アンダーカバー / Undercover
第三章 因縁47 親善訪問
「あらあら、聖女様じゃない。またずいぶん上からね。久しぶり?」
握り込んだ爪の先が手のひらに食い込む。何を言われたかより、声そのもの、存在そのものが無理だった。
軋む胸をなんとか宥め賺し、乱れそうになる呼吸を必死にのみ込み、意地でも平静を装う。
前触れもなく乙女が上げた声にざわついたのは、神殿関係者が集まる一角とコルアの要人が集まっている一角だ。ポルクス隊を始めとする連合本部から来た人たちは沈黙している。
まずはコルア国王への挨拶になると聞いていたにもかかわらず、ひらひらと優雅に手を振る彼女は以前にも増して女王様化していた。
直前になって訪問が決まった第一皇子の咎めるような視線も、婚約者である第二皇子の不安そうな視線もきれいさっぱり完全無視で、悠然とほほ笑む彼女は相変わらずのドヤ顔だった。
コルア城の大ホール。国王を差し置いて最上段に座るのは、聖女である私だ。下段に立つコルア国王夫妻が後ろから見てもはっきりわかるくらい怒りに震えている。当然だ、一国の王を衆目の前で蔑ろにしたのだから。
──どうやら大帝国はずいぶんと甘やかしたようだな。
第一皇子が最上級の敬礼をしようが、第二皇子が慌ててそれに倣おうが、祝福の乙女は素知らぬ顔で立ち続けている。メンタル強いな。居並ぶ神殿関係者のきっつい視線もお構いなしだ。
『なんかもういいよね』
護衛として背後に控えるシリウスたちが動くより先に席を立つ。まずは聖女が動くことが肝心だ。そうじゃないとポルクス隊のせいになる。
「あ、ねえちょっと、あとで話せるの?」
聞こえてくる声に心がざわつく。身体から熱が抜けていく。
いい加減誰か止めないと、いくら乙女とはいえまずいことになる。大帝国側の人間は何しているのか、と頭の隅で考えつつ、これ以上関わりたくもないからさっさと退場するに限る、と足を速めた。
『聖女に直接声をかけちゃダメなこと、大帝国の人は誰も教えてないのかな?』
──教えてないようだな。むしろサヤが無視していることに困惑している。乙女はさっきから無視するなと頭の中で叫んでいる。
「ちょっとなんなの? シカトしないでよ!」
頭の中だけじゃなく口にしましたけど。ちらっと目に入ったメキナ神殿長の糸目がくわっと見開かれていて怖い。
というか、調印式の時もそうだったけれど、よく話しかけられるよね、と思うのは私だけだろうか。自分が何をしたか忘れたのか。
「あんたがそうやって聖女としていられるのも私のおかげでしょ! 感謝しなさいよ!」
「な──」
感情が爆発しそうになった瞬間、シリウスにきつく抱きしめられた。
久々のコルア国。
ポルクス隊長の居住区は以前にも増してゴージャスだ。すっかり豪華慣れしたせいなのか、二度目だからなのか、あっさりセレブな空間に馴染んでいる自分にびっくりだ。
「もう庶民には戻れないかもー」
「もう野良精霊には戻れないかもー」
とまあ、到着して早々上品な長椅子に下品に寝そべって足をばたつかせながらブルグレと一緒にふざけていたら、「あなた一生聖女でしょ」というノワの冷や水のような声が足元から聞こえてきた。シリウスの呆れ顔がツライ。
「うわーぁ! 頼んどいたノワのラグが思ってたよりもふっかふか」
ゲストルームのひとつに、捜しても見付からないなら作ってもらおう、と特注しておいたノワのラグが敷かれていた。注文した職人がコルアに住んでいるらしく、タイミングが合ってここに届けてもらったのだ。
シリウスの仮眠室に敷かれていたラグもノワはそれなりに気に入っていたし、十分に分厚かったけれど、これはキルト状にして綿をしこたま詰めてもらったので、ラグというよりは特大の布団だ。
巨大化したノワのご機嫌がすこぶるいい。
「みんなで寝れそうだねぇ」
「悪くないわ」
「だよねー」
巨大ノワと一緒にごろごろしても平気なくらい大きい。あのノワのベッド並みに大きく、ふわふわで分厚い座布団の集合体だ。
「ちなみにお金払ってくれたのシリウスだから。あとでちゃんとお礼言っといてね」
んー……と言いながら大きな牙を生やしたノワがすっかり微睡んでいる。
リビングに顔を出すと、シリウスがポルクス隊長たちと打ち合わせをしていた。今回はアリオトさんが同行し、レグルス副長はお留守番だ。
私のために砦からポルクスレディたちが派遣されている。彼女たちが荷ほどきからお茶の用意まで全てしてくれるおかげで私はすることがなく暇だ。
にやりと笑いながら起立敬礼するポルクス隊長に、にやりと笑い返して着席を勧める。シリウスの隣に腰をおろすと、すかさずエニフさんがお茶を用意してくれた。
「サヤ、急遽第一皇子も来ることになった」
本当に! どうして関わってくるのだろう。
イラっとした気配を察したエニフさんが、傍らに跪いて手を握ってくれた。こういう感覚は女同士じゃないとわからないのかもしれない。
自分より身体の大きな男に力では敵わないと心底思い知らされた記憶はちょっとやそっとじゃ消えない。たとえ相手に悪気がなかろうが、どれほどいい人だろうが、一度植え付けられた恐怖はそう易々と消えたりはしない。
そう思ったところで、シリウスが手を繋いでくれた。遅いよ。なんとなくふてくされてシリウスの顔が見られない。エニフさんがそっと背後に戻った。
ふと視線を感じて顔を上げると、珍しくポルクス隊長の真面目な顔があった。真剣な声でシリウスに何かを訊いている。
「そうです。聖女の手のひらに剣を突き立てたのは大帝国の第一皇子で間違いない」
それにポルクス隊長の眉間に皺が寄った。ぴりりとした声が聞こえる。
「だとしてもどうしようもないでしょう。その事実はサヤの中から消えることはない。それを見抜かれたからといって、彼も言い逃れはしないでしょう」
会話の内容はなんとなくわかるけれど、見抜かれる云々が何を指しているのかわからない。
「今回メキナ神殿の長が同行しているだろう」
「それが何か関係あるの?」
「第一皇子が聖女に暴行を加えたことが知られる。おそらく乙女がサヤにしたこともだ。すでに薄々勘付いていてさり気なく訊いてきたくらいだ、該当者が揃えば全て知られる」
ポルクス隊長か何かを言った。それにシリウスがひとつの頷きと短い返事をした。
「最悪、第一皇子が廃される。乙女の惑わしが暴かれる」
「なんで? 神殿の力ってそんなに大きいの?」
「大きい。事実はどうであれ、神殿を敵に回すということは、霊獣を敵に回すことと同義だ」
霊獣が聖女と一緒にいることは、すでに聖女の逃亡によって世界中に知られている。
「別にいいじゃん、大帝国なんて。いっそ民主化すればいいんだよ」
「それはそれで面倒なんだよ。ひとつの国としてまとまっているならそれを維持してもらいたいっていうのが周辺国の本音だ。万が一内乱が起きた場合、人道的に大量の避難民を受け入れなければならなくなる。その費用を大帝国が出してくれるわけじゃない。避難民はファルボナ側ではなく、コルア側に集中するだろう」
本気の本音だ。ポルクス隊長も頷いている。一番迷惑を被るのはコルア国ってことか。
「内乱を起こされるくらいなら、現状維持の方がマシだ。最悪第一皇子と乙女が亡命してきたら面倒極まりない」
思いっきり顔に嫌悪が出たのか、ポルクス隊長が小さく吹き出した。
「メキナ神殿の長は聖女が望まないことはしないだろうな」
上手く乗せられた気がする。思わず半目でシリウスを見れば、頭の中に「仕方ないだろう?」と少し情けない声が届いた。
『なんか、シリウスって大変だね』
──他人事みたいに言うなよ。
『そうだけどさ。ごめんね、面倒な嫁で』
──サヤが悪いわけじゃないだろう。
そうはいっても、私の許せなさが原因だ。そんな話を聞いても許せないのだから、本当にどうしようもない。
私には考えられないけれど、同じことをされて許せる人もいるのだろうか。いたら教えてほしい。どうやったら許せるのかを。
ぼんやりとそんなことを考えている間に、シリウスとポルクス隊長の打ち合わせは終わった。ゲストルームを借りているくせにお礼を言うのも忘れていた。
──礼を言う必要はない。それより大丈夫か?
『大丈夫。ごめんね、なんかちょっと自分でも不安定だと思う』
──みんなわかってる。
だよね。
一緒になってはしゃいでくれたブルグレも、そんな私を叱咤するノワも、呆れながらも気を配ってくれるシリウスも、エニフさんだって、アリオトさんだって、ポルクス隊のみんなだって、ポルクス隊長ですら気遣ってくれる。
来ない方がよかったかな。
惑わされてしまったとしたらそれは仕方のないことだ。私がしゃしゃり出る必要があるのかすらわからない。ただ、シリウスの仕事が増えるのが嫌なだけだ。コルアが惑わされるのはどうでもいい。
割り切れる部分と割り切れない部分があって、その辺りの境界が自分でもぐちゃぐちゃだ。
『いつか許せるようになると思う?』
──どうだろうな。手のひらの痛みはいずれ忘れるにしても、全てから切り離された痛みを忘れることはない。
『シリウスも?』
──そうだな。俺もだ。
いつかアトラスの謎がわかるとき、そこで初めてシリウスは忘れるかどうかを決められるのかもしれない。私にもそのくらいの何かが起これば、決めることができるような気がする。
『あのさ、思い付いたんだけど、最初のアトラス人が降り立った島を探してみようよ。壁画とか残ってるかも』
──おそらく内海じゃないぞ。内海は調べ尽くされている。外海は危険すぎてまだ調査が終わっていない。
『人は住んでないの?』
──上空から見る限り、人が住んでいる気配はない。そこまで大きな島はないんだ。そもそも伝承など当てにならない。
なんとなくコルアにいるせいか声に出して話すことを控えてしまう。
明日には大帝国から彼らがやってくる。このところは連合本部にいたせいか声に出して会話するのが当たり前になっていて、今のうちに脳内会話に慣れておく必要がある。
私は、一切口を利かないと決めている。シリウスもノワもそれでいいと言ってくれた。今回は神殿が介入している。たとえ乙女といえども、誰よりも上の立場にある聖女に勝手に話しかけることはできない。
本来であれば、直接顔を合わせる必要もないはずだったのに──。
「気が付いた?」
気が付いた、って何が? と思った瞬間、身体が覚えていた直前の強い感情が再燃した。激情が喉の奥で爆ぜた。
怒りなのか悲しみなのか失望なのかなんなのか、とにかく胸の奥が痛くて苦しくて、煮え立つような熱に胸が爛れた。
「なんで!」
のぞき込むノワの目があまりにも優しくて、込み上げたあらゆる感情が行き場を失う。
さっきまで大きなホールにいたはずなのに、いつの間にかポルクス隊長の居住区のベッドに寝かされていた。
「あの子にあなたの気持ちはわからないわ。わかってもらおうとしても無駄。あの子にとってはこの世界の方が生き易いんだもん。あなたの気持ちはわかりっこない」
食い縛った歯の間から嗚咽がもれた。ノワの前足が、とん、と唇に触れる。
「大丈夫、私はわかっているから。シリウスもわかってる」
「なんで」
私に関わろうとするの? 感謝してほしいから? 自分の幸せを見せ付けたいから? ただ嫌がらせがしたいだけ?
そもそもなんで私だったの? 私はそんなに嫌なヤツだった? 関わらないようにしていたことがそんなにムカついた? ほかにもっと嫌な人だっていたんじゃないの?
なんで私なの? なんで? なんで!
ずっと考えないようにしてきた「なんで」が体中を埋め尽くした。
泣きたくもないのに涙が出る。顔を覆う手のひらに涙が滲む。
「あの子はね、無意識にわかっているのよ。あなたの存在が自分を生かしているってことを。あなたの方が力があるってことを。だから、あなたに寄ってくるの。優位に立ちたいの」
関わらないでほしい。関わりたくない。
「とりあえず、あの神殿のじーさんとシリウスたちが猛抗議してるわ」
「惑わされてない?」
「大丈夫、あなたの加護持ちで固めたから」
「私の加護があると惑わされないの?」
「当たり前でしょ。あなたの力の方が強いんだから」
ポルクス隊は惑わされないのか。アリオトさんも事前に加護しておいた。あの神殿長もたぶん大丈夫だ。
「でも私の力って奪われるんじゃないの?」
「それはあなたの加護を自覚してないからよ。治癒すると加護にもなるのはなんとなくわかってるでしょ」
治癒した人に乙女の惑わしが効かなくなっている、とブルグレが前に言っていた。
「加護されたことの自覚がないと、加護されたことにならないのよ」
「そうなの?」
「そうみたいよ。あなた自身も加護したって意識がなければ、ただ力を与えただけにしかならないわ。契約と同じよ。双方の認識がないと無効になるようね」
「それって力には意識が関わってるってこと?」
「そうなんじゃない? 力の在り方を考えると当然って感じじゃない?」
そうなのかな。
ゆっくり起き上がると、いつの間にかシンプルなワンピースに着替えていた。今日はそこそこ豪華なドレスを着ていたはずだ。着替えさせてくれたのはエニフさんか。
「シリウスよ」
「え、シリウス?」
「誰にも触らせたくなかったのよ」
カタブツなのに思いも寄らないところでぎゅっと心を鷲掴んでくるからタチが悪い。
ふと力が抜けた。ノワと話しているうちに落ち着いてきた。残った涙を指先で拭うと、ノワがそれをぺろっと舐めた。
「やだ、あなたの涙甘いわ。へーえ。これも力になるのね」
ノワの舌は、猫みたいにざりざりしているのかと思ったら、羽毛みたいな優しい感触が意外だった。
「あんたね、私猫じゃないのよ?」
「わかってるけどさ。この世界の猫の舌もざりざりしてないの?」
この世界の猫は野生化している。犬は飼われているけれど、猫は飼われていない。厳密には猫っぽい動物と犬っぽい動物だ。
「さあ。してるんじゃない?」
どうでもよさそうなノワを見ていると、怒りで気絶した私がバカみたいだ。これ、脳出血とかじゃないよね。血管切れてないよね。
ちょっと不安になってノワを見れば、視線でバカにされた。それにほっとする私もどうかしている。とりあえずそのノワの様子から頭の血管は切れていないらしい。
「そうそう、ブルグレがあの子の後頭部に蹴り入れてたわよ」
よくやった!
「ブルグレは?」
「シリウスと一緒。神殿のじーさんがぶちキレて大変よ」
「ほかのみんなは平気そう?」
「平気よ、私がいるんだから。ああ、あと第一皇子が直接謝罪したいってのをシリウスが必要ないって撥ね付けていたわ。シリウスも相当お怒りね」
一瞬、そんなことして大丈夫なのか、と思ったけれど、国王ならともかく、第一皇子ならたとえ皇太子であってもシリウスの方が立場は上だ。
親善に来たはずなのにケンカを売るとはどういうつもりなのか。ああ、ケンカを売ったつもりもないのか。感謝しなさいよ、ときたもんだ。思い出すと怒りが湧く。
「関わらなければそのうち消えるわ、あの寄生虫女」
その声音にぞっとした。今まで生きてきた中で一番ぞっとした。取り巻く空気が凍てついた。
「もしかしてノワ、怒ってる?」
「当たり前でしょ」
「ぎゅってしてもいい?」
「ダメに決まってるでしょ! 何回言えばわかるの? バカなの?」
ノワの罵りに愛を感じるなんてどうかしている。一瞬にして距離をとられて、しゃーっ、と威嚇されたにもかかわらず、なんだか無性に愛おしい。
「サヤ、あなた大丈夫? まさか血管切れてた?」
ノワが心配そうに顔をのぞき込んでくる。
どっちもどっちのノワが怒ってくれた。それが無性に嬉しくてちょっと泣けた。