アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失
59 禊ぎ


 聖女がお忍びでマヌカ訪問。

 そんな噂があっという間に広まった。
 お忍びとは、秘密とか内密とかこっそりとか、そういう意味だと思っていた。言語間に齟齬があるのか、私が間違って覚えているのか。芸能人がお忍びデートをスッパ抜かれている時点でお忍びではないから、間違ってはいないのか。お忍びの意味がわからない。
 それを追うようにもうひとつの噂が流れた。

 大帝国の第一皇子が祝福の乙女の婚約者に。

 兄弟で一人の女性に婚約を申し込むのは珍しいことではないらしく、乙女はどちらを選ぶのかと、世界中で噂されている。たぶん賭の対象にもなっている。
 ブルグレ情報網だから確かだ。
 近所や学校中に広がる噂がものすごく怖かったのに、ここでの噂は世界に広がる。怖いどころの話じゃない。

「疲れたか?」
 またひとつ披露宴を終え、メキナに戻るリムジン飛行船の中、心配そうなシリウスに抱きかかえられている。
「んー、なんか力を回収してから疲れやすい気がする」
 披露宴が終わった途端よろめいた自分に驚いた。今まで病弱とは無縁だったせいか、よろめく儚げ女子に憧れたものだ。実際に体験すると、自分ではどうにもできない虚脱感など恐怖でしかない。
「ああ、一度他人に馴染んだものだから、あなたに馴染むまで疲れやすくなるかもしれないわね。鬱陶しければ治癒するか精霊たちにあげちゃえば?」
 彼女はどれほどの力を奪ったのだろう。どれくらいの力を回収したのだろう。
「あなたが治癒したのはどれくらいだった?」
 ノワに訊かれて思い返しても、おおよその数字もわからない。かなりの人数としか覚えていない。
 マヌカで三人治癒したくらいじゃ焼け石に水だということだけはわかった。
「誰か具合の悪い人いる?」
 私の周りには加護持ちしかいないのでみんな健康だ。宮殿にいるみんなも加護済みだ。
「ノワは平気?」
「平気。前に治してもらってからすこぶる快調」
「ブルグレにはもう十分あげてるし、羽リスたちは?」
「こないだあげたばっかりよ。あげすぎるとコレみたいになるから気を付けなさい」
 コレ、と鼻先で示されたブルグレは、もらう気満々でいたのか左手のひらの前に待機している。図々しいおっさんの典型だ。
 文句を言うブルグレをシリウスが、ぽい、と放り投げた。シリウスもブルグレの扱いに慣れてきたようでなにより。

「じゃあ、本部の人の家族に不調者がいたら治癒しようかな。本当は連合軍の人たちを治癒したいけど……」
 シリウスが連合軍に関わる存在なので、依怙贔屓と言われかねない。
「それなら神殿に声をかける。神殿に恩を売って悪いことはない。本部に勤務する者には守秘義務があるが、その家族となると面倒だ。家族と偽って他人が紛れ込むことを疑わねばならなくなる」
 なるほど、それは面倒だ。
「神殿の腐敗部分とかには関わりたくないなぁ」
「だからどうしてサヤは……」
「もしかして裏取引とかある?」
 お、シリウスが黙り込んだ。あるのか。ならば仕方ない。
「仕方ないで済むのか?」
 なぜか驚かれた。

 無性にシリウスの匂いを嗅ぎたくなった。抱っこされているのにさらに嗅ぎたくなるとはどういうことだ。鼻先を正装の襟元から中に入れ、首筋の匂いを嗅ぐ。変態みたいだ。変態でもいい。落ち着く。あー……疲れてるなぁ、私。

「済むよ。シリウスにとってメリットがあるなら別にいい」
「諜報に神殿の協力がそれなりに必要なこともある」
「別に理由とかいいから」
「面倒なことはシリウスに丸投げしたいだけでしょ?」
「そういうこと」
 力なく、にひっ、と笑えば、ノワも小さな牙を、むひっ、と剥いた。そういえば猫の牙も犬歯と呼ぶことがすごく疑問だった。どうでもいいか。
「どうでもいいわ」
 律儀に返してくれるノワが優しい。
「実はね、あなたに馴染みやすい形に変えてから戻すつもりだったんだけど、ね」
「まさか酔っぱらってて忘れたとか?」
「そのまさかね。あなたがそんなにデリケートだとは思わなかったのよ」
 道理で最近妙に優しいと思った。裏があったのか。
 鼻先をふわっと甘い香りがかすめる。ふんふんと鼻先が甘い匂いを追いかける。
「失礼ね、私はいつだって優しいわよ」
 その認識は間違っている。「いつだって」ではなく「ときどき」もしくは「稀に」だ。そこに、ここ最近の「後ろめたいと常に」が加わる。

 それでも、ノワは根っこが優しい。意地悪を言いつつも優しい。だから、乙女がノワを怖がるのが無性に腹立たしかった。
「別にどうでもいいわ。好きでもない相手に好かれようとは思わないもの」
 それでも、あんな風に目の前で拒絶されて傷付かないはずはない。
 怖がるのはわかる。畏れるのもわかる。ノワの好意が伝わっていないのもわかった。だから腹を立てるのはお門違いだということもわかっている。わかってはいても、腹は立つ。
「あのとき、あなたが怒りを必死にのみ込んでいたから、だから私はこれっぽっちも傷付かなかったわ」
 私は傷付いた。すごく傷付いた。ああ、だからか。私が拒絶しているから、彼女から回収した力が馴染まないのかもしれない。
「それもあるわね。そうねぇ……シリウス、明日一日出掛けられる?」
 もとは私の力のはずなのに、一度出て浮気して出戻られた気分だ。おまけに浮気相手に罵られるというオプション付き。浮気された時ってこんな感じなのかもしれない。たぶん違う。
「副長。明日の予定は、たしか……」
 私のゲスい思考に顔をしかめながら、シリウスが前方に座るアリオトさんに声をかけた。アリオトさんが席を立ち近付いてくる。一緒にエニフさんも来て、カップを手渡してくれた。さっきから漂っていた甘い香りは、果物を搾っていたからか。ありがとう、と口に出してお礼を言って受け取る。
「明日、あそこに行くわ。そこで少し力のメンテナンスをしてみる」
 ノワとブルグレに一口ずつ飲ませてから、口を付ける。おいしい。エニフさんにおいしいのポーズをすると、ほっとしたように笑ってくれた。シリウスにもひと口分ける。
「できるのか?」
「たぶん」
 霊獣であるノワに「できるのか?」と訊くシリウスもどうかと思うのに、それに「たぶん」と答えるノワはもっとどうかと思う。そこはきっぱり肯定してほしい。
「だってやったことないもの。たぶんできると思うのよね。あなたのそのホラー珠もできたんだから。その珠こそ力の制御の核だから」
 ちょっと待って。制御のなれの果てがこの血の珠なら、血の珠が増えるってこと?
「嫌なんですけど!」
「大丈夫よ。それ以上ホラー珠はできないと思うわ」
 小さく「たぶん」が聞こえた。頼みの綱とばかりにシリウスを見上げたら、なんの心配もなさそうな顔で頷かれた。いやいや、そこは心配して。どうするの、乳首が血の珠に変わったら。
「どうしてそういう方向に飛躍する」
「いやなんとなく。とあるビームを思い出しただけ」
 子供の頃、誰かがテレビで観たとかで一時流行ったのだ。兄弟揃って両親に披露したら、なぜか私だけ鉄拳制裁された碌でもないビームだ。頭の中で披露したらシリウスのデコピン制裁を食らった。
「子供のお遊戯なのに」
「サヤの年でやったら別のお遊戯だ」
 げんなりしたシリウスの匂いを吸い込む。癒やされる。
 で? 別のお遊戯って何?
 もう一度デコピンされた。



「嫌だ! 絶対やだ! ここどんだけ冷たいか知らないの?」
「禊ぎなんだから冷たくなかったら禊ぎにならないでしょ」
「禊ぎってなに!」
「言ってみたかっただけ」

 ノワの住処に連れて来られ、あの遺跡の真ん中にある噴水に全裸で浸かれと言われた。私の必死の抵抗に、シリウスは一歩下がって我関せずを貫いている。関してくれ。妻の危機だ。

「裸じゃなければならないのか?」
「裸の方が早く出られるわ」
「サヤ、がんばれ」
 そんな応援いらない。おまけに、逃げ出そうとする私の首根っこを掴んで離さないのがちっこいおっさんというのも腹が立つ。なぜそんなに怪力なんだ。
「お前さんのためじゃ、覚悟しいや」
 なぜ極道なんだ。
 ノワに顎をしゃくられたシリウスが私の服を剥いでいく。いやー! せめて自分で脱ぐ。
「パンツも?」
「パンツも。今更恥ずかしがることないでしょ」
「恥ずかしいわ!」
 ちょっと興奮しただけで息が切れる。いい加減身体の不調には苛々していた。おまけにこの扱い。

 勢いよくパンツも脱いで、凍えるほど冷たい水の中に飛び込んだ。どうせ心臓マヒにはなるまい。
「ひいいいいぃぃぃ……」
「一度頭の天辺まで浸かりなさいよ」
 死ぬ。凍死する。歯の根が合わない。無理矢理息を吸い込んで、がばっと頭の天辺まで潜った。ひー……死ぬ。

 ああ、なんか全身潜るとあたたかいかも。がちがちだった身体の力が抜けていく。なんだかふわふわしてきた。ちょっと気持ちいいかも。

 シリウスに引っ張り上げられ浮上した。水から出た途端再び凍えた。
「ひいいいいぃぃぃ……」
「もう大丈夫そうね。外の水に浸けて戻してやって」
 私は乾物にでもなったのか。

 素っ裸のままシリウスに抱えられ、建物の外の水にとぷんと浸けられた。ああ……血の巡りがはっきりわかる。
 たぶんこれ、普通の人がやったら死ぬヤツだ。ものすごく疲れた。目も開けていられない。

『乳首血の珠?』
 口を動かすのも億劫だ。
「そんなわけあるか。どこも変わらない」
『背骨に添って血の珠生えてない?』
 念のためだと思いたい。服のまま一緒に飛び込んでくれたシリウスが、私の身体をひょいと裏返して、背中を確かめた。ついでに息を止めて顔もぬるま湯に浸ける。ぬくい。息苦しくなりかけたところで裏返されていた身体が戻された。
「大丈夫だ」
『やっぱりシリウスも疑ってたんじゃーん』
「サヤがあまりに心配するから念のためだ」
 それ、私の思考を読んだ言い訳だし。
「着替え、持ってきた?」
 口がまったりと動く。
「いや。仕方ないだろう。それともサヤだけ水の中に落とした方がよかったか?」
 沈んだままになりますが。
 薄目を開ける。焦点を合わすのも面倒だ。それでも薄目の先がゆっくりとひとつの像を結んでいく。濃い青。シリウスの心配そうな顔があった。
「あー、でもなんか、調子戻ったかも」
 とはいえ、ごっそり体力が奪われた。頭は動くのに身体が言うことを聞かない。
「そうか、よかった」
『なんか血が体中を巡っているのがすごくよくわかる。変な感じ。でも悪い感じじゃない』
 ほっとしたように笑うシリウスに身体を預けた。



 目覚めるとノワの巨大ベッドにいた。隣には俯せたシリウスが両腕の上に顎を乗せ、顔だけをこっちに向けている。
「起きたか。気分はどうだ?」
「なんで裸のまま? なんでシリウスも裸なの?」
「着せた方がよかったか? 俺は濡れた服を脱いだだけだ。ノワとブルグレが俺の着替えを取りに行った」
「いちゃいちゃする?」
「ここ霊獣の塔だぞ」
「だめ?」
「ダメだろう」
 せっかく裸同士なのに。とりあえずもうちょっとくっつこう。

 ノワの住処は柔らかな静けさに包まれている。かすかに水音が聞こえる。

「なんかあったかい」
「血がか?」
「そう。すっごく不思議な感じ。普通さ、血の流れを感じることってそうないでしょ?」
 目を閉じると一層強く感じる。私の中を巡る力の流れまでわかる。鼓動が全身に響き、かすかに脈打つ揺らぎまで感じる。
「そうだな」

 とくん、とくん、ゆらり、ふわり。水に浮かんでたゆたっているようだ。

「すごーく寒い日のお風呂も身体がぴりぴりするんだけど、それともちょっと違う」
 お風呂のたとえがわからなかったのか、目を開けるとそこには不思議そうな顔があった。
「いや、サヤの感覚が伝わってくるからわかる」
「感覚も伝わるの?」
「俺も今初めて知った。サヤが眠ったあと、どうせ濡れたならとノワに言われて、俺もあの噴水に浸かったんだ」
「あれ、死ぬでしょ」
「だな。寒さに耐える訓練もあるんだが、あれ以上だった」
「あれ絶対一度身体凍ってるよね」
「そうかもな。巨大ノワに頭から咥えられて運ばれた。足に擦り傷ができたからあとで治してくれ」
 それは見たかった。って、頭から縦に咥えられたのか。普通横じゃないの?

 身体を起こしてみれば、このところ寝起きに襲われていた目眩が消えていた。
 同じく身体を起こしたシリウスの膝から下に、細かな擦り傷がたくさんできていた。胸にくっきりと噛み痕もある。どんな運ばれ方だ。

「ノワの口の中が果物の匂いって知ってたか?」
「それ一生知らなくてもいい情報だよ」
 ノワの息はいつもフルーティだ。羨ましい。

 シリウスを治癒して気付く。本当に元通りだ。なんの違和感も気怠さもない。
 おまけに心がすっきりしている。あの回収以来どこかにこびりついたままだった濁った感情がきれいさっぱり無くなっている。

「本当に禊ぎだったのかも」
「そうかもな。妙な爽快感がある」
「デトックスってこんな感じなのかなぁ」
「解毒か。そうだな、そんな感じだ。毒気が抜かれた」

 感情の輪郭がくっきりしている。好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。心が整理されたみたいだ。曖昧なものは曖昧なまま、それでもいいとはっきり思える。
 感情というよりも、自分の輪郭がはっきりしたようだ。自分が何者か、はっきりしている。

「何者だ?」
「私は私で、シリウスの妻で、ここでは聖女」

 前からわかっていたことなのに、今は以前よりもそれが明瞭になった。
 大きく伸びをして、再びころんと仰向けになる。シリウスも隣に寝転がった。裸の男女が仰向けに寝転がる様子は、端から見たら間抜けだろう。

「余計なものが抜けたのかなぁ」
「そうかもな。世界と繋がっている気がしないか?」
「あー、そんな感じ。なんか、自分がこの世界の一部だってわかる」

 子供の頃、家族でキャンプに行き、地面に寝転がって夜空を見上げた。心が震えるほどの満天の星と身体の下に広がる大地に、自分が地球の一部になった気がした。
 ちらつく雪を見上げているときもそう。降りしきる雪だけを視界に入れると、自分が天に昇っていくような、大気の一部になった気がした。
 海水浴に行ったときもだ。身体の力を抜いて海面に浮かび、波の音を聞きながら空を見上げると、自分も海の一部になった気がした。

 ノワの住処は世界が濃い。
 こうしていると世界に取り込まれていくような錯覚を起こす。

「おそらく時の流れも不安定だ」
「そうなの? そういえば前にノワもそんなこと言ってた」
「来る度に、ここにいる体感と過ぎた時間が合わない。おまけに毎回同じではない」
「ここで感じる一時間が、外では十分だったり十時間だったりしてるってこと?」
「そうだ。ここには朝と夕しかない。昼と夜がない」
 そうかも! 言われるまで気付かなかった。昼がないのはわからないけれど、夜を体験したことがない。単に寝ていたからだと思っていたけれど、そうじゃない。知っているのは朝の光の角度と、夕暮れの空の色だけだ。
「もしかしたら夕暮れではなく朝焼けかもしれないな。ここには始まりしかない」
「そういえば、ノワのいた世界ってすべてのはじまりがある場所だったって言ってたよね」
「ここは、ノワの世界に繋がっているのか?」
「たぶん繋がってないと思う。繋がってたらノワはあんな淋しそうな顔しないと思うし」
「ノワのための場所なんだろうな」
 しみじみとしたシリウスの声に小さく頷く。
「世界に自分だけの場所があるってすごいことだよね」
 ころんと寝返りを打ち、シリウスの腕に中に潜り込む。

 私だけの場所。