アンダーカバー / Undercover
第二章 縁28 証の光石
「えっと、族長さんがゾルネフさんで、ファルさんがゾラネ……じゃなくてゾルネラさん、奥さんがファミナさん」
覚えられん。すでに私の中でファルさんはファルさんだ。対外的にはそれでいいらしい。要するに知っているということが重要なのだとか。せめて私の中ではファルネラさんと呼ぼう。そのうち慣れてゾルネラさんと呼べるはずだ。
「ファルサンは仮称だからいいが、ゾルネラサンは気を付けろよ」
いい加減「さん」は敬称だということを理解してほしい。ちらりとシリウスを見上げれば、にやりと笑われた。理解してるなら聞き流してよ。
翌朝の朝食の席で、息子の足を元通りにしてくれた、と崇められる勢いで感謝され、名前を教えてくれた。ファルボナの民にとって名前を教えることは信頼の証だ。私が思う以上に足を悪くした男がこの地で生きることは難しいらしい。
彼らは全財産をかき集めた。それこそきれいな布や昨日まで奥さんの首を飾っていたネックレス、ファルネラさんの腰に下がっていたナイフや腰に巻かれていたきれいな組紐までが含まれており、彼らの息子が純粋なのは、彼らも純粋だからなのだと深く沁みた。
聖女については秘密にすること、私に対してはこれまで通り接することを条件に、差し出された中からハート型に見える光石をひとつ貰った。別の光石の方が価値があると言われたけれど、私にはこの光石の方が価値があるのだと、ハート形の意味を説明してそれを貰うことと宿代をタダにしてもらうことで強引に話を締めた。
そしてシリウスと私は、ゾル族の信頼の証である特殊な細工が彫り込まれた光石を得た。いずれかの族長の信頼の証を持つ者は、全てのファルボナの民から歓迎される。
どれほど内輪揉めしていても、結局は同じ民なのだとゾル族の長は笑っていた。
「あのさ、この宿の加護、このままでもいいような気がするんだけど、どう思う?」
出発の朝、シリウスがそれをファルネラさんに伝えると、ファルネラさんが満面の笑みでたかいたかいをしてくれた。子供じゃないから! しかも、シリウス並みの体躯のファルネラさんのたかいたかいは、ちびりそうなくらい怖い。
ひーひー情けない声を上げたら、慌てたシリウスが私の身体をファルネラさんから奪い取ってくれた。
──ファルボナでの親しい女性への感謝の仕方だ。
『感謝の仕方間違ってるから!』
次にファルネラさんは嬉しそうにぴょんぴょん跳びはねている長男をたかいたかいし始めた。長男、思いっきり笑っているし。五歳児に負けた。
「まだ子供よ、あなたは」
ノワの嫌味にむっとする。一人でも生きていけるよう、精神的にも大人になろうと必死なのに、そんな言い方はない。
シリウスの腕から降ろされると、ちょうど宿の裏にある馬小屋ならぬガバ小屋からボナさんがガバを引き連れてきたところだった。なんとなくボナさんの態度がよそよそしい。聖女だと知った途端気後れしたのか。その点ファルネラさんは切り替えが上手い。それはそれこれはこれという感じで、きっちり折り合いを付けている。
照りつける日射しの中、ざしゅ、ざしゅ、とガバの立てる足音が永遠のように続く。
ゾル族のオアシスから荒野を駆けること三日目。変わり映えのしない景色に飽き飽きする。
何度か盗賊らしき人に襲われそうになったけれど、ノワの威嚇でどいつもこいつも回れ右をして逃げていった。彼らは野生動物並みに肌で危機を察知するらしい。
──ああいうヤツらの方が敏感なんだよ。
まあそうだろう。ノワの威嚇でも無謀に突っ走ってくるようなヤツらはただの怖いもの知らずのお子様だ。
「あなたみたいね」
お子様じゃないし。あとちょっとで十八歳だし。選挙権もらえるし。
ガバの頭の上で器用にお座りしている黒猫が、振り向きざま馬鹿にしたように、ふん、と鼻を鳴らした。感じ悪い。
「ってかさー、景色変わらないねー」
三百六十度、赤茶けた土塊しか見えない。私には同じに見える景色も、ここで生まれ育ったファルネラさんやボナさんにはその違いがわかるらしく、迷うことなく導いてくれる。
ノワがいるおかげで野生動物に襲われることもなく、旅はどこまでも順調だ。
上空のビュンビュン丸が青空に映える。なんだかものすごく気持ちよさそうだ。かすかに、きゅいーん、とブルグレの雄叫びが聞こえてきた。自慢か? 自慢の雄叫びなのか? ちっこいおっさんめ。
「湯に浸かりてーなー」
背後から聞こえた間延びした声。どうしよう、笑いそうだ。シリウスがそこまで湯船の魅力にとりつかれるとは思わなかった。
「笑うなよ。サヤだって入りたいだろう?」
「せめてノワの住処で水浴びしたい」
「だなぁ」
いつもしゃきっとしているシリウスが暑さと退屈さでだらけている。これはこれで乙なものだ。頭の上にシリウスの顎が乗る。重い。すでに二人とも鼻がマヒっている。
「なんかさ、穴掘って用を足すのとかに慣れてきたのがちょっと悲しい」
「今日、水浴びするか?」
「できるの?」
「空いた水袋にオアシスの水を詰めてきたんだ。日持ちしないうえにちょうど四袋あるから一人一袋だな」
うおー! テンション上がる! 頭も身体も一度に洗って、いっぺんに流せばなんとかなるかも。
「早く今日の野宿ポイントに着かないかなぁ」
楽しみすぎて調子外れの鼻歌とか歌っちゃう。ノワが嫌そうな顔で振り向くけれど、知ったこっちゃない。
「なんかさ、思っていた以上に平和だね」
「ノワのおかげだな」
「何様、ノワ様、霊獣様だね!」
「あんたバカにしてるでしょ」
「してないから。ノワのおかげって思ってるから」
しゃーって毛を逆立てるのやめてほしい。ほら、ガバがびくって震えてるし。ノワが前足でガバの頭をたしたししたら、ガバが落ち着いた。猛獣使い的な何かだろう。
左右を固めている護衛の二人もシリウスの言葉から水浴びを知ったのか、何気に嬉しそうだ。清潔にしておきたいというのもあるけれど、単純に水を浴びたい。こう毎日土埃にまみれていると水で洗い流したくなる。全身すっぽり布をかぶっていてもいつの間にか口や頭の中がじゃりじゃりする。ここではうがいで水を吐き出すことすら贅沢だ。
ちなみに、全身に纏う薄布はエロさを強調するために薄いのではなく、目も出さずに頭からすっぽり被るための薄さだ。薄いのに丈夫で目が細かい布は端に刺繍が施されていたり、ビーズみたいな小さな石が縫い付けらたりしている。その下にはこの地に倣って膝までのスリットが入ったタンクワンピを着て、その下に薄手のゆるっとしたアンダーパンツを穿いている。
「そういえばさ、全部の部族訪ねるの?」
「いや。光り輝くものが何かわかれば、一旦砦に戻る」
「あ、そっか。三ヶ月ごとだっけ?」
「目安としてはな」
少し早めに今日の野宿ポイントを定めた。ファルネラさんとボナさんがテントを張っている横で、シリウスは降りてきたビュンビュン丸から赤茶色の水袋を四つと、白い水袋をひとつ降ろす。ついでに今日の分のドライフルーツや木の実を羽リスたちに渡していると、ボナさんの視線を感じた。なんだ? と思わず首を傾げると慌てたように目が逸らされる。
「葛藤してるわね」
「だな。どっちに傾くか」
ノワとシリウスの会話が聞こえてきた。「なになに?」と会話に参加しようとしたら、シリウスの苦笑いと「なんでもない」を頂戴した。内緒話か。仲間外れか。「わしがいるだろう」のブルグレの声になんとなく絆されそうになった。不覚。
いつもより雑なテントの立て方に首を傾げていると、「ここの土は水を吸わないんだ。水浴びした後別の場所に立て直す」と説明された。
「こんなに乾燥してるのに?」
「乾燥しているから水を吸わないんだ。雨期にはこの辺り一帯は水に沈む」
へえ、と感心していると、土の上で程よく温められた水袋をひとつ持ったファルネラさんがテントの中に入っていった。何をするのかと一緒に中に入ると、中央の支柱のハンモックを吊す為のフックに水袋を逆さに吊した。続いて入ってきたボナさんがその隣にもうひとつ吊るし、ふたつ持ってきたシリウスからひとつを受け取ったファルネラさんが支柱に吊した。計四つの水袋がぶら下がっている。その下には普段ご飯を食べるときに使っている木製の折りたたみ式の腰掛けがおかれている。その上に立って水浴びしろということらしい。
「サヤ、先に浴びろ」
イエッサー!
みんなが外に出て行ったところで、誰も入ってきませんように、と呪文を唱え、ぱぱっと裸になる。荷物の中からタオルと石鹸を取り出し、一番低い位置に吊された水袋の真下に立ち、絞り口を細く開けて、ちょろちょろ零れる水で全身を濡らす。顔に注がれる水が気持ちよくて仕方がない。
水の存在をこんなにも嬉しく思ったことはない。当たり前にあった水がここではどれほど貴重か、身を以て知った。
石鹸を泡立て、髪を洗い、そのまま全身も洗う。最後に足先を洗おうとして、水が土に浸み込んでいないことに気付いた。そこに浮かぶ小さな泡を見て、このまま石鹸を流していいものか悩む。
『ねえねえ、つい石鹸で洗っちゃったんだけど、ここにそのまま流していいの?』
──別にいいんじゃないか?
何を言っているのか、という不思議そうな感じが伝わってきた。環境破壊なんて言葉はまだここにはないのかもしれない。どうかこの石鹸が植物由来でありますように、と聞きかじった知識で言い訳しながら泡を流していく。
かつてないほど爽快だ。
ビュンビュン丸に寄りかかりながら、タオルドライで髪を乾かす。今風が吹いたら最悪だ。どうか土埃混じりの風が吹きませんように、と呪文を唱える。移動中も土埃から自分を守ればいいのではないか、と思い当たり、明日試してみよう、と考えていると、シリウスがテントから出てきた。
つい駆け寄って匂いを嗅ぐ。いい匂いだ。シリウスからも「いい匂いになっている」と笑いながら言われた。砂岩地帯に来てから互いに匂いを嗅いで確かめるのが習慣化している。変態っぽい。
「髪切ってもいいと思う?」
髪が長いと洗うのも乾かすのも一苦労だ。特にここでは長い髪は邪魔にしかならない。
「どうだろうなぁ。ファルボナでは女性の髪の長さは身分の高さを表す」
「シリウスはどっちがいい?」
「俺はどっちでも。サヤは短いのも似合いそうだ」
日暮れのオレンジの光を遮るビュンビュン丸に並んで背中を預ける。乾きかけの髪をひとすくいしたシリウスを見上げ、切っちゃおうかな、と思ったところでビュンビュン丸の中でだらしなく寝そべるノワの「やめておきなさいよ」の声が聞こえてきた。
「なんで?」
「聖女っぽさがまた減るから」
痛いところを突いてきた。
そうなのだ。ここでは聖女という肩書きが役に立つ。きっとただ治癒の力を持つだけの人だったら、族長は証の光石を与えてくれたかを考えると微妙だ。あれは間違いなく聖女だからこそ、シリウスがアトラスの王族だからこそ渡してくれたものだと思う。
「立場を利用するのがなんかちょっとね」
「利用できるなら利用すればいい。俺はそう思ってここぞというときは利用している」
私の場合は不可抗力で与えられた立場だ。そう思うと、素直に使う気にはなれない。私の場合は力を使わなければ聖女だとわからない。シリウスの場合はその髪や瞳の色でアトラス王家の者だとわかるらしい。
族長との話し合いの際、シリウスは彼にだけ本来の色を見せた。その途端、平伏されたらしい。アトラスの支援はファルボナの人たちにとって命そのものだったそうだ。
言われてみれば、シリウスほど黒に近いほど濃く深い青を持つ人を今まで見たことがない。同郷であるデネボナさんやエニフさんの色は濃淡の差はあれシリウスよりもずっと鮮やかな群青色だ。
見上げたシリウスのオレンジの髪が夕日に融けている。見下ろすオレンジの瞳も見慣れてきた。できれば私のオレンジにも見慣れてほしいものだ。
「もしかして大帝国の皇族のあの深い赤も彼ら一族だけ?」
そうだ、と答えるシリウス越しに、清々しい笑顔でファルネラさんがテントから出てきたのが見えた。入れ替わるようにボナさんがテントに入っていく。
そよぐ風に土の匂いがしないことに気付いたのか、ファルネラさんがシリウスに何かを訊いている。
「そっか、明日と言わずテントを張ったところにも同じ呪文唱えてみる」
「あんまりやり過ぎるなよ」
「でもさ、風に土が入ってないだけですこぶる快適じゃない?」
「まあな。オアシスにいたときもこうだったな」
「やっぱり緑って重要だよね」
木々が土埃を遮り、草が土を舞い上がらせない。オアシスに人が集まるのは、何も水があるからだけじゃない。水があり緑があって初めて人は快適に暮らせる。
それでも、ここに住む人たちはこの土地から離れることなく暮らし続けている。故郷とはそういうものなのかもしれない。