アンダーカバー / Undercover
第二章 縁30 小さな暗がり
日が暮れ、まだかろうじて辺りが見渡せる薄明の中、ダファ族のオアシスに戻って来た。
ひと足先にテラスに降り立ち、黒猫サイズに縮んだノワと一緒に姿を現す。ビュンビュン丸がヴィラのテラスに降りてくるのと、部屋からシリウスたちが出てくるのを、ひと瞬き、ふた瞬き、と待った。
ビュンビュン丸がお行儀よく着地した途端、中から子供たちが飛び出してきた。ファルネラさんが驚きながらも受け止めている。族長さんとファミナさんがふらふらしながら降りてきたと思ったら、ファミナさんは地に足をつけた途端腰を抜かしていた。族長さんは赤ちゃんを抱え、気丈にも立っているけれど、ぺっひり腰でビュンビュン丸にしがみついている。気付いた長男が族長さんに駆け寄り赤ちゃんを腕に抱く。まだ小さいのにしっかりした子だ。
「ちょっと飛ばしすぎたんじゃない?」
「そう? いつもよりゆっくりだったじゃない」
初心者には耐え難い速度だったかもしれない。初心者とは言い難い私も、いつもあった安心がなかったせいで膝の笑いが収まらなくて動けない。
目の前では、ファルネラさんに抱き上げられたファミナさんが思いっきり照れている。顔を赤らめ、あたふたしながらも安心しきって身体を預けているのを見れば、連れてきてよかったのだと肩の力が抜けた。
シリウスに助けられながら、族長さんも屋内に移動する。心配そうにそれらを見ながら私のそばまで来たボナさんが、彼らの荷物を運んでくれた。最後にノワとブルグレと一緒に、笑いが収まりつつある膝をなんとか駆使してみんなに続いた。
──お疲れ。
シリウスの声が頭に響き、その途端ほっとして全身の力が抜けた。
こういうとき、シリウスは本当のところどんな言葉をかけてくれたのかが気になる。お疲れ──ではない同じニュアンスのこの世界の言葉。知りたいのに知ることのできないもどかしさは、この先もずっと続くのかと思うと気が滅入りそうになる。
族長さんを肘掛け椅子に座らせたシリウスに振り向きざまふわっと抱きしめられた。
シリウスの匂いと体温に包み込まれた途端、一人で成し遂げたことと帰ってきたことを急に実感した。まるで夢から覚めたようにいつもの自分に戻っていく。勿体つけるようにゆっくり息を吐けば、ああ、気付かないうちに興奮していたんだな、と心が落ち着くと同時に要らない気負いも抜けていった。
食堂にはすでに夕食が用意されていた。人数が増えることを宿の人に伝えたのか、テーブルがどっしりとした大きなものに替わり、椅子が増え、ちゃんと族長さんとファミナさん、子供たちの分も用意されていた。ノワが途中でシリウスに伝えていたらしい。
部屋に溢れる人の気配とたっぷりの食事、いくつもの椅子が並んでいるのを見て、ふと、人が増えるのはいいものだな、とほっこり和んだ。
賑やかな食卓にファルネラさん一家は大喜びだ。特にファミナさんは今までこんな機会がなかったのか、とにかくひとつひとつに驚きながらも嬉しそうで、子供たちは興奮しながら一斉に父に語りかけている。
その様子を眩しそうに眺めているボナさんは、張り詰めた空気に閉じ込められているようで、食事の間中、気になって仕方がなかった。
とりあえず今日は移動で疲れただろうと話し合いは明日に持ち越され、部屋割りを変える。主寝室をファルネラさん一家に譲れば、それはいけない、と固辞された。だったらどこで寝るのかを訊けば、床でいいと言い出す始末だ。問答無用で主寝室に押し込み、使用人用のツインルームに私たちは立てこもった。
少ししたら子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきたから、諦めて使うことにしたのだろう。あの天蓋付きの大きなベッドは子供じゃなくても大はしゃぎだ。
「ノワごめんね、せっかく大きなベッドだったのに」
主寝室のベッドはノワのベッドと比べれば小さいけれど、コンパクトに丸まればなんとかなりそうなほどには大きかった。
「さっき思いっきりはしゃいだから平気」
ノワの本気はすごかった。あ、ビュンビュン丸の整備──思い出したそれを含め、シリウスに一部始終を伝える。口を挟まず適度に相槌を打ちながらちゃんと最後まで聞いてくれた。上手く言葉に表せないことは頭に思い浮かぶイメージからも読み取ってくれた。特にファルネラさんの弟のことを思い出せる限り詳細に伝えた。
「族長争いだな」
「兄弟なのに?」
「そういうものだ」
「アトラスもそういうのあったの?」
「どうだろうな、俺には関係ないことだと思っていたから気にしたことはなかったが、あったのかもしれんな」
「仲悪かった?」
「いや、よかったと思う。俺は漠然と長兄が王位を継ぐと思っていたし、次兄がそれを補佐するものだと思っていた」
全ての国がトップ争いをするわけでもないだろう。
そういえば、とばかりにシリウスが口を開く。
「ダファの族長が明日来てくれることになった」
「そうなの? 早速? 早くない?」
「ああ、そうか、サヤは知らなかったか。この宿の元の主がダファの族長なんだよ。だいたいどこのオアシスも宿は族長の家だ」
元々外から来た客は族長のテントに泊めることが慣例だったらしい。オアシスを得て定住してもその風習は残り、族長の家が大きくなるにつれ、宿屋へと変わっていったのだとか。
「じゃあ、あの最初の品のない宿も族長がオーナーなの?」
「あれは古いものを嫌った長男が新たにつくった宿だそうだ。ここは次男が継ぐらしい」
それって、いわゆる族長争いなんじゃ? 目で訴えれば頷くシリウス。受付にいた品のいい紳士が次男らしい。私の中では次男に軍配が上がった。
もう一度シャワーを浴びて、ベッドに入る。横になった途端、眠気が一気に襲ってきた。
「あなた昨日、軽くいびきかいていたわよ」
目覚めた瞬間のノワのうんざりした声に、まとわりつく眠気が一気に消し飛んだ。
「うそ!」と声を上げると、ノワの「本当」とブルグレの「本当じゃ」が重なった。否定してほしかったのにさらっとダブルで肯定された。
くるっと寝返りを打ちシリウスと向かい合えば、肘枕しながらまったり笑っている。恥ずかしすぎていたたまれない。
「ごめん、寝れた?」
「疲れたんだろう。サヤのはかわいいもんだよ」
うーうー唸りながら自分の中で恥ずかしさと折り合いを付ける。いびきとかないわー。まさか寝ながらおならなんてしていないだろうな。自分が信じられない。うわぁ。いびきよりおならの方がないわー。
「おならはまだしてないわよ」
答えなくていいから。まだとか言うな。
ノワが、とん、と軽やかにベッドから飛び降りた。
身支度を整え、シリウスと一緒に応接間に顔を出せば、すでにみんな揃っていた。食堂には朝食が用意されており、子供たちはプール際ではしゃいでいる。長男が弟妹の面倒をよくみている。本当にしっかりしたいい子だ。うちの兄も端から見るとああだったのかもしれない。
乳飲み子を抱えたファミナさんもリラックスできているようで、昨日よりもずっと顔色がよく穏やかな雰囲気だ。
ファルネラさんと族長さんがしきりにシリウスに何かを言っている。きっと部屋のお礼だろう。
少しだけ元気のないボナさんに笑いかければ、昨日よりは幾分かマシな笑顔が返ってきた。昨日あった張り詰めた空気が少し緩んでいるような気がする。誰にも言えなかったことを打ち明けられた安堵や一晩じっくり考えることで落ち着いたのかもしれない。悩んでいるときは人に話すだけでもなんとなく落ち着くものだ。
朝食の最中から男たちはなにやら難しい顔で話し合っている。少しずつボナさんの目が光を取り戻していくようで、彼にとって悪い話ではなく希望がもてる話なのだろうことが見て取れた。
話し合いの間に洗濯を済ませておこうとして、そういえばここには簡易キッチンや洗濯機が置かれたスペースが使用人部屋の隣にあったことを思い出し、早速洗濯を始める。こういう部屋は便利でいい。
今日はガバに乗らないだろうと久しぶりにワンピースを着たせいか、足元がすーすーして心許ない。スカートはこんな感じだったかと、ぼんやり考えながら部屋中に着替えを広げて陰干しをする。
ノワたちが部屋でお昼寝しているかと思ったいたのに見当たらない。どこかでひなたぼっこでもしているのかもしれない。
一通りの用事を済ませ、ふらっと応接間に顔を出せば、そこにいたのはファミナさんと子供たちだけだった。ちらっと食堂を覗くと、真剣な顔で話し合っている男たちの中に、知らない年配男性が一人増えていた。きっとダファ族の族長さんだろう。なんとなくヨガの達人っぽい雰囲気のほっそりしたおじいちゃんだ。
ファミナさんに洗濯機が空いたことをなんとか伝えると、いいのか、と戸惑い気味に瞳が揺れた。いいのいいの、とジェスチャーで答える。ファミナさんは長男に声をかけ、慌てたように部屋に戻り、大量の衣服を持って現れた。そりゃそうだ。大人三人に子供四人だ。たった一日で私たちの三日分くらいの量になっている。移動中は水浴びしたときに着替えたくらいで、基本的に下着以外着替えない。それでも、おそらく十キロくらいが洗える洗濯機が一杯になる。
ランドリールームに案内すると、使い方がわからなかったのか途方に暮れたような顔をされた。なんというかこの奥さん、妙に仕草がかわいい。宿にいたときはどちらかといえばできる女オーラに包まれていたのに、自分のテリトリーから出た途端、どうしていいかがわからず、そんな自分に戸惑っている様子がひしひしと伝わってくる。このギャップは女の私でもぐっとくる。
かと思えば、使い方を教えるとすぐに理解する頭の良さに感心する。私は二三度教わってようやく覚えたというのに。
砦にあったものよりは古い型だと思うけれど、使い方は基本的に同じだ。一度覚えてしまえばどこに行っても使えるようになる。ファルネラさんのところはさらに古い型だったので、使うときに少し戸惑った。
ファミナさんは動き出した洗濯機を不思議と不安が綯い交ぜになったような目でじっと見つめていた。ファルネラさんのところの型より手順がひとつ省略されるせいで不安なのだろう。
オアシスによっても貧富の差はある。ダファ族のオアシスはコルアの王都並みにあらゆるものが整っている。けれど、ゾル族のオアシスはここと比べると明らかに貧しい。オアシスの大きさ以上に人の数がまるで違う。街と町ほどの違いがある。
お互いに助け合ったりしないものなのか。ボナさんの話を聞いてしまえば余計にそう思ってしまう。
応接間に戻ろうと声をかけると、我に返ったようにファミナさんの肩が跳ねた。このまま放っておいてもいいか不安なのだろう。シリウスに説明してもらった方がいいかもしれない。
と思っていたらシリウスが顔を出した。
「ああ、洗濯をしていたのか」
それにファミナさんが何かを返し、シリウスが頷いたり言葉少なに相槌を打ったりしている。そして「今は休憩中だ」と聞いたファミナさんが、入り口に立つシリウスの脇を擦り抜け、いそいそと夫の元へと戻っていった。
タイミングの良さに、敵わないな、と思う。意味もなくシリウスの手に指先を滑り込ませる。
「私って、このままシリウスに頼りきりでいいのかな」
「いいんじゃないか。少なくとも俺はサヤに頼られることで自分を保っているような気がする」
「そんなもん?」
「男なんてそんなもんだろ。それに俺だってサヤに頼っているだろう? このところ俺は自分の下着すら洗濯してない」
「そのくらいしかしてないよ」
なんとなく抱きつけば、ちょうどいい力加減で抱きしめられる。大きな胸におでこを付け、できた暗がりに目を瞑る。とくん、とくん、とまろやかな生命の音が聞こえてくる。
兄とも父とも弟とも違う男の人だ。
「話進んだ?」
「近いうちに族長会議が開かれることになった」
「それまでここにいるの?」
族長たちが集まるならアトラスについての話を聞くのも一度で済む。
「いや。今から招集となると早くてもひと月かふた月ほど後になるらしい。その間にゾルネラがボナの一族の様子を見に行こうと提案している。付き合ってもらえないかと声をかけられているが、どうする?」
「シリウスは付き合おうって思ってるでしょ?」
「ノワもな、見ておいた方がいいと言うんだ」
──おそらくこのままだとボナの一族は絶えるらしい。
声に出さないということは、それほど深刻なのだろう。心地いい暗がりの中から顔を上げると、見下ろす真剣な目とぶつかった。
「確かボナさんの奥さんって臨月だって言ってたよね」
「立ち会えるなら立ち会った方がいいだろう?」
おそらく、私が考えるよりもここでの出産は危険だ。
「ノワも参加してたの?」
「ずっと膝の上で寝たふりをしながら話を聞いていた。ブルグレは肩の上で寝ていた」
道理で見当たらないと思った。人とは関わらないはずのノワは、その実、人に興味がある。手を貸すわけではないけれど、ノワが知っていると知らないとでは何かが変わるような気がする。
そもそも、ノワの存在がどんなものなのかを私は知らない。それを言ったら、聖女や精霊の存在も謎のままだ。
「誰も知らないんじゃないか? それこそ、サヤが聖女のことを知らないようにノワやブルグレも知らないんじゃないか? 自分の存在がどんなものかなんて俺だって知らない」
言われてみればそうかもしれない。どこか自分でもわからないところで、わからないながらも朧気に何かを掴んでいて、ふわふわと心許ない何かを知らないようでいて知っている。そんなはっきりしない曖昧な感覚の中にいる。
誰かが定めた言葉や枠組みではなく、自分の感覚で知りたい。霊獣でも精霊でも聖女でも人でもない、ノワでブルグレで私でシリウスを。
「明日はここを発つ。この先しばらくはのんびりできないだろう」
「じゃああとでもう一回プール入っとく」
「そうだな。俺もそうしよう」
ん、と小さく応えながら、もう一度小さな暗がりの中、目を瞑った。