Whisper Voice
第四話小鳥遊が捻挫したのは月曜日。その週も終わりに近付けば、小鳥遊の足の痛みも随分と引いてきたようで、病院に行かない代わりに養教に見て貰っている。養教も「私は医者ではない」と言いつつも、しっかりと見てくれる。
「痛みが取れてきても完治じゃないから。あと二週間はテーピングしていた方がいい」
そう養教に言われ、テーピング代を気にする小鳥遊に、何度も俺の所為だからと言い聞かせる。その度に「高岡君の所為じゃないのに」と複雑そうな顔をする小鳥遊に、「俺が好きでやってることだから」と言い換えれば、小さく「ありがとう」と綺麗な音が返ってきた。
一週間、テーピングしに通っている小鳥遊の家には、常に小鳥遊と翔悟の気配しか無い。ただ、くたびれた黒い靴が、別のデザインの靴に変わっていたりするので、母親は朝早くに家を出て、遅くに帰ってきているのだろう。父親の存在はどこにも感じられない。
「週末はどうしてる? いつも通り朝行って大丈夫?」
「週末までいいの?」
「いいに決まってるだろう。翔悟も保育園休み?」
金曜日の放課後、小鳥遊を後ろに乗せた自転車を押して歩く。少しでも長く一緒にいたいが為のせこい手だ。
頷く小鳥遊を見て、どうしようかと悩む。出来れば一緒に過ごしたい。ここはじいちゃんを当てにしよう。
「土曜日、うちくる? 翔悟も一緒に。じいちゃんがサザエの壺焼きするって言ってたんだ」
振り向けば、小鳥遊の大きな目がもう一回り大きくなり、輝いて見える。
「いいの?」
「もちろん。多分颯太も来るよ。もしかしたら吉井も来るかも」
「サザエなんて本物見たことないかも」
「隣の爺さんがさ、釣りが趣味でよく小田原あたりまで行くんだよ。そこで色々買って来てくれるんだ」
「釣った魚じゃなくて?」
「釣りは下手らしい」
ふふっと小鳥遊が小さく笑う。小鳥遊の笑い声が好きだ。小鳥遊にもけんけら炭のあの音を聞かせてやりたい。
迎えに行った翔悟に、「明日は千結ちゃんと一緒に俺のうちに遊びにおいで」と言えば、「いいの? けーたのお家に行ってもいいの?」と何度も聞かれる。その度に頷いてやれば、それはもう目を輝かせて喜ぶ。
何度も確認するかのように「本当にいいの?」を繰り返す翔悟に少し引っかかりを覚える。今時はあまり園児同士の家に遊びに行かないものなのか。
「お友達の家に行くと、今度はうちにも呼ばなきゃいけなくなるから……」
どこか言い訳じみた小鳥遊の言葉に、言われてみれば小鳥遊一人で複数の子供を見るのはキツイだろうなと思う。
「だなぁ。今時は何かあるとすぐ問題になるからなぁ。小鳥遊一人だと翔悟見ているのが精一杯だろう?」
どこか誤魔化すように頷く小鳥遊を見て、何か的外れなことを言ったのかと思えば、「そうなんだよね。男の子はじっとしてないから」と返ってきた。僅かな引っかかりを覚えながらも、はしゃぐ翔悟を見ていると確かにこれは一人でもキツイなと思ってしまう。
「翔悟、あんまはしゃぐなよ。熱出るぞ」
心当たりがあるのか、翔悟が動きを止めた。それでもじっとしていられないのか、かわりに必死に口を動かす。子供特有の高く澄んだ声は、姉弟だからか小鳥遊のそれと似ていてすんなりと耳に入る。
「明日、いつもの時間で大丈夫?」
「そんなに早くからお邪魔していいの?」
肯けば、「じゃあ、待ってる」と嬉しそうに笑う。翔悟だけじゃなく小鳥遊も楽しみなのだとその笑顔が伝えてくる。小鳥遊だって、いつも翔悟の面倒ばかり見ているんだ、息抜きだってしたいだろう。
翌朝、気合いを入れて小鳥遊の家に迎えに行く。じいちゃんには散々からかわれたものの、にやりと笑いながら「まかせとけ」と背中を思いっきり叩かれた。
小鳥遊の家まではうちから自転車で五分もかからない。まだ朝だというのに、じりじりと焼け付くような日差しが剥き出しのうなじや腕に刺さる。
辿り着いたそこには、既に外で待っている小鳥遊と翔悟がいた。
「おはよう。遅かった?」
「違うの。今日お母さんがお休みで。疲れてるみたいだから……」
なるほど、ゆっくり休ませてやりたいのだろう。これだけはしゃぐ翔悟がいればそれは無理な話だ。じっとしていられないのか、小鳥遊に手を握られながらも、その周りを満面の笑みで行ったり来たりしている。その度に小鳥遊の細く白い腕が大きく揺れる。
夏の制服のシャツはいつも長袖を着ている小鳥遊の、その剥き出しになった華奢な肩。その白い丸みから目が離せない。
シンプルな水色のノースリーブワンピースを着た小鳥遊がとにかく可愛い。いつもはおろしている髪をサイドで束ね、ほっそりとした首筋を見せている。白のソックスに爪先が丸い踵の低い靴、髪を結んだくしゃっとした布、斜めにかけられた小さな鞄、それらが黒で統一されている。じっくり見たいのに、その周りをチョロチョロする翔悟が気になって仕方がない。こっちもハーフパンツにポロシャツという、いつもの園服姿とは違って、いつも以上にやんちゃに見える。
「テーピングはうちに着いてからにするか。あんま体重かけんなよ」
腕を出せばそこに当たり前のように手をかける。この一週間ですっかり刷り込まれた小鳥遊の行動に、思わずにやけそうになる。ほんの数歩の距離さえ、一人で歩かせたくない。触れる剥き出しの腕をいつも以上に意識する。
小鳥遊が自転車を押さえている間に翔悟をサドルに乗せ、ハンドルを握る俺の腕にしっかりと翔悟を掴まらせる。小鳥遊が後ろに乗ったところでスタンドを蹴り上げ、自転車を押し出す。これもすっかり当たり前になった。
はしゃぐ翔悟の声に相槌を打ちながら、ゆっくりと家に向かう。
「おお、お前さんが翔悟か!」
出迎えたじいちゃんにいきなり声をかけられ、翔悟が小鳥遊の後ろに隠れる。そうだった、翔悟は人見知り中だった。
「翔悟、俺のじいちゃん」
「けーたのじーちゃん?」
じいちゃんがしゃがみ込み、翔悟と目線を合わせる。おずおずとした様子で「たかなししょーごです」と挨拶する翔悟に、じいちゃんがにかっと笑って「よくできました」とその頭を撫でる。
「小鳥遊千結です。いつも高岡君にお世話になっています」
「いらっしゃい。ゆっくりしてって」
小鳥遊に普通に返した。さすが俺のじいちゃん。小鳥遊もどこか嬉しそうに「お邪魔します」と答えている。
「小鳥遊、先にテーピングしよう」
頷く小鳥遊を連れ、居間にひとつだけある三人掛けのソファーに座らせる。出された麦茶を飲みながら、床にちょこんと座りながらも他人の家が珍しいのか、興味津々の翔悟は落ち着きなくあちこちを見ては目を輝かせている。じいちゃんの「翔悟、家ん中探検するか?」の声に、勢いよく頷いてじいちゃんと一緒にそこかしこを見ては、何が面白いのか奇声を上げ始めた。
その間に手早くテーピングを終わらせると、小鳥遊も興味があるのか、目線があちこちに動いている。その可愛い仕草に思わず笑いを堪えた。
「小鳥遊も探検する?」
「じろじろ見てごめん。一軒家に住んだことないから……」
小鳥遊が恥じるような笑いを浮かべた。「遠慮しないで見ていいよ」と言えば、どこか遠慮がちに、それでも興味深そうに目線を彷徨わせ始める。大きな目に宿るのは憧れと、なんだろう?
「引っ越してくるまではお父さんの会社の社宅だったの。お父さんが心筋梗塞で急に亡くなっちゃって、社宅にいられなくなって、今のところに引っ越してきたの」
「そっか。うちも両親死んじゃってるからなぁ」
驚く小鳥遊に、今はじいちゃんと二人暮らしだと言えば、小さく「そっか」と返してきた。
小鳥遊の家に父親の気配が無いのも、母親が朝から晩まで働いているのも、そういうことなのかと納得する。
「高岡君は大学行く?」
「正直悩んでる」
「私も。お母さんは大学行けっていうんだけど、翔悟のこともあるし、働いた方がいいんじゃないかって……」
「小鳥遊、成績いいだろう? もったいなくない?」
「本当は別の高校に行く予定だったの」
聞いた高校は、今より随分とレベルの高い高校だった。道理で。小鳥遊の成績は、今回の期末試験の結果でも学年五位という羨ましすぎるものだった。翔悟に構うことなく勉強できていたなら、おそらく一位も狙えるだろう。
「中三の冬にお父さんが死んじゃって、社宅は私が中学卒業するまではいさせて貰えることになったんだけど、翔悟の保育園と、お母さんの仕事先がこっちだったから、急遽志望校を変えたの」
小鳥遊をそっと引き寄せ抱きしめた。悲しそうで、悔しそうで、どうしようもない思いを抱えて、一人、頑張ってきたのだろう。母親を助け、翔悟の面倒を引き受け、その分、自分の想いをどこにも吐き出せずにいたんだろう。
「小鳥遊、好きだよ」
小さく何度も頷く小鳥遊を囲う腕に少しだけ力を込める。
「俺のこと、嫌いじゃないよな」
再び小さく頷く。そのあとに「でも……」と小さな音が続いた。
「いいよ。翔悟が大きくなるまでは。待ってるから。今はそこまで考えられないだろう?」
腕の中の小鳥遊が弾かれたように顔を上げる。言い当てることが出来たのだろう、驚いた顔をしている小鳥遊の大きな目の中に、自分の姿を見付けた。
きっと俺は小鳥遊の声が忘れられない。それ以外を聞きたいとは思えない。大きな目の中に映る俺を見ながら、その俺に宣言するように言う。
「多分俺、小鳥遊じゃなきゃダメだと思うから。小鳥遊が嫌じゃないならいくらでも待つよ」
小鳥遊の顔がくしゃりと歪む。
「いいよ、甘えて。寄り掛かっていいから。ずっと側に居るから」
その瞬間、小鳥遊の手が背中に回り、ぎゅっと抱きついてきた。
「本当は、私も高岡君のこと好きなの。でも、今は自分の事も考えられなくて……」
「それでいいよ。俺が好きで小鳥遊の側にいたいだけだから」
「彼女らしいことは何も出来ない」
「いいよ。側にいてくれれば。その代わり、何かあったときは必ず知らせて。絶対に一人で悩まないで。それだけは約束して」
絶対に一人で悩ませたくない。強く言えば、腕の中の小鳥遊が大きく頷いた。
あまりに家の中が静かで、じいちゃんの気配も翔悟の気配も近くになくて、小鳥遊をソファーに待たせて二人を探しに行くと、二階の俺の部屋のドアが開いていた。中を覗けば、俺のベッドで眠る翔悟とアルバムを見ているじいちゃんがいた。
「あの頃、|智慧《ちえ》にも好いた男がいたら違ったんだろうか」
「そう、かもね」
「あの子はお前が守ってやれ」
「わかってる」
俺が小鳥遊に聞いたように、じいちゃんは翔悟に何かを聞いたらしい。
階下に降り、小鳥遊に翔悟がはしゃぎすぎて寝ていると言えば、昨日の夜も興奮してなかなか寝付かなかったらしい。颯太たちが来るまでそのまま寝かせることにして、起きたときに小鳥遊の姿がなければ不安になるだろうと、小鳥遊も俺の部屋に連れて行く。
ゆっくりと階段を上っていく小鳥遊の後ろから付いていくと、思いがけず際どいところまでスカートの中が見えてしまい、色々やばい。さっき待つといったそばからこれで、本当に待てるのか? 俺。
物珍しそうに、今度は遠慮することなく俺の部屋の中を眺めている小鳥遊に、じいちゃんが翔悟をどのくらい寝かせておくかを聞いている。
「寝起きはいい子なので……」
「じゃあ、颯太が来て騒がしくなれば自然と起きるかな。颯太が来るまで千結ちゃんもゆっくりしてればいい」
そう言ってじいちゃんが部屋を出て行った。
「なんか、じいちゃんが当たり前に小鳥遊のこと千結ちゃんって呼ぶのがむかつく」
思わず口に出せば、小鳥遊がほんのりと顔を赤らめつつも笑い出した。
「翔悟が千結ちゃんって呼ぶからだよ」
「いつか俺も、千結って呼ぶから」
ん、と小さく鼻にかかった音を出した小鳥遊が、照れたように目を伏せる。翔悟が眠っているベッドに腰掛け、翔悟の髪を梳くしぐさに既視感を覚える。同じだ。
伏せた目を上げ、はにかむような笑顔をくれた小鳥遊を見て──決めた。
「うちはさ、父親が医者で、母親が看護士だったんだ」
小鳥遊には話しておこう。いずれ誰かの口から耳に入る前に、自分の口から知らせたい。
「両親は俺が小三の時に死んだんだ。どうしてもって頼まれて、難民支援の医療団に夫婦揃って参加して、内戦に巻き込まれた」
小鳥遊が驚いた顔をしている。まだ、誰からも聞いていなかったのだろう。
「当時マスコミが挙って美談として取り上げたよ」
「田尾君たちも知ってるの?」
「知ってる。それだけじゃないんだ──」
美談として誉めそやされる裏で、子供二人を放置したと非難する人も同じ数だけいた。幼すぎて事態を飲み込めていない俺と違って、五つ離れた姉はその善意という名の偽善、同情という名の蔑み、そして剥き出しの悪意を一身に受け止めざるを得なかった。
「美談とするヤツらは、姉ちゃんに両親と同じ道を強要した。非難するヤツらは両親と同じ道を辿るなと執拗に持論を押しつけた。両親の自業自得だと嘲笑う人もいた」
両親だけじゃなく、姉の全てもマスコミによって暴かれていく。加害者のプライバシーは秘され、被害者のプライバシーは晒される。それと同じことが起きた。
じいちゃんもばあちゃんも、押し寄せるマスコミや両親の死に対応するので手一杯だった。
現地に飛んだ父方の祖父母はそこで何を目にしたのか、遺品を持ち帰り、両親の葬儀を終えたあと、他人との付き合いを一切断った。
俺は、ただそれを怯えながら眺めていることしか出来なかった。
そして、姉は自殺した。机の上に俺たちへの謝罪の言葉がひとつだけ書かれたメモを残して。
姉の自殺を悔いたばあちゃんは憔悴し、風邪をこじらせてあっけなく逝った。
「今度は一気に周りは沈黙したよ」
自分の事では涙を流さなかった小鳥遊が、ぽろぽろと綺麗な涙を落としている。それを目にした瞬間、俺はどこか救われたかのような感覚になった。
「ごめん。泣かせたくて話したんじゃないんだ。このあたりではみんな知ってることだから、そのうち小鳥遊も耳にしてしまうと思う。誰かからねじ曲がった話を聞く前に、俺からちゃんと話しておこうと思っただけなんだ」
小鳥遊の前に跪き、その体をそっと引き寄せた。
颯太がいつも一緒にいてくれた。空手を教えてくれたのも颯太だ。じいちゃんは自分だって死にたくなっただろうに、俺のために仕事を辞め、イクメンならぬイクジジとして頑張ってくれた。二人がいたからこそ、俺は普通に生きてこられた。
自分の事も考えられないと言っていた彼女に、自分の話をしてしまったことを後悔することになるとは、この時の俺は想像もしていなかった。
自分の話より、彼女の話を聞くべきだった。もっと詳しく聞いていれば、きっと違った未来があったに違いない。
あの頃の俺は、自分が思うよりもずっとずっと幼かった。