アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失
65 血


 聖女に近い人間の血が使われた、というノワの仮説には裏付けがあった。
「シリウスの血があなたの血に似てきたのよ。それでね、もしかしてって」
「人間同士なら血液が似ているのは別におかしくないんじゃないの?」
 色素の違いからDNAは多少違うにしても、血液の成分はほとんど同じだと思う。にもかかわらず、似てきた、というノワの言い方が引っかかった。血液の質が変化したとでもいうのか。

 ノワがのっそりと首を左右に振った。
「そういう意味じゃないわ。あなたの血は力そのものなのよ。シリウスが能力持ちだとしても、血に力があったわけじゃない」
「ってことは、今はあるってこと?」
「まだそんなに強くないけどね。そういう意味では質が変化したともいえるわね」
 シリウスを見れば、彼自身も知らなかったのかひどく驚いていた。
「俺の血でも治癒できるってことか?」
「まだそこまで強くないわ。かすり傷が治せる程度ね」
 繋がるとはそういうことなのか。
 単純に生き死にが同じになるだけじゃない。シリウスに私の命力が馴染んで、私にシリウスの命力が馴染んで、その能力までもが繋がり合う。
 そして、いきなり何もかもが繋がるわけでもないということか。
「ということはさ、私も思考が読めるようになるってこと?」
「あなたの場合は最初からできるはずのことができないんだから、繋がったところでできないんじゃないの?」
 えー……。あ、でも最近表情が読めるようになってきたのはそのせいかもしれない。
 なんとなく呆れているような三人のことは気にしない。少なくとも私だってスキルアップしているはずだ。
「あなたたち二人については前例がないのよ。手探りで知っていくしかないわ。シリウスも血だけじゃなく力で治癒ができるようになるかもしれないし」
「シリウスの血のことは隠した方がいいんだよね」
 アトラスで利用されていたなら、ほかでも利用される可能性は否定できない。

 不意に寝そべっていた巨大ノワが身体を起こした。

「私がさせない」
 風などない。それなのに、突風が吹いたかのようなノワの圧倒的な存在感に仰け反りそうになる。
 いつもは忘れているノワの霊獣としての威風を見せ付けられる。

「でも、隠した方がいいわね。聖女の血より効力は弱いけど扱いやすいのは間違いないわ」
 まるで光が拡散するかのようにノワの威光が世界に融けていく。
 ああ、これはノワの宣言だ。
 霊獣が世界に宣言した。それは宣戦布告のようで、見下ろす巨大ノワが神々しくも妖しく牙を剥いた。

 この堂に入ったラスボス感。

 しまった! と思ったのは、巨大ノワが私めがけて、ふん! と鼻息を吐いた後だった。フルーツの香りに吹き飛ばされる。面白いほどころころとノワの巨大ベッドの上を後転する。
 サヤ! と慌てるシリウスに腕を掴まれてかろうじてベッドから落ちずに済んだ。身体の回転は止まったのに、三半規管は今以てバク転中だ。うーっと食いしばった歯の間から唸りがもれる。くらくらする。気持ち悪い。
「あら、ごめんあそばせ。ちょっと強くやり過ぎちゃった」
 全くごめんなんて思っていないだろうふざけた口調のノワに蹴りを入れたい。
「頼むから、思考にリアルでつっこむのやめて」
 まだ回っているような気がする。少しは手加減してくれ。聖女は生身だ。ブルグレは笑いすぎだ。少しは心配してくれ。
 シリウスに助け起こされながらなんとか三半規管のバク転が終わった。

「聖女によって力を込められた人間の血は、たぶんシリウスの血と同じように力を持ったんだと思うのよ」
 ノワが再び布団ラグに伏せ、話を戻した。私たちも元の位置に戻る。
「それを国境沿いに撒いたってこと?」
「本当のところどんな風に使ったのかはわからないわ。でも可能性は高いと思う。血じゃなければ肉体を刻んで埋めたか、もしくは、食らったか」
 いきなりグロがきた。
「ああ、やりかねないな」
 隣から聞こえた怖いほど硬い声に、はっとしてシリウスを見る。シリウスは真剣な顔でノワを見ていた。ノワがそれに少しだけ目を細めた。

 アトラスってそんな国なの?
 ブルグレを見れば小さな鼻の上に皺を寄せ、そろそろと両手を肩まで持ち上げ、そーっとえんがちょをした。わかる。同じくそーっとえんがちょしておく。
「アトラスはやり過ぎたのかもしれないわね」
「そうかもな」
「どういうこと?」
 それにノワは思いを巡らすように少し間を置いた。そして、意を決したように、けれど、秘めるように声を潜めた。
「私よりも上の存在がいることはわかるでしょ?」
 は? と首を傾げかけ、目を見開いた。

 ノワをこの世界に呼んだのは?
 私に肉体を与えたのは?

 突如として浮かんだふたつの疑問。
 そうだ、最大の謎が残ったままだ。

「あまり考えないことね。詮索しすぎると消されるわよ」
 ノワの脅すような声に慌てて思考を中断する。
「私たちは力がある分、真理に近いのよ。真理に近い分、力があると言い換えてもいい。だけどね、一線を越えてはならないの」
「アトラスは世界を牽引してきたんだ」
 シリウスの重い声にノワがひとつ瞬いた。それは、そういうことだと認めているも同じだった。

 やり過ぎたのはアンデットを刻んだことだろうか。もしくは血抜きか。
 それとも、もしも聖女の知識までもがそのアンデットに移されていたとしたら、アンデットからその知識をなんだかの方法で……うぅぅ、カニバは勘弁だけど、とにかくなんだかの方法で別の世界の知識を引き出せたとしたら、その知識を使って世界を牽引してきたとしたら、それが、世界を思わぬ方向に向かわせることになったとしたら──。

 待てよ、思わぬ方向ってなんだ? 誰にとっての思わぬ方向? 
「サヤ。それ以上はやめなさい」
 はっとして顔を上げると、目の前にある暗黒の瞳に射貫かれた。
「きっとあなたにはあなたの役割がある。私には私の役割があるように」
 それはなに? とは訊けなかった。訊いてはいけないのだと、ブラックホールみたいな真っ黒な瞳の奥が囁くように瞬いた。



 珍しくシリウスが寝酒を飲んでいる。ヘッドボードにもたれながら、窓にかかる薄布越しの淡い月明かりの中、喉仏が動くのを寝転がりながら眺めていた。
「サヤも飲むか?」
 マヌカの果実酒ならひと舐めしたい。まだひと口飲むまではお酒に慣れていない。

 差し出されたカップに鼻を近付け、ふんふんと匂いを嗅いで違うことを悟る。匂いを嗅いだだけで酔いそうだ。顔をしかめカップを少し押し戻すと、かすかに笑われた。
 彼を取り巻く気配に淋しさが滲んでいるようで、こんな時、私もシリウスの気持ちがわかればいいのにと思ってしまう。言葉にできない感情は感覚でしか伝えられない。伝わってくる気配はあれども、それが本当にシリウスの感情なのか、あくまでも私の想像なのか、今の私では判断がつかない。

「やっぱり、ショック、だった?」
「そうだな。だが、どこかでわかっていたような気もする」
「そっか」
 それ以上何も言えなかった。少し身体の位置をずらして、シリウスの腰にしがみつくように腕を回す。
 アトラスが実際に何をしたのかもわからなければ、本当にアンデットがいたかもわからない。何が理由で消えてしまったのか、本当のところはわからない。
 ただ、過去に存在し、現在は存在していないという事実だけがある。

 アトラス、という名前からか、アトランティスを思い浮かべる。あれも一夜にして海に沈んだと言われている大陸だ。
「サヤのいた世界でもそんな記録があるのか?」
「記録っていうか神話? たぶん事実じゃないよ。一晩で大陸が海に沈むなんて有り得ないから」
「一夜にして消えたアトラスだって有り得ないだろう」
 そう言われると有り得なさが揺らぐ。アトランティスも何かしらの理由で消えたのだろうか。確か世界を支配しようとしてゼウスに消された、だったか。
「消されたのか?」
 少し驚きながら興味を示したシリウスが寄りかかっていたヘッドボードから身体を起こした。
 巻き付けていたシリウスの腰から腕を回収し、同じように起き上がりヘッドボードにもたれる。
「消されたっていっても、神話っていうか創世記みたいなものだよ? 信憑性は限りなくゼロに近い」
「千年後、アトラスも同じように言われていると思わないか?」
 シリウスが再びヘッドボードに背を預けた。
 そうかもしれない。それでも、ゼウスなんて実在したかもわからないのだ。
 お尻を少し動かして二人の距離を詰めると、腕が背後に回り抱き寄せられた。
「俺もこの目で見るまでは霊獣や聖女の実在を心のどこかで疑っていた」
 確かにノワの存在は私の常識からは外れている。有り得ない存在だ。
「ん? 精霊の存在は?」
「精霊は昔から実在していた」
「そこが違うんだよなぁ」
 思わず声に出して呟く。
 そこが決定的に違う。だから、この世界にならゼウスはいたかもしれないと思えても、元の世界にゼウスがいたとは思えないのだ。

 元の世界から消えた私はこの世界にいる。だとしたら、この世界から消えたアトラスは──。
 確かアトラスという地名か何かが実際にあったはずだ。アトラス神からアトランティスと名付けられた、と何かで読んだような。何かのゲームのシナリオだったかもしれない。記憶が曖昧で覚えているそれが正しいのかすらわからない。

 私の世界にあったアトランティスが何かをやらかしてこの世界に飛ばされ、この世界でもやらかしたアトラスはまた別の世界に飛ばされた。もしくはその逆か。それとも、アトラス自体に聖女や乙女と似たような役割があるのか。
 乙女を呼ぶ転移装置があるくらいだ、そんな空想が現実であってもおかしくはない。

 ふとそこまで考えて頭を振った。馬鹿馬鹿しい。有り得ないと思いつつも、有り得るかもしれないとも思っていることが馬鹿馬鹿しかった。ノワや聖女、精霊、乙女という生きた存在がここにいる以上、あながち有り得ないわけでもないことに笑い出しそうだった。
「そう考えると、少しは気が楽になるな」
 アトラスにいた全ての人が消滅した、と考えるよりは、別の場所に移された、と考える方が突飛だとしても健全だ。
 シリウスがそう考えられるのは、この世界にはその可能性を信じられるだけの要素が間違いなく実在するからだ。それを羨ましく思う。
 もし、私が消えてしまった事実が残っていたとしたら、家族は私が別の世界でこうして生きていることを信じるだろうか。そうじゃないことはわかっている。表面上はそれを信じて心を落ち着かせたとしても、心の深いところでは絶望しているに違いない。私は家族が生きていることを知っているのに。

 ことん、と小さく音を立てて、シリウスの手にあったカップがサイドテーブルに置かれた。シリウスの呼気に潜むアルコールに酔いそうだった。




 披露宴の合間にいくつかの作為的な偶然を重ねながら、日々は容赦なく流れていく。

 シリウスが聖女宮殿の中庭で行われるポルクス隊の早朝訓練に参加している間、私は家の掃除と洗濯を済ます。さすがに自分の家の掃除や普段着の洗濯までポルクスマダムたちにお願いしようとは思わない。マダムたちの残念そうな顔は見なかったことにした。
 シリウスもプライベートを他人に覗かれたくはないようで、そこは賛成してくれた。手伝ってもくれる。
「ノワ、お願い」
 家中の窓やドアを開けておく。巨大ノワが力を込めてふうっと息を吐くと、家中のホコリや塵が小さく渦を巻きながら開口部から逃げ出していく。素晴らしい。ノワの住処にホコリひとつなかった理由がこれだ。




「サヤ、この間足を治癒した女の子から手紙が届いている。手紙というよりは絵だな」
 執務室に届けられたそこには、笑顔の両親の間に満面の笑みで立っている女の子の絵が描かれていた。子供らしいデフォルメされた絵に和む。
「これを聖女の店に飾ってはどうかと言われているんだが」
「なんかあざといね」
「まあな」
 シリウスの苦笑いに思わず笑う。

 あの女の子の両親は、本当にただの偶然でたまたまあの場にいたらしい。連合軍とも神殿とも王家とも関わりのない一般人だ。
 父親が書いた感謝の手紙と一緒に、子供の絵と、母親が作ったのだろう手の込んだ刺繍が施された淡い水色の薄布が一緒に届けられた。花芯に深い青が使われたジェームの花が咲き乱れている。
「どこかで使いたいけど、この布って何に使うものなの?」
「大きさ的にテーブルクロスじゃないか?」
 一メートル四方の布。さすがにテーブルクロスじゃ勿体ない。
「何に使ってもいいのかな?」
「何に使うつもりだ?」
「んー首に巻いたりしてみようかと思って」
 布はかなり高級なものだと思う。艶もあって手触りがすごくいいい。
 一面に咲くジェームの花というもまたいい。色味が抑えられ、全体的にシンプルでいて、立体的に刺繍されていているせいか地味ではない。縁が紺色で波形にかがられていたり、とにかく細部まで凝っている。完全に私好みだ。よくよく考えて作ってくれたのだろう、その思い遣りが何よりも嬉しい。
 テーブルクロスなんてとんでもない。それとも、スカーフとして使うのはこの世界的にアウトだろうか。あとでエニフさんに訊こう。それこそ壁に飾ってもいいかもしれない。
「この布高かっただろうなぁ」
「精一杯のお礼なんだろうな」
 お金で解決せず、ここでは手作りの物を贈るのが最大級のお礼だ。それをすごく素敵だと思う。心を込めて贈られたものだ、大切に使いたい。