アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失56 対峙
「で?」
「で、って……話聞いてた?」
「だから?」
巨大ノワに乗って大帝国までひとっ飛びし、姿を隠してスパイ気取りで乙女の部屋に潜入した。
長椅子に姿勢よく座り、膝に載せた絵本のようなものを見ていた彼女の耳元で「中田さん、私。人払いして」と囁くと、一瞬目を見開いただけで驚きを隠し、さり気なく人払いをしてくれた。私とは違って堂に入った乙女っぷりだ。
そういえば、噂で育ちがいいと聞いたことがあったような。あながちデマじゃないのかもしれない。
と、そこまではよかった。
ふーっ、と一息吐いて姿を現し、改めて見廻したそこは、まさに女王様の部屋だった。そこかしこがキラ光りして目に優しくない。第一声が「よくこんな部屋にいて落ち着けるねー」だったものだから、乙女大激怒だ。
わかっている。全面的に私が悪い。言葉が通じず思考ダダ漏れの日常に、つい、考えていたことがそのまま口を衝いて出た。嫌味のひとつも言いたかったことは否定しない。
「だから、私の力返してもらおうかなーって」
「は?」
やだもう。さっきからこのループだ。へらへら笑ってやり過ごそうとして失敗している自分が惨めったらしい。
ノワは猫のフリして知らん顔だし、「人の部屋に猫連れ込まないでよ! 私猫アレルギーなのよ!」ってキレられるし。
私の説明が悪いのか。長椅子に座る彼女の脇に立ったままのせいか、何か悪いことをして怒られている気分だ。
「なんで私が死ななきゃなんないの」
なんで私がこの世界に呼び出されなきゃなんないの──思わずこみ上げた言葉をなんとか喉の奥で留めた。咄嗟にのみ込んだ息をゆっくり鼻から逃がしていく。
「だから、自分の力を存在維持に使えばいいんだって」
「だからなんであんたに命令されなきゃなんないの」
そこかー。射殺されそうな視線に怯みそうになる。こわー。君の視線はレーザービーム……我ながらセンスの欠片もないフレーズがマヌケなラップで脳内再生された。現実逃避したい。
「命令じゃないよ、提案だよ」
「は? 上から言ってんじゃないわよ、何様?」
えー……。だって私がお願いすることじゃないよね、これ。
思わず足元のノワを見下ろせば、黒の目が面白そうに細められた。面白がってないで助けてよ。
「っていうか、話は信じてくれるんだ」
「は? 嘘なの? 鼻の穴動いてないけど」
「嘘じゃないよ。鼻の穴ってなに?」
「あんた嘘吐いたり誤魔化したりするとき鼻の穴ひくひくするの知らないの?」
うそだー。ノワが、ぶはっ、と吹き出した。おい、猫のフリはどうした。
嘘を吐くときに片眉がぴくっとなるのは家族に指摘されていた。鼻の穴も動くのか……不細工極まりない。正直に生きよう。
中田さんはこの世界で生きていたいんだよね?
口には出さなかった問いかけを読まれたかのように、ふん、と鼻で笑われた。
学校で見ていた彼女とまるで印象が違う。たぶんこっちが本当の彼女なのだろう。だとしたら、みんなに合わせてきゃっきゃし続けるのはさぞかし疲れただろう。素がこれかぁ。最初から知っていたなら仲良くできたかもしれない。今更知ったところで仲良くしようとは思わない。
「たぶん、第一皇子が力になってくれると思う」
彼女は、そんなわけあるか、と言わんばかりに顔を歪めた。
「はあ? そんなわけないでしょ!」
あ、やっぱり。言葉が通じないせいで人の表情から感情を読むスキルが少しずつ上がっている。
「たぶん、力になってくれると思う。あっ」
頭の中に「サヤ! どこにいる?」というシリウスの声が力を纏って伝わってきた。すぐさま「なんで大帝国にいるんだ!」が続いたから、ノワがチクったに違いない。ちろっと見下ろせば、しれっとそっぽを向かれた。えぇぇ……。
「そういうことだから。なるべく急いでなんとかして。とりあえず一回帰るわ」
慌てる私の様子に何を思ったのか、長椅子に座っていた彼女自ら部屋の窓を開け、さり気なく周りに人がいないかを確認してくれた。専用の庭なのか人の気配はない。
黒猫のノワが一度姿を隠し、羽ヒョウサイズになって再び姿を現した。それに彼女が怯んだように後退る。ノワの背に跨がろうとしたところで腕がくいっと引かれた。たたらを踏みながらなんとかバランスをとっていると、そんな私の焦りなどお構いなしに彼女が小声で囁いた。
「そっちに一の皇子と二人だけで呼んで」
「えー……」
「その時返すから」
潜められた声は真剣で、私を見る目もいつになく真っ直ぐで、応えるように頷いてから、ノワの背に乗り姿を隠して飛び立った。
人の有無を確認したのは、それを言うためだったのか。一瞬私たちのためかと思った自分が滑稽だった。
上空に駆け上がったノワが巨大化し、一目散にメキナに戻る。
「ノワぁ、一緒に怒られてぇ」
「いやよ。一人で怒られなさいよ」
「えー……仲間じゃん」
「付き合ってあげただけでも感謝してほしいわ」
言い訳を思い付かないうちに戻って来てしまった。
聖女の家の屋上には、夕日に照らされたシリウスが仁王立ちしていた。その肩にはブルグレまでもがふんぞり返っている。ファイティングなBGMが流れていそうだ。勝てる見込みはなさそうなので「▶にげる」を選びたい。
「怒ってる?」
「最初は心配してたわ。今は怒ってるけど」
すと、とノワが屋上に舞い降りると同時に、シリウスの腕にとっ捕まった。逃げたいと思っていたのが伝わったのか、シリウスの眉間の皺がかつてないほど深い。
何をどう説明していいかわからず、ノワとのリバーシから今までが頭の中でフラッシュバックのようにリプレイされる。
「ごめんなさい」
抱きしめる腕の強さからどれほど心配されていたのが伝わってくる。首に手を回してぎゅっと抱きついた。
「サヤを縛るつもりはないが、行き先くらい伝えておけ」
「ごめん。シリウスに言ったら甘えそうで。勢いに任せて行っちゃった」
「第一皇子と乙女を呼び出す口実か」
「うん。なんかある?」
なぜか子供抱きで抱えられたままノワの背に乗り、中庭に下りる。
「ねえ、どうやって屋上に上ったの?」
「壁伝いだ」
壁をよじ登ったのか。意味わからん。なんで登った?
「いてもたってもいられなかっただけだ」
「ごめん」
申し訳ないと思いながら、心のどこかが喜んでいる。こんなにも心配してくれたことを喜んでいる。
「私のこと好き?」
「は?」
睨まれた。えー……ここは甘い雰囲気かつイケボで「好きに決まってる。二度と俺の側から離れるな」とか言うところじゃ……。
「心配させた上に寝ぼけたことを言うのはこの口か」
痛いし。妻の口を指で抓むのはどうかと思うし。家のドアを開けるために抓んでいた指が離された。助かった。
「鎖で繋ぐか?」
「そっちの趣味はないので結構です」
「サヤはなぜそういつも頭の中で卑猥なことしか考えてないんだ」
「そんな言うほど卑猥じゃないよ。単なる嗜好のひとつだと思うし。犯罪的なのはダメだけど」
連想的に頭に浮かんだイメージを責められるのはどうかと思う。
ブルグレが小さな手でえんがちょをしている。子供の頃、とあるアニメの影響で流行った。懐かしい。だがそれを私に向けるのはどうなんだ。
情報化社会だったのだ。あらゆる情報が無秩序に閲覧できたのだ。私が卑猥なわけでは決してないのだ。うちの両親はフィルタなんてナンセンスだと、子供が知りたいことはどんなことでも彼らなりの正直さで教えてくれた。
「いいか、心配されて喜ぶ気持ちはわかる、だがそういうときは思っているだけで口に出すな」
「口には出してないよ。好きって訊いただけじゃん」
「訊くな」
「えー……。あんま言ってくれないんだからこういうときくらい言ってくれてもいいのにー」
再度口を抓まれた。口がタコになる。おまけにさっきより痛い。
抓んでいた手が離されると同時に、リビングの大きなソファーに放り投げられた。ぼふん、と身体が跳ねる。さっきからノワが見当たらない。さては逃げたな。
「心配かけてごめんなさい。今度からはちゃんと伝えてから出掛けます」
きちんと謝ればシリウスから不機嫌な気配が消え……ない。むすっとしたまま正面のソファーに腰をおろし、長い足をこれ見よがしに組んだ。威圧感に仰け反りそうだ。なぜ今日に限って軍服をきっちり着ているのか。威圧感増し増しだ。
「ちゃんと伝えても勝手に出掛けるのはナシだ。まずは相談しろ。連絡は当然のこと、勝手に行動するなど以ての外」
きり、びし、ばし、の三段構えだ。さっき、縛るつもりはない、と言ったのはどの口だ。
「サヤを野放しにするのは危険だということがよくわかった」
そこから小一時間、報告がてら説教された。
要所要所で「なぜそこで連絡しなかったのか」とか「乙女が騒いだらどうするつもりだったのか」とか「そこまで行ったのになぜ回収してこない」などのごもっともな指摘を受けつつ、彼女の表情や仕草まで詳細に思い出しながらの報告は、シリウスの眉間の皺をゆっくり解いていった。
何度眉間の皺に指を伸ばし、もみもみ解したくなったことか。思うだけでやめておいた。「懸命だな」と渋面で言われ、世に溢れていたラブストーリーがいかに紛い物だったかに気付かされた。それとも、シリウスがカタブツなだけなのか。この世界が禁欲すぎるのか。
「そんな男、本当にいると思うか? 頭おかしいだろう」
「残念なことに私の周りにはいなかった。うちの兄弟はギャグだって言ってたけど、もしかしたらいるかもしれないじゃん」
「そうだな、もしかしたらいるかもしれないな、頭のおかしな男が」
思いっきりバカにされた。
シリウスが立ち上がり、キッチンに消えた。喉が渇いたのかとその背を追いかけ、お茶を入れようと思っていたら、食品庫から出されたのはクリスタルみたいな立派な器に入ったふるっふるのババロアだった。
「どうしたのこれ?」
「気に入っていただろう、無理を言って作ってもらった」
特別扱いしてはいけないはずなのに。
「誕生日は祝うものなのだろう? 遅れてすまない。サヤ、誕生日おめでとう」
あった。ちゃんとあった。ラブストーリーはここにあった! そんな男がここにいた!
「わざわざ?」
「いや、ちょうど用もあった」
はにかむシリウスの嘘に、抱きついて背伸びしてキスした。
「シリウスも、誕生日おめでとう」
せっかく用意してくれたのに、よりによって私のあの言い方……最低だ。怒られて当然だ。さっきの私をぶちのめしたい。そりゃあ口だって抓まれる。
心の底から反省した。こんなことがなければ反省できない自分が情けない。
「ごめんなさい。二度と勝手に出掛けません」
「そうしてくれ。今のサヤを傷付けられる者はいないとはいえ、心まではわからない。また一人で傷付いているのではないかと思えば、心配もする」
心の隅にあった慢心を見透かされていた。どうせ死なないのだからそんなに心配しなくても、と思う気持ちがどこかにあった。
一層強く反省した。思わず自分の口を抓んだ。シリウスが笑った。笑わせるために抓んだわけじゃないのに、笑ってくれてほっとしている。
リビングに戻ると、どう考えてもババロア目当てのブルグレとノワが目を輝かせて待っていた。さっきまで二人ともいなかったくせに。
「サヤのひと口が小さかったせいか、気に入らなかったのかと料理人がしょげていたらしい。実は特に気に入っていたと告げたとき、感極まったのか泣き付かれた」
「これ今まで食べたデザートの中で一番好き」
「これを食べるためだけでもいいから遊びにおいでと、国王夫妻に社交辞令ではなく本心から言われたよ。あそこの国王は気持ちのいい人なんだ」
「なんって国だっけ?」
「マヌカだ。あまり裕福な国ではないが、果物が特産だ」
マヌカ。ハニーな国名だ。
「聖女が好んだことを売りにしていいかと訊かれた」
「いいよー。新作できたら教えて欲しい!」
「わしマヌカ好きじゃ。もうすぐ真っ赤な甘い実がなるんじゃ。マヌカにしかないんじゃ」
どんな実だろう。ブルグレが言うほどだ、おいしいに決まっている。
「ベリー系の果物ね」
「ベリー好き! 絶対行く! あ、でも特別扱いしちゃいけないんだっけ」
「披露宴ではな。それ以外はサヤの好きでいい。ファルボナにもまた行くつもりだろう?」
小さな器に取り分けたババロアをあの時できなかった後悔を思い出しながらスプーンで大きく掬う。
んー……おいしい!
そうか、果物が特産だから素材そのものの味を大切にしているのか。だから口に合うのか。
どうしてもこの世界のちょっとしたアクセント的味付けが口に合わない。日本人が隠し味に醤油や味噌を入れるような、そんな根本的な味が口に合わない。
いつもエニフさんが手配してくれる料理は、とにかく塩のみのシンプルな味付けにしてくれている。
ブルグレが器に顔を突っ込んで食べている。シリウスもおいしそうだ。ノワが食べにくそうにしていたから、スプーンで掬って口に運んでやると、満足そうに目を細めた。
「ノワも好き?」
「これはおいしいわね。甘すぎないのがいいわ」
「だよねー。シリウスありがとー。みんなにも食べてほしいかも」
「みんなの分も作ってもらった。食後に出るはずだ」
抜かりない。さすがだ。
「ってことは、あともう一回食べられるの?」
シリウスに頷かれ、ブルグレとハイタッチを交わす。
そうと決まれば宮殿の食堂に急げ! だ。
シリウスと腕を組みながら、スキップで地下通路を進む。ノワとブルグレは窓から行った。
「そんなに嬉しいか?」
「すっごく嬉しい。ありがとー」
誕生日を祝う習慣のないこの世界で、祝ってもらえたことが嬉しい。祝ってくれたのがシリウスで嬉しい。プレゼントまで用意してくれてすっごく嬉しい!
シリウスだって誕生日なのに、私からのプレゼントがない。強いて言えばさっきのキスひとつか。私のキスが誕プレになるほど価値があるわけもなく……何かないかな、プレゼント。
不意に立ち止まったシリウスに、何事かと軽く首を傾げたら、そのままキスされた。
「贈られるならこれがいい」
死にそうだ。ずがんとバズーカで撃ち抜かれた。私の胸にはハート型の穴が空いているはずだ。
幸せすぎてとろけてしまう。寝室以外でシリウスがキスしてくれたことはない。
どうしよう、このまま家に戻ってしっぽりするか、ババロアを食べに食堂に行くか。
「だからどうしてそう破廉恥に思考が傾く」
「えー……シリウスはしたくない?」
そこではにかむのがシリウスだ。もう、本当にもう、大好き。
「ご飯食べたら、だね」
「食事は健康維持に欠かせない」
堅いことを言って誤魔化そうとするシリウスが愛おしい。だから、照れ隠しにデコピンはやめて。
ババロアはみんなに好評だった。特にデネボラさんが大絶賛していた。
ファミナさんもギエナさんも最初こそぎこちなかったものの、あっという間に馴染んで、今では女同士様々な情報交換をしているらしい。二人の表情は明るく、無理していないことが伝わってくる。子供たちも子供同士仲良くなっている。
この世界では共通語が割と早い段階で浸透したらしく、国によって独特の言い回しがあったり、方言のようなものがあったり、イントネーションが様々だったりするものの、通じないということはない。
各国特有の言語も大切にされ、みんな当たり前のようにバイリンガルだ。
「せっかく来たならこれも持って行けと果実酒ももらってきた」
シリウスがそう言った瞬間、ポルクス隊から野太い歓声が上がった。嬉しそうな笑顔を見せるポルクスマダムたちが小さなグラスをみんなに配っている。注がれたのはとろりとした赤みの強いオレンジ色の液体だ。
「マヌカの果実酒は高価なことで有名なんだ」
「そうなの?」
「ああ、サヤもちょっと飲んでみろ」
言われて恐る恐る舐めるように口をつけた。
「うわぁ、なにこれ! おいしい! お酒? これがお酒?」
「だろう? 通常果実酒は無味無臭の酒に果汁を加えて作るのが手間もかからず安価にできると主流だが、マヌカの果実酒は果実自体を発酵して作られる」
ワインと同じ作り方なのかもしれない。ほかの果実酒はカクテルか酎ハイみたいな感じだろうか。だとしたら、当然手間暇の分高価になる。
「サヤはよく知ってるな」
それなりに知られていることだと思うけれど、褒められて悪い気はしない。特に今はシリウス大好き全開だ。もっと褒めてー、と思いながら、もうひと舐めする。熱の塊のようなアルコールがかーっと鼻に抜け喉の奥を伝っていく。それにしてもおいしい。
ノワが興味を持ったようで、グラスをのぞき込んでいた。少し傾けてやれば、ちろっと舌をつける。
ブルグレがシリウスのグラスに顔をつっこんでいる。指をさして教えると、シリウスがブルグレをぽいっと放り投げた。飛ばされながらうはうは笑っているからすでに酔っているのだろう。ネラさんの息子のネカくんに両手でキャッチされた。
「やだ本当、これはおいしいわ。舌がぴりぴりしない」
「だよね、くわーってなるからアルコール高そうだけど、でもすっごくおいしいよね」
果実を濃縮したようなこっくりとした口当たりと、後には果実そのものみたいな爽やかさが残る。桃やマンゴーのようなまったりさとオレンジのような爽やかさ、りんごにも似た甘さがある、複雑な味だ。
「これって、ほかにも種類あるの?」
「ある。収穫ごとに仕込むらしい。醸造所によって果実の配合が変わるから味も変わる」
全部飲んでみたい。
「みんなで行くか? 年明けすぐは暇だからいつでもいいと言われている」
「行く! エニフさんいい? ファミナさんやギエナさんは? アルヘナさんやマダムたちは?」
思いっきり盛り上がった。
ついでに大帝国の第一皇子と乙女も誘うことになった。万が一第二皇子もくっついてきたら酔いつぶしてしまえばいい。