アンダーカバー / Undercover
第五章 存続
79 彼女の真実


「サヤ、大帝国に潜る」
 ブルグレの帰りを待たずして、シリウスたちが慌ただしく動き始めた。
「とりあえずは俺が行く。あとでノワと一緒に来てもらうことになるかもしれん」
「だったら最初から一緒に行くよ」
「いや、とりあえずは俺だけでいい」
 何があったのか教えてくれない。私のいじけた思考にか、シリウスが渋い顔をした。
「妙な動きがある」
「いきなり停戦条例反故?」
「いや、こっちじゃないんだ。ファルボナだ」

 また微妙なところを突いてきた。ファルボナは連合支援国であり、対外的には加盟国と言われているけれど、その実、自立できない以上まだ加盟国でも同盟国でもない。あくまでも支援国だ。支援しているのだから同じじゃないの? と思うものの、あくまでも加盟・同盟は対等な立場でなければならないらしい。
 連合支援国はファルボナ以外にもいくつか存在し、大抵は小さな国だ。マヌカも小さな国だけれど、ちゃんと自立している。
 もしかしたら、同盟や加盟という言葉のニュアンスが日本語とは少し違うのかもしれない。

「まだ砦もできてないのに……」
「まだ始まったわけじゃない」
 だからシリウスが行くのか。
「サヤはノワと一緒に家に籠もってろ。エニフとデネボラが警護に就く」
「ここじゃなくて?」
「家にいろ。あの森はサヤの加護がない者には抜けられん」
 そうなの? 驚いてノワを見れば、にたり、と妖獣の笑みを頂戴した。
 知らなかったのは私だけか。ため息をのみ込む。なるほど、ポルクス隊しかたどり着けないわけだ。
「そこまでわかっていて気付かないあなたってホント鈍いわよねぇ」
 ノワめ。うきうきと楽しそうに目を細められた。
「ノワって私のこと罵るとき本当に楽しそうだよね」
「楽しいもの。あなたと出会えてホントよかったわ」
 ノワめ! いつかその顔ふん捕まえて思いっきりもみもみしてやる。
「あなたごときが私のこと捕まえられるとでも思ってるわけ?」

 このやろう。しゃーっと両手を挙げて飛びかかるフリをしていたら、シリウスの苛立った「サヤ!」が聞こえた。

「わかったか? 家にいろよ」
 念を押された。そんなに信用ないか。
「自分の胸に聞け」
 そんな捨て台詞を吐いて、シリウスが執務室から出て行った。入れ替わるようにエニフさんとデネボラさんが入ってくる。デネボラさんの、ご愁傷様、みたいな顔はやめてほしい。
「最近シリウスが容赦ない」
「あなたのうだつが上がらないからでしょ」
 うだつってなんだ? ノワから「梲」という漢字と屋根の柱みたいなイメージが伝わってきた。一層意味がわからなくなった。そんな知識、私のどこにあった? 何気に見ていたテレビのテロップか?
「バカって嫌ね」
「バカって言うヤツがバカなんだよ」
「負け犬の遠吠え」
 ノワめ! いつか必ず! なぜ負け猫の遠吠えじゃないんだ!
「あなたね、もう少し聖女としての格を上げなさいよ」
 そういう意味か。なぜ私の知識なのにノワやブルグレの方が詳しいのか。
「ってか、聖女の格って上がるの?」
「上がるんじゃなくて上げるの。わかる?」
 バカにして。
「自力で上げられないなら、禊ぎよ」
 あれは二度とごめんだ。思わずソファーの端に逃げた。
「だったら、もう少し力のコントロールできるようになりなさいよ」
 大雑把なノワに言われたくない。くそぅ、飛びかかられて猫パンチを食らった。しかもビンタだ。容赦ない。



 シリウスが帰ってこない。一日に何度か能力を使って話しかけてくれるせいか、離れていてもそれほど不安はないものの、淋しさは募る。

 家にレグルス副長に連れられたメキナの神殿長改めアトラスの神殿長となった糸目の神殿長が訪ねてきた。シリウスの指示通り、神殿長に迷彩の加護を与えると、同じく迷彩化したレグルス副長と一緒にこれまた迷彩飛行船に乗って飛び立っていった。
 言われた通りにしたものの、なんの説明もないことに苛立つ。

「ねえ、どうなってるの?」
「さあ。あのクソ女の置き土産がどうしようもないものだっただけよ」
「何したの?」
「赤の男の感情を奪ったの」
 は? 思わず口を開けたまま固まった。
「しかも愛情だけ」
 は? とりあえず口は閉じた。
「え、どういうこと? 愛するって感情だけ奪ったってこと?」
「そう。意味わかんないでしょ?」
 ノワが心底不思議そうに首を傾げた。
 いやいや、わかるよ。めっちゃくちゃわかるよ。うわぁ、最低。
「どういうことなの?」
「わかんないけどさ、たぶんだけどさ、あの赤の男が好きだったんじゃない?」
 だからって、それはない。それは人としてやっちゃいけないことだ。
「意味わかんないんだけど」
 ノワがきょとんと小首を傾げた。かわいいな、こんにゃろう。
「自分がいなくなったあと、ほかの人を愛せないように感情を奪ったんだと思う」
 赤の男に加護を与えておくべきだったか。いや、それはないな。加護はやっぱり好意のある人にしか与えたくない。

「執着ってこと? ってことは、あなたも同じことするの?」
「しないよ! それはしちゃいけないことだよ。ほかの人を好きになってほしくないって気持ちはわかるけど、それを実行するのはただのエゴでしょ」
「愛情がないのって不幸せなの?」
「愛情って思うからノワはわからなくなるんだよ。ノワだって何かを気に入ったり大切にしたりするでしょ、それの強い気持ちが愛なんだと思う。そういう気持ちがなくなるわけ」
 うーん、と悩ましげな唸りを上げたあと、ノワがひと言「それってつまんないわね」と漏らした。
「でしょ? 楽しいとか嬉しいって感情もそこに繋がってると思うんだよね」
「そうかも。それがなくなると、面白いか面白くないかしか残らないわね」
「妖獣思考になるでしょ?」
「あんた、ちょいちょい失礼ね」
 なるほど、それで感情を持たなかった神殿長の出番なのか。

「ってかさ、あの二人って愛し合ってたりしたわけ?」
「あなたさっき自分で言ったでしょ。愛し合ってたらそんな呪いかけないんでしょ」
 加護じゃなくて呪いなのか。確かに、愛する感情を奪うなんて呪いだ。同じ力なのに、加護にも呪いにもなるのか。
「え、でもさ、だったら私が治せるんじゃないの?」
「そうしたら、あの赤の男に加護を与えることになるわよ」
 それは嫌だ。面倒だな。
「私の代わりにノワがやったら?」
「瞬殺」
「だよね」
 そこで楽しそうな顔をするのがノワだ。この妖獣思考、いかんともしがたい。
「なんか私って蚊帳の外じゃない?」
「あなたが行っても役に立たないでしょ?」
 ぐうの音も出ない。

 タイミングよくエニフさんがおやつを持ってきてくれた。最近売り出されたマヌカの新商品で、果物がごろごろ入っている高級ゼリーだ。
 エニフさんとデネボラさんがうちで寛いでいるのを見ると、二人にとってこの任務も悪くないような気がしてくる。二人も食べなよ、とジェスチャーで伝えると、デネボラさんがわかりやすく喜んだ。

 デネボラさんが食べ終わるのを見計らって訊く。どうなってるの? のジェスチャーに、デネボラさんがしれっと、聞いてない、と返してきた。ふーん、と鼻を鳴らしながら、高級ゼリーの入っていた器を指差す。
「んなっ! 卑怯なっ! だって」
 ノワに解説されなくてもわかった。デネボラさんだっていいお給料もらっているはずだから高級ゼリーくらい買えるだろう。
「このゼリー、聖女献上品だから一般販売されてないのよ」
「そうなの? てっきり新商品かと思った」
 で? と首を傾げたら、デネボラさんがため息を吐いた。

 ノワ解説員によると、赤の男は愛情を失っただけじゃなく、羽リスたちが調べたところ子供を残す機能も失ったらしい。羽リスたちはそんなことまでわかるのか。
 これが公になると次期皇帝の地位が危ぶまれるだけじゃなく、大帝国皇家存続の危機に繋がる。

「あー、直系男子だっけ、皇帝になれるの。現皇帝の隠し子とかいないの?」
「だから、この世界での浮気は重罪だってば」
「え、じゃあ、男児が生まれなかったら?」
「離婚して再度別の女を娶るのよ」
 浮気しなきゃいいって問題じゃないだろう。どうなのそれ。男の方に原因があったらどうするんだ。
「今の皇帝にもう一人子供は……無理なの?」
「さあ。そのへん私に訊いてもわかるわけないでしょ」
 機能しなくなったのか、種がなくなったのか、ブツがなくなったのか。どうでもいいことだけにかえってものすごく気になる。
「なんか個人的に、そこの治癒ってしたくないかも」
「シリウスがさせないわよ」
「だよね」
「まあ、乙女の呪いを解けばそのへんも改善されるわよ」
「誰が解くの?」
 さあ、と肩をすくめるノワの笑みが妖獣。
「加護を与えないで治すことってできるの?」
「だから! あなたのうだつが上がらないことにはどうしようもないって言ってるでしょ」
 うだつ好きだね。普通にレベルとかスキルとか、わかりやすい言葉にしてほしい。そんな一世紀も前の言葉。あ、ノワにとっては一世紀は先週みたいなものか。
「禊ぎ決定ね」
「ごめんなさい!」



 謝ったのに!
 巨大ノワの口に咥えられたまま、笑顔のエニフさんと顔を引き攣らせたデネボラさんに見送られ、ノワの住処までマッハで連れて行かれた。
 問答無用であの死ぬほど冷たい噴水の中に着の身着のまま放り投げられ、頭を巨大ノワの前足で押し込まれ、完全に水没した。全機能停止。

 ノワの口の中はフルーティ。知らなくていいことをついに知ってしまった。

 ずっと前にノワの住処に置いていった軍シャツとカーゴパンツが役に立った。下着類がないことには目を瞑る。ずぶ濡れの服を絞れるだけ絞ると、そのままシリウスの元へと届けられた。



 扉の前でノワが「シリウスさーん、お届け物でーす」と宅配便の真似をする。それ、たぶんシリウスには通じないから。
 慌てたように扉を開けたシリウスの目がつり上がっている。無意識に後退る。あ、久しぶりにオレンジシリウスだ。
「また勝手に!」
 怒りを押し殺したような低い唸り声。咄嗟に逃げようとした腕を掴まれ、扉の中に引き摺り込まれた。姿を隠しているのに、念のためなのか抜かりなく辺りを見渡したシリウスは、音も立てずに扉を閉めた。

「お怒りはごもっともですが、私じゃなくてノワだもん」
 振り向きざまのシリウスの顔が般若だ。
「加護を与えなくても治癒できるように調整しといたから、このうだつの上がらない女」
 ノワが本気でひどい。おまけに下着を着けていないから色々心許ない。

 なっ、と目を剥いたシリウスが、慌てたように自分のシャツを脱いでそれで私を包んだ。そんなに慌てずとも見ただけじゃわからないはずだ。久しぶりに会ったのに、挨拶どころかお怒りのうえ、ブルグレの破廉恥コールがうるさい。

「何やってるんだよ、もう」
 情けないシリウスの声に、心底情けなくなった。とりあえず抱きつく。淋しかった。
「ノワに禊ぎさせられたんだよ。着の身着のまま冷水にドボン。でかい前足で頭押さえつけられて死んだ」
 真下から見上げながら、頭の中で惨事を再現する。フルーティさを知ったところで向けられたシリウスの哀れみの眼差しがせつない。
「で、ここどこ?」
「帝都にある隠れ家だ」
 一見、普通の西洋風アパートメントだ。広めのワンルームにレトロなデザインの木製家具は角が丸い長方形のテーブルと椅子がふたつだけ。こざっぱりしすぎていて生活感がまるでない。ベッドもない。どこで寝ているのかと思えば、床に寝袋が丸めてあった。

「ってかさ、あの赤の男、乙女に何したの?」
 余程のことをしない限り、呪いめいたことなんてしないだろう。
 シリウスがお茶を淹れてくれた。手土産も持ってこなかったことを後悔する。
 シリウスが座っていたらしき向かいの椅子に座れば、ノワがすかさず膝に飛び乗ってきた。ベッドもソファーもラグもないから私の膝の上で我慢してやる、ってな気配がわかりやすく伝わってくる。ノワめ。
「それはサヤの感覚だな。忘れたのか? 自分が気に入らないというだけでサヤにした仕打ちを」
 なるほど。やりかねないのか。
 テーブルの上に広げられていた書類をまとめて端に寄せると、空いたスペースにカップがふたつ置かれた。ウーロン茶っぽい香りにノワが鼻の頭に皺を寄せている。ノワはお茶の匂いがあまり好きじゃない。

「どうすることにしたの?」
「放っておく。隊長ともそれで一致した」
 えー……じゃあ、私の禊ぎの意味は……。ぎろっとノワを見下ろせば、すかさずふいっとそっぽを向かれた。
「男の子生まれなくていいの?」
「いいんじゃないか? 裏でなんとかするだろう」
「そういうもん?」
「そういうもんだ」
「直系男児じゃなくていいの?」
「現皇帝の弟のところに息子がいる。その前の皇帝の系譜にも男がいる。皇帝の息子だけに継承権があるわけでもない」
 なんとなく現皇帝の息子以外はダメかと思っていた。
「揉めないの?」
「揉めたところでそこまで面倒見る筋合いはない」
「じゃあ、なんでいつまでも帰ってこないの?」
「感情の欠如がどういう思考になるのかある程度把握しておきたい」
 愛だけを失うってどんな感覚なのだろう。やっぱり妖獣思考になるのだろうか。
「元々持っていた感情が消えたんだ、反動なのか渇望が著しい」
「渇望って?」
「破廉恥行為じゃ」
 シリウスの肩に乗るブルグレの唸るような声に、同じく「あー……」と唸ってしまった。機能もブツも健全なのか。「サヤ」とシリウスの咎めるような声が低く響いた。

 中田さん、逆効果ですよ。やりまくられているじゃないですか。
 命をかけてまで人を呪うからだ。最後まで迷惑な。そんなに王妃になりたかったのか。

「なりたかったんだろうな」
 ん? ってことは、自分の結婚相手が第二皇子だってことを知ってしまったのか。いやまてよ、そもそも最初に彼女自身が選んだ相手は第二皇子だったはずだ。元々王妃は狙っていなかったくせに、今更王妃に執着するのか。それともなにか、赤の男を惑わせられなかったから、代替え案で第二皇子に狙いを定めたとか?
 シリウスの表情を見る限り、あながち間違ってはいないようだ。
「だったらそれって愛ゆえじゃないよね」
「そうだな」

 彼女はどんな思いでこの世界に生き、そして逝ったのか。
 元の世界よりこの世界を望んでいたなら、元の世界ではどんな風に生きていたのだろう。死のうとするほどの何かがあったのに、私は彼女のことを何も知らない。

「知りたいか?」
「そうだね、知りたいかも」
 シリウスが何かを確かめるようにじっと見つめてくる。彼女に対し冷静でいられることが自分でも不思議で仕方がない。
「あれには兄が二人いたんだ」
 静かにシリウスが語り始めた。

 その兄らはとにかく出来がよかったらしい。常に彼らと比べられ、馬鹿にされ、蔑まれ、彼女は家に居場所がなかったらしい。その挙げ句、大学にも行かせてもらえず、高校卒業後は大口取引先の放蕩息子との結婚が決まっていたとか。

「でも、確か彼女、成績は学年でもトップクラスだったはずだよ」
「サヤの行っていた学校は親の望んだ学校ではなかった」
 あー……確かにうちの高校は中の上レベルだった。公立だったし。
 おまけにそんな高校に通うのは恥だと言われ、名字を変えられた。中田は母親の旧姓で、高校には母親の実家から通っていたらしい。どんな親なんだ。お金持ちならお金でなんとかすればいいのに、それでは世間体が悪いらしい。確かに、人の口に戸は立てられない。

 そういえば、「ほのかって呼んで」と言われたことがあったような気がする。周りからも名前で呼ばれていたっけ。そこまで仲良くもないのに名前で呼ぶのはなぁ、というふわっとした理由で「中田さん」と呼び続けてしまった。今思えば地雷踏みまくりだったかも。
 おまけに、「中田ほのか」と「田中さやか」の字面が似ていたせいでよく間違われたらしく、相当苛ついていたとか。それは間違えたヤツが悪い。

「家出すればいいのに」
「諜報部隊が連れ戻すだろう」
 諜報部隊って……。情報部って言うからIT系の部署かと思っていたら、諜報系なのか。
「そんな大きな会社だったの?」
「あなたも知ってるくらいの大企業よ」
 知らなかった。本当に何も知らない。教室できゃらきゃら笑っていた彼女しか知らない。
「それがなんで私を恨んでたの? やっぱり由貴のことで?」
「それが一番の理由ね。あとは兄弟仲がよかったことが鼻についたのね」
「私が直接何かしたとかじゃないってこと? 私のこと庇って隠してるとかじゃなくて?」
 シリウスにもノワにも「隠してない」と返された。ブルグレも頷いている。

 もしかしたら、自分でも気付かないうちに彼女を傷付けていたのかもしれないと思っていた。どちらか一方だけが悪いなんてことはないと思っていた。
 うちは三兄弟だったせいか、特にそれを実感しながら育った。晃も悪いけれど晴も悪い。さやかも悪いけれど晃も悪い。うちでは喧嘩の後は互いの悪いところを指摘されながら、身につまされる反省会が開かれるのだ。

 だからといって、「そっか、彼女も大変だったんだ、私にした仕打ちも仕方ないものだったのね」とは思えない。第三者の立場なら百歩譲ってそう思えたかもしれない。同情はする。誰かに助けを求めるならわかる。けれど、自分が辛いからといって、誰かを貶めたり陥れていい理由にはならないだろう。仕返しは関係者にしろ。

「あなた自身に理由があるとすれば、そういうところよ」
「どういうとこ?」
「正しくあろうとするってことかしら」
「そんなの大多数の人がそうだよ」
「そうかもしれないけど、あなたのことが特に目に付いたのね」
 ああ、由貴に向けた視線の先に、私の存在もあったからか。
 由貴のことなんてなんとも思ってなかったのに。むしろ極力避けていたのに。一緒にいるときは間違いなくいびられていたのに。
「サヤの事情などあれには関係ない」
 だよね。私に彼女の事情が関係ないのと同じだ。よかった、シリウスが能力持ちで。私がいかに由貴を避けてきたか、誤解することなくわかってくれる。

 はぁーっ、と大きなため息が出た。
 あのときの言葉通り、彼女にとっては私の存在そのものが邪魔だったってことか。
 私は、決定的な理由がほしかったのかもしれない。こんなことをされるだけの決定的な非が自分にもあったのだと納得できるだけの、直接的な理由がほしかった。

「ここに来なければ、あなた最悪殺されてたわよ」
「へ? なんで?」
「だから逆恨みだってば。あなたを殺せば結婚しなくて済むって本気で考えていたもの。ちなみに投身自殺を偽装するつもりだったわよ」
 そのノワの説明に、シリウスとブルグレがともに嫌悪の表情で頷いた。
「え、っと、殺したいって思うだけじゃなくて? 脳内殺人じゃなくて?」
「具体的な計画立ててたわ。あなたの遺書も作成済みよ。お父さんとお母さんに会いにいきます、だったかしら」

 その意味がじわじわと頭の中に広がっていく。
 無理無理無理無理。理解できない。したくもない。吐き気がする。

「前にあなたも頭の中であの女を惨殺してたし、あの女もあなたのこと殺そうとしてたし、あんな殺戮ゲームを作るような界だから、あなたたちは同種を殺すことが当たり前なのかと思っていたのよねぇ」
 何がどうあっても妄想と現実は違う。バイオレンスな娯楽が蔓延していたからといって、現実にそれをやったら人として終わっている。
「そうそれ。前にあなたがそれと同じことを言ってるの聞いて、あら違うの? ってびっくりしたのよ」
 確かにあの頃の私は自分でもかなり殺伐としていたような気がする。投げやりというか。今は精神的に安定したからか、そういう気持ちも緩和された。
「殺害計画をことごとく邪魔したのがその幼馴染みなのよ。意図してなのか、無意識なのかはわからないけど。だから余計にあなたが逆恨みされたわけ」
 由貴の場合は無意識だ。あいつの察知&回避スキルは人外並みだ。今思えば由貴こそ能力持ちじゃないかと思う。憎まれっ子世に憚るとはよく言ったものだ。

 そもそも、結婚したくないから人を殺すって……関係ない私が死んだところで彼女の結婚が覆るとは思えない。殺すなら親か結婚相手だろう。支離滅裂だ。
 何を根拠にそう思ったのか。まさか、私さえいなければ由貴と結婚できるとでも思ったとか? いやいや、さすがに思い込みが激しすぎる。いくらなんでも短絡的だ。それとも、殺人者の思考ってそういうものなのか。
「そういうものかもな」
 シリウスの感情のこもらない声がするっと耳に這入り込む。以前シリウスが彼女に言い放った「殺そうとしたのか」は、比喩でもなんでもない事実だったのか。

 急に現実が迫った。ぞわっと震えた。
 無意識に作り笑いで誤魔化そうとして、今更ながら目の前にいる彼らには何一つ誤魔化さなくていいことを思い出した。
 はっきりと気持ち悪かった。怖かった。
 理解できないことがこんなにも気持ち悪いことだとは思わなかった。
 わかり合えない人もいる。よく聞く言葉だ。その通りだった。
 きっとどれだけ話し合ったところで、わかり合えっこなかった。
 シリウスが言っていた、私の生を彼女に与えることも、彼女の死を引き受けることも、絶対に無理だった。与えたくない以上に何一つ受け取りたくない。
 理解できない彼女の存在が無性に怖かった。
 頭のどこかで単純に思う。関わらないようにしてきて本当によかった。