アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり08 飛行船
コルアの首都から迎えに来たのは、大きな大きな飛行船だった。
上空からゆったりと砦の前方に下りてくると、豆粒のように小さく見えたコックピットも、実際には大型バスよりも大きいことがわかる。
わらわらと砦の人たちが近寄っていき、コックピットの下まわりをぐるっと囲っているバーのような物を一斉に飛びつくように掴み、人力で砦から突き出ているフックに船体の鼻先を固定した。
飛行機の着陸をイメージしていたせいか、最後の人力での固定が意外すぎて思わず見入ってしまう。
「口閉じなさいよ。初めて見た?」
「あ、うん。飛んでるのは見たことあったけど、こんなに近くで見るのは初めて」
全体が金属っぽいものでできた飛行船を見るのも初めてだ。風船みたいに膨らんでいるところが鈍く光を反射している。それとも金属っぽく見えるだけだろうか。
もっとずんぐりとした風船っぽさをイメージしていたのに、目の前の飛行船はどう見ても空飛ぶ潜水艦だ。上下ひっくり返ったら潜水艦にもなったりして。
窓枠にちょこんと座っている黒猫ノワの呆れた目を見る限り、それはないらしい。
あ、もしかして私が入れられていた箱檻って飛行船にくっついていたのかもしれない。あの箱が自在に飛んだり進んでいたわけじゃないのかも。
砦では前庭に集まっている人と、いつも通り国境を監視する人たちに分かれている。
私は羽コンビ、偉い人、シリウスと一緒に、全方向窓になっている執務室から、大きな飛行船が目の前まで迫ってくるのを仰け反りながら眺めていた。
砦は凸の字みたいな建物だ。中央の飛び出た階に執務室兼司令室がある。昨日までの執務室は、パネルのような可動式の壁で仕切られていた。今はそのパネルが取り払われ、たくさんの機械やモニタみたいなものに囲まれた司令室と一体化している。
「ここって、空飛ぶ乗り物は飛行船なの?」
「そうね、『飛行機』や『ヘリコプター』みたいな乗り物はないわ」
飛行機とヘリコプターのところだけ、ノワの声がノイズ混じりの機械音みたいに聞こえた。
コックピットから降り立ったのは軍服を着た人たち。出迎えの砦の人たちも、いつもの戦闘服ではなくみんなきっちりと軍服を着込んでいる。私もいつの間にかきれいに洗われていた制服を着た。冬服が少し暑い。
今ここは夏の始まりくらいの気候らしい。
「あなたの言葉に合わせるなら初夏ね」
ここにもちゃんと季節がある。地球とそう変わらない環境。
窓から入る風は、春の終わりと夏の始まりが交じり合ったような匂いがしている。覚えがあるようでいてないような、そんな気のせいのような匂いに、心の奥が小さく波立つ。
私を取り囲むように、シリウスと偉い人が後ろに手を組み左右に並び立つ。偉い人を見上げると目が合う。途端、口元が微かに和らいで見えた。
食事はずっと部屋で一人で食べていた。ノワもブルグレも一緒にいてくれた。それでも、時折かすかに聞こえてくる食堂からの賑やかな声に、ふと淋しくなることがあった。
それがシリウスに伝わってしまい、時間が合えばシリウスも一緒に食べてくれるようになり、そこに偉い人が加わることもあった。
偉い人とは直接の会話ができるわけじゃなくとも、一人で食べるよりはずっとおいしく感じられた。偉い人も少しずつ聖女ではなく一人の人間として接してくれるようになり、作り笑いが少しだけ減った。
こんなふうに自然と和らいだ表情を時々見せてくれるようにもなった。
窓下では首都から来た軍人と砦の人たちが互いに敬礼し合っている。軍人たちが砦を見上げ、一斉に敬礼する。わざわざ出迎えないのは偉い人の方が立場上ってことだ。
「いい加減偉い人って呼び方もどうなの? この先みんな偉い人になっちゃうわよ」
「そうなんだけどさ……」
「本人が名前で呼んでくれって言ってたじゃない。呼んであげなさいよ。名前だけは呼べるんだから」
そうなのだ。固有名詞だけは通じる。私がシリウスと呼んでいるのを聞いた隊長さんが、しきりに「ポルクス」を繰り返し、それが彼の名前──通称であることをシリウスから教わった。
一度「ポルクスさん」と呼んだら、「ポルクスサン」と相手には伝わるらしく、シリウスにまで「ポルクスサンではなくポルクスだ」と何度も言い直されてしまい、何度「さん」は敬称なのだと言っても相手には「ポルクスサン」という名前に聞こえるらしい。
「呼び捨てはなぁ」
「じゃあ、ポルクスおじさんとかは? 本人にはポルクスしか通じないでしょ」
笑いを堪えたような羽ヒョウの声にむっとしながら言い返す。
「そのたびに笑うんでしょ?」
「笑わないわよ」
すでににやにや笑っている人の言葉じゃない。
さっきからノワが自分の名前を呼んでいるからか、ポルクス隊長の目が期待に満ちていて、正直面倒だ。
「ポルクス隊長って呼ぶよ」
その瞬間、ポルクス隊長が私に向かって嬉しそうに敬礼した。名前を呼んだだけでこんなに喜んでくれるなら、できるだけ呼びたいとは思う。が、特に用があるとは思えないのでそう呼ぶ機会もないはずだ。
──用がなくても呼んでやって。
『やだよ。なんか懐かれそうなんだもん』
頭の中で思いっきり笑うのはやめてほしい。
実際のシリウスは無表情で隣に立っているのに、頭には思いっきり笑い声が響いている。力をコントロールできるようになったシリウスは、頭の中でよく笑うようになった。
あんなに表情豊かだった砦の人たちが今は誰も彼もが真顔だ。特に諜報員たちのロボットみたいな無表情っぷりはすごい。オンとオフでこれほど違うものなのかと感心する。プロってすごい。
すぐに出発するのかと思いきや、首都軍人集団が執務室兼司令室に到着した途端、ぐだぐだ何かを話していて一向に動き出す気配がない。
『ねえ、まだかなぁ』
──今ようやく挨拶が終わったところだ。
堪りかねてシリウスに訊いたら、頭の中に軽い笑い声が響く。
全員が立ったままやりとりしている中、一人だけ座らせてもらっているとはいえ、さすがに待ちくたびれた。
こんなことなら部屋で待っていればよかった。なんだか面白そうだから見学させてほしいと頼み込んだ手前、今更部屋に戻りたいとは言えない。
シリウス以外に言葉が通じないからこそ許された司令室の見学は、本来であればたとえ聖女であっても許可されない。当然ながら勝手に歩き回ることは禁止されている。
──聖女の御前だと妙に張り切ってるんだよ。
『首都から来た人が?』
──そう。聖女の覚えがめでたければ、あわよくば、とまあ、さっきからそればかり考えている。
『すでに印象最悪なんだけど。さっきからこれ見よがしにチラ見されてへらへら笑われてるのキモい』
キモいと言った瞬間、シリウスが頭の中で弾けるように笑っている。
表情には一切出さずに頭の中で豪快に笑うとは、なんと器用なことか。思わず嫌味を思えば、シリウスの笑い声が一層大きく響く。
『笑いすぎだから』
──あの人、一応国王副補佐官なんだよ。
『なんか肩書きは偉い人っぽい』
言葉に込めた嫌味が伝わってしまったらしく、またもやシリウスが笑っている。シリウスだって「一応」とか嫌味なこと思ったくせに。
ポルクス隊長も偉い人だ。彼には偉い人特有の品がある。けれど、その補佐官はなんというか、俗物っぽい感じがする。
「お前さんにもわかるのか」
「あ、やっぱり?」
偵察に行っていたブルグレが、楽だから、と飛行船に便乗して帰ってきた。本当に見た目を裏切るおっさん根性だ。ここは健気に一生懸命飛んで帰ってくるところじゃないのか。
しかも帰ってきて真っ先に向かったのが食堂で、フルーツが保管してある場所から勝手に失敬してきただろう何かの実を抱えながら、「只今帰還」と言ったそばから囓り出すというダメっぷり。
「行きでくたびれたんじゃ」
「まあそうだろうけどさ」
行きは自力で飛んでいったらしく、思いっきり疲れたらしい。ノワから餞別に渡された霊果がなければすぐには動けなかったとか。羽リスたちの伝言リレーでノワにそう報告がきていた。おっさん精霊だから体力ならぬ気力がないらしい。
「それにしても、まだ終らんのか。あれは話が長くていかん」
「いつもそうなの?」
「無駄口とはあれの口のことだな」
さっきからシリウスの笑いが頭に響きまくっている。
笑いすぎだと思うのに、顔はまるで笑っていないから不気味を通り越して器用だと感心する。私なら耐えきれず吹き出す。
『ねえねえ、さっきからシリウスの名前が連呼されてるけど、なに?』
──ああ、俺がサヤの専属護衛になることに副補佐官が大反対している。
『なんで?』
──自分の息子をなんとかねじ込もうと考えているからだ。
『無理でしょ。言葉通じないし』
──それをさっきから隊長が説明しているんだが、聞く耳持たずだ。
『そういえばさ、ポルクス隊長って副補佐官より偉いの?』
──偉いな。連合国軍の長だ。
『へぇ』
──おまけにコルア国王の兄だ。
『王様のお兄さんってこと? え? なんで家がこんなとこにあるの?』
──城にも居住区はあるし、城下にも別邸はある。
『超お金持ちってこと?』
──そうだな。
『えっとね、後ろ盾の件、よろしくお願いしますって伝えて』
横でノワが「どっちが俗物なのよ」と呆れている。
長椅子から立ち上がり、シリウスの隣に並ぶ。
ツバを飛ばす勢いで何かを喚いていた副補佐官の口がぴたりと止まり、ねばっこい愛想笑いを浮かべた。背中を丸めて揉み手でもすれば完璧なごますりオヤジだ。
副補佐官が挨拶をしようとでもしたのか、一歩踏み込んで来られて、一歩後退る。つい、シリウスの後ろに隠れてしまった。
──どうした?
何事かと見下ろす盾にしたシリウスを見上げる。軍服を着ているからか、いつもより凜々しく見える。
『シリウスじゃなきゃやだって伝えたいんだけど、どうすればいい?』
無表情だったシリウスの目元だけが和らいだ。拒否されていないのがわかって嬉しくなる。
──大丈夫だ。今のサヤの行動を隊長が大袈裟に副補佐官に伝えている。
『大袈裟って?』
──あー……大丈夫そうだな。
どことなく楽しそうなポルクス隊長の声が上がると、控えていた首都から来た軍人たちが一斉に行動に移った。
──ようやく出発だ。待たせたな。
『ポルクス隊長の方が偉いのに、文句言うってずいぶんな人だね』
しかも、副補佐官は不満を隠そうともせず、むすっとふてくされている。ポルクス隊長が気安く話しかけ、ばしばし肩を叩いているから元々仲はいいのだろう。
──気にするな。いつものことだ。それでも国のためとなれば腹をくくれる人だから。
そんなものか。
一階に下りると、ロビーにみんなが集まっていた。
今回同行するのはポルクス隊長とシリウス、護衛として諜報員の半分と砦の人の四分の一だ。すでに昨日のうちに交代要員が到着している。
この砦にいるのはポルクス隊と呼ばれる、ポルクス隊長が直々に選んだ人たちで構成される特別チームだ。
私たちの姿が見えた途端一斉に敬礼された。
なんだか名残惜しくてみんなの顔を見回す。真顔なのにみんなの目が優しくて、ここに来てよかったと心から思った。
「ありがとうございました」
頭を下げることをノワに止められ、感謝の気持ちを精一杯の笑顔に変える。
まるでみんなに押されるように、足の古傷を治した男の人が一歩前に出た。差し出されたのは白い革でできた何か。受け取ってみればそれは白い皮の手袋だった。しかも左手だけ。
思わず顔を上げると、目の前にいた父ほどの年齢の男の人が照れくさそうに笑った。
──左手、気にしてただろう? それ、レグルス副長の手作りだ。
『足の調子どんな感じ?』
──すごくいいらしい。
よかった。
「ありがとうございます。大切にします」
声に出してお礼を言いながら手袋をはめてみる。
あまりにもぴったりで、驚きながらその手をみんなに見せるように顔の前で動かす。指先や甲の部分が空いた、手のひらだけを覆うシンプルな手袋。きっといい皮なのだろう、肌に馴染んで指の動きを妨げない。
ふと見れば手首にある留め具部分に花の模様が刻印されていた。部屋に飾られていた花の中で一番好きだと思っていた、マーガレットにも似た花。
嬉しくて泣けた。
以前はこんなふうにすぐに泣くような性格じゃなかったのに、ほんの些細な優しさがどれほど得難いものかを知ってしまった今は、その尊さに心が揺さぶられる。
首都から来た大きな飛行船の周りに、小さな飛行船がいくつも並んでいる。
二人がかりで運んでいる舟形の箱のようなものが位置に着くと、ぼふん、とその上部が膨らみ、小さな飛行船に早変わりする。
風船のようなものの中はガスではないのか、それらしきものの注入はない。膨らんだ瞬間にふわっと浮き上がった。きっとあの箱檻の正体もこれだ。
砦の人たちが二人一組で小さな飛行船に次々乗り込んでいく。彼らの動きは首都から来た軍人たちとは違って、無駄が一切なくきびきびしている。
「精鋭ってこういう人たちのこと言うんだね」
「そうねぇ。違いすぎて笑っちゃうわね」
──彼らは軍の中でも内勤者だ。同じ訓練をしてはいるが、基本的には後方支援だから……。
シリウスの庇うような声に、ノワは「でも同じ軍人でしょ」とにべもない。
──まあな。足を痛めていたときの副長も内勤だったが、あれよりは動きがよかったな。
『だよね』
案内された飛行船に乗り込もうとした瞬間、またもや副補佐官がなにやら文句を言い出した。何を言っているかはわからなくとも、文句を言っているのはわかる。
──あー……、猫を乗せるわけにはいかんと……。
『文句言ってるわけね』
思わずノワと顔を見合わせる。
「背中に乗っていく?」
『じゃあいいって伝えて。ノワと一緒に行く。シリウスはどうする?』
──一緒に行くに決まってるだろう。また隊長に羨ましがられる。
うんざりしながらもその声には笑いが含まれていて、わざとらしくおどけながら羨ましがるポルクス隊長が目に浮かんだ。あの人はなぜか陽気に振る舞おうとして失敗している気がする。
どうやらポルクス隊長も自分の飛行船で行くらしく、急いで用意されている。
ポルクス隊は誰一人首都から来た大型飛行船には乗り込まず、みんな自力で首都を目指すことにしたらしい。
大慌てで飛行船の向きを変えている軍人たちが滑稽すぎる。砦に残るポルクス隊は誰一人手伝おうとしない。
──自分の隊が関わらないなら本来手助けする必要はないからな。要請されれば別だが、この場合それを要請するのは屈辱だろう。
ノワが羽ヒョウサイズに変わった瞬間の副補佐官の驚きようといったらなかった。
乗船を拒んだ黒猫が実は霊獣でしたというオチは、彼をこれ以上ないほど動揺させたらしい。
遠慮ないポルクス隊長の笑い声があたりにこれでもかと響き渡る。砦のみんなも容赦ない。
シリウスに持ち上げられ、ノワの背に跨がる。スカートなのにまただ。小さく、すまん、と頭に響いた。女らしく横座りしたい気持ちをのみ込む。そんな体勢怖すぎて無理だ。めくれないようスカートの端を入念に足の下に押し込む。
──サヤ、出発の合図をしろ。
「え? あ、じゃあ、しゅっぱーつ!」
声を張り上げると、一斉に掛け声が返される。すごい! かっこいい!
次々と小さな飛行船が一気に上空まで浮上し、羽ヒョウも同じ高みまで一足飛びに駆け上がる。
ここで気持ち悪い顔なんてできるか、と精一杯虚勢を張りつつ、浮き上がる内蔵に吐き気を堪えながらシリウスにしがみつく。
またもやいつの間にか肩に乗っていたブルグレが「うほー!」と、おっさん声ではしゃいだ。できればこういうときはかわいい鳴き声にしてほしい。