アンダーカバー / Undercover
第三章 因縁48 ノワの仮説
──サヤ。
頭の中に滑らかに入り込んできた声に、再び涙腺が緩みそうになった。
ノワがひらりとベッドから飛び降り、振り返ることなく寝室のドアの隙間をすり抜けていく。
『いまどこ?』
──そっちに向かっている。
『この後の予定はどうなった?』
──とりあえず今日の晩餐会に聖女は参加しない。本来なら中止となるが、サヤの回復待ちになったところでサヤは参加しないだろうから予定通り行うことになった。
読まれている。
始めは、神殿側からそこまでする必要はないと言われていたにもかかわらず、シリウスが参加するなら参加するつもりだった。それなのに、今はもう参加する気にならない。わがまますぎて申し訳ない。
『シリウスは?』
──婚約者が心配なので欠席する。
トップレベルの食事会なのに、そんな理由で欠席していいものなのか。
抜け出したベッドを整えてからノワと同じように寝室を出る。ノワたちを考慮してドアはいつも半開きになっているせいか、私もシリウスも彼らと同じようにその隙間をすり抜けるくせが付いてしまった。
──いいんだ。婚約者が聖女だとそっちが優先される。
あ、それはそうかも。つくづく聖女ってすごい。
布団ラグの部屋に入るノワの後ろ姿が見えた。
──メキナ神殿の長が面会を希望しているが、どうする?
『わざわざ聞くってことは、シリウス的には面会した方がいいと思ってるんでしょ?』
──そうだ。サヤを目の前にして事情説明をした方がいいだろう。
『バラした?』
──いや。聡明な人だから口を噤んでいる。怒りはこれでもかと発しているが。
ずいぶんあの老人を買っている。
『メキナの神殿長でもアトラスのことはわからないの?』
──アトラスは神殿を排除していたんだ。さすがに入国したこともない国のことはわからないだろう。ただ、国全体が力を持っていたと言われたことがある。意味がわからなくて再三訊いたんだが、本人にも漠然とそう感じるだけで詳しくわかるわけではないらしい。
「入るぞ」
声がかかった一拍あとに扉が開いた。
扉の前で待機していたおかげで、すぐさまシリウスに飛びつけた。癒やされる。耐えかねて少し目が潤んだ。
「大丈夫か?」
「んー……大丈夫とは言えないけど、なんとか平気。ブルグレは?」
──諜報活動中。
なるほど。抱きついたシリウスの背後にいた心配顔のエニフさんがそっと扉を閉めてくれた。
──サヤ、暗殺するか?
びっくりして顔を上げた。首が痛いくらいの角度で見上げると、見下ろすその目は真剣そのもので、冗談でもなんでもない現実に、気付けばシリウスから身体を離していた。
『ポルクス隊っていうか、連合国はそう判断したの?』
──そうだ。
この世界の倫理観は元の世界の倫理観より単純だ。民主国家がないせいか、立場によって命の重さが変わる。乙女の命は聖女の命よりも軽い。おまけに、聖女の命は霊獣に守られている。
シリウスの手に軽く背を押されながら扉の前から移動し、長椅子に腰をおろす。
『黙ってやることもできるのに私に確認したのは、私が反対するってわかってるからだよね』
──そうだ。
シリウスの冴えた青の瞳は微塵も揺るがない。
『私ね、戦争のない国で生まれ育ったの。人殺しは絶対悪で、戦争も絶対悪で、命は等しく平等で重いって教わったの』
──そのようだな。
『だから私は関与しない。それにノワが怒ってた。関わらなければ消えるって言ってた』
私の知らないところでどうなろうと私の知ったことじゃない。乙女といえどもやり過ぎたなら消されるのは当然といえば当然だ。それはこの世界だろうと元の世界だろうとおそらく変わらない。当然、聖女であっても同じだろう。肝に銘じておく。
──それまでは待てない。メキナ神殿の長もそれに同意した。第一皇子もだ。
は? 最後に何言った?
すぐ隣に腰をおろしたシリウスを信じられない思いで見つめた。
──大帝国の第一皇子もだ。
聞き間違いかと思っていたら念を押すように繰り返された。
『なんで? どうしてそんな話になったの?』
──財政難だ。それもあって親善という形で外に出し、訪問先の国を気に入り長期滞在してくれないかという思惑もあったようだ。
あー……。確かに女王様っぽかった。どこが、と言えるほど細かいところまで見ていたわけじゃないけれど、なんだか妙に煌びやかだった。あのコルア王妃が霞むくらい派手な印象だった。一体どれだけ散財したのか。
──一年で国家予算十数年分だ。
『は? 何したらそんなに使えるの?』
「サヤの無駄使いなどかわいいもんだな」
それは仮縫い中にこっそりエニフさんに頼んだ、おやつ大人買いのことでしょうか。みんなでこっそり食べたこと、やっぱりバレていたのか。
「あ、ねえ、神殿長との面会って、嘘吐いたらバレるってことだよね」
「サヤは嘘吐かないだろう?」
「そんなことないよ。自分に都合の悪いことは思いっきり誤魔化すよ」
「そうか? 俺を誤魔化したことはないだろう?」
「シリウスには誤魔化したって無駄だからだよ。最初から誤魔化そうなんて思わないもん」
「菓子買ったこともか?」
「あれは、……ちょっと内緒にしただけだよ」
内緒と誤魔化しと嘘は違う。たぶん。
シリウスにもらったお小遣いを使ってみたかっただけだ。自分では買いに行けないからエニフさんに頼んだだけだ。あまりに疲れて甘いものがしこたま食べたくなっただけだ。
「別に咎めているわけじゃない。サヤも一階で何か買えるようにと渡したものだ。好きに使って構わない」
「ならなんで怒ってるの?」
「怒ってない」
どう見てもむっとしている。
「もしかして、一緒に買いに行きたかった?」
「二人で出掛けたいと言っていただろう」
「もしかしてデートのこと?」
ここではにかまないでほしい。こっちまで照れる。
ちなみに聖女が出掛けるとなると大統領並みの警護になる。そんな状態でのデートは嫌だ。こっそり大帝国を二人で歩いたのとはわけが違う。あれもノワとブルグレが一緒だったから二人きりとはいえない。ノワとブルグレ込みのデートでもいいから警護はいらない。とはいえ、基本引きこもりのノワがそんなことに付き合ってくれるはずもなく、結局おうちデートでいいやとなる。それなのに、この世界ではおうちデートですらイチャつけないのだ。それはもうおうちデートとは言えない……。
「つまり破廉恥がしたいだけか」
破廉恥言うな。スキンシップだ。しかも言うに事欠いて「したいだけ」とはなんだ。
「俺もしたい」
は? 聞き間違いかと思ったら、そうじゃなかった。はにかむどころかシリウスの顔がほんのり赤い。
「なんでしないの?」
「あのな、サヤは態度に出るだろう? デネボラやエニフだけじゃなく、レグルス副長にまで知られたんだぞ」
そんなに態度に出ていたでしょうか。
「バカみたいにはしゃいでたわよ」
遠くからノワの声が聞こえた。盗聴か。盗聴の挙げ句悪口って最低だ。
「サヤは接吻ひとつでも態度に出る」
接吻って……言い方がエロい。デコピンされた。痛いし。
「慣れてないからだよ! 慣れたら普通にできるよ!」
「サヤが慣れるまで俺がからかい続けられるだろうが。どちらにしても聖婚式までの我慢だ」
「我慢するの?」
「する」
「できなくてファルボナでしちゃったのに?」
口をぱくぱくするシリウスを初めて見た。脱力するシリウスも初めて見た。遠くからノワの浮かれた笑い声が聞こえてきた。
真実を見極める力を持ったメキナ神殿長との面会は、晩餐会から二日を空けて、なぜかポルクス隊長居住区内の庭園で行われることになった。
コルアは夏の盛りを過ぎたところらしい。あちこち移動しているせいで自分の感覚から四季が抜け落ちている。しかも、ファルボナは砂漠気候だし、メキナは亜熱帯だ。今まで感じていた四季とは違う。雨期とか乾期とか知らんがな。
シリウスがかっちり礼装しているのが暑苦しい。ロングブーツが蒸れそうだ。
──蒸れる。
『うわぁ、臭そう』
そんなどうでもいいやりとりをしながら、ゆっくり緑の中を歩いて行く。
一応私もドレスアップしている。いつも着ているワンピースが友人の結婚式に着ていけるものだとしたら、今日は園遊会に出席できるほどの服だ。相手は法王クラスの人なので、そんなかっちりした礼装になる。
私の方が立場が上ならどんな格好でもいいような気がするけれど、相手に対する敬意や聖女としての品格がうんたらかんたらと説明が続いたので、さり気に聞き流したらシリウスからデコピンを食らった。
今ポルクス隊ではデコピンが流行っているらしい。本部に詰めていたシリウスがコルアでポルクス隊と合流し、余計な流行を仕入れてしまった。
以前はなかったジェームの花が所々で咲いている。聖女の花としてコルアで人気なのだと、シリウスが耳に咲くジェームを小さく揺らしながら教えてくれた。野に咲く花のはずなのにお城の庭を彩るほどになるとは、ジェームも出世したものだ。
前方の人影がはっきりし始める。
なぜあそこに赤の男がいるのか。
思わずエスコートしているシリウスの手を思いっきりぎゅっと握った。
『騙したな』
──サヤはもう、あの男は平気だ。
釈然としないまま、改めて第一皇子をしっかり目に入れて驚いた。なぜか平気になっている。一歩一歩近付いていくのに怖さがじわりとも浮かばない。嫌悪や不快感はある。けれど、それよりもずっと大きく厄介だった足が竦むような恐怖心が消えていた。
『なんで?』
──寄生虫女に比べたらまだマシだからだろう。
シリウスまで寄生虫女呼ばわりだ。教科書に載っていたギョウチュウとかカイチュウとかサナダムシが浮かんでちょっと嫌だ。寄生虫は宿主を思い通りに動かそうとするらしいから、あながち間違ってはいないような。
細長いうねうねを頭の中から追い出しているうちに、目の前には土下座する神殿長と跪く第一皇子がいた。
シリウスの合図にポルクスレディたちが芝生みたいな草の上にラグを広げる。タープみたいな布がラグに影を作る。
題して、ピクニック会談だ。
だだ広い庭のほぼ中心でポルクス隊に囲まれての会談は、密室での会談より会話が漏れにくいらしい。首脳同士がゴルフ会談するのもたぶん同じことなのだろう。
何をどうやっても神殿長は土下座をやめないだろうから提案してみた。椅子に座る足元で土下座されるより、ラグに直座りでの土下座の方がまだ私の心に優しい。
──これ、靴脱ぐのか?
『本当は脱ぐんだけど……脱ぐのって問題アリ?』
──アリだな。
文化の違いか。
微妙だけど靴を履いたまま広げられたラグというよりは豪華な絨毯の上にできるだけ靴の裏を着けないよう座った。
ものすっごく驚いた気配が土下座の人と跪く人からしている。これも文化の違いか。
──高貴な女性は地に尻をつけたりはしない。
その言い方はどうなんだ。尻って。
脳内で笑うシリウスは、長い足を持て余すように片足を立ててすぐ隣に座った。シリウスが声を上げる。おずおずと神殿長がラグの上に小さくなって座り、明かな戸惑いを見せながらも第一皇子もシリウスを真似るように片膝を立てて座った。
会談相手との距離は一メートルほど。この距離になっても赤の男に対する恐怖心は湧かなかった。
シリウスが何かを話す。それに第一皇子が答え、神殿長がその様子を注意深く観察している。たぶん挨拶か何かだ。
しばらく三人のやりとりが続いた。聖女を前に恐縮している風にも見えた神殿長も、必要なときには威厳をもって答えている。それまでの印象とは違ってとても権威ある人に見えた。何を話しているのかはわからないのに、話すときの仕草だけでも印象が変わることをしみじみ実感した。品格とはこういうことか。
──サヤ、第一皇子の謝罪を受けるか?
『ここで受けといた方がいいってこと?』
──そうだ。かなりの恩を売れる。
『じゃあ、許すってことで。でもやっぱり関わりたくない』
──わかってる。
シリウスの目が笑っていた。
正直に言えば、許すというより、どうでもよくなったというのが正しい。怖かったことも痛かったことも苦しかったことも忘れたわけじゃない。嫌悪感は未だにある。だから、許すというのとはちょっと違う。もうそれを蒸し返されたくないだけだ。関わりたくない、の一言に尽きる。
──わかってる。
思わず笑った。何もかもお見通しだ。それが嬉しくてくすぐったい。
──第一皇子が驚いてる。
『なんで?』
ちらっと見ただけでは驚いているようには見えない。
──サヤが笑ったからだ。初めて見たんだろう。今、本当の意味で自分がしたことを理解したようだ。
『どういうこと? 私が笑ったから自分のやらかしを理解したの? え、なんで?』
それにシリウスは応えてくれなかった。あとでノワに訊こう。教えてくれるかな。教えてくれなそうだ。
再び三人が話し始めた。三者の声を聞くともなしに、ぼんやり庭を眺める。私に聞かせないのはその内容に乙女が含まれるからだろう。
聞こえてくるのは蝉もどきのジムジム声だ。そもそも蝉なのだろうか。まあ、どうでもいいや。虫は好きじゃない。
──サヤ、寝るなよ。
『寝ないよ』
バカにしないでよ、と思っていたのに、舟をこいでいる自分に気付いた。気付いたけれどはっきり目が覚めない。さっきから頭の中にシリウスの「起きろ!」が聞こえている。
いきなりおでこを襲った鋭い痛みに眠気が一気に弾け飛んだ。何事かと思えば、目前にノワの呆れた顔があった。やられた、猫パンチか。
──悪いな、ノワ。
「仕方ないでしょ」
「なんで仕方ないの?」
「あのね、このメンツの前でシリウスがあなたにデコピンなんてできないでしょ」
「優しく起こしてくれるという選択は……」
「あんたが起きなかったのよ!」
ノワと言い合っていたら、シリウスの咳払いが聞こえた。背筋が伸びる。きっちり座り直す。
──いいか、ものすごく大事な話だ。
『耳の穴かっぽじってしっかり聞きます!』
──乙女を呼び出す装置を破壊する。
「は?」
呼び出す装置ってなんだ? え、そんな装置で呼ばれたの? こう、魔術的な召喚とかじゃなくて?
「一言で言えば、タイムマシンね」
はあ? ノワ頭大丈夫? いつ国民的にゃんこAIの影響を受けたんだ? 同じ猫型だからか?
「寝ぼけてんじゃないわよ」
猫パンチはもう十分です。今ので絶対に第一皇子はノワが霊獣だって気付いたよ。
「どうでもいいわよ」
──二人とも落ち着け。
『だってノワが変なこと言うから』
おでこを押さえながらシリウスを見れば、複雑そうな顔をしていた。まさか、本当にそんな装置があるのか。
──あるんだ。現在、大帝国が所有している。
「外界からの夾雑物ね」
夾雑物という覚えがあるようなないような言葉が頭に浮かぶも、それよりも気になるのは外界という言葉だ。確か私は、ノワに「外界のお嬢さん」と呼ばれていたはずだ。
「ノワ、外界、って、何?」
喉が貼り付いたようで声が上手く出ない。
「さあ。こことは別であって別ではない世界のことよ」
「もっとわかりやすく教えて」
焦るように訊く。それにノワは肩をすくめた。
「私もよくわかんないのよ。私が知っているのはこの界と自分が元いた場所だけだから。ただ、この界のほかにも同じような界はいくつもあるみたいなのよね。あなたもその別の界から来たのよ」
「ごめん、よくわかんない」
「だから、私もよくわかってないのよ。あなたのいた世界も、今いるこの世界も、同じ界というか場所で繰り返されている世界なのよ」
説明されればされるほどわからない。
──人類が誕生して、それがいつしか絶滅して、そしてひとつの世界が終わる。それが何度も繰り返されているということか?
「そういうことかな」
──どのくらいの周期で?
「さあ。億とか兆とか京とか、そういう単位じゃない?」
怖いくらい真剣なシリウスにノワがなんてことなさそうに答えている。
あなたが言う地球と同じ惑星よ──前にノワが言っていたことは本当だったのか。
「ここって地球なの?」
「あなたがいた場所と同じって意味ならね」
「私がいた世界よりも過去なの未来なの?」
「さあ。過去や未来はその界だけのもので、あなたのいた界がこの界の後になるのか先になるのかは私にもわからないわ。あくまでも、私はこの界しか知らないのよ」
「じゃあ、そのタイムマシンはどこから来たの? 私のいた世界じゃまだ架空の存在だよ」
「さあ。あなたと同じで大昔に紛れ込んだのよ。タイムマシンって呼び方が正しくないのかも。界間転移装置の方が合ってるかもね」
頭がおかしくなりそうだった。
「ノワがいたのは?」
「それこそこことは違う場所よ。私がいた界に人なんて存在していなかったから。ここは人の界なんだと思うわ。あくまでも、あなたの知識と私が知ることを合わせるとそういうことになるんじゃないかっていう、いわば仮説よ。本当のところはどうなのかなんて私もわからないわ」
間違ってはいない気がする。ここは地球と似すぎている。
思わず掴んだシリウスの手も、同じように汗ばんでいた。