アンダーカバー / Undercover
第三章 因縁51 因縁
「また悩んでるのか?」
「やっぱさ、何かしたほうがいいのかな」
「サヤは何かしたいのか?」
手元の書類に視線を落としたままのシリウスに訊かれ、答えあぐねて言葉に詰まる。
そういうわけじゃない。ただ、コルアの親善パーティに出て以来、なんとなくもやもやしているだけだ。
「こうして俺の仕事を手伝っているだろう」
今日も今日とて、執務室でシリウスの仕事を手伝っている。手伝っているといっても、大きな机に座るシリウスの向かいに椅子を持ってきて座り、差し出される書類を言われるがまま振り分けているだけだ。雑用にすらならない子供のお手伝いレベル。
ひと月後に迫った聖婚式の予行演習のために、ポルクス隊の半分がメキナに集結している。予行演習といっても表立っては何もしていない。当日まで極秘とされるパレード経路や警護の確認などをポルクス隊長指揮下で姿を隠して秘密裏に行っている。レグルス副長とブルグレも駆り出されている。アリオトさんとエニフさんは聖女の館の最終チェックに行った。ノワは……たぶんその辺にいる。
「そうか、サヤには言ってなかったか。コルアは聖女のおかげでずいぶん潤ったんだ」
書類から顔を上げたシリウスが、宥めるような笑顔を見せる。
「なんで?」
「ボウェスに行くまでは聖女が唯一訪れた国だと、あらゆるコルア産がそれまでの倍以上の値を付けた。観光収入はそれまでとは桁違いだ。今は聖女再訪の国だと一層人気だ」
だから、晩餐会のドタキャンや親善パーティでのわがままがあっさり通ったのか。聖女の経済効果がすごい。
「コルアからは聖女への献金が本部に届いている」
「受け取ったの?」
「くれるものは貰っておく。献金は聖女に限ったことじゃない」
政治献金と同じ意味だろうか。ただ支援するだけで済むのか。見返りを期待されないのか。現にコルアには二回も行っている。献金したからだとの批判は他の国から出ないのか。
政治献金というワードに黒いイメージがあるせいか、よからぬことばかりが浮かぶ。
「そう思わせないだけの理由などいくらでも用意できる。メキナ王からもしつこく面会したいと言われている」
そう言いながら、シリウスの視線は手元の書類に戻っていった。
連合本部のあるメキナに滞在しているのに王様には会ったことがない。どうせ聖婚式で会うだろうと後回しにしてきた。事前に会った方がいいならシリウスからそう言われるはずだ。
「今や聖女が滞在するこの建物はメキナで一番人気の観光名所だ」
聖女まんじゅうとか聖女ステッカーとか作ったら売れるかも。
「聖女が好んで食べると揚げ芋が大人気だ」
エニフさん監修で一階のテナントで売り出してみたら連日行列がすごいらしい。執務室のある最上階から降りることが滅多にないから知らなかった。ノワとの空への逃避行はもっぱら窓からの出入りだ。
あの芋やココナツみたいな油の実はファルボナでしか採れないらしく、ファルボナの主食であり特産品だ。ファミナさんにはレシピ考案料として売り上げの一部が支払われている。私の言葉の知識を持つブルグレが知的財産権を強く主張したらしい。
「聖女、と付くだけで今までも見向きもされなかった芋が飛ぶように売れている」
「つまりここに居るだけでいいってこと?」
「そうだ」
微妙だ。
何かしたいわけじゃない。けれど、何もしなくていいと言われると、それでいいのかとも思う。
何もない。私には聖女としての何かが何もない。
「別にいいんじゃないか。サヤは聖女という生きものじゃない。聖女という肩書きを持っているだけだ」
「仕事として割り切れってこと?」
「その方が健全だろう? 聖女として生まれたならまだしも、サヤはなりたくてなったわけじゃない。押しつけられた仕事だと思って割り切ればいい」
割り切れたらこんなに悩まない気がする。
シリウスと一瞬目が合う。一秒ほど視線が絡んだだけで、シリウスは再び書類に視線を戻した。
「結局な、聖女や乙女の存在は人には大きいんだよ。何をしても極端に影響される。それならいっそ何もしない方がお互いのためだ。ただ存在しているだけで十分なんだよ」
そんなものかなぁ。そんなものかもなぁ。
もしも、宇宙人がいたとする。その宇宙人がある日突然地球に現れたとして、何かしようとしていたらどう思うだろう。たとえ友好的な宇宙人でも、自分の星に帰れないなら何もしてないでじっとしていてくれと思わないだろうか。自分たちとは違う生きものだから、何を考えているかわからないと思わないだろうか。宇宙人が存在しているという事実だけでもすんなり受け入れられなくて、パニックになったりしないだろうか。
「私ってブレまくりだなぁ」
何もしなくていいことに納得したかと思えば、何かしなきゃいけないような気がして焦る。このところそれの繰り返しだ。
「サヤはまだ若い」
「シリウスだってまだ若いじゃん」
「俺はサヤよりは大人だ」
なぜか威張られた。
またちらっと一瞬だけ視線が絡む。
「サヤは乙女とは違う。あれと同じことをする必要はない」
バレている。
関わりたくはないけれど、意識せずにはいられない。やっぱり彼女の功績は大きい。この世界に来た意味がそこにあるのではないかと思えてならない。
「実はそうでもないんだ。一部の有力者からは反発が出ている」
「なんで?」
「大帝国の産業は軍事に特化している。連合国の一部でも大帝国製を使用しているくらいだ」
停戦──いいことだと思うのに。戦争は儲かる、と言われるのはこの世界も同じなのか。
現にファルボナの貧困は停戦によるものが大きい。これからさらに窮するだろう。貧困は犯罪を生む。清貧が絵空事だということくらい、私でもわかる。
「戦争ってなくならないのかな」
「なくならないだろうな。人が二人いれば諍いは必ず起きる。人の歴史は争いの歴史だ」
同じような言葉を聞いたことがある。
「なぜポルクス隊が砦から撤去しないかわかるか? 本来なら陸軍に任せて撤退していいはずなんだ」
あそこがポルクス隊の本拠地だと、あそこにいるのが当然だと思っていた。
「ポルクス隊は本部直属の特別部隊だ。本来なら本部にいるべき隊だ」
正面から冴えた濃紺の瞳に見据えられる。いつもより青が深く見えた。
「戦いしか知らないものは戦うことしかできないんだ。俺たちも、ヤツらも」
戦うことを否定してはならない。ここに生きる人たちを否定してはならない。
ここは、私の知る世界じゃない。彼女の知る世界でもない。
「大帝国は荒れる」
「内紛ってこと?」
「第一皇子と第二皇子が争うことになる」
そこまで言ったシリウスは静かに青の目を伏せた。
「連合国は第一皇子に付く」
だから、乙女の暗殺なのか。
ようやく腑に落ちた。なぜシリウスが出迎えることになったのか。なぜ第一皇子が急遽コルアに来たのか。なぜ私に会わせたのか。なぜメキナ神殿長が同行したのか。あのピクニック会談で何が話されていたのか。
親善という綺麗事の影で何を話し合ったのか。
「彼女は、どちらにしても厄災の乙女として全ての責任を取らされることになる」
「ずいぶんだね」
「事態を招いたのは彼女自身だ」
頭も心もぐちゃぐちゃだ。助けたいと思うわけでもないくせに、扱いの酷さに反吐が出る。
おそらく反発しているのは私が治癒した人たちだ。
「斬首されるくらいなら、暗殺される方がマシだろう?」
「どっちも同じだよ」
きっと私も、余計なことをしたらあっさり殺される。背筋に冷たいものが走る。
「サヤ、この世界にはこの世界のやり方がある。厳しいようだが、霊獣も、聖女も、乙女も、外界の生きものなんだ。ノワはそれをわかっている。サヤも始めから薄々わかっていただろう? 未だわかろうとしない乙女の落ち度だ」
これ以上ないほど明確な境界線。あくまでも私たちは外の生きものだ。
再び深い青の瞳に囚われる。
「それでも俺はサヤを愛している。それだけじゃ不満か?」
「シリウスに愛されるだけの生きものになれってこと?」
「不満そうだな」
こんな会話のラストに言われたセリフじゃなければ、今頃腰が砕けていただろう。
本気で愛おしんでくれているのはわかる。本気で寄り添おうとしてくれているのもわかる。
だからこそ、わかる。
いざというときに私を殺すのはシリウスだってことも。
始めからわかっていて手を伸ばした。わかっていて寄りかかった。わかっていて、彼のためになるなら、と思った。
それでも、だ。
「シリウスの言いなりにはならないと思うよ」
「サヤが俺の言いなりになったことなど、これまで一度でもあったか?」
呆れ混じりの言葉に反論できない。
なぜしおらしく「わかりました」と言えないのだろう。「言いなりにならない」なんて啖呵を切っている場合じゃない。ここは「こんな私でも愛してくれるのね」と涙をひとつやふたつ流す場面のはずだ。
そうやって自分すら誤魔化していられればよかったのに。
「気負うな。俺がサヤを殺すことはない。サヤが何をしても嫌うこともない」
その言葉に嘘はない。心中複雑なのはシリウスも一緒だ。誰よりも想われている。けれど、そこに何かしらの使命感や義務感が混じっていることもわかる。それでも、いざとなれば一緒に逃げてくれるのもわかる。
「愛って単純じゃないんだね」
「単純な愛など芝居の中にしかない。俺が愛してやるから覚悟を決めろ」
愛して殺る、と聞こえたのは気のせいではあるまい。何気に俺様だし。開き直ったシリウスの愛が重い。
「サヤにはこのくらい重くてちょうどいいだろう」
「なんか俺様だね」
「俺の地位はそれなりに高い。育ちもそれなりにいい。日々鍛錬しているから健康だ」
「なんのアピール?」
「夫として悪くないだろう?」
「だから、なんで俺様?」
「賢いおっさんに最初が肝心だって言われたのよ」
ノワが執務室に入ってきた。シリウスよ、なぜそこではにかむ? さっきまでの俺様はどこいった? ポルクス隊長に何を吹き込まれた?
ノワがしつけのできていない猫みたいに書類が散らばる机の上に飛び乗った。慌てて書類を退ける。
「大丈夫よ、いざとなれば私が殺るから」
「ノワは『殺る』って言ってみたいだけでしょ」
二人の視線の真ん中にいる黒猫がつんとそっぽを向いた。
シリウスはその微妙なニュアンスが掴みきれなかったのか、少しだけ不思議そうな顔をしている。
「あなたがこの世界にいる意味なんて考えても無駄よ。意味なんてわかるわけないわ」
「ノワも考えた?」
「考えたわ。考えてやらかして妖獣って呼ばれたりもしたわ」
それはカミングアウトしてもいいことなのだろうか。何をやらかしたのか気になる。
「言わないわよ。史籍にも残ってないわ」
「黒歴史消したの?」
「消して殺ったわ」
胸を張って堂々と言うことじゃない。おまけに「殺った」の使い方が間違っている。まさか、殺ったのか……。
シリウスが「俺は聞かなかったことにする」と目を伏せた。微妙なニュアンスが伝わったらしい。
「あなたたちが虫を殺すのと似た感覚よ」
ノワさん、それ以上のカミングアウトは不要です。
「私のこと嫌いになった?」
あざとい。小首を傾げたよ。こてん、って。
「じゃあ、私のことも嫌いになる?」
真似してやった。言わなくてもいいことをノワに言わせてしまった。泣きそうだ。
命が軽い。軽すぎて笑える。
一寸の虫にも五分の魂。そう言った昔の人もこんな気持ちだったのだろうか。
気付きたくなかった。
「サヤ、泣くな」
「泣いてないよ」
「泣いてるわよ」
泣きたくもなる。
今まで私の中にしっかり根を下ろしていた命に対する認識が覆る。綺麗事だったと思い知らされる。命はただの命だ。それ以上でもそれ以下でもない。始まったら生き、終わったら死ぬ、それだけだ。虚しくて泣ける。
「バカじゃないの。それはあなたがこれまでのうのうと生きてきたからそう感じるだけでしょ。生きるってことは危険と隣り合わせなのよ。命なんて最初から虚しいものなのよ。生死なんて理不尽なものなのよ」
心底呆れたノワの声に苛立つ。
「しょうがないじゃん。朝いってきまーすって学校行って、そこそこ真面目に授業受けて、放課後友達と遊んだりバイトしたりして、ばいばいとかお疲れーって家に帰っきて、おかえりーって家族みんなでご飯食べて、ゆっくりお風呂入って、何も考えずベッドで寝るのが普通だったんだよ。高校卒業して、大学行って、就職して、結婚して、子供産んで、そういう普通の人生を送るつもりだったんだよ。生きるとか死ぬとか、そんなこと真面目に考えたこともなかったんだよ。私の悩みなんて軽すぎて笑えるものばっかりだったんだよ」
「残念ね。あなたの普通は終わったのよ」
わかっている。夢だったらいいって今でも思っている。
それでもシリウスが好きで、ノワが好きで、ブルグレが好きで、ここで生きるのも悪くない、そう思いかけたところだったのに。
気付きたくなかったのに。
「女々しいわね」
「女だもん女々しくて当たり前」
「覚悟決めなさいよ」
「殺人だけは嫌なんだよ」
「自分の力を回収するだけでしょ」
「回収したら殺人じゃん」
「あれは元々この世界で生きているわけじゃないわ。それこそ夢のような存在よ」
それを羨ましいと思ってしまう私は、ノワの言う通り女々しさの極みだ。
「放っておいたら本当に寄生虫になるわよ」
「サヤ、こっちで殺る」
「たぶん無理。私の加護を持つポルクス隊は私の力を奪った彼女を傷付けられない」
あーあ。気付きたくなかったのに。
「何言ってんの。わかってたことでしょ。うじうじ逃げてても仕方ないのよ」
「まだ少し先の話だ。今すぐどうこうというわけじゃない」
少し先は殺人者。クソみたいなフレーズだ。
私をこの世界に呼び出した諸悪の根源である祝福の乙女。彼女をこの世界から消すのは、私だ。