アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失
63 齟齬


「ねえノワ」
 ほんの少しだけ大きな頭をもたげたノワは、すぐに元の体勢に戻り気怠げに息を吐いた。

 ゲリラよりも少しだけ優しい雨が大袈裟な音を立てている。
 雨嫌いのノワは仮眠室の自分の部屋に引き籠もり中だ。巨大な牙が心なしか精彩を欠き、エナメル質の輝きがいつもより鈍い。ノワの牙は翼と同じく真っ白だ。ひやりと冷たい白じゃなく、温かな印象の白。
 仮眠室のノワの部屋には大きなベッドと布団ラグしかない。それは聖女の家も同じだ。たった二つしかないのに、ノワの部屋は妙に居心地がよかった。ノワに触れているわけでもないのに、触れているかのような錯覚を与えてくれる、そんな空間だ。

 昨日披露宴をまたひとつ終えた私もノワの巨大ベッドに寝転がって一緒にうだうだしている。
 披露宴の行き帰り、気になることでもあるのかノワは時々姿を消す。おそらくアトラスのことを調べているのだろう。大した収穫がないからなのか、ノワからそれについて何か言ってくることはない。

 第一皇子と乙女の結婚が決まったと同時に大帝国からのスパイの入国がぱたりと止んだ。必要なくなったからなのか、ポルクス隊が潰したのか。
 しばらく様子を見たもののポルクス隊長の判断で、私たちはメキナに戻って来た。

「なんで世界って似てるの?」
「なんでって、あなたの考える世界って人間が作る世界のことでしょ? 人間という生きものが作る世界だから似たような世界になるんじゃないの?」
「同じ姿形の人間が作った世界だから似てるの?」
「同じ環境下ならそうなるんじゃない? 似たような生きものは似たような世界を作るでしょ」
 そういうことか。私から見れば、多少の違いはあれどライオンとヒョウは似たような世界を作っている。
「ノワは知ってるんでしょ、乙女が私をここに呼んだ理由」
「知りたいの?」
「わかんない。知りたいような、知りたくないような」
 知らないから考えてしまう。それを思うと知った方がスッキリするような気がしなくもない。

 巨大ベッドに肘をついて寝転がり、布団ラグに寝そべる巨大ノワを見る。高さがちょうどよく、大きな黒い目と視線がかち合う。ノワの目は瞳孔が細くなったりはしない。黒の中にさらに濃く深い黒がある。見れば見るほどその吸い込まれそうな美しさに感動する。

「シリウスは知ってる?」
「知らないと思うわよ。少なくとも私が知る限り、乙女の意識にあなたを呼び出した理由がはっきり浮かんだことはないもの」
 無理だとわかっていてもシリウスには知られたくない。自分が嫌われている理由を好きでいてほしい人に知られるのは嫌だ。
 どうしてそこまで嫌われたのか。些細な理由はあれこれ浮かぶも、ここまでするほど、となるとどれも決め手に欠ける。自分でも気付かないうちにそれほどのことをしていたのかと思うと自己嫌悪しかない。
「きっと消えるときにわかるわよ」
「えー……それって消える瞬間に私が立ち会うってこと?」
「立ち会うかどうかはわからないけど、きっと消えるときにはわかるんじゃない?」
「そういうもん?」
「たぶんね」
 こういうときのノワは決してそれ以上を教えてくれない。

 毎日が淡々と過ぎていく。
 この世界に慣れて、ここで当たり前のように生きている。
 いつの間にか食事においしさを感じるようになり、日常の中に違和感を見付けることが少なくなっている。

 ノワの仮説通りだとすれば、ここは私がいた世界と同じ地球で、ここが未来なのか過去なのかはわからないけれど、人類が生まれ、繁栄し、衰退し、そして滅び、再び人類が生まれた、同じだけれど別の世界だ。別の時代というほうが合っているのか、別の界といえばいいのか。
 この世界の先に私のいた世界があるのか、この世界の前にあったのか。それは永遠を考えることにも似て想像もつかない。

「人間が滅びるときって地球も滅びるもんだと思ってた」
「ああ、あなたがいた世界は人間が中心で頂点だって考えだものね」
「ここは違うの?」
「違うでしょ。人の上に霊獣や精霊、聖女がいるのよ」
 ああ、だからか。

 家畜や使役動物はいても、愛玩動物が存在しない。
 警備上仕方がない王宮の庭などを除き、整備された公園が存在しない。開拓や間伐はしてもあくまでも自然のままに緑を残そうとしているように見える。
 治水は最低限、道を作るために山を切り崩したりも造成したりもしない。だから、ファルボナでも人工的に地下水を汲み上げたりはしない。あくまでも自然に湧き出るオアシスだけだ。
 それは近代化していないからだと思っていたけれど、たぶん違う。根本的に自然に対する考え方が違うような気がする。

「そうね、違うわね。あくまでも人は自然界の生きもののひとつなのよ。自然を従わせようだなんて思ってないわ」
 家畜はあくまでも自然に成長させる。ブロイラーのような品種は存在しない。野菜や果物も同じで促成栽培はない。おいしくなる努力はしても、自然を人の都合でねじ曲げたりはしない。
「まあ、だからたとえ同じ姿でも聖女を自分たち人間と同じ存在だとは思わないのよ。あくまでも上位の存在ね」
「だとしたら、シリウスはよく同じだと思ってくれたよね」
「思考が読めるからね。あなたは人間以外の何ものでもないでしょ。肉体も持ってるし」
 つくづくシリウスに出逢えてよかった。
「私って、もしかして元々はこの世界の人間なの?」
「さあ。私も同じことを考えたけど、わからないわ」
 私だけが肉体を持つ理由がわからない。ノワがわからないならきっとわからないままだ。
「アトラスの滅亡理由はわかった?」
「はっきりとはわからないわ。きっとそれもわからないままよ」
「ノワの仮説は?」
「そうねぇ。ああ、シリウスが戻って来たわ」

 ノワの言葉通り、シリウスがノワの部屋に顔を出した。相変わらず私は気配が読めない。
「サヤ、手が空いたんだがデートに行くか?」
「行く! ノワ、仮説は帰ってからでいい?」
 ノワを見れば、何かを企むようににんまりと目を細めた。なんだ? と思いながらも、デートの前の塵に同じだ。
「いいわよ。行ってらっしゃい」
 やった! デートしたいと訴え続けていたものの、シリウスの忙しさにそうわがままも言えず、せめて披露宴の行き帰りをデートだと思い込むことで満足していた。
「どうしよう、着替えた方がいい?」
「いや、そのままでいい」
 こんなことなら寝転がってうだうだしなければよかった。ワンピースがシワになっていないか気になる。
 雨脚が弱まってきたとはいえ、窓の外からは未だ賑やかな雨音がしている。レインポンチョを取りに行こうとして止められた。
「本部からは出ないから必要ない」
 頭に特大のクエッションマークが浮かんだ。エニフさんが手早くメイクしてくれる。ざっと服装チェックもしてくれ、気になっていたシワはそれほどでもないようだった。
「デートだよね?」
「デートだ」
 はにかむシリウスを見ていると、ちゃんとデートの意味をわかっているようだ。

 どこに行くのだろうと思いつつ、なぜデートなのにエニフさんやネラ&ルウさんが付いてくるのかが気になった。
 本部にはエレベーターがある。海外の映画に出てきそうなレトロなエレベーターに似ている。大きな音を立てながら、かすかな浮遊感と確かな振動を連れて階下に降りていく。
「ねえシリウス、デートの定義は?」
「好いた男女が一緒に出掛けることだろう?」
 周りに人がいるせいか、はにかむ素振りもない。二人でいるときに訊けばよかった。シリウスのはにかみ顔が好きなのに。

 途中でエレベーターを乗り継いだ。最上階の執務室には一階からの直通はないらしい。
「つまり一階に行くの?」
「そうだ。今日、聖女御用達店が開店した」
 おお! ちらっと話しただけなのに。思わずエニフさんを見れば、笑顔の頷きが返された。
「今はマヌカの商品が中心だ。この先少しずつ商品を増やしていく」

 ちーん、とどこか懐かしさを感じるベルの音と同時にネラさんがエレベーターの扉を開けてくれた。カーポートや工事現場にあるような伸縮式の金属扉は手動だ。
 いつもは、ノワと一緒に窓から出入りするか、飛行船に乗るために屋上から出掛けることが多い。ゆえに、この古めかしく感じるエレベーターに乗る機会は少ない。本音を言えば途中で落ちてしまいそうで怖い。絶対に一人では乗りたくない。

 最初に目に飛び込んできたのはカラフルなフルーツの山だった。見たことがあるようでいてない、様々なフルーツが高級そうな大皿の上に恭しく盛られている。ほかにも果実酒が一本一本ディスプレイ用の棚にゆったりと並んでいた。
 聖女のアンテナショップだ。
 その内装は壁や家具など全体的に青みがかった白を基調とし、アクセントとしてファブリックなどに濃い青が使われ、全体を引き締めている。店内は煌々と明るい。周りのお店より一層明るく見えるのは、そこかしこでファルボナの光石が輝いているからだ。
 ファルボナの組紐も少しだけ用意されていた。マヌカの石鹸には王家の紋章らしき模様とハートマークが付けられている。瓶詰めのジャムや果肉のシロップ漬け、ジュースも並んでいる。ブルグレがジュースの瓶にしがみついているのは視界から排除した。

「あ、ハート型の光石だ!」
「ゾルの族長がファルボナ中から集めてくれたんだ」
 ネラさんを見れば頷いている。
 ネラさんの息子のネカくんとダファ族長次男の息子、ウェイくんがお店の手伝いをしている。ひとまずはポルクス隊員のマダムたちと、マヌカから派遣された職員たちで運営するらしい。

 なぜか店内のスペースに空きがある。理由を訊けば「次に聖女は何を気に入るのか!」を煽るために敢えてそうしているらしい。
 今まで、お店には空きスペースを作ってはいけないものだと思っていた。ほかの商品を並べて欠品を隠すものだと思っていた。
 ここでは売り切れた商品の空きスペースはそのままにして、売れていることをアピールするらしい。
 考え方の違いなのだろうけれど、空きスペースがもったいないような気がしてしまう。

 ふと見れば、お店の外に人集りができていた。
「聖女がふらりと立ち寄ったことになっている」
 だから、普段着のワンピースでいいのか。
「デートでは?」
「デートだろう?」
 少し不思議そうに言われた。やられた。ノワのあのにんまり目の意味が今わかった。
「騙した?」
「ん? 騙してはいない。一緒に店を訪れたりするんだろう?」
 腕を組んでやった。ぎょっとしたようなシリウスの顔に、つんとすまして知らん顔してやる。面白いほどお店の外から歓声が上がった。
 デートは男女が一緒に出掛けるだけじゃない。いちゃいちゃしてこそデートだ。

「デートですから」
──悪かったよ。ここなら比較的簡単に出掛けられるんだ。俺はデートのつもりだった。

 顎を軽く上げながら、ふん、と鼻を鳴らしてやった。
 ノワが一緒に来ない時点で気付くべきだった。そう簡単に出掛けられるわけがない。さり気なく周りを見ればポルクス隊が至る所に潜んでいる。たったこれだけのことにかなりの人数が動いているのがわかってしまうと、不満を喉の奥に押し込むしかない。
 デートのつもり、と言われて内心喜んだ自分のお手軽さが残念だ。鼻を鳴らしたところで喜んでいるのが伝わってしまうのだからどうしようもない。人前で腕を組む私の顔だってきっと赤い。
「何か買ってもいい?」
「好きなだけ買ってやる」
 ノワ用に果物をいくつか見繕い、仕方なくしがみつくブルグレごとジュースとシロップ漬けをいくつか、ハートの光石も買ってもらった。
 果物はマヌカから空輸されているから新鮮らしい。

「そうだ、お店の外にいる人を治癒する?」
「それもそうだな」
 偶然、という事実を積み重ねて行くことも、ある意味私の仕事だ。
 シリウスが人混みに意識を集中している。

──足の悪い子供がいる。ほら、父親に抱かれているのが見えるか?

 五歳くらいの女の子だ。宝物のように父親に抱えられている。大切にされているのが一目でわかる、そんな抱き方だった。
 お店を出て、真っ直ぐその子に向かって歩く。水を打ったようにロビーが静まり返り、行く手にいた人々が示し合わせたように道を空けてくれた。



「ノワ! 私とシリウスのデート認識の違いに気付いてたでしょ!」
 気怠げなノワにお土産の果物を差し出すと、がばっと大きな口が開いた。巨大ノワの口には果物が小さすぎて味がしないのではないかと思ってしまう。
「ねえねえ、食べるとき猫サイズになれば同じ量でもたくさん食べた気にならない?」
「大きさが変わっても私の存在自体は変わらないから一緒よ」
 その感覚はわからないや。
「それより、デートだよ!」
「何度も言うけどね、ここはあなたが考えるより男女に関しては奥ゆかしいのよ」
 大きな口が開くたびに果物を舌の上にのせていく。
「どれがおいしかった?」
「緑の皮の。酸っぱくておいしい」
 こぶし大の緑の皮の実は酸っぱくて私好みではない。頭に中にメモる。酸っぱさは苦手だ。
「皮とか種とか出さなくていいの?」
「出していいの?」
 いいに決まっている。両手を揃えて出せば、舌先から口に入れたときと同じ状態の果物がころんと吐き出された。きれいに中身だけがなくなっているのか、転がりながら中で種が小さく音を立てた。どんな食べ方をしたら中身だけなくなるのか。どれもジャック・オー・ランタン状態だ。目と口をくり抜いて中に光石を入れたらかわいいかも。
 ひとまず乾燥させてみようと、キッチンに持って行き、ヘタの部分を小さく丸く切り取ってみた。見事に中身は空だ。種を出し、軽く洗って窓際に並べておいく。

 足元を見ると猫サイズのノワがいた。
「上手にできたらノワの部屋に飾ってもいい?」
 頷きを返したノワが、再び自分の部屋に戻っていった。まだ雨は止まない。