アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり
03 霊獣の塔


 ぜえぜえと息が上がる。喉の奥が張り付いて苦しい。もっと早く軽く走れたはずなのに、今は足が重くもつれるだけで思うように動いてくれない。
 それまでと同じようでいて違う心臓の苦しさ。死にそうなほど苦しいのに、今にも笑い出しそうになるのを必死に堪えてひた走る快感。

 逃げ出したことはすぐに気付かれた。背後から追っ手が迫っている。最悪変な乗り物でひゅん、と来られたらお終いだ。

 それなのに──。

 よく知りもしない人に手を引かれ、見知らぬ夜の街を必死になって駆けている。どうしようもなくわくわくする。
 ままならない足が地を蹴るたびに心が跳ねる。引かれた手の先が作り出す速度に合わせて、地から浮いた身体が目の前の人に引き寄せられていく。
 ちょっとした浮遊感は、生きていることをこれでもかと叩き付けてくる。と同時に、まるで夢のように現実味がない。その両極端を行ったり来たりしながら、とにかく全身を高揚させた。

 結局、石畳に足を取られて転びそうになり、シリウスに子供のように抱き上げられた。申し訳なさと恥ずかしさと不安定さに、よく知りもしない人の首にぎゅっとしがみつき、その瞬間、ひどく安心したことに驚いてしまう。

 間近で見た黒尽くめの男は、あの赤い男と同じくらいの年に見えた。もっと若いかもしれない。大学生よりは上で、父よりはずっと若い。そして、全体的に厳つい。日本人にはない彫りの深さ。周囲を警戒する目は鋭く、時々ひやりとする気配を漂わせる。

──大丈夫か?
『ん、大丈夫。ごめんね、足手まといで』
──いや、助け出すのが遅くなって悪かった。

 驚いたのが伝わったのか、走りながら頭の中で笑われている。

『助けてくれる人がいるって思わなかったから……』
──助けてほしいと泣いていただろう?

 そんなことない──そう反論しようとしてやめた。きっと間違ってはいない。ここに来て以来ずっと、ずっとずっと助けてほしかった。

『ありがと』
──礼を言うのは私の方だ。あのとき助けられなかったら、今こうして助け出すこともできなかった。

 きゅきゅー、と先導するブルグレが甲高い声で鳴いた。

『ついてって大丈夫なの?』
──精霊には従った方がいい。
『精霊? あの羽リスって精霊なの?』
──はねりす?

 そんな疑問の声が頭に響くと同時に、小さなロータリーのような広場に出た。その途端、ふわっと前方に降り立ったのは、翼の生えた大きな大きなヒョウのような生きもの。
 一瞬、目の前に光が落ちてきたのかと思った。
 シリウスの足がぴたりと止まる。抱きかかえられている腕にぐっと力が入り、今まで以上に緊迫した気配に息を詰める。

──まさか! 霊獣か!
『れいじゅう?』

 きゅっきゅ、とブルグレが鳴くと、羽ヒョウがふわっと舞い上がるような軽い動きで背中を見せた。

──乗れ……と言っている。
『何言ってるかわかるの?』

 ゆっくり抱きかかえられていた腕から降ろされる。必死にしがみついていたせいか、手も足もがくがくする。
 背後から叫び声が上がった。同時にたくさんの足音とざわめきが迫ってくる。

──乗るぞ!

 ひょいと脇に手を差し入れられ、ふわっと羽ヒョウに跨がらされた。
『ちょっと、スカートなんですけど! パンツ見えた?』
──なっ……。

 一瞬動きを止めたシリウスが絶句したまま後ろに跨がったと同時に、羽ヒョウはいきなり跳躍した。羽ばたいているんじゃない、翼を広げて宙を駆けている。

 ごう、と耳元で風が唸る。内蔵が浮き上がる。絶叫マシンだ! 吐く!

 背後のシリウスに限界まで腰をひねってしがみつき、その胸元を握りしめ絶叫を吐き出す。耐えきれず胃から何か出てきたらごめん。頭の中で謝ると、労るように背中が撫でられた。
 ブルグレが耳元で楽しそうにきゅわきゅわ鳴いていた。



 空を駆け、分厚い雲を突き抜けたそこは、とても感動的な場所だった。

 開口部から見えるのは遙かなる水平線。凪いだ海なのか湖なのか、澄んだ水にはっきりと映り込む空の色。水面から直接生えているような木々。まるで水平線で世界が反転しているような、不思議で美しい風景。
 羽ヒョウが降り立ったのは、まるで水面に浮かんでいるようにも見える、遺跡のような円形建造物の中庭だった。

「で、ここどこ?」
──霊獣の塔らしい。本当にあったんだな。

 感心したようにあたりを見渡しているシリウスと、妙に楽しげにそこら中を飛び回っているブルグレ、胃の中身をぶちまかずに済んだものの、膝に手をつき、生唾を必死に飲み込んでいる私。
 羽ヒョウはお行儀よくお座りしながら、くわーっとあくびをしている。真っ黒な身体に真っ白な翼が妙にかっこいいのに、あくびをしている姿は妙にかわいい。

 窓や開口部にガラスや扉はなく、ただぽっかり空いているだけの建物。朝日が射し込んだ屋内はこざっぱりときれいだ。真白な大理石のような艶めく石でできた、荘厳な雰囲気。

──霊獣が礼を言っている。
『なんで?』
──助けたんじゃないのか?

 きゅわ、と得意げにブルグレが鳴いた。どうやらあの血の珠をせっせと運んでいたのはこの羽ヒョウのためだったらしい。
 すくっと立ち上がった羽ヒョウが頭におでこを擦りつけてくる。立っている私を少し見下ろすほどに身体が大きい。その横に並ぶシリウスはさらに背が高い。私の背はシリウスの胸くらいか。背が低い方ではなかったはずなのに、あの赤い男やシリウスは私よりずっと背が高い。

──ひとまず休めと言っている。

 シリウスの声が頭に響いたと同時に、羽ヒョウがくるっと背を向け歩き出した。ついてこいと言っているようで素直に従えば、なんとまあ、天蓋付きのどでかいベッドがどどんと置かれた部屋があった。この部屋の開口部にもガラスや扉はない。
 一瞬浮かんだ、どうしてこんな場所にベッドがあるのか、なーんてことはすっぽり頭から消えて、ローファーを脱ぎ捨て久しぶりのベッドにダイブする。

「ふっかふか……」
 至福。ベッド至福! 自分が知っているマットレスよりもずっとずっとふかふかだ。
 なぜかそこに羽ヒョウもブルグレも横たわる。ブルグレに至ってはど真ん中にヘソ天で寝転がり、自分のしっぽを両手で抱きしめながら、すでにすぴすぴ鼻を鳴らしていた。早すぎる。

──寝台がこれしかないそうだ。
『ってことは、これが羽ヒョウのベッド?』

 頷くシリウス。いやいや、でかすぎるだろう。
 全員が寝転がってもまだ余裕があるほど大きな、四畳半一間かとつっこみたくなるような超巨大ベッドだ。楽しすぎる!

「みんなで寝てもいいの?」
 羽ヒョウがこくんと頷いた途端、しゅるっとその身体が小さくなり、猫ほどの大きさに変わった。

「なに! 大きさ変えられるの?」
──霊獣だから、だろう。肉体を得ているわけではないらしい。

 ベッドの脇に突っ立ったままのシリウスを頭の中で呼ぶ。二人っきりなら色々気まずくても、これだけ大きなベッドだ、羽ヒョウとブルグレを間に挟めば平気。何より、ベッドで寝たい。きっとシリウスも同じはず。

──いいのか?
『シリウスが嫌じゃなければ私は平気。とりあえず寝てから色々考える』
──そうだな。ここなら安心して眠れるだろう。

 霊獣の塔には霊獣に招かれない限り何人たりとも入り込めないらしい。そんな説明が伝わってきた。

 ふっかふかのベッドに仰向けで横たわる。あまりに快適で無意味にごろごろしてベッドのふかふか具合を堪能する。快適。三回連続でごろごろしたらシリウスに近付きすぎて慌てて戻った。くくっと笑われる。
 ごろごろしすぎたのか、間にいたはずの羽ヒョウは私の枕元で丸くなっていた。途中ブルグレを蹴ったような気もする。

 ふうっと小さく息を吐いた瞬間、自分でもどうしようもなく安堵して、その途端、がたがたと震え始めた。ぶわっと一気に涙が溢れる。
 たくさんの感情が一度に爆発した。どうにかなりそうなほど頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 そっと指先に触れてきた大きな手。縋るようにぎゅっと握った。

──もう大丈夫だ。もう大丈夫。

 何度も繰り返される「大丈夫」が頭に染み込んでいく。

 今までこれほどまで泣いたことも叫んだこともない。自分のお腹の底からマグマのように噴き上がった唸りが、そこら中を焼き尽くしながら涙と一緒に流れていった。



 目覚めは最悪。
 瞼はもったりと熱を帯び、頭にはがんがん太いクギを打ち込まれ、喉はぴきぴきひび割れるように痛む。身じろげば体中がばきばき音を立てそうなほどの筋肉痛に思わず呻いた。
 目を擦り、眉間を解し、痛みとともに起き上がる。ごくっと唾を飲み込めば、ひりつく喉の痛みに顔をしかめた。
 どこもかしこも果てしなく痛い。ちょっと泣きたい。

 周りには誰もいない。
 どれほど寝ていたのか、ぽっかり空いた開口部から射し込む光は、寝る前と変わらない角度で射し込んでいる。

 どこからともなくブルグレの鳴き声がかすかに聞こえてきた。その音を頼りに、這う這うの体で大きすぎるベッドの端まで移動し、きちんと揃えられていたローファーに足を入れる。
 悲鳴を上げるほどの筋肉痛なんて初めてだ。
 よろよろと歩き出し、壁につかまりながらへこへこ歩く。あまりにも情けない。

──起きたか?
『あ、うん。すごいね、姿見えないのに伝わるんだね』
──このくらいの距離なら。すぐ隣の部屋にいる。

 その隣までが遠い。ここは全てが大きく造られている。ベッドも大きければ、部屋もバカみたいに広く、天井もすごく高い。
 窓代わりに並ぶ開口部は、両手を広げたくらいの幅に、窓台に上がって思いっきりジャンプしたとしても到底手が届かないくらいの高さがある。ドアのない開口部も同様に高い。

 ようやく部屋を出たところで、隣の部屋の入り口らしき開口部からブルグレを肩に乗せたシリウスが顔を出した。あっという間にそばに来て、ひょいと子供のように抱え上げられる。

 散々泣き叫んだこともあって、とりあえず穴を掘って埋まってしまいたい。

「かたじけない」
──かた? かた……ない?
『申し訳ないってこと』
──ああ、なるほど。古語か。

 照れ隠しを真面目な顔で聞き返されるのがこんなにも恥ずかしいとは思わなかった。しかも古語って……。
 思考がどんなふうに伝わっているのかがわからない。私には日本語で聞こえていても、シリウスにはきっと別の言葉で聞こえているのだろう。

 声にしても、頭で話しかけても、同じように通じている。こんなふうにちょっとした考えも伝わっているのかもしれない。

──大まかには伝わっている。
「そっか、変なこと考えてたらごめんね」

 なぜか黙り込んでしまったシリウスに運ばれたのは、リビングというよりは応接室みたいな部屋だった。またしてもバカみたいに広く天井も高い。

 シングルベッドか! とつっこみたくなるほど大きなソファーに座らされた。これまたふっかふかで、身体がどこまでも沈んでいきそうだ。座面が無駄に高く足が床に着かない。
 そのままひっくりかえりそうになったところをシリウスに助け起こされ、背中に座布団みたいに大きなふっかふかのクッションが宛がわれる。ひとつではまたもやひっくり返りそうで、ブルグレが次々と飛びながら運んでくるどでかクッションは四つにもなった。手のひらに乗るほどの小さなブルグレが意外と力持ちでびっくりだ。

 そんな様子を興味深げに眺めていた羽ヒョウは、猫サイズではない最初に会ったときほどの大きさで、大きな一人掛けのソファーにお行儀よくお座りしていた。

「外界のお嬢さん、力を分けてくれてありがとう。おかげで助かっちゃった」
 喋った!
 しかも低い声にこの口調……いらんことを想像しそうになって、慌てて思考を切り替える。
「喋れたんですか?」
「喋れるようになったのよ」
 シリウスよりも声が低い。
「ボクも喋れるようになった」
 聞き間違えたかと思った。ブルグレから聞こえたのはおっさんみたいなしゃがれ声だ。
 どうしよう、余計なことを考えそうだ。

 なぜこの姿にこの声? その姿にその口調? 合わなすぎる! 色気さえ滲む声を持つ羽ヒョウがオネエ口調、愛らしくちまちましたブルグレがおっさん声で「ボク」とか言う……。想像と違いすぎて地味にショックだ。

 すぐ隣に座っているシリウスが笑いを堪えている。

『わかる? 私の気持ちわかる?』
──わかるが……霊獣にも精霊にも伝わっているぞ。

 目の前に座る羽ヒョウに目を向ければ、むすっとむくれていた。その頭に乗っているブルグレはこれでもかと頬を膨らませている。

「ごめん、でもちょっと、一回落ち着きたい」
「外界のお嬢さんの思考からこの話し方が好きそうだったのに……」
「小さき生きものは己のことを『ボク』というのではないのか!」
 聞こえているから。

 目の前の大小がこそこそ言い合っているのが内緒話のつもりなら、せめてもっと声を抑えてほしい。まるっきり筒抜けだから。
 そう考えた途端、ぴたりと羽コンビは口を噤んだ。

──声の出し方にまだ慣れないのだろう。
『そうなの? そもそもなんで喋れるようになったの?』
──覚えてないのか?
『なにを?』

 シリウスの説明によると、寝ぼけた私に羽コンビが「話せるようにして」とシリウスを通訳に迫ったらしい。で、私が「話せるようになーあーれー」と呪文を唱えたら、話せるようになったそうで……。なにそれ。

『それ別に呪文じゃないから。なんっていうか、言葉のアヤだから』
──そうみたいだな。なにやらおかしな身振りもしていたが……それもたまたまのようだな。

 寝ぼけて何やっちゃってるんだろう。子供の頃に見たアニメの影響だ。あの変身する女の子たちの決めポーズを真似たらしい。恥だ。
 くつくつ笑うシリウスがむかつく。

『寝ぼけてるってわかってたんなら止めてよ』
──少しばかり、その、おもしろかったんだ。すまない。

「でも、これではっきり証明されちゃったわね」
 思案気な羽ヒョウの声になんのことかと訝しむ。
「外界のお嬢さん、あなた、とんでもない力持ちよ」
 思わず自分の腕の筋肉を触ったのは、羽ヒョウの言い方が悪いと思う。