アンダーカバー / Undercover
第二章 縁29 ダファ族のオアシス
お昼過ぎに到着したダファ族のオアシスは、ゾル族のオアシスよりずっとずっと大きかった。
このオアシスでは街の中心地にガバを入れてはいけないらしく、いくつかある中から羽リスたちが教えてくれたガバ舎にうちの三頭も預ける。「知らない人についてっちゃダメだよ」と声をかけると、三頭とも、ぶふん、と鼻を鳴らす。
ガバにもかなり慣れてきた。話しかけると、わかっているのかいないのか、何かしら反応してくれるのがかわいい。
街に入るときに証の光石を見せると、自動的にこの街一番の宿に案内される。
途中のバザールはとても賑やかで、たくさんの色や匂い、声や感情が入り交じり、混沌とした活気と興奮がそこかしこで渦巻いている。
聞けばここはファルボナ最大のオアシスらしい。
案内された街一番の宿は、受付の窓から覗き見た限り、なんとなく好きになれない派手派手しさだった。
案内人が宿の受付に手を上げ、軽く挨拶しながら去って行く。
受付にも証の光石を見せながら、シリウスがファルネラさんとボナさんの部屋も取る。それに宿の人が、驚いたような訝しむような、接客業とは思えない感じの悪さを見せた。
「俺たちはまた同じ部屋でいいか?」
「いいけど、一番大きいベッドの部屋にして」
ノワのためを思ってそう言ったのに、シリウスがそれを伝えた途端、宿の男の人がにやにやし始めた。街一番の宿のはずなのに従業員の質が悪い。ついでに言えば、チラ見しかしていないけれど、インテリアのセンスも悪い。何もかもが安っぽく思えた。
「別の宿にしたい」
「そうだな」
シリウスがファルネラさんとボナさんにそれを伝えた途端、にやにやしていた従業員の態度が慌てたように取り繕われた。もう遅いし。
窓口から聞こえる必死の叫びを護衛二人の背中でシャットアウトして歩き出す。
来る途中に見た、羽リスたちがかたまっていた宿にとっとと移る。最初から羽リスたちを頼ればよかったのだ。お詫びを込めて左手を出せば、わらわらと集まってきた羽リスたちが次々と血の珠に触れてはくるくる嬉しそうに舞飛んだ。この子たちはどの子もいつも楽しそうだ。
ちらっとのぞき見た受付越しのインテリアは、さっきの宿とは違いシンプルで品良く落ち着いていた。
姿を隠したビュンビュン丸を上空に留めるよう羽リスたちに指示し終えたブルグレが猛スピードで飛んできた。肩に乗る直前に素早く血の珠に触れてにんまり笑う。油断も隙もない。
「ここがこのオアシスで一番歴史ある宿なんじゃ」
「じゃあさっきの宿は?」
「一番料金が高い宿」
この街一番とはそういう意味か。
部屋を取る際、護衛も一緒だと聞いた宿の人が、ドアの左右に使用人部屋があり、その先に応接間、そこから食堂と主人用のリビングが続き、最奥に主寝室がある離れの部屋を用意してくれた。
念のため、猫も一緒でいいかを訊いてもらうと、受付にいた品のいい紳士ににっこり微笑まれた。
「なんか高そうじゃない?」
「証の光石を持つなら、二人部屋ふたつ分の料金でいいと言われた」
「なにそれ、好待遇じゃん」
「おまけに小さい水溜まりがあるらしい」
なんだそれ? と思いながら案内の男に人に付いていくと、建物をぐるっと迂回してたどり着いたのはヴィラのような一軒家だった。開け放たれたドアの先には、天井のぐんと高い清々しい空間が広がっていた。慌てて全員で巻き付けていた布を外し、服や荷物を叩きまくって土埃を落とす。
説明された通り、快適そうな二人部屋がふたつと、やはりラタンのような応接セットのある応接間、六人掛けのテーブルが据えられた食堂、主人用のリビングの床にはふかふかの絨毯が敷かれ、その奥には天蓋付きの大きなベッドがふたつ並んでいた。ノワ大喜び。
そして! 小さいながらもプールがあった!
ファルネラさんとボナさんを誘い、荷ほどきもそこそこにプールに飛び込む。男たちは下着の上に布を巻き、私は服を着たまま飛び込んだ。
「こんなに待遇のいい護衛は初めてだと礼を言われている」
「私に言われても。シリウスのおかげでしょ」
「元はサヤの金だ」
「元は貢ぎ物だよ」
あまりの気持ちよさに意味もなく笑ってしまう。それはみんなも同じなのか、いい年した大人が楽しそうにはしゃいでいる。案内してくれた男の人がウェルカムドリンクらしきものを持ってきた。なんとノワにはカットした果物まで。至れり尽くせりで笑いしか出ない。
「さっきの宿にしなくてよかったぁ」
「だな。正直あの料金では申し訳ないほどの部屋だよ」
「証の光石の威力、半端ないね」
「ゾル族の族長とこの宿のオーナーは懇意だそうだ」
「つまりファルネラさんのお父さんのおかげじゃん! ありがとー!」
シリウスが通訳してくれたのか、ファルネラさんが照れたように笑う。
そのときのボナさんの作り笑いに気付いたのは私だけじゃなかった。
最初に声をかけたのはファルネラさんだった。それからボナさんがぽつぽつと零す声を誰もが黙ったまま耳をそばだてた。何を言っているかはわからないけれど、その声が持つ温度も湿り気も、何もかもを聞き漏らさないよう、息をひそめて聞き入った。
ボナさんの一族はオアシスを持たない。
アトラスからの支援は常に公平だったらしい。一人に対しどれくらいという公平さは、オアシスを持つ一族と持たない一族では決して公平だとは思えない。そう、ボナさんは静かに語った。
ボナさんの一族はその数をどんどん減らしていった。他のオアシスを持たない部族も同じようにその数を減らしている。特にアトラスの崩壊後は一気にそれが加速し、オアシスの奪い合いも激化している。
そんな中で、ボナさんの一族はオアシスを奪うことすらままならないほど弱体化しているらしい。
いっそのこと、ほかの部族に取り込まれればいいものの、族長らは部族の誇りを失うわけにはいかないと頑ならしい。
それにファルネラさんが理解を示していた。ファルボナの民は誇り高い。最後の一人になろうと、部族の誇りを穢すような真似はしないそうだ。
──彼は家族を守るためにその誇りを捨て、連合国に亡命しようか悩んでいる。連れて行けるのは妻と子供だけだとわかっているんだ。親を捨てる覚悟ができないでいる。
ボナさんにもファルボナの民としての誇りがある。族長の甥というくらいだ、余程その意識は高いだろ。
ファルネラさんが何かを訊く。ボナさんがそれに答える。
そんなやりとりがしばらく続いた。
ファルネラさんはボナさんに何が必要かを訊いた。ボナさんは、水に食料、薬、言い出したらキリがないほど多くのものが不足している、と答えた。そして、どこか遠くに思いを馳せるように空を見上げ、最後にひと言「安心がほしい」と声を絞り出していた。
雨期には高台に取り残され、乾期には水や食べ物を求めて彷徨う。砂嵐に逃げ惑い、気温の高さに朦朧とし、気温の低さに凍える日々は、一度たりとも安眠できたことがないらしい。
お腹いっぱい食べたこともなく、先日のファルネラさんの宿で生まれて初めてお腹いっぱい食べられたそうだ。それに罪悪感を抱く、とボナさんが歯を食いしばった。妻も子も親も満足に食べられないのに、自分だけがお腹いっぱいになり、ぐっすり眠れたことが申し訳ない、と両手で顔を覆った。
あの日の朝、よそよそしかったのは自分への罪悪感からだったらしい。
何も言えなかった。できればなんとかしたいと思う。それなのに、何ができるかわからない。
「ファルボナは大帝国ではないんだよな」
シリウスの声に、ファルネラさんとボナさんが頷く。
「え? 違うの?」
「大帝国側ではファルボナも領土と数えているが、実質ファルボナは自治区なんだ」
おかしいと思っていたのだ。どうしてアトラスが支援しているのかと。本来であれば大帝国が支援するべきだ。
「ファルボナは連合国に加盟しないだろうか」
それにファルネラさんとボナさんが驚いたように目を見開いた。
「そうすれば、連合国が支援できる。おそらくアトラス以上の支援が可能だ」
きょとんと目を丸くするボナさんと、訝しそうに目を細めるファルネラさん。まあそうだろう。なにせここに連合国総長がいるのは内緒なのだから。うっかり私まで忘れていた。
とりあえずプールから一度出ようと、それぞれが部屋に戻り、シャワーを浴び、再び応接室に集まる。
ファルネラさんが、うちの族長を呼ぼう、と言い出したらしく、急遽ビュンビュン丸の荷物を全て降ろし、ファルネラさんの書き付けを持ったブルグレが呼びに行くことになった。飛行船なら朝までに往復できるらしい。五日の行程が一晩かと思うとなんともいえない気持ちになる。みんなもなんともいえない顔で黙り込んでいた。思うところは同じらしい。
「そういえば、ファルボナに来てから飛行船が飛んでるの見たことないね」
「ファルボナの民はガバを愛しているからな」
書き付けた紙を受け取り、ブルグレに渡そうとして、ふとみんなを見渡した。ここで一番の役立たずは私だ。ノワを見れば頷いてくれた。
「私がノワと一緒に行って族長さんを連れてくるよ」
ちなみにファルネラさんもボナさんも族長さんも能力持ちではない。ブルグレに気付くかどうかもわからないのにちゃんと連れて来られるか不安だ。しかも到着が夜になるなら尚更だ。
「俺も一緒に行く」
「シリウスは二人と話を詰めておきなよ。大丈夫、ノワも一緒だから。それにさ、族長さんまで家を空けるとなると心配だから、ファルネラさんの家の加護を強化してくる。ノワが一緒に行けば、ビュンビュン丸も思いっきり飛ばせるし、たぶん二時間くらいで往復できるよ。日暮れまでには戻る」
しつこく「大丈夫か?」を繰り返すシリウスをなんとか説き伏せ、テラスに駐まっているビュンビュン丸に乗り込む。実は運転席に座ってみたかったのだ。ちなみに操作はブルグレが行う。それは断固阻止された。けちだ。
ふわっと浮上するビュンビュン丸から、テラスで見送る三人に手を振る。ノワが一旦ビュンビュン丸に乗り込み、姿を隠して外に飛び出し、ぐうんと一気に巨大化した。ノワが本気だ。
「行くわよ」
「ビュンビュン丸、ノワに付いてって」
ノワが一気に加速した。見えない糸で引っ張られているみたいにビュンビュン丸もそれに続き、酸っぱいものも一気にこみ上げた。
ノワの本気はすごかった。よくビュンビュン丸が壊れなかったと思う。戻ったら絶対にシリウスに整備してもらおう。どこかのネジが緩んでいる気がする。
本当にあっという間にゾル族のオアシスに到着した。
宿の上空にビュンビュン丸を待機させ、決死の思いでノワの背に飛び移り、宿の裏に降り立つ。笑っちゃうくらい膝が馬鹿笑いしていて、ノワに思いっきり笑われた。
「私が落とすわけないでしょ」
「それでも空中で飛び移るのは怖いんだよ」
嫌々スカイダイビングする人の気持ちがわかった。バンジージャンプもだ。安全だとわかってはいても死ぬかと思った。
震える足をなんとか駆使してへっぴり腰で宿の受付に回る。急に顔を出した私を族長さんが目を丸くしながら迎えてくれた。
ファルネラさんの書き付けを渡すと、心得たようにひとつ頷き、ファルネラさんの奥さんのファミナさんを呼んだ。彼らが言葉を交わしている間に、宿の加護を強めておく。
羽リスたちを呼んで、宿を守ってくれるよう頼み、ついでにオアシス全体の様子も見てくれるようお願いする。
ふと、ファミナさんが気丈に振る舞いながらもどことなく不安そうに見えた。隣から親類らしき男の人が足を治した男の子に呼ばれてやって来た。その人に族長さんが何かを指示しているけれど、どうにもファミナさんの不安はぬぐえていない。むしろ余計に不安そうになっている。
こういうとき、シリウスは気付かないうちに事を終える。私が奥さんの不安に気付く前に、対処し終えてしまう。
急にそんなことを思った。シリウスはいつだって物事の先を読んで、周りがそれと気付かないうちに成し終えてしまう。
「いっそのこと連れて行けば?」
「やっぱりそう思う?」
「ビュンビュン丸に全員乗れるかな」
「大丈夫よ」
ジェスチャーでみんなも連れて行くと伝える。なかなか伝わらなくてもどかしかったけれど、伝わった途端、奥さんの目が潤んだ。ファルネラさんや族長さんの知らない何かがあるのかもしれない。
みんなが支度している間に、ビュンビュン丸を裏庭に降ろす。大人二人と子供四人が乗れるとは思えない。そもそも定員二名だ。
じっとノワを見つめたけれど、首を縦に振らない。
「ダメ?」
「ダメ」
それもそうか。ノワは霊獣だ。私とシリウスはノワと繋がっているから平気なだけで、一般人がノワと接触するのは避けた方がいい気がする。きっと何かしらの影響を受けてしまうだろう。
ノワの背に乗るのは私だけだ。ビュンビュン丸の重量を考えると、荷物くらいはいいかを訊けば、仕方ないわね、と返ってきた。
こういうときも、全部シリウスが先回りして対処していた。一人になるとわかる。私は何も考えず、いつだってただシリウスの差し出す手に引かれていただけだ。
いくら人の思考が読めたとしても、シリウスの判断の早さと的確さは彼が生きる上で培われたものだ。
甲高い歓声が聞こえ、振り向くとファルネラさんの子供たちが駆け寄って来た。興奮しながらビュンビュン丸の周りを跳ね回っている。もしかしたら飛行船を見るのは初めてなのかもしれない。何気に族長さんの目も輝いているから、彼にとっても初体験なのだろう。
彼らの荷物は私が持つことにして、運転席に族長さんと長男、長男に赤ちゃんを抱えてもらう。助手席のファミナさんには子供二人を膝に乗せてもらう。どう見ても窮屈そうだけれどしばしの我慢だ、とジェスチャーで伝えた。伝わったかは自信がない。
操作部分を指差し、首を左右に振る。触るなという意味が伝わったのか、族長さんと長男が真剣な顔で首を縦に振った。
「ブルグレよろしくね」
ひと足先に上空に上がるビュンビュン丸を地上で見送り、宿に立ち入り禁止の呪文を唱え、羽リスたちにもう一度声をかけて、念のため宿の表に回ると、人集りができていた。間近に見る飛行船が珍しいらしい。上空に浮かぶ飛行船を誰もが目を輝かせて見上げていた。
さっきファルネラさんの長男に呼ばれて来た親類らしき男の人が何かを話しかけてくる。残念ながら何を言っているかわからない。肩をすくめてみせると、手を伸ばし、肩を掴もうとしたところで静電気発生。弾かれたように手を上げ、痛みに指先を握り込んでいる。
「この人誰だろう」
「あの護衛の弟」
もう一度宿の裏に回り、角を曲がった瞬間姿を隠した。後を付けていたファルネラさんの弟が姿を消した私たちを捜し回っている。ノワの素っ気ない言い方から、関わらないほうがよさそうだ。
姿を隠したままノワが羽ヒョウサイズになり、荷物を抱えてその背に跨がると、いくわよ、の声とともに空を駆け出す。後を追うようにビュンビュン丸が付いてきた。
ビュンビュン丸から絶えず子供たちの歓声が聞こえている。
普通に暮らしている限り、自分たちが暮らす場所を上空から眺めることはそうないだろう。そういえば私も、高いビルの上から眺めることはあっても、真上から見下ろしたことはなかった。
赤茶の大地にぽつんと浮かんで見えるゾル族のオアシスを見下ろす。緑よりも茶色の面積がはるかに多い。少し離れたところには家畜用の大きな囲いがあり、ガバが群れていた。その反対側には、ブロックみたいなものを作っている場所もある。たぶん家を作るときに使うレンガみたいなものだろう。遮光ネットのような黒い布が広範囲に張られている一画もあった。ノワに何かを訊けば、芋の畑だと教えられた。
きっと上から見なければ気付かなかった。
こんな風に、何もかも上から見下ろして、全てを把握できればもっと生き易いだろうに、結局は地に足をつけ、目の前にあるものをあるがままに見ることが精一杯で、そのほんの少し先にあるものすら容易に見透かせない。
「本当に不毛の地なんだね」
ノワの背から見た傾きかけた太陽はそれまでよりも生々しく見えた。