アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失
62 ♥


「サヤ、第一皇子と乙女の結婚が決まった。招待状が名指しで届いているんだが……」

 ここでの封筒はぺったんこの紙袋ではなく、賞状を入れる丸筒を小さくしたようなもので、文字通り封をされた筒だ。
 シリウスから差し出された立派な封筒に視線を落とせば、封緘代わりに貼り付けられた宛名ラベルには読めない文字のようなものの下に「田中さやか様♥」と思いっきり日本語で書かれていた。
 しかも赤に近いピンクのインクで。ハートは黒で雑に塗りつぶされている。嫌味か。嫌味なのか。

 結婚すると妻の名前の後ろに夫の名前が、夫の名前の後ろには妻の名前が付く。私の場合はサーヤ・シリウス・アトラスになる。シリウス・サーヤ・アトラスがシリウスのフルネームだ。
 国や地域によって多少の違いはあれど、基本的に姓を持つのはある程度の身分となり、王家の場合は国名、領主の場合は地名だ。一般人の姓は家名ではなく出身を示すものであまり使われることはない。渋谷太郎とか、中野花子とかそんな感じだ。

 おまけに彼らのファーストネームは仮称であり、力の発現時や遅くとも成人までに正式名、いわゆる真の名前、真名を自ら名付ける。大抵は仮称に因んだ名前にするらしい。シリウスはシリルクラウスだ。公には仮称が用いられる。
 私の正式名はひらがなの「さやか」ではなく、漢字の「明」だ。それは曾祖母の乙女発想によって名付けられた私の真名であり、ここでそれを知るのはシリウスとノワ、ブルグレの三人だけだ。公には愛称の「サーヤ」がそのまま仮称になっている。シリウスたちだけが「サヤ」と呼ぶ。
 ノワはノワール、ブルグレはブルーグレーが真名だ。

「私って、サーヤ・シリウス・アトラスだよねぇ」
「公ではそうなっている。一応ここにもそう書かれてはいる」

 田中さやか♥の上に書かれた文字がサーヤ・シリウス・アトラスらしい。文字の大きさは田中さやかの半分しかない。まるで肩書きだ。

「田中さやかで招待されてるってどう思う?」
「嫌味じゃ」
「嫌味だろうな」
「嫌味ね」
 なぜかドヤ顔のブルグレに、少し困り顔のシリウス、呆れ顔のノワの声が順番に聞こえてきた。そんなに嫌味なのか。
「断ることって……」
「本来であれば事前に打診があるはずなんだが……」
「勝手に送りつけてきたって訳ね」
「まさしく嫌味じゃ」
 やることが強引すぎる。もう少し根回しとかしてほしい。要らぬところに波風が立ってしまう。
「メキナ神殿の長が激怒したらしい」
「やっぱり。ってか、なんでそんな情報が神殿に漏れてるの?」
「使者が本部前で口上した。『我が国の皇太子殿下と祝福の乙女様の結婚に聖女様をご招待して差し上げよう』だったか」
 丁寧な割にさり気なく上からな言い方に聞こえる。よくも余所の国でそんな口上ができたものだ。
大帝国(むこう)としては、招待してやる、なんだろうな」
 あーそっか。大帝国では聖女も乙女も同列だっけ。聖女の結婚式に乙女を招待しなかったのがそんなに気に入らなかったのか。それなのに自分たちは招待してやるんだ、ありがたく思え、なのか。
 なぜ右に倣って招待しないという考えにならないのだ。
「大帝国の度量を見せ付けたいのだろう」
 むしろ小さく感じますが。あくまでも私の偏見です。

「あなたが行かないならシリウスのパートナーは誰になるのかしら?」
「え? シリウスは行くの?」
「そりゃそうでしょ。連合国の代表ですもの。シリウス一人招待すれば、連合加盟国全てを招待したのと同じになるのよ。そのための総長なんだから。これも仕事のうち」
 わかる? と講釈したノワからシリウスに視線を移せば、その通りだと言わんばかりに頷かれた。
「なんで他のパートナーがいるの? 第一皇子だって聖婚式には一人で参加してたじゃん」
「既婚者が一人で参加するのは相手側に失礼なんだ。おまけに夫婦仲を疑われるか、妻の重病説が流れる」
 詰まるところ、私の参加は決まっているようなものだ。
「あなたシリウスの妻なんでしょ」
「じゃあ妻として出席する」
「それを防ぐために、名指しでの招待なんじゃ」
 なんて手の込んだことをしてくれるんだ。ブルグレが一緒になって怒ってくれる。
「こっちだってまだ披露宴の最中なのに」
「式はまだ先の話だ。準備に一年近くかかる」
 そういえばそうだった。一年以上も前から招待状を送るのか。

 自分が結婚したという実感が湧かない。ただし、人妻という響きはいい。
「サヤ、よからぬことを考える前に、出席でいいんだな?」
 まただ。最近シリウスに妄想の先手を打たれる。これが地味にもだもだする。
「嫌だけど行く。ってか、もう結婚決まったの? まだ一年も経ってないよね、早くない?」
「初めから結果は見えていた。次期皇帝が望むんだ、第二皇子といえども敵うわけがない」
「それっていわゆる……」
「横恋慕じゃ! 寝取るなどという下品な言葉を使ってはならん!」
 一言も下品な言葉なんぞ口にしていないのに、なぜ口にしたブルグレに足蹴にされねばならぬ。横恋慕なんて言葉、私もよく知っていたな。意味がわかるということはどこかで間違いなく聞いているということだ。どこでそんな言葉が出たのだろう。私の過去に何があった? ……何も思い浮かばないのが虚しい。
「終わったか?」
「終わった。結果が見えていたことはわかった。それで第二皇子は大丈夫なの?」
「次期皇帝がなんとかするだろう。乙女は即位に必要だ」
 アホ思考の終わりを確認されるのが地味に凹む。
「なんで即位に乙女が必要なの?」
「俺が聖女を手に入れた。ならばむこうも乙女を手に入れないと釣り合いが取れない。周りが黙っていないだろう」
 意味わからん。いや、本当はわかるけれど、わかりたくない。
 ノワが長椅子の上であくびをしている。

 披露宴は半分まで消化した。
 砦にいるポルクス隊に怪我人が頻発していることを受けて、ファルボナから戻ってすぐに砦にやって来た。
 ノワと相談してポルクス隊の加護をそれまでより強化し、至近距離での自爆にも耐えられるようにした。
 砦が初めてのネラ&ルウさんが毎朝楽しそうに訓練に参加している。衛生隊のカルトな瞑想を真似たり、国境周辺の巡回にも出ている。
 久しぶりに迷彩での巡回ができるとあってポルクス隊は張り切り、姿を隠した隊員たちを見たネラさんとルウさんは、驚きながらも大いにウケていた。ついでにと、飛行船の操縦をたたき込まれてもいる。

「まあ、結婚式まで保てばいいけどねぇ」
 あくび終わりのノワの間延びした声にシリウスと二人顔を見合わせた。
「どういうこと?」
「まだ惑わし続けているのよ。そうなるだろうと思って霊果あげたんだけど、そんなに保たなそうね」
 だから、乙女に関する噂が出なかったのか。傾国の乙女なんて馬鹿げた二つ名は単純に二人の皇子から婚約を申し込まれたから出ただけに過ぎない。未だ彼女は祝福の乙女のままだ。

 結果的に彼女にリミットを付けたのが私であっても、その発動を私に代わってシリウスが行ってくれたおかげで、思っていたよりも罪悪感に囚われずに済んでいる。
「それでいいのかなぁ」
「いいのよ。ちゃんとわかった上で自分で決めたんだから」
 彼女の強さを見せ付けられるようだ。私ならどうするだろう。きっと生きることにしがみつく。
「だって、一度は生きることをやめたんだもの、今更なのよ。乙女にとってこの世界はおまけみたいなものなの。あなたみたいにここで現実を生きているわけじゃないの」
 だから女王様になれるのか。心の大半を占める嫌悪の向こうに羨望が透けて見えた。複雑な心境に自嘲する。目の前に置かれている封筒に書かれた雑に塗り潰された黒いハート。それが今の私の心境だ。



 一人になりたくて寝室のベッドに寝転がる。
 砦のシリウスと私の部屋が繋がり、リビングが大きなひとつの空間になったものの、そのほかの間取りは変わらない。シリウスの寝室がノワとブルグレに譲られたくらいだ。

 見上げた天井にはなんの装飾もない。そこに懐かしさを見付けながら小さく息を吐いた。

 誰かを憎み続けるのは疲れる。だからといって許せるわけもなく、どこかで折り合いを付けたくとも付けられない。かといって、その命を自ら奪うこともできない。とにかく忘れていたい。意識を向けたくない。関わりたくない。思い出したくない。
 黒く塗り潰された狭量と脆弱。
 考えるのも嫌なのに、それでも考えてしまうのが本当に嫌だ。どうして人間は考えたくないことまで無秩序に考え続けてしまうのだろう。意識したくないことほど意識してしまう。考えたくないことほど考えてしまう。本当に無駄な作業だ。
 いっそノワに頼んで記憶を消してしまえばいいのか。それはそれで私じゃなくなりそうで怖い。

「私ってめんどくさいなぁ」
「そうか?」
「びっ! くりしたぁ」
 思わず飛び起きた。シリウスは音もなく歩く。時々いつの間にかそばにいて、いきなり話しかけるから飛び上がるほど驚いてしまう。
「繋がっているのだから気配くらいわかるだろう」
 微塵も感じなかった。そう思った途端、シリウスはわかりやすく呆れた表情を見せた。

「どうしたの? 仕事は?」
「少し休憩だ」
 あー……気を遣わせてしまったかも。
「いや。俺が傍にいたいだけだ」
 不意打ちのデレはやめてほしい。思わず鼻水が出そうになった。

「サヤ、大事な話がある」
 ベッドに腰をおろしながらの低く落ち着いた声に引き寄せられる。
 なに? ついクセで首を傾げながら、その隣に並んで座る。ジェスチャーが身体に馴染んできたせいか、必要のないときにも無意識にそれが出てしまうことがある。気付いたときの恥ずかしさといったらない。
「子供どうする?」
「あー……あのさ、私って──」
「わかっている。サヤの身体の事情はわかっているから訊いているんだ。今日明日は、まあ、できる日だ」
 照れないでほしい。恥ずかしいのは私の方だ。
「なんでわかるの? ノワに聞いた?」
「いや、なんと言えばいいのか、ほら、霊獣の塔の冷水に浸けられただろう」
 思わずあの時の凍えが蘇ってぶるっと震えた。かすかに笑われる。
「あれで、サヤの身体の変化がわかるようになったんだ」
「なにそれ」
「なんだろうなぁ」
 シリウスが窓の外に目を向け、空を見上げた。視線を追いかける。今日は雲が多い。

「自分でも理解できない。だが、とにかくわかるんだ」
 膝の上で組んだ手に視線を落としたシリウスから、ぽつぽつと滴るように言葉が続く。
「サヤとの繋がりが強くなったのか、俺の感覚がサヤに限って強くなったのか」
 ノワめ。何をやってくれちゃったのか。
 私にもわからない排卵の前兆をシリウスに知られる恥ずかしさったらない。それはなにか、生理もバレるということか。身体の欲求が全て筒抜けになるのか。食欲も睡眠欲も、排泄や性欲までも……嫌すぎる。
「その辺は元々サヤの思考が筒抜けの時点でほぼ把握できている」
 あ、まあそうか。今更か。じゃあいいや。
「いいのか?」
「よくはないけど今更だからしょうがない。トイレ事情は詳しく知ろうとしないでほしいけど」
「俺だってそこは知りたくない」
 あからさまに嫌そうな顔をされた。だよね。でもまあ、察してくれるのはありがたい面もあるからプラマイゼロだ。

「話を戻すぞ。で、どうする?」
 思考が読めるはずのシリウスは、それでも私の意思をちゃんと声に出して確認してくれる。
「シリウスはどう思う? 私はまだいいかなって思ってるけど、結婚してどれくらいで子供って生むもの?」
「どのくらいもないだろう。子供は精霊の授かりものと言われているくらいだ」
 そんなファンタジックなたとえもあるのか。ブルグレからの授かりものだとしたら、どう考えても食い意地の張った子供になる。断固拒否する。
「今日明日は念のため控えるか」
「シリウスはそれでいいの? ってか、確か精子って三日くらい生きるから昨日した時点で無駄じゃない?」
「いや、大丈夫だ」
 受精したかどうかもわかるのか。
「念のため一昨昨日から避妊している」
 は? どうやって? いつのまに?
 何かを装着した気配はなかった……はず。シリウス側じゃなければ私側か? 薬じゃない気はするけど……シリウスが飲んでいたのなら私は気付かない。一体どんな方法なのか、すごく気になる。
 シリウスが嫌そうに目を細めた。
「そこは知らなくていい。ちゃんと避妊方法があるんだよ。確実とは言えないから今日明日は控えるが」
 知らなかった。生理が年に一度しかないから、排卵も年に一度だろうと高を括って、避妊なんて考えもしなかった。
「あー、逆に年に一度しかないから、よく考えないといけないのかぁ」
「そういうことだ。俺もまだいいと思っていたから、また来年一緒に考えよう」
 軽いキスをひとつ残して、シリウスは仕事に戻っていった。

 真っ昼間からキスされた。
 たったそれだけで、塗り潰されていた黒が一変した。