Whisper Voice
第六話その日、客間に泊まることになった小鳥遊は、どこか虚ろな表情のまま、俺たちに一緒に寝て欲しいと頼んできた。今自分がどこにいるのか、どうしているのか、それすら分からないような不安そうな目をして。
俺とじいちゃんの間に二人を挟み横になる。そっと伸ばされてきた、熱帯夜にもかかわらず氷のように冷えたその華奢な手をそっと握りながら。いっそのこと抱き込んで体温を分けてやりたかった。
その晩、小鳥遊は一睡もしていない。俺も一睡も出来なかった。おそらくじいちゃんも。
息を殺すかのような重苦しい空気の中、まんじりともせず朝を迎えた。
俺たちは何度こんな朝を迎えればいいのか。
翌日、警察から連絡を受けた小鳥遊の母親の両親、小鳥遊たちにとっては祖父母が、昼前に駆けつけたにもかかわらず、翔悟は彼らに懐こうとせず、小鳥遊が相手をしていられないときは俺かじいちゃんのそばにくっついていた。
彼らの祖父母が、自分たちが滞在するホテルに行くよう小鳥遊たちを連れ出そうとしたところで、翔悟が手を付けられないほど泣き叫び、一段落するまでは二人はこのままうちで預かると、じいちゃんが彼らをなんとか説得した。
まるで何かに追われるように、ほんの数日のうちに、アパートが引き払われ、彼らの娘は直葬され、全ての手続きを二人はあっという間に済ませてしまった。
小鳥遊がきちんと母親の死と向かい合う時間もないままに。
せめてうちで家族葬をするようじいちゃんが提案しても、彼らは首を縦に振らなかった。彼らの娘が住んでいたアパートには足を踏み入れたくないようで、全て専門業者に任され、最低限必要なものだけを手元に残した。あの大きすぎるダイニングテーブルすら処分された。きっとあれは思い入れがあるものだっただろうに。小鳥遊たちの服すら全て新品が用意されている。
小鳥遊も翔悟も、どこか現実離れした、それでいて途方に暮れたような、なんとも言いようのない表情をしている。おそらく俺がそうだったように、二人とも未だこれが現実だとは思えないのだろう。どこか夢の中のような、浮遊しているような、覚束ない感覚。そんな曖昧さすら認識できているのかどうか。
おまけに全てのことが小鳥遊の意思を聞くことなく決められていく。何度じいちゃんやよっちゃんに小鳥遊の意思を聞くよう言われても、彼らの祖父母は一方的に全てを決めた。彼らにとって小鳥遊姉弟は庇護すべき子供でしかなく、そこに二人の意思は必要ないように見えた。彼女らの父方の祖父母には連絡すらしていないらしい。
「とにかく、千結と翔悟はうちで引き取りますから。今までご迷惑をお掛けしました」
小鳥遊の祖母にまるで心のこもっていない礼を言われ、様子を見に来たよっちゃんやおばさんも、じいちゃん同様戸惑った顔をする。小鳥遊自身、その目を不安に染めながら、ことの成り行きをただじっと黙って聞いていた。翔悟は小さく縮こまっている。
「小鳥遊、二人ともうちにくる?」
その不安そうな様子に思わず声をかけると、弾かれたように顔を上げた小鳥遊は、真っ直ぐに俺の顔を見て、その目に迷いを浮かべた。じいちゃんとはいざとなったら二人を引き取ろうと話していた。
「……ありがとう、でも……」
俺には、声にならない「いいの?」が聞こえたような気がした。当たり前だ、いいに決まっている、そう言おうとして──。
「何を言っているんですか! 千結も翔悟も私たちの孫なんですよ! 他人に面倒見て貰う謂われはありません!」
小鳥遊の祖母の上げた金切り声に、翔悟がびくっとその体を震わせ、隣に座っていたじいちゃんにしがみついた。
「うちはかまいませんよ。お孫さんたちさえよければ、うちでお預かりします」
俺の言葉に続いたじいちゃんの静かな声を遮るように、小鳥遊の祖母が鬼のような形相で再び金切り声を上げた。
「冗談じゃありませんよ! 保険金ですか! 目当ては!」
何のことかとじいちゃんと顔を見合わせる。小鳥遊の母親は自殺だ。保険金はおそらく下りないだろうと言われている。まさか、父親の保険金か? そこまで考えて小鳥遊を見れば、小鳥遊自身も驚いた顔をしていた。
「保険金が、あるの? お父さんの? それじゃあどうして……」
母親の自殺の理由は分かっていない。遺書がなかった。衝動的なものではないかと言われている。
ずっと口を閉ざしていた小鳥遊がようやく上げた声。それが聞こえたのか聞こえていないのか、金切り声を上げる祖母の代わりに、祖父が静かに声を上げた。
「千結と翔悟の父親の保険金はそっくりそのまま残っています。娘は二人の将来のためにと手を付けなかったのでしょう」
それを聞いた小鳥遊が「どうして……」と、再び悲しいほどに美しい声をもらした。
小鳥遊の目から、ほろほろと涙が溢れ出す。母親が死んで初めて涙を流した。ようやく現実が追いついてきたかのように。
彷徨うように伸ばされた手を掴み、そのまま引き寄せ抱きしめる。その瞬間、張り裂けんばかりの声が上がった。
「お母さん、お父さんが大好きだったのに! 毎日余裕がなかったのに! 将来より今使えばよかったのに! お父さんのお金なんだからお母さんが使えばよかったのに! あんなに疲れ切るまで働かなくても、死にたくなるくらい疲れる前に、使っちゃえばよかったのに……お母さん! お母さん……」
慟哭。こんな悲痛な音、上げさせたくはなかった。
つられたように翔悟もじいちゃんにしがみつきながら泣きだした。
ソファーに座り、呆然とする祖父母の前、床に座っていた小鳥遊は、俺に抱きかかえられながら気を失うまで泣いた。
俺は、壊れないようにと願いながら、ただ、抱きしめてやることしか出来なかった。
じいちゃんたちは、小鳥遊だけじゃなく、その母親とも会っていればよかったと、後悔していた。
俺もだ。
小鳥遊の家に行き、その不自然さを目にしていたのに、何も気付けなかった。今思えば、小鳥遊がいつも心配していたのはお金のことだ。彼女は母親が疲れていると口にしていたのに、それは単に体が疲れているとしか思わなかった。
そこかしこに鏤められていたピースをきちんと拾い集めていたら、きっとこんな事にはならなかった。
それでも彼らの祖父母の主張は覆らず、血縁者の主張の前に赤の他人の主張が通るわけもなく、俺たちは小鳥遊と翔悟を見送ることしか出来なかった。しかも小鳥遊の祖父母は、頑なに小鳥遊たちの引っ越し先を教えず、小鳥遊自身も、子供の頃九州に引っ越した母親の祖父母としか知らないと言う。本当に今まで付き合いがなかったそうだ。
最後に、小鳥遊の祖父母はそれまでとは違い、じいちゃんたちにきちんと礼を言った。
おそらく彼らも普通の状態ではないのだろう。どこか悔いているようにも見えて、根が悪い人だとは思えなかった。突然の娘の死を受け止めきれないのは彼らも同じなのだろう。
後になってみれば、必死に小鳥遊たちを守ろうとしていたのだと分かる。俺たちが得体の知れない存在に思えたのかもしれない。
「小鳥遊、あとでこっそり住所知らせて。俺の携帯の番号覚えてる?」
小鳥遊たちが九州に向かう日、小さく耳打ちすると、同じくらい小さな頷きが返ってきた。
それなのに──。
それっきり、小鳥遊とは連絡が取れなくなった。
────◇────
「お兄さん、ここで何してんの? ここんとこ毎日いるよね」
「人を探してまして」
「人って? 誰?」
誰でもいいだろうが。不審なのは分かる。それが仕事なのも理解する。でも、悪いことはしていないだろうが!
「ちょっと自転車から降りて」
舌打ちしそうになるのを何とか堪え、素直に自転車から降りる。
こうなればよっちゃんに助けて貰おう。そう思ってポケットに入れていた携帯電話を手にしたところで、ふと顔を上げた。
ひっきりなしに車が行き交う幹線道路、その交差点の向こう、結婚式場の裏口、その敷地と歩道の境目に、見知った姿より大人びた小鳥遊が、六年前と変わらない大きな目をこれでもかと見開いて立っていた。
──高岡君。
聞こえるはずのない声が聞こえた。
「千結! そこにいろ!」
横に立つ警察官に、「すいません、自転車預かってください」と一方的に言い捨てて、タイミングよく青に変わった横断歩道を駆けていく。
驚いた顔のまま、その場でかたまっていた小鳥遊に腕に伸ばし、勢いのまま抱き込む。
「こっちにいるならどうして俺のところに来ない!」
思わず抱きしめる腕に力が入り、思ったよりも大きな声になってしまう。腕の中から立ち上ってくる甘やかな香りに目眩さえ覚える。
見付けた。ようやく、ようやく、見付かった。
「だって……」
焦がれて、焦がれて、焦がれて止まなかった、あの綺麗な音が胸元に零れ落ちた。泣きそうだ。
「いいか、何も心配するな。俺はお前が変わらず好きだし、翔悟は俺の息子にする。他には?」
腕の中で小さく首を振るその仕草は、あの頃と変わっていない。あの頃よりも短くなった髪が、肩の上でさらさらと揺れた。
「もし、忘れられてたらって思ったら、怖くて……」
「忘れられるわけないだろうが。お前じゃなきゃダメだって言っただろう」
小鳥遊の手が背中に回り、そっと抱きしめ返してきた。
「本当は、見付けてくれるんじゃないかって。そうしたら、そうしたら、彼女にして貰おうって……」
顔を上げた小鳥遊の潤んだ目を見た瞬間、噛みつくようなキスをした。俺の背中に回った細く小さな手に力が入り、重なる小さな唇の奥から色を含む密やかな音が漏れる。もういっそのこと食ってしまいたい。丸ごと俺の中に取り込みたい。
物騒なことを考えていた、その肩が叩かれた。
「お兄さんね、一応ここ公道だから。こっちも注意しないわけにはいかないわけ。わかる?」
俺の自転車を引いて、それはもう嫌そうな顔をしたさっきの警察官が「見付かってよかったね」と、まるで感情のこもってない言葉と一緒に俺に自転車を押しつけ、道路の向こうの自分の白い自転車の元に戻り、振り返ることなく立ち去った。
思わず腕に小鳥遊を抱えたまま、姿が見えなくなるまで目で追ってしまう。……思い出した。あの人、時々道場に顔を出す人だ。誰かから警察官だと聞いて、警察官は柔道じゃないのかって思った記憶がある。
しかも、その一部始終を小鳥遊の同僚たちに遠巻きに見物されてもいた。
色々やらかした感満載だ。
その足で児童館に翔悟を迎えに行く。
小鳥遊はパートではなく常に早番での出勤らしい。その綺麗な声を生かしナレーターとして働き始めた。ラジオ広告はいくつかパターンがあるらしく、そのうちのひとつを入社早々小鳥遊が担当したそうだ。仕事あがりは午後の四時。今日はたまたまトラブルが起きて人手が足りず、残業だったらしい。
小鳥遊をキャリアに乗せて、いつかのようにゆっくりと自転車を押しながら歩く。
「なあ、あの電話、千結だよな」
振り返り目に入れた六年ぶりの小鳥遊は、ばつが悪そうに小さく頷く。あの頃よりもずっと女らしく綺麗になった。薄く施された化粧。俺のせいで唇だけがその素顔を覗かせている。
小鳥遊と連絡が取れなくなってしばらくした後、年に一度か二度、非通知の無言電話がかかってくることがあった。無言の先、そこに小鳥遊を感じた俺は、たとえそれが間違っていたとしても構わなかった。
「高岡君が待ってるって言ってくれてたから……」
無言電話がかかってくる度に、俺は小鳥遊に向けた言葉を囁いた。たとえ相手が小鳥遊じゃなかったとしても、小鳥遊に届くような気がして。
千結、そう何度も何度も囁いた。千結、待っているから。千結、好きだよ。千結、側に居たい。千結。千結。
「全く。返事くらいしてくれてもいいだろう? 電話が切れたあと、もし知らないおっさんとかだったら、俺相当イタイなって凹んだこともあるんだぞ」
「だって……答えてしまったら……」
「寂しくなる?」
俯きながら小さく頷いた小鳥遊の顔が赤い。全く。相変わらず可愛くて困る。
俺がいない寂しさを抱えてくれていた。俺が小鳥遊がいない寂しさを抱えていたように。それは、どうしようもないほどの寂しさだった。もう二度と抱えたくはない。抱えさせたくもない。
耐えきれなくなった時に電話をしてきていたのだろう。でも話してしまうと余計に寂しくなる。だから、声をかけられなかった。なんとも小鳥遊らしい。俺の知る小鳥遊はそういう人だ。
その電話も今年に入ってからはかかってきていない。こっちに戻ってくることを決めた途端、不安になったのだろう。不安になって電話もできず、自分からは会いに来られなかった。もう一度電話してくれていれば、同じように「待っている」と囁いたのに。
小鳥遊の祖父母は、ちゃんと小鳥遊たちの面倒を見てくれたそうだ。彼らなりに二人を守り、身の回りの世話をしてくれ、個室を与えられ、大学にも通わせてくれたらしい。ただ、小鳥遊が大学を出るころには父親の残したものは殆ど残っていなかったそうだ。
「元々そんなに大きな額じゃなかったみたい。大学の費用や生活費で消えてしまってた。もうおじいちゃんもおばあちゃんも年金で暮らしていたし」
残った僅かな金額を二人に残し、こっちで就職先を見付け、貯めていたバイト代を使って大学卒業と同時に引っ越してきたらしい。翔悟は小鳥遊に付いてきた。
「貧乏になるよって言ったんだけど、それでもいいって。おじいちゃんたちも私たちとは生活のペースが合わなくて、疲れていたみたいだったし。私も翔悟とは離れたくなかったから……」
もっと早く見付けたかった。
何度も九州に足を運んだ。どこかに小鳥遊の名前が無いかと、定期的にインターネットを検索していた。小鳥遊なんて珍しい名前、九州という限られた地域、簡単に見付かると思っていた。
現実はそう甘くはなかった。九州に引っ越して探すことも考えた。でも、じいちゃんを一人残すことはどうしても出来なかった。たとえじいちゃんが行けと言ってくれていたとしても。
やっぱり興信所に依頼すればよかったんだ。よっちゃんが渋るから先延ばしにしてきたのに──待てよ。俺が小鳥遊を探しに九州に行こうとするのを悉く阻止しようとしたり、この春には「たまにはラジオでも聞け」と執拗に言っていたのはよっちゃんだ。
「なあ、もしかして、よっちゃんとは連絡取ってた?」
小鳥遊が目を泳がせた。あの釣りバカじじい! 知っていたのか。何もかも。
「今の仕事先も住むところも、おばさんが紹介してくれて……」
「まさか、じいちゃんも知ってる?」
「知らないと思う。よっちゃんは、警察からの窓口になってくれていたみたいで、あのあと何度かおじいちゃんと連絡を取っていたから……」
尻すぼみになる綺麗な声を聞いていたら、全てがどうでもよくなった。今、俺の隣に小鳥遊がいてくれる。もうそれだけでいい。
児童館に着き、小鳥遊が顔を出すと、奥から想像していた以上に成長している翔悟が、ランドセルを背負って駆け寄ってきた。生意気にも「お疲れさま」なんて声をかけながら。
そして、小鳥遊の背後にいる俺に目を留めて、その目を大きく見開いた。口もぽかんと開いている。
「けーた!」
靴も履かず、弾かれたように俺に向かって飛びついてきた。「おせーよ」という、生意気なセリフ付きで。
そのまま翔悟も一緒にうちに連れていけば、翔悟はさっきと同じようにじいちゃんにも飛びついた。
「翔悟、じいちゃんももう歳だからあんま無茶すんなよ」
受け止めきれずひっくり返ったじいちゃんを慌てて起こしてやれば、じいちゃんは片手で尻をさすりながら、もう片方の手はしきりに「じーちゃん、ごめん」と謝っている翔悟の頭を、「でっかくなったなぁ」と嬉しそうに撫でている。
記念公園沿いの結婚式場に勤めている小鳥遊は、当然住んでいるのもこのあたりで、それを聞いたじいちゃんに、俺と同じセリフで叱られている。叱られているのに、目に涙を溜め、嬉しそうに何度も頷く小鳥遊に、じいちゃんも毒気を抜かれたのか「二人とも元気そうでよかった」と、貰い涙を浮かべた。
「ほらな。だからけーたとじーちゃんちに行こうって俺が言っただろう?」
翔悟は生意気盛りらしい。
じいちゃんから連絡を受けたよっちゃんとおばさんが隣からやって来て、じいちゃんがちくちく嫌味を言っている。よっちゃんが白々しくも「守秘義務ってもんがなぁ。俺元お巡りさんだし」とぬかしてやがる。
でも、きっと──。
小鳥遊は、こことは別の、こことは離れた場所で、ゆっくりと時間をかけて落ち着く必要があったのだろう。
姉のことを後悔していたのは、俺たちだけじゃなくよっちゃんやおばさんもだ。子供のいないよっちゃん夫婦は、俺たちを実の孫のように可愛がってくれていた。じいちゃんと一緒に俺を守ってきてくれたのも、隣人の二人だ。
姉が自殺したあと、それまで姉を取り巻いていた人たちは素知らぬ顔して離れていった。
姉を愛していた人ほどその死に囚われ、その心に大きな重いものを背負い込んだ。
愛していた人ほど、一生その重さを抱えて生きていく。
小鳥遊は、この地を離れたからこそ、翔悟の存在があったからこそ、生きてこられたのだろう。
俺は、姉にとって翔悟のような存在にはなれなかった。
今になってやっと分かった。
姉ちゃん、ごめん。ごめん──。
そこからのよっちゃんとおばさんは素早かった。
呆気に取られる俺と小鳥遊をよそに、俺たちの結婚の段取りを決め、翔悟を俺の養子にする為の手続きがあっという間に整った。小鳥遊の祖父母ももう反対することもなかったそうだ。
完全に傍観者となったじいちゃんは、翔悟と一緒に面白そうに笑っている。
その翔悟には一応了解を得ている。「俺が父親でもいいか?」と聞いたら、「けーたならいいよ」と偉そうに言われた。あんなに小さくて可愛かった翔悟が小生意気になっていて、時の流れをひしひしと感じる。しかも既にその身長は小鳥遊と並ぶ。六年前はコアラだったのに。
「千結はいいの? 嫌ならはっきり言わないと俺と結婚させられちゃうよ?」
「……高岡君は嫌?」
「嫌なわけないだろう。俺は最初から千結って決めてたんだから」
「ん。私も……」
鼻にかかった妙に色気のある吐息とともに吐き出された小さな音。それは祝福の音だ。
改めて「俺と結婚してください」とストレートにプロポーズすれば、真っ赤な顔した小鳥遊が、はにかむような微笑みと一緒に「はい」と澄んだ美しい福音を与えてくれた。
俺たちは、カレカノをすっ飛ばして夫婦になる。
デートなんて結婚してからでもいくらでも出来る。ここで捕まえておかないと、もう二度と捕まらない気がした。
結婚式は当然小鳥遊が勤めている式場で行われる。打ち合わせに行く度に小鳥遊の同僚たちに冷やかされ、俺たちよりも颯太と吉井が何故か張り切って取り仕切っている。
「高岡じゃなくて佐藤なの?」
翔悟と一緒に風呂に入りながら、怒濤のごとく進んでいくこれからのことを話して聞かせる。
「そう。俺もじいちゃんの養子なんだよ。本当は佐藤なの。翔悟も小鳥遊のままがいいなら小鳥遊を名乗っててもいいぞ。戸籍上は佐藤になるけど。戸籍って分かるか?」
「わかる」
そう言ったきり考え込んだ翔悟は、妙に悟ったようなところがある。生い立ちを考えれば仕方のないことだが、子供のうちは子供らしい我が儘を叶えてやりたい。俺がじいちゃんに叶えて貰ったように。
「俺、佐藤になる。俺の父親がけーたで、母親がちゆちゃん。じーちゃんは俺のじーちゃんかぁ」
高校を卒業すると同時に俺は佐藤姓を名乗っている。気にしていないかと思っていたじいちゃんが、密かに喜んでいたとよっちゃんが教えてくれた。翔悟も佐藤を名乗るなら、じいちゃんはきっと喜ぶだろう。
これまたあっという間に小鳥遊と翔悟の住む部屋が引き払われ、正式にうちに引っ越してきた。再会したその日から殆どうちで暮らしていたようなものだったが。
お金のことを心配する小鳥遊に、両親の保険金の額を言ったら、大きな目がこれでもかと見開かれた。
両親の命が金にかわったようで、俺もじいちゃんも使う気にはなれなかった。もしかしたら、小鳥遊の母親もそうだったのかもしれない。
でも、これを小鳥遊や翔悟のために使うとなると、それまでとは違い、なんてことなく感じる。じいちゃんも同じことを言っていた。
「元々紛争地域への派遣だったから、保険も高額なものに入っていたみたいなんだ。他にも色々保証されたし──って、もしかして、お金のこと考えて連絡してこなかった?」
素直にこくこくと頷く小鳥遊は、「でもそれは高岡君に残されたものでしょ」と切なそうに目を細めた。
俺は両親の死も姉の死も祖母の死も、幼かったせいかその事実自体はどこか遠くに感じている。記憶すら曖昧だ。ただその事実があるというだけで。
姉が何を感じて命を絶ったのか、小鳥遊が何を感じて連絡を絶ったのか、彼女たちの感じ方とはおそらくまるで違うのだろう。
小鳥遊が微笑んでくれる。それがどれだけ貴重なことか。
少なくとも俺は、小鳥遊に会うまでは自然と笑うなんてことはなかったように思う。笑おうと意識して笑っていた。小鳥遊は俺よりずっと強い。きっと俺は知らず知らずのうちにその強さに惹かれたのだろう。
いつか、最後に見た笑顔のような、あんな心の底からの自然な笑顔を見せて欲しい。その為だったら俺はどんなことでもする。
「千結は俺の妻、翔悟は俺の息子。家族になるんだから細かいことは気にするなよ。千結はただ俺の隣にいてくれさえすればそれでいいから。やりたいことを見付けて片っ端からやったっていいんだ。俺だって一応食っていけるくらいは稼いでいるんだし」
ずっと翔悟を抱えて生きてきた彼女は、おそらく自分のやりたいことなんて二の次だっただろう。考えることすら出来なかったのではないかと思う。翔悟だってそうだ。
「やりたいこと……」
そう呟いたきり黙り込んだ小鳥遊の顔が、おもむろに赤く染まっていく。なんだ?
「私も、高岡君、じゃなくて……慧汰と一緒にいられればそれで……。あと、あとね。翔悟にも弟か妹を……」
くそっ! そういう事を今言うなよ。ちらりと真っ赤な顔で見上げてくるのはやめろ。
じいちゃんと翔悟は、よっちゃんと一緒に朝早くから釣りに出掛けている。家に二人っきりの今、そのセリフとその顔は色々やばい。
じいちゃんに「どうせなら結婚まで清い体でいなさい」と妙に真面目な顔で言われてしまっては、迂闊に手も出せやしない。
ひとつ屋根の下、好きな女、しかも何年も会えずようやく見付けた、おまけに近々結婚する予定の彼女がいるのに何も出来ない俺は、毎朝じいちゃんににやりと笑われている。クソじじい。何がどうせならだ。
どうしようもない劣情を抱え、抱き寄せた千結に貪るようなキスをした。
眠ってしまった彼女の髪を指で梳く。穏やかな表情で眠る彼女を飽きもせず眺めていた。
不意に込み上げてきたものをぐっと堪える。
やっと手に入れた。
彼女と繋がる瞬間、わけも分からず戸惑った。これは違う、と。
ふと目が合った彼女が囁いたのは、そのままがいい、だった。
驚くほど真剣な目を見て、同じなのだと悟り、黙ってそれを外した。
隔てもなく繋がった瞬間、生きていることを嘗て無いほど強く感じた。
「生きてる」
「うん。生きてる。生きてるね、私たち」
腕の中、彼女も同じことを感じたのだろう、綺麗な音を零しながら静かに涙を流していた。
眠る彼女の髪を梳きながら、嗚咽を堪える。
どうしようもないほどの幸せ。
いつものように枕に顔を強く押しつけ、漏れる嗚咽を枕に隠す。
姉ちゃん、ごめん。
俺は、今、幸せだって思ったんだ。姉ちゃんを死なせたくせに。
姉ちゃん、ごめん。
俺は、今、これからも幸せでいたいって思ったんだ。ばあちゃんも死なせたくせに。
姉ちゃん、ごめん。
俺は、今、幸せになろうって決めてしまったんだ。じいちゃんを縛り付けたくせに。
姉ちゃん、ごめん。
俺は、生きるよ。
気配も無く伸ばされた指が髪に触れ、びくりと震えた。驚いて隣で眠っているはずの彼女に目を向ける。
「幸せになろうね」
微睡みの中、彼女はうっすらと笑みを湛えながらそう囁き、俺の髪を何度か梳いて、再び瞼を閉じた。
微かに「一緒に生きよう」と聞こえたような気がした。
俺の髪を梳く指。それが姉と同じで、忘れかけていたその感覚に、俺は再び嗚咽を堪える。
姉ちゃん、俺は生きるよ。彼女と一緒に。
ごめんな、姉ちゃん。
俺は、彼女を幸せにしたい。