Whisper Voice
第三話数年前に出来た結婚式場は、その背後に公園を抱えているおかげで、借景よろしく、濃い緑の中に放り込まれたかのような錯覚に陥る。
結婚式場の定時って何時だろう。思い切って中の人に聞いてみるか。いや、接客している訳じゃないなら、一般的な会社の定時と同じだろう。となると……週末に出勤している可能性は低いか。
建物の周りを確認し、従業員用の出入り口を発見し、道を挟んだ反対側の歩道のガードレールに軽く腰掛けのんびり待つ。今日がダメなら明日でも明後日でも、とにかく通ってやる。
乗ってきた自転車を見て思い出すのは、いつだって彼女のことだ。
あの頃もっと踏み込んでいれば、何かが変わったのだろうか。
────◇────
昨日知った小鳥遊の家のドアの前に立ち、インターホンに指を伸ばす。小鳥遊の家は二階建てのアパートの一階。103のプレート。
『だれですか?』
聞こえてきたコアラの声に一瞬何と名乗ればいいのか考えて、咄嗟に思い浮かばず「俺だ、迎えにきた」と、どこぞの詐欺まがいの名乗りを上げた。それでもコアラには通じたのだろう、玄関ドアの向こうから解錠の音が聞こえた後、細く開いたドアの向こう、かなり低い位置からじっとコアラに観察される。
「おはよう。小鳥遊、あーっと、千結ちゃんは?」
人見知り真っ盛りなコアラは、それでも昨日覚えたばかりの俺の顔と声を聞いて、ドアを大きく開けた。その先には制服姿の小鳥遊がゆっくりとダイニングテーブルに手をつきながら玄関まで近づいてきていた。コアラもしっかりと園服を着ている。
よかった。叩かれた頬の赤みが引いている。
「ちゆちゃーん。きのうのでっかいひとー」
「高岡君だってば。昨日も教えたでしょ? おはよう、高岡君。ごめんね、迎えに来て貰っちゃって」
小鳥遊の声を聞きながら、鞄からテーピングを出す。
「おはよう。痛みは?」
「曲げたり体重かけるとやっぱり痛い」
「病院行く?」
「大丈夫。そこまでじゃないと思うから」
目を伏せた小鳥遊の様子から、病院には行きたくなさそうな印象を受ける。まあ、進んでいきたい場所ではないか。
「見せて」
玄関のすぐ目の前にあるダイニングチェアに手を伸ばし、引き寄せてそれに座らせた小鳥遊の足を見る。僅かに腫れているだけなら確かに病院に行くまでもないかもしれない。道場では日常茶飯事なことだからか、いつの間にかテーピングすることにも慣れてしまう。颯太はテーピングが必要なときは保健室よりも俺のところに来る。
「テーピング貼ってて痒くならなかった?」
「大丈夫」
小鳥遊の小さな足を床に突いた膝に乗せ、テーピングで固定する。その細い足首とすんなりしたふくらはぎ。思わず指でなぞりたくなる。
しゃがみ込んだコアラが目を輝かせ、全身で興味を示しながら覗き込んできた。
「こうやって、このテープを貼って足を動かないようにしておくと、治るのが早いんだよ」
コアラが「へぇ。へぇ」としきりに感心している。「ぼくにも、ぼくにも」と執拗に纏わりついてきた。小鳥遊が諫めると、しゅんと途端にしょぼくれてしまう。笑いながら脛に一周テーピングを巻いてやれば、飛び上がるほどに喜んだ。きっと剥がすときの痛みに二度と貼ろうとは思わなくなるだろう。
家の中に小鳥遊とコアラ以外の気配が無い。さりげなく観察すると、小鳥遊のローファーとコアラの小さな靴の他に、少しくたびれた女性ものの黒い靴が一足玄関にあるのを見れば、母親のものだろうと想像できる。部屋の大きさに比べて不釣り合いなほど大きなダイニングテーブルには椅子が四脚。そのうちの一脚はコアラが使ったのだろう、インターホンの前に置かれていた。部屋はふたつ。リビング代わりのひと部屋と、僅かに見える畳の部屋。いわゆる2DKと言われる間取りだ。綺麗に片付いているせいなのか、妙に殺風景だ。ダイニングテーブル以外の家具がないからか?
「もう保育園に行ける?」
小鳥遊に視線を戻せば、立ち上がり足をついて首を傾げている。
「違和感ある?」
「ない。痛みもあんまりない」
「ならよかった。それでもあんまそっちの足に体重かけないように気を付けて」
「すごい。テーピングってどうして巻いてるのか分からなかったけど、こういうことなんだ。昨日は痛くてよく分からなかった」
妙に感動している小鳥遊に、「ほら行くよ」と声をかけ、コアラにも同じように声をかける。園バッグを肩から斜めがけしたコアラが、制服の太股あたりをくいっとひいた。
「ねぇねぇ、たかおか?」
「ああ、高岡慧汰」
「けーた?」
「そう、慧汰」
「ぼくね、しょーご」
コアラ改め翔悟は、年中だそうだ。
玄関を出て、しっかりと施錠した小鳥遊の腰を抱え、少し体を浮かせるように歩く。俺の肩に手をかけ、恥ずかしそうにしながらも、嫌がられていないのを見るとほっとする。「翔悟はさっきみたいにここ握ってて」そう言えば、素直にさっきくいっとひいた場所を小さな手で握る。そこにかかる僅かな重みに翔悟の存在を感じる。
アパートの共用廊下を進み、停めていた自転車のカゴに二人分の鞄を入れ、後ろに小鳥遊を乗せる。俺の自転車はキャリア付きだ。サドルには翔悟を乗せ、やはりハンドルは俺が持って歩き出す。いつもより視界が高い翔悟はご機嫌だ。はしゃぎ出そうとするのを後ろから小鳥遊に窘められている。
保育園に着いた途端、とてつもなく寂しそうな顔をする翔悟に「迎えにくるまでいい子にしてろよ」と声をかけると、なんとも健気な顔してこくんと頷くから、思わず頭を撫でてやれば、それはもう嬉しそうに笑った。
園の中から翔悟を呼ぶ声に、「ほら行ってこい」とサドルから下ろしてやれば、一目散に声を上げた男の子の元に駆けて行く。
門のところで出迎えている保育園の先生と小鳥遊がやりとりをし終わるのを自転車に跨がりぼんやり待つ。見ていると先生の方が一方的に話して、それに小鳥遊は頷くなり首を振るなりして答えている。話し終わったのか、小鳥遊が先生に軽く会釈して、ひょこひょこ足を引きずるように歩き出した。慌てて自転車から降り、駆け寄って肩を貸す。
自転車の後ろに横座りした小鳥遊が、いよいよ俺の腰に手を回すかと思いきや、サドルの縁に手をかけた。そういえばさっきもそこ掴んでいたっけ。
「小鳥遊、さっきよりスピード出るからちゃんと掴まって?」
振り向きざまそう言えば、一瞬きょとんとしたあと、サドルを掴んでいた手を離し、僅かに顔を赤らめ、その手を彷徨わせた。ここぞとばかりにその手を掴み、自分の腰に回す。少し強引に手をひっぱり、俺の体に密着させたのはわざとだ。にやけそうになるのを必死に堪え、ペダルを踏み込む。
いつも以上に気を付けて走るのは、二人乗りがルール違反だとは分かっているからだけじゃなく、小鳥遊を乗せているからだ。
「久しぶりだなぁ、チャリ通」
「高岡君、ちゃんと申請してあるの? 自転車通学の」
「あるよ。歩くのが好きだから滅多に乗らないけど。寝坊したときは自転車使う。小鳥遊は?」
「自転車持ってなくて」
「そっか。寝坊したときは連絡くれれば迎えに行くよ」
「ん。でも携帯も持ってないよ、私」
「家に電話もない?」
「それはある」
「じゃあ、電話して。あとで俺の番号教えるから」
後ろから聞こえてくる声が、背中を伝わって耳に届く。背中にある温かい体温と腹に回る細い腕にどうしようもなく浮かれる。不意に伝わってきた小さな衝撃に、小鳥遊が頭を背中につけたことを悟り、振り向きたいのをどうにか堪えた。
分かっていてやっているのか。いや、無意識だろうな。無意識に寄り掛かれる存在であることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。やばいな。にやけた口元が戻らない。
この時俺は、浮かれすぎていて何も気付かなかった。
ちゃんとその兆候は見えていたのに。
小鳥遊に腕を貸し、教室までをゆっくり歩く。後ろから隣の席の須藤が声をかけてきて、隣に並んだ。
「足大丈夫?」
俺越しにかけられた須藤の声に、頷く小鳥遊。腕に掛かる手に少しだけ力が込められた。ここにも人見知りがいる。
「なあ、夏休み入る前か直後に、一度みんなでどっか遊びに行こうって話が出てるんだけど、二人とも平気だよな?」
「どこかってどこ?」
「今んとこ、カラオケか記念公園でバーベキューの二択」
「俺バーベキューなら行く。カラオケなら行かね」
「なんだよ、音痴か?」
「音痴なんだよ。小鳥遊は……小鳥遊もバーベキューなら平気だよな。翔悟連れて来られるし」
小鳥遊に目を向ければ、戸惑うように目を彷徨わせたあと、小さく頷いた。なんだ? 少し不安そうだ。翔悟のことだろうか。
「翔悟って?」
「ああ、小鳥遊の弟。年中なんだよ。激しく人見知り中なのに、案外ころっと懐いて可愛い」
「へーぇ。俺も弟連れて行こうかな。うちは年長なんだよね」
「須藤のとこも歳離れてるの?」
「離れてるってか、真ん中にもう一人いるからあんま実感ないなぁ。五つずつ離れてるんだよ、うち」
五つ違い。うちもそうだったなと思い出す。余計なことまで浮かびそうになり、慌てて須藤の声に意識を戻す。
「よし! 担任も巻き込んで金出して貰おう!」
「せこいなお前」
呆れながらそう言えば、須藤がばつの悪そうな顔をする。
「一人五百円以内に抑えたいんだよね。今月貧乏なんだよ俺」
「なら、吉井に相談すれば何とかなるかもよ。吉井んち、洋食屋なんだよ」
「レストランってこと?」
「洋食屋。親父さんが洋食屋ってのにこだわってるらしい。カツレツとかビフテキとか」
へーぇ、と声を上げる須藤は、早速とばかりに先に行った。小鳥遊を見れば見上げてくる大きな目と視線が絡む。
「参加できそう?」
「多分大丈夫かな」
さっきあった不安さは影を潜め、小鳥遊は少しだけ嬉しそうな顔をしている。
「翔悟、そういうところに連れていってあげたことないから、喜びそう」
「なら、バーベキュー押しだな」
「高岡君、音痴なの?」
「音痴らしいよ。俺はちゃんと歌ってるつもりなんだけどね。颯太に言わせると騒音らしい」
ふふっと綺麗な声で笑う小鳥遊を見ているだけで、同じように笑みが浮かぶ。
教室に入ると、早速さっきの話をしているのか須藤の周りに人集りが出来ている。
「慧、じいちゃんも呼ぼうぜ。よっちゃんとじいちゃんに炭熾して焼いて貰おうよ」
「バーベキューに決まったの?」
「決まった。小鞠んちから仕入れ値で肉とか分けて貰う」
わざわざ入り口まで駆け寄ってきた颯太が「小鳥遊さん、足大丈夫?」と声をかけると、さっきと同じように小さく頷いた。
「既に噂になってるよ。慧がデレた顔で自転車に彼女乗せてたって」
「デレたって……」
「デレてたんだろう?」
「普通デレるだろう、好きな子後ろに乗せてたら」
ぐっと腕に力がかかって、小鳥遊の存在を思い出した。しまった。ついいつもの調子で颯太と話してしまった。
「あーっと、昨日も言ったけど、そういうことだから」
俯いたまま小さく何度も頷いている小鳥遊の、さらさらの髪の間から覗いた耳が赤い。やばい。めちゃめちゃ可愛い。
にやにやした颯太を思いっきり無視して、小鳥遊の席までゆっくりと移動し、座らせる。待ち構えていたかのように小島と吉井がやって来て、小鳥遊に足の状態を聞いている。
「今日の二人見て、色々悟った自称慧のファンたちからの質問攻めがすごかった」
「悪いな」
自分の席に着いた颯太が小声で話す。隣から須藤も「俺もさっき二人と別れた途端聞かれたよ」と会話に混ざる。
「多分、このクラスのヤツらはなんだかんだ聞かれてると思うよ。まあ、クラスの半分は好意的だけど、半分はどうでもいいと思ってる感じだから、あんま騒ぎにならない方がいいと思うけど。高岡のこと知らないヤツもいるし」
声を抑える須藤に、颯太も頷く。クラス委員の須藤は、初めて同じクラスになったものの、小中と同じ学校だった。
「多分そこら辺は小鞠が上手くやるよ。昨日の話も既に小鳥遊さんに好意的な噂が流れてる。小鳥遊さんは元々悪い噂もないし」
流れているんじゃなくて流したんだろう、とは言わないでおく。
「悪いな」
「でもまあ、女子の方は妙に団結してる感じがするから悪くはないんじゃない?」
「こういうときの女子の団結力ってすごいよね」
魔王のわざとらしいセリフに呆れた笑いが漏れる。そうさせているのは颯太だろうに。
ホームルームのあと、担任が小鳥遊のところに昨日の話を聞きに来た。昨日の放課後になってようやく養教から話を聞いたらしい。ちゃんと小鳥遊に耳を近づけて聞いているあたり、今まで何とも思っていなかった担任の好感度が上がった。あんまり近付きすぎるなとは思うが。
「それで高岡の二人乗りか。お前、職員室で噂になってるぞ」
「一応気を付けて乗ってるんで、見逃してください」
「俺は立場上いいとは言えないけどな。気を付けろよ。人混みはちゃんと押していけ。一応俺は注意したからな」
渋い顔をしながらも見逃してくれるらしい。不意に小鳥遊に顔を向けた担任が、少し目を泳がせたあと小声で声をかけた。
「小鳥遊、色々大丈夫か?」
頷く小鳥遊の表情に特に変化はなかった。
だから俺は気付かなかったんだ。担任が何を意図して俺の前であえてそう声をかけたのか。