犬のことなど憶えていない。
秋の月はとても美しい。ずっと晴れの日が続いているせいか、月の満ち欠けが毎夜楽しみで仕方がない。ベッドから見上げる天窓から降り注ぐ月明かりは神秘的ですらある。
「憶えてなくてごめんね」
すぐ隣に伏せているタロンの顔が近い。ぺろんとおでこを舐められた。
夢の中でも謝れば、タロン顔の頼れる身体の持ち主が、同じようにおでこを舐めた。
翌日の夕方、お隣の息子さんと一緒に再びやって来た兄は、慣れない労働のせいかぐったりしていた。
「これで米三十キロもらえるんだ」
そのために夏期休暇をここで使っているらしい。兄は頻繁に出張で二週間程家を空けることが多かったため気付かなかった。
「兄、って呼ぶんだな」
思わずといった感じで呟いたお隣の息子さんは、いつもの作業用のツナギとは違い、ジーンズにシャツを羽織ったラフな姿だ。すでに二人ともお風呂に入ってきたとかで、お隣の奥さんが持たせてくれたというお総菜をローテーブルに広げ、ソファーにどかりと腰をおろし、勝手に乾杯し始めた。私はマイペースに自分のご飯を作って食べる。
二人と向かい合うようにラグの上に座っていたら、タロンが自分のクッションを前足で半ば転がすように持ってきてくれた。ありがたく借りてその上に座る。傍らに伏せたタロンの顎が膝にのる。
「うちの父の変なこだわりでさ。こいつが日本の小学校でお父さん、お母さんって単語を覚えてきたときに、何を思ったのか、おちちさん、おははさんって呼び始めて、父が涙目で後悔してたよ。でかい声で『おちちさーん!』って満面の笑みで叫んでたし」
そんなこともあったっけ。お隣の息子さんの呆れた顔がせつない。かすかな振動が膝に伝わってきて、タロンが笑っているような気がした。
ふと気付くと、じっと兄に見られている。かと思ったら、急に立ち上がり、おでこに貼ってあったテープを剥がされた。不意打ちに抵抗する間もなく額に痛みが走る。お隣の息子さんの目が見開かれた。
「なにすんの!」
人が必死に隠してきたのに。立ち上がったタロンが唸る。
「大丈夫だよ。ここに住んでる人たちは」
意味がわからなくて額を押さえ、俯いたまま涙が滲む。もうここにもいられなくなる。お守りのブレスレットを握りしめ、そういえばこれは兄からもらったものだったと、その手を離した。バカ兄。頭の中で罵倒する。
「さすがに兄とはいえ、女の子の秘密を断りもなく暴くのはどうかと思いますよ」
お隣の息子さんの静かな抗議に、兄が肩をすくめているのが目の端に映る。
「ほらな。それ見ても何も思わないんだよ、ここの人は」
恐る恐る顔を上げると、兄が言った通り、いつもと変わらない視線がそこにあった。驚くより信じられなくて、兄とお隣の息子さんへの視線が行き来する。
「神奈尾に住んでいる人たちは、普通の人とは違うんだ。だから、お前をここに連れてくるよう俺が仕向けた」
神奈尾とはこの山のことだ。ここの住所も神奈尾。
「普通の人と違うって?」
「なんだっけ、縁があるかないかなんだろう? ここに住めるかどうかって」
そう聞いている。頷けば、「そういうこと」と答えになっていない答えが返された。
「なにそれ」
「お前、ここに住んでいて楽だろう?」
それにも頷いて応えた。隣できっちりお座りしているタロンに思わず手を伸ばす。その背に手を置けば、おでこを見られたときから続いていた混乱は、潮が引くように収まっていく。
「こいつがバツイチなのって聞いた?」
こいつとはお隣の息子さんのことだろう。初耳だったので驚いてただ首を振る。
「奥さんをここに連れて来ることなく結婚して、子供までできて、いざ実家に家族を連れて戻ってみれば、奥さんはここに縁がなかったとかであっさり離婚したんだよ」
「忙しくてなかなか連れて来られなかったんだ。まさか縁がないとは思ってなかったから……」
息子さん自体も、縁があるなしは半信半疑だったらしい。
「子供は今奥さんの方にいるんだけど、最終的にはここに戻ってくる」
お子さんはきっとここに縁があるのだろう。
「なんで兄がそんなに詳しいの?」
「本当はこいつとお前が一緒になればいいのにって思ってたから。高校卒業するときに紹介しようと思っていたのに、その前に結婚された」
思わず呆れて兄を見れば、悔しそうな顔で一瞬タロンに視線を投げ、次にプライベートを断りなく暴かれてなんとも言えない表情をしているお隣の息子さんに視線を移し、戻って来た視線とかち合う。
「まあ、仕方ないよな。俺の思惑通りにはならなかった」
タロンがそんな兄を馬鹿にするように、ふん、と鼻を鳴らし、再び床に伏せ膝に顎をのせる。
「人の感情が思い通りになるわけないでしょ」
タロンの首に手を回し、毛の感触を楽しんでいると、兄が大きく息をついた。
「いやさ、普通は人を選ぶだろう」
いまいち意味がわからなくて首を傾げる。眉間に皺が寄ったせいで、さっき無理にテープを剥がされた場所が少し痛んだ。
「まあ、仕方ないのかなぁ。仕方ないじゃ済まないよなぁ」
酔っているのか、しきりにそれを繰り返す兄。お隣の息子さんは何も言わず黙ってグラスを傾けていた。