アンダーカバー / Undercover
第四章 喪失
52 聖婚パレード


「うだうだうだうだ」
 ノワの布団ラグが日に干され、巨大ノワによって押し潰されていた綿がふわんと復活し、ごろごろするにはまたとないチャンスであります。
「うだうだうだうだ」
 ペールグリーンの光沢のある生地は手触りもよく、そこかしこに可憐な小花模様が刺繍されているため、野原に寝転がっているような爽快な気分を味わえます。
「うだうだうだうだ」
「うるさいわねぇ」
「だってノワが『うだうだ考えるならうだうだ言いながら考えなさいよ!』って言ったんじゃん」
「あんたってほんっとバカね。苛々するわ」
 だって苛々させるために言ったし。嫌味には嫌がらせで対抗だ。

 やめて。巨大ノワで威嚇するのだけはやめて。牙でぐいぐい押してラグから追い出そうとするのもやめて。
「あなたあの寄生虫女嫌いでしょ、憎いでしょ、だったらいいじゃない」
「嫌いで憎いからって殺していいわけじゃないんだよ」
 追い出されそうになった布団ラグに四つん這いで戻る。テーラーメイドのワンピースについたシワがちらっと目の端に映ったものの、今日は一日うだうだすると決めたから気にしないことにする。
 手足を投げ出しながら仰向けに寝転がるとノワの巨大牙が間近に迫った。
「いいのよ。私が許すわ」
 この世界ではノワが秩序だ。ノワがいいと言うならこの世界ではいいのだろう。だが、そうは問屋が卸さないのが私の中にあるこことは別の世界で培われた秩序だ。

 両手で牙をぐいっと押し返す。確かにこの牙は邪魔だ。
「あなたって本当めんどくさいわね。だいたい、殺すって考えが間違っているのよ。消す、よ。もしくは無に還す、消滅」
 どう言い方を変えても、彼女の存在をこの世界から抹殺することに変わりない。
「前にあれだけ夢の中で惨殺しといて、今更なに?」
「ノワさん、妄想と現実は別物ですよ。そこがイコールになったら人として終わってます」
 一瞬、最後の言葉を聞いたノワが心底不思議そうに「そうなの?」と小さく呟いた。きょとんと見下ろしてくるノワに、どうかした? と思ったところで、大きな(まなこ)が気を取り直すようにぱちぱちっと瞬いた。

「あなた、明日が聖婚式ってわかってる?」
「わかってますよ。わかっているからこうしてうだうだしてるわけですよ」
「つまり両方から逃げたいわけね」
「せーかーい!」

 ポルクス隊が予行演習をしていたから、てっきり私もするのだと思っていたら、聖女はぶっつけ本番だそうな。街の地図を見せられながらシリウスから口頭説明されただけだ。シリウスが常に一緒にいるからいいとしても、いきなり大舞台に立たされる身にもなってほしい。そんな大舞台は小学校の文化祭でやったクラス劇以来だ。ちなみに役はネズミ三号だった。何の劇だったかは忘れた。
 説明を聞きながら英国王室のご成婚パレードを思い浮かべていたら、シリウスからダメ出しを食らった。
 手を振ってはならない、歯を見せて笑ってはならない、モナリザの微笑のような不気味なアルカイックスマイル、つまり聖女スマイルで表情筋を固定しろとのお達しに、私の心は折れかけている。

「聖女スマイルってさぁ、目とか口とかがひくひくしてくるんだよ。次の日顔が筋肉痛になるんだよ」
「根性ないわね」
「そんな嘘くさい笑顔見てみんな何が楽しいのかって思わない?」
「思わない。みんなあなたを見に来るわけじゃないもの。聖女を見に来るのよ」
「わかってるよ」
 聖女がただの虚像だってことはわかっている。それがわかっているから尚更面倒だとしか思えない。聖女っぽい美人が代役すればいいのに。
「聖女っぽい美人がシリウスと仲良くしてもいいわけ?」
 だから、嫌でもがんばるしかないのに。愚痴くらい言わせてくれ。
「ぐちぐち言いすぎ。聞かされるこっちまで嫌になるわ」
 ふん、と吹きかけられた巨大ノワの鼻息は突風レベルだ。簡単にころんと転がされ、ラグから追い出された。ひどい。



 パララッパララッパッパー……。

 トランペットというよりはおもちゃのラッパに似た陽気な音色が雲ひとつない青空に響き渡る。
 側面が透明になった特別仕様の飛行船にシリウスと共にしずしずと乗り込み、ジェームの花を手に歓声を上げるメキナ国民の集まる目抜き通りをポルクス隊長の先導でゆっくり低空飛行する。

 メキナは聖婚式のひと月前から入国制限を開始した。十日前になると、メキナ国民以外は王都から強制退去させられ、三日前には国外招待客の入国審査が始まり、かなり厳しくチェックされたと聞く。これは聖女が今後訪れる全ての国でも同じように行われる。混乱を避けるための措置だと説明された。
 これから三年をかけて連合国中を訪問する。
 連合国は大小合わせて二十数カ国あり、ひと月かふた月に一国のスケジュールで回っていく。準備の様子を見ていると、一気に回ればいいのに、という独り善がりなわがままが萎んでいく。実際はかなりタイトなスケジュールなのだということがわかる。

 無言で聖女スマイルを維持する。緊張しすぎてお腹がちりちりしている。まだ始まったばかりだというのにすでに口元が引きつっている。
 隣に座るもうひとりの主役は涼しい顔だ。

『口がひくひくしてきた』
──それらしく見えるよう呪文は唱えないのか?
『なんかそれやったら負けな気がして』

 コック帽ではなく王冠を頭に載せたシリウスの呆れた目に、同じデザインのティアラを載せた私の頭の中には空笑いが浮かぶ。

『これさ、途中でトイレに行きたくなったらどうすんの?』
──出発前に済ませただろう?
『済ませたけどさ、行きたくなるかもしれないじゃん』
──我慢しろ。

 なんたる無情……。

 聖婚式は慣れない私を気遣って、あらゆるスケジュールが一日一イベントで組まれている。
 王家の結婚式であれば、朝のパレードの後に昼餐会、午後に城前広場でのお披露目、夜には披露宴の予定だ。一日で全てが終わるようスケジュールが組まれる。
 私の場合、今日はパレードのみで終了、披露宴は翌日に行われる。あくまでも聖女が招待するのではなく、聖女に拝謁するという形だからこそ、こちら側の融通が利くらしい。
 各国へも、こちらから訪ねるというよりは、あくまでも招待されるという形式になる。

『この無駄に長い羽織り物の意味ってあるのかな』

 足元で裾が美しいドレープを作っている、随所に宝石が鏤められ、芸術的に刺繍された高価な布の塊を見てなんともいえない気持ちになった。あんなに一生懸命作ってくれたのに、蛇腹折りになっているのがやるせない。

──展示するときに映えるだろう?
『そんな理由で作らせたの?』
──聖女の権威の象徴だ。

 鏤められている宝石は各国からの献上品だ。展示の際、それらが事細かに明示されると聞いて、美しさに濁りが混じった。

──気にするな。
『まあね、前に献上されたものを売りさばいた私が言うことじゃないよね』
──展示せず、聖女が気に入ったからという理由で手元に残すという手もある。

 悪くない。お金はいくらあっても腐らない。宝石も腐るまい。
 思わず聖女スマイルが崩れてあくどい笑みが浮かびそうになった。慌てて表情筋を再固定する。

『何も起きないね』
──サヤはつくづくうちの隊をナメているのか?
『いやさ、こういうときって刺客的なイベントが起こるわけですよ。あとは悪気はないけど酔っ払った観衆がやらかしちゃうとか』
──どうやってだ。

 メキナ城下の目抜き通りは、片道四車線の高層道路並みに幅が広い。おまけに歩道に当たるスペースは普段屋台などが並ぶこともあり、かなり余裕をもって造られている。
 私たちが乗る飛行船は、合わせて八車線の中央を走り、観衆は歩道から出てはいけないことになっている。しかもその境目には連合国軍とメキナ国軍ががっちり人間柵を作ってガードしている。

『なんか隙を突いて出てくるんだよ』
──どこに隙があるんだ?
『ごめん』
──わかればいい。

 パレードを見に来た人たちは、何が楽しいのか誰もが憑かれたように笑っている。聖女は、ただそこにいてくれるだけでいい、そう言われているような笑顔が向けられている。

『何もしないっていうのも、なかなか辛いね』
──そうだろうな。聖女にサヤの意思は必要ないからな。
『あ、そうか。そういうことか』
──わかったか?
『聖女として、力を回収しなければならないってことか』
──そうだ。乙女の纏う力が聖女のものであると気付かれるわけにはいかない。サヤが回収するんじゃない。聖女が回収するんだ。

 私の意思ではなく、聖女としてやらなければならないこと、か。確かに仕事として割り切らないとやりきれない。仕事なら嫌なことでもやらなきゃいけない。ゴミ捨てもトイレ掃除も、華やかなカフェの裏にある誰かがやらなければならない仕事だ。

──給仕の仕事をしていたことがあるのか。
『うん。バイトだけどね』

 時給のいいメイドカフェの面接に友達に連れられて行ったら、恥ずかしすぎる台詞が言えずに挫折した苦い経験もある。

 聖女の館の前を通過する際、遠目にもファルネラさんたちを目ざとく見付けた。思わず振りかけた手をシリウスに押さえられる。たったそれだけで観衆が沸きに沸いた。

『ファルネラさんたちどこに泊まるの?』
──聖女の館だ。

 間近に迫ってきたファルネラさんたちを見て歓声が上がる。

『うわー! 見て見てあの服、民族衣装? すごい! かっこいい!』
──ああ、確かに麗しいな。今隊長も軍服の意匠を見直そうかと考えている。

 前にかっこいいと評判になっていたグルジアの民族衣装みたいだ。あ、グルジアじゃなくてジョージアだ。
 あれがファルネラさんたちの正装かぁ。ため息が出るほど端麗だ。
 男の人は全体的に黒い。刺繍で飾られた裾広がりの膝まであるロングジャケットにロングブーツ、女の人も細身のドレスの上に同じような濃い色のロングジャケットを着ている。男女ともアクセントにあの組紐を腰にゆったりと巻き、インナーには淡色のドレスやシャツで、それぞれスタンドカラーなのがまたかっこいい。

『ファルネラさんたちの正装、初めて見た。族長会議でも着てなかったよね』
──どうやらあれは祝いの席でしか着ないようだな。あれを着ることがそのまま祝いになるようだ。

 もうすっかり後方に去ってしまったファルネラさんたちの姿を思い浮かべる。ファミナさんが映画に出てくるヒロインのように美しかった。洗濯機が使えなくておろおろしていたかわいい姿なんて吹っ飛ぶ堂々とした佇まいは、別人かと思うほど凜々しかった。



「終わった……」
 無事パレードを終えた。ただショーケース飛行船に座っていただけなのにぐったりしている。
 今までにないほどの夥しい視線は、本音を言えば怖かった。見定めや興味はわかる。地位のある人たちとの面会では感じなかった、純然たる好意の視線が怖かった。希望に満ちた視線に何も応えられないことがとにかく怖かった。

 今日から住まいは聖女の館に移る。

 改装が終わった聖女の館は、ロの字型のお城みたいな大きな屋敷だ。初めて見たとき、ベルサイユ宮殿かと思ったほど、広大な庭に囲まれた豪華三階建ての歴史的建造物だ。
 その中庭の真ん中にキューブ型の家がぽつんと建っている。実はそれこそが聖女の家なのだ。詳しく聞いたときは驚くやら感心するやらで、しばらく興奮しっぱなしだった。
 ロの字型の宮殿はいわば防壁代わりで、中庭に面した回廊には二十センチ角の採光窓が人の背より高い位置にずらっと並んでいるだけで、中庭が覗えないようになっている。
 中庭への出入り口は一カ所だけ。表向き聖女の居住区域とされる場所に隠し扉があり、地下道で繋がっている。ちなみにその地下道はかつての地下牢だと聞いて、宮殿への出入りはノワの背に乗って行おうと心に決めた。
 おまけにキューブ型の家はいざというときに上空に待避できるというのだからこれまた驚いた。国境周辺の家のほとんどがキューブ型だったのは、戦時に屋上のバルーンを開いて飛行船ならぬ飛行邸となり、安全な場所に家ごと移動するのだと聞いて、その壮大さに絶句した。
「アトラスの技術だ。アトラスは技術大国だったんだ」
 すべての技はアトラスより生ず、と謂われるほどだったそうだ。

 キューブ型の家の中はポルクス隊長の居住区に雰囲気が似ていた。ポルクス隊長が張り切ったのだからそうなるのも当然かもしれない。もしくは豪華な家はみんなそんな雰囲気になるのか。
 天井がすごく高い二階建て。一階に広々としたホテルのラウンジみたいな吹き抜けのリビングや、ふたつもある応接室、ゲストルームや護衛たちの仮眠室、食堂やキッチンなどの水回りがある。二階にはスイートルームみたいな寝室とノワの部屋、ブルグレの部屋がある。本来は物置代わりの予備室だったはずが、ブルグレが強引に自分の部屋と決めたらしい。

「念願の! わしの部屋!」
 小さなブルグレに広々としたこの部屋は大きすぎるだろうと思わなくもない。部屋中を飛び回り途中宙返りが失敗して壁に激突しても笑っているブルグレを見ていると、よかったね、と笑ってしまう。ちゃんとベッドも用意されている。
「ここ、精霊の巣になりそうね」
 そのノワの言葉通り、すでに羽リスたちが集まっている。ブルグレ精霊隊だそうな。ブルグレがポルクス隊に対抗して勝手に名付けた。

 ノワはノワでいつの間にもうひとつ布団ラグを作ってもらったのか、本部の仮眠室にあるのとは色違いの、クリーム色の布団ラグが床に敷かれ、巨大ベッドがででんと置かれた部屋に満足げだ。
 天井がものすごく高く、廊下も広ければ扉も大きい。ファブリックはアイボリーとパステルブルーでまとめられている。
「もしかして、巨大ノワに合わせてる?」
「ノワだって家でくらいは楽な姿でいたいだろう?」
 珍しくノワが照れた。シリウスに頭の天辺をぐりぐり押しつけている。巨大ノワでそれをやられると威圧がすごい。さすがのシリウスも片足を後ろに引き、腰を少し落として耐えている。

「なんか、こんなすごい家もらっていいのかな」
「気後れするなら今まで通り仮眠室に住めばいい」
「気後れもするんだけどさぁ……」
「見返りを求めているわけじゃない。この先こちらの都合で動いてもらうこともあるだろうが、サヤが納得しなければ従う必要もない」
 聖女の存在が人々を活性化させる。それだけで世界が潤う。そう言われたところでピンとくるはずもない。

 なにより、どこかの王家や神殿関係者ではなく、シリウスと結婚することに連合本部としては大きな利があるそうな。
「国同士をまとめるのはとにかく大変なんだ」
 意見をひとつにまとめることは奇跡に近い。常にそれぞれの妥協点を探っていくのは、思考が読めるシリウスでも骨が折れるらしい。
「聖女の名の下にまとまってくれるなら、それに越したことはない」
 かといって、乙女のように自分の倫理観を押しつけていると排除されることになる。ならば、聖女は口を閉ざす。相手は勝手に想像し、勝手に納得し、勝手に自滅しするだろう、というのがシリウスを始めとする連合本部の考えだ。

「それって利用されてるってことなのかな?」
 ノワに訊いたら「どっちでもいいでしょ」と、どうでもいい感じに返された。言われてみればどっちでもいい。命を脅かされず、そこそこだらだら生きられるならそれに越したことはない。
 そう、割り切ることにした。