Whisper Voice
第五話


 初日に会えるとは思っていなかった。会えたらいいとは思っていたが。でも、こう何日も会えないとは思ってもいなかった。
 小鳥遊が勤務しているであろう結婚式場の裏口。
 出待ちして既に一週間は過ぎた。

 まさか表から出入りしている訳じゃないよな。勤務時間の読みが外れたか──。そこまで考えて思い付いた。翔悟を抱えているなら社員じゃなくてパートの可能性もあったのか。今翔悟いくつだ? あれから六年、当時年中だったから……今は小学五年生になっているはずだ。だとしたら、学校が終わる時間には家にいる可能性もある。十七時から出待ちしていて出会う訳がない。
 こういう時、社会人経験がないのが悔やまれる。大学在学中にデビューすることになったせいで、おまけにそこそこ売れたせいで、就職することなく文筆業者となってしまった。

 もういっその事、中の人に呼び出して貰おうか。そろそろ不審者扱いされている気がする。
 悶々と自転車に跨がりながら考えていたら、不意に声をかけられた。
「お兄さん、ちょっといい?」
 ……考えたそばからこれか。



 ────◇────



 夏休み最初の土曜日、記念公園のバーベキュー場に集まったクラスのみんなに近付いた途端、人見知り中の翔悟がじいちゃんの背中に隠れる。すっかりじいちゃんにも懐いている翔悟に、じいちゃんも満更ではなさそうだ。



 数日前、サザエが七輪で焼かれていくのを、それはもう目を輝かせて小鳥遊姉弟は見ていた。サザエ提供の隣の爺さんも「こんなに喜んでくれるなら、今度はハマグリも買ってこよう」と嬉しそうで、ついには「翔悟、今度一緒に釣りに行くか?」と誘い出す始末だ。翔悟もじいちゃんと雰囲気の似た隣の爺さんにあっという間に懐いて、その厳つい背によじ登り甘えている。
「おじいちゃんって存在が翔悟には珍しいんだと思う」
 じいちゃんたちに纏わり付く翔悟を「ごめんなさい」と小鳥遊が引き離そうとするのを、じいちゃんたちは「好きにさせていい」と、むしろ楽しそうに翔悟を構い倒している。
 小鳥遊が言うには、両方の祖父母とは折り合いが悪いらしく、父親の葬儀以来会っていないらしい。うちも父方の祖父母とは会うこともないからそんなものかと思う。

 サザエが焼ける頃を見計らったように颯太と吉井が顔を出し、再び人見知り全開の翔悟を今度は颯太が構い倒す。



 颯太と吉井の姿が目に入ったのだろう、翔悟が大きな声を張り上げる。
「そぉーたぁ、こまちゃーん」
「翔悟。今日は寝るなよ」
 サザエの壺焼きでお昼を食べたあと、再び颯太はサザエの蓋を宝物のようにぎゅっと握ったままこてんと寝た。そのことを言っているのだろう颯太に、「ねないもん!」と口を尖らせ言い返している翔悟を見て、こまちゃんと呼ばれるようになった吉井が声を上げて笑っている。
「きょうね、よっちゃんがスルメだって」
「マジで。こないだのスルメ、あれめちゃめちゃ旨かった」
 そうだろう、とにこにこ笑っている隣の爺さんは、俺も含めみんなによっちゃんと呼ばれている。うちのじいちゃんはなぜかみんなもじいちゃんと呼ぶ。

 クラスのみんなに、「本日の焼き職人です」と颯太がじいちゃんたちを紹介すると、妙にテンションが高くなっているみんなが、俺の自転車の後ろに積まれた備長炭と書かれた箱を見て奇声を上げる。その傍らで、須藤が弟を連れて来て、翔悟と引き合わせ、ついでのように近寄ってきた担任からも、家族を連れて来たのか奥さんと男の子を紹介された。担任の息子も翔悟と同じ歳らしい。
 じいちゃんたちと挨拶を交わす担任までもがテンション高めで、こんな風に生徒に誘って貰えることは今までなかったと、じいちゃんに照れくさそうに話している。

 うち、颯太、担任、須藤のところから持ち込まれた四つのバーベキューセットを並べ、じいちゃんたちが次々と火を熾していく。惜しげもなく使われるそれなりの値段がする備長炭は、食べ盛りの高校生にはもったいない気がしてしまう。じいちゃんの口癖は「どうせなら旨いもん食おう」だから、仕方がない。

「この炭で焼くとめちゃめちゃ旨いんだよ」
 炭を並べている横で、颯太が自分の事のように自慢する。真似した翔悟まで「いいすみなんだよ」と自慢気だ。
 クラスのヤツらはじいちゃんや担任が参加していてもあまり気にしていない。大人の介入を嫌うヤツらの方が多いと思うのに、むしろ面白がっている感じもする。
 面白いクラスだなと、みんなの様子を眺めていたら、隣から綺麗な音で「高岡君、手が止まってる」と注意された。やばいな。小言すら可愛いとは。見下ろした小鳥遊がちょっとむくれているところもまた可愛い。

 小鳥遊がじいちゃんやよっちゃんを甲斐甲斐しく手伝う。今日の手伝いと荷物運び頼む代わりに、バーベキューの参加費はじいちゃんが払ってくれることになった。最初は遠慮していた小鳥遊も、今朝うちに来て用意されていた荷物の多さに納得してしまったらしい。特に一番嵩張る炭の入った箱を自転車の荷台にくくりつけ、すっかり足の調子もよくなったと言う小鳥遊とじいちゃんで、手分けしてバーベキューセットを運んできた。
 よっちゃんに肩車された翔悟はとにかくご機嫌で、多分また食ったら寝るだろう。それを見越して、よっちゃんが丸めたシェラフを背中に背負ってきている。

 肉や野菜は吉井や小島たち女子が手分けして用意し、男は重い飲み物や日陰用のタープを用意している。数が足りなかったのか、ピクニックシートをタープ代わりに使っていた。風に揺れるカラフルなピクニックシートを通った光が、メルヘンな雰囲気を醸し出していて、喜んだ女子たちが設置したヤツを褒め、褒められたヤツは照れたように笑っている。見ているだけで和む。

 食べやすくカットされた肉や野菜が鉄板や網の上に並べられていくのを、翔悟たち子供がそれはもう好奇心一杯に目で追っていく。ふと見れば、小鳥遊まで好奇心を隠していない。
「もしかして、バーベキュー初めて?」
「翔悟は。私は子供の頃に一度したことがあるはずなんだけど、あんまり覚えてなくて」
 じいちゃんに何度も「まだ?」と聞いている翔悟は、手に持つ紙皿に入ったタレが零れそうになっていて、よっちゃんに取り上げられている。
 こういう時にまとまりがないっていうのがよく分かる。焼けたそばからみんな勝手に肉に食らいついた。乾杯も何もあったものじゃない。それでもなんとなくまとまった感じがしているのが面白いと言えば面白い。

 じいちゃんたちが翔悟の相手をしているせいか、小鳥遊も肩の力が抜けて楽しそうだ。綺麗な音が「おいしい」「たのしい」「すごい」「うれしい」を何度も何度も奏でている。その横で俺は、何度も何度も「かわいい」を脳内で繰り返していた。
 シンプルなカットソーから覗く鎖骨とロールアップしたデニムの裾から覗く足首。小鳥遊のポニーテールが左右に揺れ、思わず掴みたくなるのを何とか堪える。白く細い首筋を流れる汗が色々やばい。誰にも見られたくなくて、思わず首にかけていたタオルで彼女の首元を隠した。
「いいの?」
「汗臭かったらごめん」
 ありがとう、とタオルで汗を拭う仕草がまた……。俺、本当に待てるのかなぁ。夏だなぁ。思わずうんざりするほどに照りつけてくる太陽を、タープの隙間から見上げた。
 隣にいる小鳥遊の心底楽しそうな笑顔が、照りつける太陽以上に俺の目を焼く。



 まさか、これが小鳥遊の笑顔を見た最後になるとは、この時の俺は欠片も想像できなかった。
 この先も当たり前のようにこの笑顔を見られるものだと思っていた。
 どうやってこの笑顔を再び引き出そうかとすら考えていた。
 翔悟と一緒にプールにも連れて行ってやろうとか、じいちゃんと毎年行く恒例のキャンプに連れてってやろうとか、そんなことばかり考えていた。
 楽しい夏休みの計画しか、思い浮かばなかった。



 バーベキューの帰り、すっかり眠りこけてしまった翔悟を背負ったじいちゃんと一緒に、先に小鳥遊の家によって帰ることになった。よっちゃんもそれに付き合ってくれる。
 隣を歩く小鳥遊は、疲れを見せながらも楽しそうで、じいちゃんから「一緒にキャンプに行くか?」と誘われていた。よっちゃんまで「今年は俺も行こうかなぁ」と翔悟を見ながら笑っている。よっちゃんも来るならオートキャンプも出来る。よっちゃんちの車はミニバンだ。近くに温泉のあるキャンプ場なら、よっちゃんの奥さんも一緒に行くだろう。小鳥遊のお母さんも一緒に行けるといい。

 小鳥遊の家に着き、翔悟を起こすことなく家の中に運んでしまおうと、小鳥遊が玄関の鍵を開け、扉を開けた瞬間、饐えた独特の匂いが漂ってきた。思わず小鳥遊を腕に抱き込み、扉を閉める。
「よっちゃん、ごめん、中確認して」
 元警察官だったよっちゃんは、俺の気配に何かを察したのか、黙って一人で扉の中に入っていった。
「なに? どうしたの?」
 こんな時でも綺麗な音に、どうしようもない思いが込み上げる。答える代わりに抱き込む腕に力を入れた。過去に一度嗅いだことのある、忘れることの出来ない独特の匂い。
 じいちゃんに目を向けると、じいちゃんの目がゆっくりと見開かれていった。



 アブラゼミの声が耳につく。



 しばらくして、家に中から出てきたよっちゃんは、静かに小さく首を横に振った。
「もう連絡はした」
 よっちゃんの低く静かな声が、周りの音をかき消した。小鳥遊を抱く腕から力が抜けそうになる。
「千結ちゃん、そのまま聞いて。お母さん、亡くなってる」
 その瞬間、暴れ出そうとする小鳥遊を必死に抱きかかえた。
「どういうこと? どうして? どうして家に入れないの? お母さんは? お母さん!」
 扉の前から動こうとしないよっちゃんに、俺の腕に抱えられながらも小鳥遊が声を上げる。それは今まで聞いたこともないほどにはっきりと聞こえる声だった。
 目を覚ました翔悟をじいちゃんも背中から下ろそうとはしない。

 パトカーのサイレンが近づいてきて、いよいよ小鳥遊の動きが抑えきれないほどになった。
「千結ちゃん、落ち着いて。ごめんな、お母さんにはまだ会わせてあげられない」
 それからは、本当に機械的に全てが動いていった。現場検証が終わり、小鳥遊の母親が縋り付く小鳥遊と一緒に運び出されていく。
 救急車は生きている人しか乗せない。自然死ではない遺体は警察車両に乗せられていく。そんな知らなくてもいいことを知ったのは、まだ九歳になったばかりの頃だった。
 近所中の野次馬の視線を一身に受ける羽目になった小鳥遊の、力の抜けてしまった体を抱きかかえ、腕の中に隠す。

 よっちゃんが小鳥遊と一緒にパトカーに乗って警察に向かう。俺とじいちゃんも一緒に向かうも、翔悟を預かり、待合所で待つことしか出来ない。わけの分からない翔悟に、じいちゃんがゆっくりと事実をどこまでも丸く話している。

 姉の自殺。第一発見者は俺だ。
 学校から帰ってきて、微かに漂う饐えた匂いに気付き、トイレを見て首を傾げ、風呂場を見て首を傾げ、匂いを辿って姉の部屋のドアを開けた。
 当時じいちゃんはまだ働いていた。ばあちゃんは夕飯の買い物に出掛けていた。
 俺はばあちゃんが帰ってくるまで、姉の部屋の前でドアノブを握ったまま、小便たらして立ち尽くしていた。目にしたはずの姉の姿は記憶にない。ただ、饐えた独特の匂いだけを覚えている。

「慧汰、大丈夫か?」
「ん、大丈夫」
 心配そうな声を出したじいちゃんに目を向けると、その膝の上にいた翔悟が手を伸ばして抱きついてきた。ぎゅっとその小さな体を抱きしめる。きっとわけも分からないだろう。それでも、子供は色んな気配を察している。あの頃の俺がそうだったように。

 どのくらい待っただろうか。ようやく小鳥遊がよっちゃんに付き添われ、待合所に顔を出した。
「今日はもう帰っていいそうだ」
「千結ちゃん、今日はうちに泊まりなさい」
 じいちゃんに小さく頷き返す小鳥遊は、ぐっとその口元を引き結んだまま、抱きついてきた翔悟に縋るように、その小さな体を抱きしめていた。
 よっちゃんの奥さんが車で迎えに来てくれていた。無言の車内、タイヤの立てる音だけが耳を通り過ぎていく。
 隣に座った小鳥遊の手を握れば、弱々しいながらも握り返してきた。

 何も考えられなかった。色んなことが頭の中をものすごいスピードで駆け巡っているようで、何を考えているのか、何も考えていないのか、自分でもよく分かっていなかった。ただ、小鳥遊の存在だけが隣にあった。

 家に着き、車から降りると、よっちゃんから「目を離すなよ」と囁かれ、ようやく俺は今を感じた。

「千結ちゃん、先に風呂に入りましょうか。翔悟君も一緒にね」
 よっちゃんの奥さんが優しくそう言い、小鳥遊をうちの風呂に案内する。ばあちゃんと仲の良かったおばさんは、時々うちに来ては女手の必要なことを手伝ってくれる。既にお風呂は洗われ、湯が張ってあった。
 小鳥遊が俺の手を離さない。強く握っているわけではないものの、離れることはない。
「ここでまってるから。それとも一緒に入る?」
 小鳥遊を一人にしたくなかった。ただ、彼女の側に居たかった。
 そこで初めて小鳥遊が顔を上げ、俺を真っ直ぐに見た。何を考えているのかまるで分からないその目は、じっと俺の目の奥まで見つめたあと、「大丈夫。お風呂借りるね」と小さくかすれた音を零した。
 俺の中に何を見た? 聞くに聞けないまま、ゆっくりと小鳥遊の手が離れていく。おばさんからタオルや着替えを渡され、「脱いだものはそのまますぐに洗濯するわ」と声をかけられた小鳥遊は、「ご迷惑をお掛けします」と素直にそれに従った。いつの間にか用意されていた小鳥遊や翔悟の着替え。真新しいそれらを抱えた小鳥遊は、じいちゃんに連れて来られた翔悟と一緒に洗面所に消えた。

「慧汰君、ここで中の音聞いていて。少しでもおかしいと思ったらすぐに呼んで。中に入っちゃっていいから」
 小声で耳打ちされたおばさんの言葉に黙って頷く。
「おばさんたちはこれからのことを話してくるから。お願いね」
 もう一度無言で頷き、洗面所の前に力なく腰を下ろした。
 中から翔悟の「おかあさん、おそらにのぼったの?」という震えた声が聞こえた。