アンダーカバー / Undercover
第三章 因縁45 外界
今連合国中を賑わしている噂がふたつある。ひとつは聖女が連合国総長にご執心という噂。もうひとつはメキナ神殿長が聖女から光を賜ったという噂。どちらとも大いに脚色されているのは言うまでもない。
インターネットも携帯電話もないこの世界でこうも噂が一気に拡散するのは、出所が各国の外交筋やあらゆる国や地域にある神殿筋だからだ。
大帝国でも同様に噂が広がっていると思った方がいいかもしれない。つまり、世界中ってことだ。嫌すぎる。
「なんでシリウスが私にご執心って噂がひとっつもないの?」
「俺は裏方だからなぁ。俺がってより聖女がって方が話題になりやすいんだろう」
「裏切り者め」
まるで私がシリウスに無理矢理言い寄っているかのようで嫌だ。おまけに聖女は絶世の美女ということになっているのもムカつく。絶対に顔出ししない。
あのボウェスでのシリウス以外いらない作戦がこんなしっぺ返しを連れてくるとは。
とはいえ、そのおかげでひそかに各国から本部に持ち込まれていた婚約話が立ち消えになったらしい。面倒な仕事がひとつ減ったアリオトさんはさり気に機嫌がいい。
白い雲がやけに目映い午後、ノワは自分の部屋に引きこもり中で、ブルグレは羽リスたちと出掛けている。副長ズは階下の部署との打ち合わせ、エニフさんは本日お休みだ。エニフさんの代わりの護衛は控え室の外で待機している。
珍しく執務室には私とシリウスしかいない。それをいいことに二人して応接セットの長椅子にだらしなく座りながら仕事をしている。私なんて靴まで脱いでいる。だらしなさ過ぎて他人には見せられない。執務室の空気がいつもと違ってすごくユルい。
「あと、大帝国の第二皇子が乙女と一緒にコルアを訪問する」
「ふーん。なんで?」
「親善訪問だ」
「ふーん。どうでもいいや」
「俺が出迎えることになっている」
「はあ? なんで?」
がばっ、と音がしそうな勢いでだれていた姿勢を正す。
理由は言われなくともわかった。シリウスの能力が必要なのはわかる。わかるけれど、わかりたくない。
「第二皇子なんでしょ? しかもコルア訪問なんでしょ? なんでシリウスがわざわざ出迎えるの? 姿隠してこっそり観察とかじゃダメなの?」
「確かに第二皇子だから俺が顔を出す必要はないんだが、初の親善訪問だろう?」
困ったように笑うシリウスを見ていると、自分の考えていることが単なる子供のわがままだと嫌でも理解してしまう。
それでも、シリウスが惑わされそうで嫌だ。絶対に会わせたくない。
「それはない。惑わされるわけがない」
やけに自信満々に言い切られた。
どうしていちいち関わってくるのか。親善訪問なんて第二皇子だけでいいのになぜわざわざ乙女がしゃしゃり出てくるのか。それが彼女の立ち位置的に必要なことだとしても、なんだか無性に腹立たしい。
「でもさぁ、私だってノワの加護があっても惑わされ続けてたんだよ? 絶対に惑わされないって言える? 既成事実作られたら終わりなんだよ? 同じ部屋に二人っきりでいただけでアウトなんでしょ? 公衆の面前で『足をくじいたから部屋まで連れてって?』とか言われたら断れないんでしょ? その後たとえ部屋の前で別れたとしても、あることないこと言われたらお終いなんだよ? そういう場合男は反論できる立場にないんでしょ? 惑わされなくてもやりようはあるんだよ?」
言いながら長椅子にお行儀悪く片足を乗せているシリウスににじり寄った。
私に知恵を授けたブルグレの言い方はもっとえげつなかった。
「ブルグレか」
「ブルグレか、じゃないんだけど。シリウスが行くなら私も行く。四六時中べったりくっついてガードしてやる。くじいた足踏んでやる。思いっきりイチャついてこれでもかって見せ付けてやる!」
「サヤは顔を合わせたくないだろう?」
「わかってるなら断ってよー」
なんかもう、言いながら自分が嫌になる。公私混同も甚だしい。心配そうな顔するくらいなら最初から断ってほしい。それでも、それがシリウスの仕事なのだから仕方がないことはわかっている。わかってはいてもわかりたくない。矛盾だらけだ。
「だいたい、女子高生拉致監禁暴行事件の主犯だよ? おまけに人のこと厄災の乙女って惑わして──」
あー……気付きたくないことに気付いてしまった。脱力した私をシリウスが慌てたように片腕で支えてくれる。
「私が行かないとコルアの人が惑わされちゃうのか……」
「いや、あくまでも万が一だ。それもあって俺が……」
みなまで聞かずともわかった。思わず指先でシリウスの口を塞ぐ。シリウスの情けない顔に泣きたくなった。
万が一の場合、私かノワがいないと対処のしようがない。ノワがそんなことに手を貸してくれるわけもなく、かといって万が一を考えたらシリウスだけではどうにもならず……私を連れて行きたくないから自分一人で何とかしようとしたのか。
「行きたくないよー」
「俺だって連れて行きたくない」
「一緒にいてくれる?」
「片時も離れず破廉恥を見せ付けるんだろう?」
破廉恥とは言っていない。意地悪そうな顔で笑われた。
あーあ。これでまた、聖女が総長にご執心! の噂が勢いを増すことになる。そんな見出しのゴシップ誌が頭に浮かんだ。嫌すぎる。この世界にも新聞やゴシップ誌がしっかり存在している。
シリウスが連合国総長じゃなければなぁ。考えても仕方のないことを考えてしまうのは逃げたいからだ。
「俺本気で辞めようかな」
「アトラスの謎どうするの?」
「もうわからないままのような気がしている」
「なんで?」
「痕跡がなさ過ぎるのは意図的に隠されているからだろう」
「誰に?」
「アトラス自身に」
一瞬何を言っているのかと思いかけ、あながち間違ってはいないような気がした。
「過去の聖女の記録がなさ過ぎるのもそうだ。聖女自身によって隠されている」
「そうなの?」
「そうじゃないかと思っている」
「じゃあ私もいなくなるとき痕跡が消えるの?」
「サヤは消えないだろう」
「なんで?」
「ノワが肉体を持っていると言っていただろう? その時のサヤの思考でそうじゃないかと思い付いた」
あの時何を考えて──。
「思い出さなくていい」
ネガった思考だったはずだ。元の世界で私の存在は消えているとかいないとか。家族は私のことを覚えているどころか存在自体がなくなっているんじゃないかとか。
「あー、そういうことか」
「それに近いことが起こっているんじゃないかと思う」
申し訳なさそうな顔はしなくてもいいのに。思い出さなくていいと言われたのに思いだしたのは私だ。シリウスのせいじゃない──と思ったところで気付いた。そっか、私が情けない顔をしているのか。それは仕方ない。諦めて。
腰に手を回され、ぐいっと引き寄せられた。肩に回された手のひらや密着した半身から慰めるように体温が伝わってくる。甘えるように身体の力を抜いてシリウスにもたれてみた。
あーあ。今思いっきりラブで甘めなシチュエーションなのに、ラブだけじゃいられないのが心底やるせない。もっとラフに生きたい。できればふわっふわの恋愛脳で生きたい。このままキスのひとつでもしてエロになだれ込んで何もかも有耶無耶にしてしまいたい。
一瞬、見上げたシリウスの青の瞳に熱がこもったような気がした。確かめようとした途端、顔を背けられてしまう。えー……ここはなだれ込む場面じゃないの? この溢れるラブをどうしてくれる。
「アトラスの始まりは二通りあるんだ。国内では『かつて孤島に降り立ち男女が』ってとこから始まるんだが、諸外国ではいきなり始まるんだ。どの国の文献でも『一夜にして高度文明を持つ国が突如として現れた』と、多少の表現の違いはあるが大方そんな感じだ」
なだれ込みを阻止するかのように小難しい話がねじ込まれた。ふわっふわがみるみる萎んでいく。隅に追いやられた恋愛脳が虚しい。シリウスがストイックすぎる。この世界での恋愛観が私の恋愛観をことごとく阻む。心の中で思いっきり舌打ちした。
なぜこの世界の人間はこうまで禁欲的なのか。あ! 宗教か! ……まさか、ノワに性がないからとか?
「そのまさかだ。特に性欲は表に出してはいけないものとされている」
うわぁ。人類総ムッツリ。つまり変態だらけってことか。
シリウスの、仕事中だ、と言いたげな咎めるような視線に渋々思考を切り替える。カタブツめ。
「えーっとなんだっけ。いきなり現れたっていうのは、単にそれまで誰も気付かなかったってだけなんじゃないの?」
「そう考えている研究者もいる。だが、突如消えた事実がある以上、間違ってもいないような気がする」
日本だってヨーロッパからしてみれば、ある日突然マルコ・ポーロに見付かってジパングとか呼ばれていたような。違ったっけ。見付けたのはマルコ・ポーロじゃなかったっけ? コロンブスだったっけ? 東方見聞録ってマルコ・ポーロだったよね。世界史は苦手だ。
「隣国のコルアの文献ですらそうなんだ」
「あー……それは変かも」
マルコ・ポーロよりも前に中国は日本を認識していたはずだ。しかも島国の日本と違いアトラスとコルアは陸続きの上そこまで離れていない。交流がなかったとは思えない。
アトラスはΩ型大陸の頂点付近の内陸に位置していた。涙型を逆さまにしたような形の国で、内海にも僅かながら面し、その背後には前人未踏の険しい山脈がそびえていた。
未だアトラス国の領土は不干渉地帯となっており、アトラスを二分するかのように暫定的な国境線が引かれてはいるものの、一夜にして消失した原因がわからないため、両国とも気味悪がって持て余している。
便宜上はアトラス最後の王族であるシリウスの所領ということになっている。
「ねえ、初代アトラス人は孤島に降り立ったの?」
「そう記されている。どこかの島から今の地に移り住んだのではないかと云われている」
「大陸移動説とかは考えないんだ」
「ああ、かつて大陸は離れ離れであったという説か。でもそれは人類が生まれる前の話で信憑性に欠ける。最近もまたそんな論文が発表されていたが……サヤはよく知っていたな」
私の知る大陸移動説とは逆だ。かつて大陸はひとつで、それが移動してあの位置になったはずだ。似ているようでいて真逆に違う。
まあ、私がいた世界でもそう言われているだけであって実際のところはわからない。
「ノワは知ってるかな」
「どうだろうな、霊獣の塔にいたなら気付かないだろう」
「大陸移動だよ?」
「いきなり変化するわけじゃないんだろう?」
確かに。気が遠くなるほどの歳月をかけて少しずつ動いたはずだ。
この部屋の窓から見下ろす街並みは、テレビや映画で見た外国の風景を彷彿とさせる。何度も思う。ここが別の国だと言われた方がしっくりくる。
同じように日射しを浴びて、同じように風に吹かれて、同じように息をして、同じように爪が伸びて──それなのに私は千年も生きるような生きものになってしまった。ここは別の世界。同じに見えるのに、別の世界だ。
ん? ちょっと待って。
ここって別の銀河系なのかな。太陽があって月があって、地球と同じ環境の惑星ってこと? それはなんか嘘くさい。そう同じ環境の銀河系や惑星があるとは思えない。想像上の宇宙人は大抵人間とは別の姿だ。
シリウスをまじまじ見ても髪と瞳の色以外私と同じ人体構造だ。鼻で息をしているのも、口の中に歯や舌があるのも、声の出し方も、筋肉や体付きも、性の違いも同じだ。生殖行動も同じ。
そういえば、ノワは最初私のことなんて呼んでいたっけ。
ふと見れば、思考が伝わっているせいか濃い青の瞳が揺れていた。耳が赤い。ちょっとシリウスとの愛の営みを思い出しただけで乙女のように恥じらわれるとこっちまで恥ずかしい。愛の営みとか思った自分が一番恥ずかしい。
ふと蘇る、何もかもが満ち足りた感覚。
身体がというよりも気持ちが通じ合ったようで心がすごく満たされた。心地いいってことがすごく直接的だった。「身体を繋げる」という表現を目にしたことがあるけれど、その通りだと思った。
照れ隠しなのか、これ以上の思考を阻止するためなのか、肩に回されていた大きな手が外れた。滅多にない二人きりだからもうちょっとイチャつきたかったのに。この溢れるラブを──。
「外界だ」
遮られた。
「ノワはサヤのことを外界のお嬢さんと呼んでいた」
「外界って何? え、外界って何だ? 外の世界って意味だよね?」
「違うのか?」
シリウスにも同じ意味で通じているということは、外の世界で間違いない。外の世界? 別の世界のことじゃないの?
「そもそも世界って何?」
「己が認識しているこの空間全てのことだろう?」
「だよね。だから、私の知っている世界とシリウスのいるこの世界が別の世界だってことはわかるの。でもさ、じゃあここはどこ?」
そう、ここはどこ? だ。外ってどこだ?
「あなたが言う地球と同じ惑星よ、ここ」
ゆっくりと、まるでスローモーションかと思えるほどゆったりと、黒猫サイズのノワがプライベートエリアへと続くドアの隙間から姿を現した。
「いやいやノワさん、それはない。大陸の形が違うもん」
「じゃあ、違うんじゃない?」
「どっちよ」
むっとしながら訊けば、やれやれと言いたげに鼻を鳴らされた。
「どっちでも同じよ。考えたって仕方がないでしょ」
「仕方がないけど知りたいじゃん」
「あなたって知りたがりよね」
いやいやいやいや、自分の置かれた状況を正確に把握しておくのは基本ですよ。たぶん。
「あ、そうだノワ、近いうちにコルアに行くことになりそう」
「みたいね」
「聞こえてた?」
「今伝わってきた」
そうっすか。
猫みたいに前足を伸ばしてくわーっとあくびをしたノワは、なぜかくっついて座っている私とシリウスの間に割り込んできた。仕方なく少しだけお尻を動かしてノワのスペースを空ける。
「なに、淋しくなった?」
「別に。今は隙間に入りたい気分なの」
シリウスと顔を見合わせる。
「ノワもコルア行くよね」
「私だけここにいても仕方ないでしょ」
このツンデレめ。