アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり02 差し出された手
ここから助け出してくれるなら、この力を助け出してくれた人のために全力で使う。たとえそれが悪であっても。
そんなちょっと拗らせた思いに酔いしれていた時期もありました。
助け出してくれる人なんていないし。
世の中そんなに甘くない。ましてや知らない世界なら尚更だ。
「もう。痛いってば。引っ張らなくてもちゃんと歩くから」
今日も今日とて左手の傷口をぐりっと抉られ、血の珠を浮かべては見知らぬ人の苦しみを肩代わりする。私は歩く奇跡のはずなのに、どう考えても奴隷以下の扱いだ。ここまで扱いがひどいと、本気で自分が厄災なのだと思えてくる。その厄災に救われる人ってなんだろう。肩代わりということは、生け贄とか人柱とか、そういった類いなのか、私は。
早く終わりにしたい。
その腰に装着しているレーザーソードみたいなもので、ぶすっと急所をひと突きしてくれないかな。ほら、治したい人を大勢集めて、ぶすっと刺して一斉に治療すれば、私は死ねるし、みんなは助かるし、一石二鳥なのに。
人は苦しさでは死ねないことを身を以て知った。それとも、もっと苦しまないと死ねないのか。私のどこかがまだ生きることを諦めていないのか。
手のひらの痛みが私を現実に縛り付ける。
「なんで私なのかなぁ」
散々考えてもわからないことを考えてしまうのは、今日の苦しみがのたうち回るほどじゃなかったからだ。
苦しみにも痛みにも慣れることはない。ただ、それが続くことには慣れてしまった。
怒りも悲しみも無意味だった。淋しさだけは羽リスたちが表面だけでも癒やしてくれる。
「ことなかれ主義で生きてきたツケかなぁ」
唯一増えた独り言に応えてくれる声は、もう、ない。
善いことも悪いことも見ない振りをして、自分のテリトリーの平穏だけを守りながら生きていた。付かず離れずの距離の取り方だけがうまくなって、誰かと真剣にぶつかったことなんてない。
虐めることも虐められることも、目立つことも地味すぎることも、程々を越えれば面倒なだけで何もいいことはない。上っ面の軽い付き合いだけでも十分楽しかった。
「だから嫌われたのかぁ」
私のことが大嫌いだったから、先にこの世界に呼ばれていた彼女が厄災の乙女として私を選んだらしい。
どういう経緯なのかは知らない。教えてもらうどころか、ドヤ顔で祝福の乙女である自分の好待遇をぺらぺら自慢されただけだ。
周りからの冷たく蔑んだ目に囲まれながら、私が厄災の乙女であり、この身に厄災を移し取ることを指差しながら説明された。その時の彼女の高笑いは、乙女というよりも悪女だったと思う。間違いなく。
彼女の力は清く美しいもので、私の力は禍々しく醜いものなのだと、それはもう楽しそうに教えられた。
その違いが何かは知らない。「私のは聖なる力なのよ! あんたのは悪しき力!」、そう言って見たことがないほど得意気に笑っていた。
周りの人たちもなんやかんやと声を上げているものの、その音が意味のある言葉に聞こえることはなかった。それも私が厄災の乙女だから、らしい。現に彼女は、同じ日本語を話しているのにちゃんと相手に通じ、相手が何を言っているかを理解していた。
「なんで帰れないのに平気なんだろう」
帰れない。
最初に告げられたその一言があまりにショックで、自分が厄災だの禍々しいだのは割とどうでもよかった。
放課後、さて帰ろうか、と立ち上がったその瞬間、同じクラスであってもあまり接点のない彼女が目の前にいた。
いきなりのことに驚きながら、それまでとは光の入り方が違うことにあたりを見渡し、教室ではない空間に息を呑んだ。さっきまであった机もカバンもない。
そこは大聖堂みたいなホールのど真ん中。
「何ここ? え、なに? え? 帰るとこだったんだけど」
それに対し、「はあ? 帰れるわけないでしょ」と、意味のわからない理不尽なことをさも当然とばかりに言い放たれた挙げ句、心底馬鹿にしたように鼻で笑われた。
夢かと思った。
だから、最初に言われたことも、後に続いたことも、聞き流しながらぼんやりしていた。
その後、まるで犯罪者のように身体の大きな赤毛の男に連行されたのが病院のような施設。そこで左手を押さえつけられ、光る剣を手のひらに突き立てられ、これが現実だということを嫌と言うほど思い知らされた。
レーザーソードなんてSF映画の小道具的なものがあるにもかかわらず、近未来っぽい服ではなく軍服っぽいスーツを着た髪も瞳も赤い男は、周りの人がへこへこしている様子から、おそらくそれなりの地位なのだろう。
未来なのかと思えばそうでもなく、現代かと思えばそうでもない、すごくへんてこな世界だ。
どれだけ文句を言っても弱まることのない赤い男の握力に、最近では文句を言うことも諦め気味だ。こっちの歩調に合わせてくれることなんてあるわけもなく、今日もそれまでと変わらず引き摺られている。人通りの少ない場所に隠されるように駐まっている箱檻に戻されようとしたその時、ブルグレが必死の様子で飛んできた。
「どうかした?」
掴まれていない右手を差し出すと、そこに軽くずっこけながら着地する。慌てて胸元に引き寄せ落下を防ぐ。いつになく焦った様子に、何かあったのかと心配になる。
ブルグレが手のひらに乗った瞬間、赤い男が一瞬驚いていたような気がしたのに、ブルグレごと箱檻の中に入れられた。羽リスごときと思っているのか、どちらにしても好都合なので黙っていた。
ブルグレは、きゅっきゅ、きゅっきゅ、と懸命に何かを伝えようとしているのに、何を言っているのかがわからない。ただ、必死な様子から血の珠が必要なことだけはわかった。
「でもどうやって運ぶ? ここに連れて来れないんでしょ?」
言いながら左手のハンカチを外し、傷口をぐいっと押して血の珠を浮かべる。
それをはしっと両手でつかまえたブルグレに驚きながらも、慌てて小窓を開けると、血の珠を壊さないよう慎重に窓枠を擦り抜けてどこかに飛んで行った。
私から離れたり、患部以外に触れると途端に真っ黒な石のように変化し砕け散ってしまうはずの血の珠が、そのままの状態でブルグレの両手に抱えられていた。
「ふっしぎー」
手にハンカチを巻きながら思わず呟く。意思が伝わることといい、ブルグレは不思議な生きものだ。
それから何度かブルグレが血の球を取りに来た。繰り返すごとに必死さが申し訳なさに変わっていく。気にするなと声をかけると、労るように両手で左指に触れてきた。
「でもさ、ちゃんと相手に効果出てる?」
こくこくと頷くブルグレを訝しむ。血の珠を出す痛みはあれど、治癒するときの苦しさがない。それゆえ、治癒されていない気がする。
「本当に治ってる?」
きゅ、と返事を残して、血の珠を抱えて飛び立っていった。
謎だ。
苦しさもないのに治っているとはどういうことだろう。届けているのは羽リスの仲間なのか。人とは違う純真な生きものには厄災なんてないのか。
わからないことばかりで嫌になる。
「でもまあ、治ってるならいっか」
じくじくと疼く左手も、ブルグレのためだと思えば痛みも和らぐ。気の持ち様とはよく言ったものだ。
布団も何もない床にごろんと仰向けに寝転がる。
濃紺の制服がシワになることを気にしていた平穏な日常が戻ることはない。彼女のように夏服を着ていたら少しは違ったのだろうか。
衣替えのあの日、肌寒さを感じて、まだ一週間の猶予期間中だから、と夏服より冬服を選んだ。黒にも見える濃紺の冬服とは違い、夏服は真っ白なワンピースだ。汚れが目立つと文句を言いながらも、あの白さが気に入っていた。
大聖堂のような白っぽいホールの中では、夏服の白が祝福、冬服の黒が厄災を暗示しているように思えてならなかった。
日が暮れた頃、ぷしゅひゅうん、とまるで宇宙船の扉が開いたかのような間抜けな効果音を合図に箱檻の扉が開く。
いつものように無言で差し出された小さな塊を受け取ると、初めて赤い男が何かを言いかけてやめたような仕草を見せた。
「なに?」
通じないのはわかっていても、つい話し掛ける。
それに応えるように赤い男が何かを言っている。まるでわからない。どこの国の言葉にも聞こえない音は、赤い男の見た目同様厳つく響く。
「何言ってるかまるでわかんないんだけど。せめてジェスチャーとかしてよ」
直立不動で話し掛けている男に肩をすくめると、ため息を吐きながら出て行った。感じ悪い。
薄闇の中とはいえ、初めて正面からまじまじと見た赤の男は、思っていたよりも若かった。たぶん二十代くらい。もしかしたら三十代かもしれない。その辺りの区別はつかない。おっさんかと思っていたのに、確実に父よりは若かった、と思う。たぶん。
思い出さないようにしていた家族が頭に浮かぶ。咄嗟に目を閉じたのに、より一層鮮やかに浮かんだ。
嗚咽がもれそうになったその瞬間、きゅ、きゅ、と聞こえた声に我に返る。
こみあげた様々な想いを必死に胸の奥に押し込めながら、小窓から入ってきたブルグレに手を伸ばす。
左手のハンカチを外そうとしたら、ブルグレの小さな両手に止められた。
「もう大丈夫なの?」
きゅ、と鳴いた小さな友達の存在が唯一の救いだ。はーっと大きく息を吐いて、へらっと笑う。
きっと死んだら元の世界に戻れる。そう信じて今日も終わりを待っている。
「お礼に猛毒の実を持ってきてくれてもいいんだよ」
笑いながらそう言えば、ぎゃ、と怒ったような声が上がった。
どういうわけかその日、ブルグレはそのまま私のそばにいた。
食べ物を分け合う存在は、それだけで意味もなく仲間意識が芽生える。ひと口囓ったショートブレッドの残りをブルグレに渡すと、自分が食べる分を前歯で砕いたあと、私の右手に戻してきた。今日は謙虚だ。
握りつぶしながら窓の外に撒けば、ブルグレの、きゅきゅ、の声を合図に一斉に羽リスたちが集まってくる。
「ブルグレって、この辺のボスリスなの?」
頬を目一杯膨らませながら、きょとんと首を傾げた。ボスリスという言葉がわからなかったらしい。
必死に頬に詰め込んでいるブルグレをこんなに間近で見るのは初めてだ。和む。小さな両手でショートブレッドの欠片を持ちながら、かじかじする姿に自然と頬が緩む。
「これまずいと思うんだけど……おいしいの?」
これにも首を傾げられた。食べられればそれでいいのかもしれない。
お腹の上にブルグレが張り付いている。お腹がほこほこ温かい。それだけでぐっすり眠れそうな気がした。
これまでになくうつらうつらしかけたところで、お腹の上のほこほこがもぞっと動いた。
きゅきゅーん、と聞いたことのない声で鳴いたブルグレは、見たことがないほど緊張した面持ちで、じっと箱檻の扉を見据えていた。
お腹の上のブルグレを右手に抱え、右手から伝わる緊張に侵食されながらゆっくりと身体を起こす。
ぷしゅっ、と後方から聞こえていた音に全身が強張る。こんな時間に扉が開いたことなどこれまで一度だってない。ブルグレが腕を伝い肩に移った。
ひゅうん、と扉が開いた瞬間、頭に響いた声に全身が震えた。
──いくぞ。
差し出された手を力の限り掴んだ。