アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失55 実行
「しまった! サヤ、誕生日が過ぎてる」
「え、もう年末ってこと?」
メキナは日本と比べ、年中温暖で四季がはっきりしない。
シリウスの執務室にはカレンダーらしきものがあるものの、私には何が書かれているのかさっぱりわからない。ローマ数字のような記号が書かれているとノワに教わったところで、聖女フィルターのおかげで何度見ても覚えられない。かといって、自作カレンダーを作るほど不自由もしていない。
毎日「今日は何月何日?」と訊くこともないせいか、今日がいつだかはっきりしない。以前コルアで夏の終わりを感じたまま、私の中では秋の始まりまではかろうじて進んだものの、そこで季節が止まっている。
時計がアナログの砂時計型でよかった。これがデジタルみたいに文字しか書かれていなかったら時間すらわからなかった。
「祈り忘れた」
「ノワに祈っとけば?」
思わずそう言ったら、腕の中のノワが「私に祈られてもね」と素っ気ない。
「ねえ、なんで自分たちの部屋があるのに夜中に人の部屋に忍び込むの?」
「いいじゃない。邪魔してないでしょ」
邪魔はしていない。寝るときはシリウスと二人なのに、起きると必ずノワとブルグレがいる。おかげで目覚めが甘くない。新婚なのに甘くない。寝起きの第一声が「しまった」というのも甘くない。シリウスの寝起きがよすぎるのも甘くない。気怠げな甘さがどこにもない。
おまけに、砦勤務のときにはあったシリウスのお休みが本部にはない。シリウスは本部にいると年中無休だ。過労死する。当たり前のように年末の五日間も働く。ブラックだ。
「俺の場合、まとめて取るからな。ひと月ふた月休むこともある」
「それだってアトラスの謎を探しに行ってたんでしょ。休みじゃないよ」
年末は関係部署が休みに入るために本部は忙殺される。ついでにアリオトさんが休暇に入るため尚のこと忙しい。去年はシリウスが休みを取ったので、今年はアリオトさん、来年はレグルス副長のローテーションだ、と思い出したように教えられた。
数日前からやけに慌ただしいと思っていたら、師走だったというオチだ。
「サヤの休みは長椅子でだらけることだろう。それは毎日やっている」
「毎日やってるのは私だけでしょ」
シリウスにしてみれば、披露宴に向かう道中が休みになるらしい。意味わからん。それってただの移動日だし。
シリウスが寝起きにやるストレッチが本気すぎて甘くない。腕立ても腹筋も世界が変われど同じようなスタイルだ。黙々と身体を動かすシリウスは息ひとつ乱さない。規則正しく息を吐く音が聞こえてくる。
私が筋肉フェチなら毎朝のご褒美だろうけれど、残念ながらそこまで筋肉に興味はない。
「サヤは朝から何がしたいんだ?」
「イチャつきたいだけですよ」
「不満か?」
いえ、夜の方に不満はありません。不満どころか思考が伝わる分容赦ありません。むしろ不満を抱かせているのは私の方ではないかと日々葛藤したりもしております。
ただですね、朝ももうちょっとぎゅっとしたり、さわっとしたり、ちゅっとしたりがしたいだけなのです。
「それだけで済むと思うのか?」
「ちょっとしてみたいだけじゃん」
ノワとブルグレが蔑んだ目で私を見ている。なに、私が悪いの?
「破廉恥の極みじゃ」
なぜブルグレにやれやれ顔をされねばならぬ。普通だよ。女の子が夢見る普通の朝イチャだよ。
「はっぴばーすでーとぅみー。というわけでワタクシ十九歳になったわけですが、十七歳の頃と何一つ変わっていない気がするのは気のせいでしょーか」
「音痴。そんなに変わらないでしょ」
「ノワさん、女の十七から十九は大変化があるものなんですよ。芋虫が蛹になって蝶へと変化するくらいの大変化が!」
「そんな希望的観測で言われても。あなたの場合、劣化しないと思うわよ。劣化したらそれ死ぬときだから」
「ノワさん、劣化という言い方はあまりよろしくありません。おまけに世の中の人間は毎年年を重ねてゆっくり死に向かっていくんですよ」
「だから、あなたは普通の人間じゃないでしょ」
聖女か。聖女の呪いか。喜ぶべきか、悲しむべきか。
いつものようにシリウスの執務室でシリウスの仕事を手伝う。といっても、机の上にある書類の整理だ。シリウスは何かの打ち合わせで階下の会議室に行った。
「人間の場合、喜ぶものじゃないの?」
「ノワさん、普通の人間じゃない場合、喜べません」
髪も爪もそれまでと同じように伸びる。排泄や食欲、睡眠も今までと同じだ。ただ、生理は今のところ年に一度、それまでと同じように始まって終わる。身体の仕組みがどうなっているのか自分でも把握しきれていない。
「それよりサヤ、そろそろよ」
急にノワの声がぴんと張った。珍しく名前を呼ばれた。びくっと震えた。
忘れた振りをしていたのに、そのまま忘れさせてはくれない。
「この場で力を取り戻すこともできるわ」
「離れているのにできるの?」
「できるわ。私が手伝うから」
それなら知らないうちに終わる。なにも見ずに済む。
“それでいいの?”
誰かの声が聞こえた気がした。おかあさん。唇が勝手に動きそうになった。
本当にそれでいいのだろうか。勝手に終わらせていいのだろうか。
ノワが小さく息を吐いた。
「あの子が自分の力を惑わしに使わないで、自分を維持するために使えば、少なくともまだしばらくは存在できるわ」
「それって、力を一切使わないってこと? そういえば乙女って惑わす以外に何かしてるの?」
「なにもしてないのよ。だから疑われてるの。祝福の乙女って騙っといて、あなたみたいに治癒した実績がないのよ、彼女」
「乙女も治癒できるの? 力を与えられないのに?」
「悪しきものを奪うってことくらい考え付きなさいよ」
「あ、だから厄災をその身に宿すって言われてたのか」
ノワの呆れた目に慌てて続ける。
「それを彼女に話してわかってくれると思う?」
「さあ。話してみないことにはわからないわね」
「私の言うこと信じると思う?」
「そうね。彼女にはあなたにとってのシリウスみたいな、信じられる存在がいないのよ。そういう存在から話せば素直に聞きそうだけど」
「なんで? 第二皇子は?」
「あれねぇ。乙女が自分のものになれば、皇帝になれるんじゃないかって思ってるのよ」
うーわー最低。だからシリウスは大帝国は二分すると言っていたのか。
「でも、乙女は第二皇子のことそれなりに想ってるんでしょ?」
「そうねぇ。祝福の乙女じゃなくなった彼女の支えになるほどではないわね」
「ほかにいないの?」
「いないわね。そもそもみんな惑わされているのよ。惑わしが消えたとき、善くも悪くもどんな感情を持つかわからないわ」
直接手を下したくない。その思いが一番強い。それは認める。
ただ、彼女がこの世界で生きたいのであれば、生きる権利もあるとは思う。私に関わってこない限り、勝手に生きればいいと思う。
「案外、あなたの話なら聞くかもね」
「は? それはないでしょ」
「あなただって彼女の話聞いたでしょ」
「あれは聞いたって言うか一方的に言われただけだよ」
「それでも、ちゃんと聞いたでしょ」
思わず黙り込んだ。もし、彼女以外からここが別の世界だと言われていたら……素直に信じただろうか。ふと浮かんだそれに、心がざわついた。
「案外、そんなものなんじゃない? あなたたちの関係って」
会いたくない。だからといって、会わずに消すこともできない。
考え出したらキリがないほど、ずっと葛藤し続けている。
「ノワ、付いてきてくれる?」
「仕方ないわね」
「ごめんね」
これ以上ないほど嫌われているなら、もう今更何を言われてもいい。
これ以上ないほど嫌っているから、包み隠さず本当のことを話そう。
信じるも信じないも彼女が決めることだ。それでいい。彼女に決めてもらいたい。
「あなたって、つくづくへたれね」
「他人の人生背負えるほどの甲斐性はないんだよ」
ノワがさもおかしそうに目を細めた。
「ま、あなたらしいわ」
そこでエニフさんがお昼を持ってきてくれた。シリウスは出掛けたらしい。
昼食を載せたワゴンを押したエニフさんと一緒にファルネラさんことネラさんと、ボナルウさんことルウさんが執務室に入ってくる。まだ新しい呼び名に慣れない。
食事はみんなで一緒に、だ。
最初はネラさんとボナさんが順番に食べようとした。一人が食べている間、もう一人が護衛に立つ。ファルボナではそうだった。「執務室にいるときに限り、ノワが一緒の時はその必要はない」とシリウスに言われて以降、二人同時にご飯を食べるようになった。
なにせ、仮眠室と執務室、控え室は私の練習も兼ねてどこよりも強力な加護がかかっている。
あ、そうか。年末だからネラさんとボナさんの家族が来ているのか。単身赴任のお父さんのところに遊びに来ただけかと思っていた。
エニフさんは砦に行かなくていいの? をなんとかジェスチャーで伝える。行かなくていいの? が、行く? になってしまうのは仕方ない。それでも意味は通じたようだ。
「デネボーラがこっちに来るんですって」
デネボーラって、イタリア人か。
「え、じゃあ、ポルクス隊長は?」
「知らない。あのストーカーは宮殿に残ってるわよ」
ストーカーって……アルヘナさんのことか。ノワにしてみればそうかもしれない。
「じゃあ、シリウスもいないし、本部にいないで家に戻ろうかな。そうすればみんなも帰れるよね」
エニフさんとネラ&ルウさんは私付きなので家に帰れば三人とも宮殿に戻れる。
家に帰る、のジェスチャーをすると、エニフさんがひとつ頷いた。家に帰る目的を悟ったのか、エニフさんは片手を一瞬、胸にぽんと当てた。エニフさんはそうやって感謝を示す。ありがとうの代わりにしては重い感謝を簡単に伝えてくれる。
家に戻り、暇がてらノワとリバーシする。リバーシは自作だ。厚紙を同じ大きさにカットして片面を黒く塗った。丸くカットしていないのは面倒だったからで、四角くても支障はない。見た目不細工でも、使えればいいのだ。ちなみにこのゲームは広めないようノワに言われている。
「ねえ、ブルグレは?」
「シリウスと一緒」
ふーん、と鼻を鳴らしながら四角を一枚ボードに置く。
「いつも思うんだけどさ、ゲーム中は私の思考読むのやめてよね」
「読まなくてもあなた弱いじゃない」
そうなのだ。勝負事で家族に勝てた例がない。うちでは恒例だった元旦最初の大勝負、人生をかけたあのボードゲームで、なぜか私はいつも借金地獄だ。細い木片を抜いていくゲームはいつも大破させ、花札もトランプも勝てた記憶がない。ならばと挑むカートゲームでは、ここぞというところでいつもクラッシュするのがオチだ。
「あなた全部顔に出るし、ここぞというときにコントローラー握りしめすぎなのよ」
「コントローラ握りしめられない人に言われたくない」
「あら、できるわよ。私を誰だと思ってるわけ?」
肉球で握りしめられるわけな…い……ノワならやってしまいそうだからここは逆らうまい。
「で、いつ行くの?」
肉球に吸盤でも付いているのか、ぺたんと一枚四角い厚紙をマスに置き、周りの四角を肉球が器用に裏返していく。その合間に言われた一言に、またもやびくっと震えた。
「早い方がいい?」
「今ならちょうどいいんじゃない? 今って争っちゃいけない期間なんでしょ」
「乙女がいなくなったら停戦協定ってどうなると思う?」
「知らない。興味ないわ。なるようになるんじゃない?」
大帝国にとって絶対の存在だった乙女がいなくなる。どれほどの影響が出るのだろう。
「またうだうだと。あのねえ、あなたの存在も乙女の存在も、そこに在ればそりゃあ大きな影響を与えるだろうけど、いなくなったらいなくなったでどうとでもやっていくのよ。自惚れるのもいい加減にしなさいよ」
「自惚れてないもん」
「自惚れてるでしょ。『私の判断で世界が変わる』なーんて図々しいこと考えてるじゃない。ちゃんちゃらおかしいわ。ヘソで茶ぁ沸かすわ」
「ちょっと思っただけじゃん。ヘソなんてないくせに!」
「ちょっとでも思ったら伝わるのよ。ウザいのよ。さっさと消しちまいな!」
江戸っ子か。
人一人の存在をどうこうすることへの抵抗感をノワと共有することはできない。シリウスともイマイチ共有できない。
結局、こういう微妙な感覚はこの世界にいるただ一人としか共有できないのかもしれない。
「なんか、考えると凹む」
「それが同郷のよしみってものなんじゃないの?」
微妙に違うと思う。
「よし! さくっと行って、さくっと帰る!」
この勢いに乗らないと私はきっとまたぐだぐだする。
待ってましたとばかりにノワが羽ヒョウに姿を変えた。