アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失
57 マヌカ国


 大型飛行船が聖女宮殿の前庭に着陸した。お忍びのはずなのに堂々としたものだ。
 宮殿の門の外には大型飛行船を目にした人たちが集まり、何事かとざわめいている。

 数日前、聖女がお忍びで出掛ける、という情報が連合本部を駆け巡った。
「お忍びなのに」
「ポルクス隊や護衛を動かすんだ、内密というわけにはいかない」
 そのおかげで堂々と出掛けられるのだから仕方がない。

 休暇中のアリオトさんには羽リスのお使いが出され、ご家族を連れて朝から宮殿にやって来た。アリオトさんはマヌカの果実酒に目がないらしい。
 そのアリオトさんの家族の色を見て驚いた。奥さんはネイビーブルー、娘さんはそれよりも淡いロイヤルブルーだった。
「アリオトさんの奥さん、アトラス人なの?」
「ああ、言ってなかったか?」
 サヤにはなんでも話してあるつもりでいるなぁ、と呟きながらシリウスが笑った。

 赤みが入った青はアトラス人の証だ。シリウスの濃い青も少し赤みが入っている。アリオトさんの娘には母の色が出たのか、やはり赤みが少し入った鮮やかな青だ。日に透かすと不思議と赤が滲んでよくわかる。
 これまで見たことがなかった色だからか、最初こそ違和感しかなかった青や緑の髪色は、見慣れるにつれとても美しく貴重に思えてきた。実際アトラス人は稀少だ。この先血が薄まり、この色も失われていくのだろう。

 ん? なぜかアリオトさんの娘に睨まれているような気がする。

──あー……アリオト副長の娘を俺の妻にという話が出たこともあったな。
『なにそれ。元カノってこと?』

 一時アトラス人はいつ消えるかわからないという不気味な印象を持たれたらしい。国の消え方がそうだったのだから仕方がないとはいえ、数少ないアトラスの生き残りは肩身の狭い思いをしていた。
 それを覆したのが私だというのだから嗤う。聖女がアトラス人を伴侶にしたというだけで、それまであったアトラス人への排他的な空気がきれいさっぱり消え失せ、手のひらを返すようにその価値を一気に押し上げた。

──いや、話があっただけだ。本人も知らないと思っていたんだが……。
『どう見てもご存じのようですが?』
──どうやら本人の希望だったらしい。話があったとき、年が離れすぎている、で終わったんだが……。
『私とそう変わらないように見えますが?』
──いや、サヤより四つほど年下のはずだ。
『ごめんなさいね、子供っぽくて』

 ロイヤルブルーの瞳が神秘的で、どこから見てもシリウスとお似合いの大人っぽい美少女だ。
 ただでさえ稀少なアトラス人に加え、彼女の美貌はその稀少さに輪をかける。今や婚約の申し込みが後を絶たないらしい。彼女にしてみれば私の存在は踏んだり蹴ったりだろう。

──俺の妻はサヤだ。
『それ、声を大にして言える?』
──勘弁してくれ。

 勘弁してやろう。ダメだ、にやける。きっぱり言ってくれて嬉しい。
 へらっと笑いながら見上げると、見下ろすシリウスが目を細めながら、ほっとしたように息を吐いた。

 そうこうしている間にみんなが飛行船に乗り込んだ。ノワもブルグレも羽リスたちも一緒に行く。
 マヌカはメキナの北東にある山間の小国だ。
 いつも最後部に座るから、今回は最前列に座らせてもらう。本来身分の高い者から後ろに座り、最前列は一番身分の低い者が座るらしい。
 二人掛けの席にシリウスと一緒に座ると、驚いたのはアリオトさんの奥さんと娘さんだけで、ほかは私の奇行に慣れたのか、特に反応はない。
「確かに奇行だな」
「私としては普通のつもりなんだけどなぁ。みんなにしたら奇行だよね」
「聖女様は私たちとはお考えが違うのよ、といったところだな」
「それもどうなのって感じだけど。あんまり酷いようなら止めてね」
 笑うシリウスを見ていると止めてくれるのか心配だ。聖女、のひと言であらゆることが片付けられてしまう。気を付けないととんでもないことになりそうだ。

 飛行船の操縦はレグルス副長だ。本来飛行船の操縦も地位の高い者がすることではない。私が「最前列に座りたい」とわがままを言ったら、レグルス副長も「久しぶりに大型飛行船を運転したい」と言い出したらしく、シリウスの「お好きにどうぞ」で無礼講となった。

 ゆっくり飛んでも二三時間で到着すると聞いて、ブルグレ精霊隊は飛行船の中でまったりしている。ブルグレはレグルス副長の肩に乗り、偉そうにあれこれ指示している。

「飛行船の運転って免許いるの?」
「低空飛行船の操縦は士官学校の必須科目だ。あとは配属先によって中型と大型、特殊飛行船の操縦を覚える。ポルクス隊は全ての飛行船の操縦ができる」
「レグルス副長は元ポルクス隊って聞いていたけど、アリオトさんもポルクス隊なの? 本部の人って聞いてたけど」
「あの二人は本部の人間だが、ほぼポルクス隊でもある。特にレグルス副長は俺と行動することが多いから砦にいることも多い。隊のみんなも仲間だと思っている。だから隊長も二人にあれこれやってもらっているだろう? その分手当も付く」

 レグルス副長とアリオトさんはポルクス隊長と同期だそうな。プライベートでも仲良しらしい。
 で、そのポルクス隊長は砦でお留守番だ。知らせるか、知らせないかで迷っていたら、アルヘナさんの「内緒でいいわよ」の鶴の一声で事後報告となった。ちなみに、アルヘナさんはポルクス隊長がいると好きなだけお酒が飲めないのが不満らしく、今日はめちゃくちゃ張り切っている。

「サヤも飲み慣れてないんだ、あまり飲むなよ」
「元々お酒は二十歳になってからって法律で決められてたんだよ。だから今まで飲んだことなかったの。うちはその辺厳しかったから」
「二十歳か。遅いな。国によっても多少違うが大体の国では成人前後だ」
 それはそれで早すぎる気がしなくもない。でもまあ、女の人は十六歳で結婚できたのだから、一応大人ということになるのか。
「成人とは関係ないのか?」
「うん。男は十八、女は十六で結婚できたの。成人前だと確か親の承諾が必要だった気がするけど」
 そうか、と言ったまま黙り込んだ。
「なに?」
「いや、承諾もなしに結婚したな」
「んー、元々私の安全を考えてのことだし。承諾するにしてもねぇ」
 表情があやふやになったことが自分でもわかった。
 シリウスの腕が首の後ろに回り、頭を抱きかかえられる。
「サヤの安全だけを考えたわけじゃない。悪かった、余計なことを言った」
「好きだからってこと?」
「当たり前だろう。そうじゃなければ護衛だけしていればいいことだ。俺以上の結婚相手など山といる」
 いないけどなぁ。シリウス以上はいない。それともいたのかなぁ。いたとしても今更どうでもいい。先にシリウスに逢ったのだからそれでいい。言葉が通じないのはどう考えても無理がある。もしシリウスに能力がなかったら……いや、それはもうシリウスじゃない。考えるだけ無駄だ。能力があってこそのシリウスだ。

 あっという間にマヌカに到着した。一度来ているからか、景色に見覚えがある。というか、人出まで同じだ。ものすごく人が集まっている。

「なんでこんなに集まってるの?」
「聖女がお忍びで来たと喜んでいる」
 お忍びとは一体……。
「手振ってもいい?」
「ダメだ、と言いたいところだが、今日は私用だ。飛行船を降りるときだけだぞ」

 聖女だからとか、義務だからとか、喜んでほしいからとかじゃなく、単純に応えたい。一生懸命手を振ってくれるから、それに応えたいと思う。
 もしかしたら、それは単なる刷り込みかもしれない。手を振られたら振り返す。子供の頃からの習慣だ。

「なるほどな、俺たちも敬礼されたら応えるのが習慣だから、応えなくていいと言われるとむずむずする」
「だよね。なんか無視している気になって、申し訳なくなる」
「品良く振れよ。思いっきり振るなよ」
 どんなイメージが伝わったのか、笑いながら注意された。品良く。品良く。

 本来なら聖女は最後に降りるべきなのだが、今回は早めに降りて周囲の視線を聖女に集中させる。その隙にみんなが降りるという算段だ。
 飛行船の搭乗口に立ち、シリウスの隣で品良く手を振る。歓声がすごい。一生懸命手を振ってくれるから、一生懸命振り返したくなる。それをぐっと堪えて、品良く品良く鷹揚に手を振る。

──サヤ、笑いすぎだ。

 手を振ることに集中しすぎで、思いっきり、にかっ、と笑っていた。慌てて口を閉じる。

『新聞社も来てる?』
──いや、お忍びだと言ってあるから遠慮してもらっているはずだ。仕事とは関係なく来ているかもな。

 聖女に関しては報道規制が徹底している。基本的に撮影禁止だ。
 ここでの写真や動画は、顕微鏡で使うスライドガラスみたいなものが記録媒体だ。現像するとピンホールカメラや昔の映画のような少しぼやけた画になる。スライドガラス一枚で三十枚程度の写真か、十分程度の動画が撮れる。まだ観たことはないけれど、映画は十分間隔の一発撮りらしい。

 できるだけたおやかに飛行船から降りる。最後、上品に意識がいきすぎて思わず躓きそうになったのは、シリウスが上手く誤魔化してくれた。

『私に上品は無理かも』
──そのうち慣れる。

 慣れる気がしない。
 さくっとお城に入らず、門前で再び手を振る。その隙にみんなが脇の通用門から中に入るのを見届けて、門の中へと入った。

「前に来たときはお城の中に飛行船も入れたよね?」
「前回は公式訪問だ。今回は非公式だから城の外だ」
 なにやらルールがあるらしい。

 王様と王妃様が出迎えてくれた。聖女が頭を下げるわけにも握手するわけにもいかない。代わりにシリウスが敬礼で応える。ただ、シリウスも准聖人なので本当は敬礼してはいけないはずだ。

──お忍びだからな。
『本当は思わずしちゃったんでしょ』
──まあな。

 シリウスが「お言葉に甘えて」とか「大人数で押しかけて」とか「聖女の友人たちだ」とか、そんなことを話ながら広間に案内される。

『シリウスってここの王様と知り合いなの? なんか仲いいよね』
──そうじゃなければ急に大人数で押しかけることはできないだろう。ほら、サヤが気に入っている石鹸を作っているのもこの国だ。

 なんと。ますますこの国が好きになりそうだ。
『あの石鹸私も使ってるってアピールして!』
 シリウスがそれを伝えると、王様も王妃様も目を細めてくれた。たったそれだけの仕草なのに喜んでいることが伝わってくる。上品だ。すごく上品だ。

──前にサヤが言っていただろう、丸みのある小振りにして、印を入れろと。
『うん、何か参考になった?』
──王家の紋章を入れたら、売り上げが伸びたらしい。
『あれ、お城で作ってるの?』
──王家が所有する施設だ。

 ふむ、と考える。

 席に案内さえると、みんなすでに席の傍らに立ち、私たちが座るのを今か今かと待っていた。
 披露宴の時とは違い、よそよそしさのないこじんまりとした温かな空間は、彼らが普段使っている食堂なのだそうだ。大きなテーブルをみんなで囲む。
 王様たちと同じ空間に席が用意されていることにファミナさんやマダムたちが恐縮している。

『いいのかな、みんな緊張してるけど』
──マヌカ側にしてみれば、本当に聖女と同じテーブルに着いていいのかと恐縮している。まあ、料理が出てきたらそれどころじゃなくなるだろう。食前酒の時点でどうでもよくなるはずだ。

 その言葉通り、最初に出された果実酒がこれまたおいしくて幸せになる。
 膝に乗ったノワにグラスを傾ける。
 シリウスが「実は霊獣です」と王様たちに小声でノワを紹介し、この時ばかりは二人とも目を瞠っていた。慌ててノワ用の果実酒が用意される。届けられたのはノワが飲みやすいよう配慮された、飲み口の広いグラスというよりは小振りな脚付きのボウルだ。
「これもおいしいわね」
「だよね。飲み過ぎて酔っぱらいそう。デザートなんだろうなぁ。楽しみすぎる」
 半分まで飲んだところで、飲み過ぎないでね、と羽リスたちに分ける。精霊がお酒好きだとは。ブルグレはシリウスのグラスに頭をつっこんでいる。帰りも飛行船なら少しくらい酔っても大丈夫だろう。

「そういえばさっき考えていた聖女マークって何?」
「ほら、聖女御用達の印になるじゃん? ここにはハートマークがなかったからハートマークは聖女の印ってことでさ、あの石鹸にもちょこっと刻印したらブレイクしそうじゃない?」
「売り上げもらう気?」
「そんなことしないよ。現物支給をお願いする」
「一緒じゃない」
 私とノワの会話をシリウスが王様たちに伝えてくれる。
 初の聖女御用達ブランドだ。パクリは許さん。
「いいのか、と訊かれているが」
「いいよね? シリウスたち的にいいなら……って、いいから通訳したんでしょ?」
「まあな。あくまでも現国王一代限りの契約、更新は話し合いの上、だな」
「そうだね。私、マヌカの王様も王妃様も好き」

 品のいいご夫婦だ。年はうちの祖父母たちと同じくらいか。偉そうじゃなく、柔らかな雰囲気を纏っている。
 んー……誰かに似ている。この紳士然とした雰囲気。

──アリオト副長はこの二人の末子だ。

 だから! ものすごく納得した。それにしては、ここの王様もそうだけれど、アリオトさんも上品ながら親しみやすい雰囲気の人だ。

「ここは民と王家が近いんだ」
「開かれた王室ってヤツだね」
「ああ、いいこと言うな。そうだ、王宮が民に開かれている。特に図書室などは民が自由に出入りできるようになっているんだ」
 警備とか、盗難とか、汚れとか、考えたら色んな問題が出てきそうなのに、それらをクリアして解放しているのはすごい。
 公共の図書館はないのだろう。学校にあっても生徒以外は利用できないなら、お城の図書室が開放されているのはきっとすごく意味のあることだ。
「今日は残さず食べてもいいの?」
「いいぞ。サヤの好みはエニフが伝えてある」
「もしかして、私用に作ってくれてるの?」
「どうせならおいしく食べてもらいたいと言われた」
 やだ、感動する。ちょっと泣きそうだ。
 どこに招待されてもそんな風に言ってもらえたことはなかったはずだ。コルアですらエニフさんがこっそり私用の料理を作ってくれていた。
「いい国だろう?」
 思わず何度も頷いた。王様と王妃様が目を細め嬉しそうにほほ笑んでくれる。

 出されたスープはシリウスのと比べて何ら変わりないように見えた。恐る恐る口に含んでみれば、本当に私好みの味だった。今までどんなスープも口に合わなかった。スープだけはどうしても苦手だった。
「嬉しいって伝えて。作ってくれた人にもお礼言いたい」
 感動しすぎて泣きそうだ。口に含んだそれは、コンソメのような味だった。ちゃんとスパイスが利いている。それなのに、この世界の味じゃない。
「残さず飲んでやれ。それが一番嬉しいはずだ」

 次々出される料理は、どれも今まで食べた中で一番口に合った。エニフさんが作ってくれる料理に近い。
 思わずエニフさんを探す。心配そうに見ていた彼女に笑顔を返す。興奮して泣きそうだから心配していたのだろう。
「エニフが、よかった、と」
「エニフさんにたくさんありがとうって言いたい」
「エニフはサヤがありがとうと言う時の音を聞き分けている」
 もう無理。泣く。だから、あの感謝の仕草をするのか。私にも伝えてくれようとして。
 膝の上のノワが、たし、と前足を動かした。
「泣かないでよ」
「だよね。泣いたらせっかくの料理が食べられないよね」
「鼻水垂らしそうだからやめてほしいだけ」
 ノワのツンデレ。
 泣くのを我慢していたはずなのに、あまりにおいしくて泣くことも忘れた。

「このデザートもまた!」
 出されたのはタルトに似ていた。たくさんの果物が彩りよくこんもり盛られている。見ているだけで幸せになる。ノワが待ちきれないとばかりに膝の上で足踏みする。
「ノワ、一人で食べられる?」
「品良くは無理」
「待って、カットするから」
 あまりに美しいフルーツ盛りに興奮してしまうのはノワも同じだ。音を立てないよう急いでカットして、ノワの口に運ぶ。

 ちなみにブルグレは果実酒を飲み過ぎてテーブルの上でひっくり返ってるのをシリウスがこっそり掴んでポケットに隠した。

「どう? どう?」
「これもいいわ!」
 急いで自分もひと口食べる。生クリームとカスタードクリームの間のようなクリームとフレッシュフルーツがおいしい! 甘さ控えめのクリームがフルーツの甘酸っぱさを引き立てている。
 私が知るフルーツタルトよりクリームがかなりあっさりしている。タルト生地は固く焼いたパイみたいだ。一番の特徴は果物の味がすごく濃いこと。まるで濃縮したように濃い。瑞々しさが口の中で弾ける。

 ノワの口と自分の口をフォークが忙しなく往復する。ノワはタルト生地はそうでもないようで、代わりに私が食べた。ぱりぱりさくさくでおいしい。
「ここでしか食べられない果物だそうだ」
「今まで生きてきてこんなに味の濃い果物食べたことない」
 あの果実酒のまったりした味わいの理由がわかる。

 そこで、すっと音もなく近寄ってきたマヌカ国側の人がシリウスに何かを耳打ちした。

──サヤ、大帝国の第一皇子と乙女が到着した。

 あーあ。楽しいランチはこれにて終了。