アンダーカバー / Undercover
第二章 縁27 特別
ファルボナの民が気難しいと言ったのは誰でしたっけ?
族長らしき男性とシリウスがめっちゃくちゃ和気あいあいと歓談している。わははは、と陽気な笑い声が聞こえてくる。
同じ食堂の中央にいる私たちより、端に座っている彼らの方が食堂の中心にいるようだった。
なぜかボナさんに慰めの視線を頂戴しているような気がするけれど、気のせいだと思いたい。
今日の客は私たちだけらしい。それを聞いてチェックインのときに左手で扉に触れ、この家の住人とシリウスが認めたもの以外立ち入り禁止を唱えておいた。
これまで泊まったどの宿でもチェックインはドライブスルーのように窓越しに行い、部屋を取ってからじゃないと建物の中には入れない。だから、急なお客さんでも大丈夫だろう。
唱える際、ノワから条件付けの方法を教わり、加護をかけ続けるのではなく、力で建物を覆うようイメージしろと言われ、その通りになんとかやってみた。感覚的にはビュンビュン丸を加護したのと同じだ。バリアをイメージする。
一度力で覆うと、加護をかけ続ける必要がなくなり、解除しない限り継続的に加護がかかったままになる。ただ、覆う面積に比例して力を使うので、あまり広範囲にやると痛い目をみるらしい。
「前は力の無駄使いだって却下したのに」
「あの時はまだ力の使い方がわかってなかったでしょ? 飛行船でやらせてみたらできたから、このくらいの建物ならできるだろうと思ったのよ。砦を覆うのはまだまだね」
ノワの指導のたまものである。
ちなみにここの食事、思いっきり口に合う。
シシカバブみたいなお肉はすこぶるスパイシーだけれど、付け合わせのジャガイモと里芋を合わせたような芋が、ほくほくでおいしい。スパイシーなお肉と一緒に食べると口の中で程よくマイルドになる。しかも芋の塩加減が絶妙だ。なんとなくジェスチャーでわかったのは、お昼前に日当たりのいい土の中に芋を浅く埋めておくといい感じに蒸し上がるらしい。しかもだ、ココナツらしきオイルで素揚げしたブツ切りの芋がこれまたおいしい。ほんのり甘味があって、ほんのり塩味が付いていて、絶妙なおいしさだ。
ついファルさんに芋をスライスして素揚げしてもらえないかと頼んでみた。何気にジェスチャーが通じるのは、彼らの子供がまだ幼児だかららしい。ファルさんのところは五歳の男の子を筆頭に、三歳の女の子、二歳の男の子、生まれたばかりの女の子がいるらしい。ファルさんより若いボナさんの子供は三歳の女の子が一人と、奥さんは今まさに臨月だと聞いて、一緒にいなくて大丈夫なのかといらぬ心配をしてみたりもした。
女が小指で、男が親指で、数の数え方は、中指、人差し指、薬指、小指、親指の順に指を立てる。微妙に数えにくいと感じるのは、単なる慣れだろうか。あと、中指だけを立てるのはこれまでの感覚からダメな気がする。
ファルさんの奥さんがちょっと厚めのチップスを作ってくれた。うま! できればもっと薄くスライスしてほしい。それもジェスチャーで伝えると、奥さんがすこぶるいい笑顔で厨房に戻っていった。
ファルさんがしきりに何か話しかけているけれど、いまいちわからない。
「これを宿で出してもいいかを訊かれている」
「いいけどなんでいちいち聞くの?」
「サヤに教わったものを勝手に人に出してはいけないと思っているからだ」
「ふーん。別にいいのに。で? 話終わったの?」
ふっ、と気を抜くように笑いながら、シリウスが隣の席に着いた。
「一人で淋しかったか?」
「別に」
ファルさんとボナさんがにやにやしている。なんかむかつく。シリウスが私の側を離れるなんて、この二人を信用している証拠だ。
なぜか族長も同じテーブルに着いて、厚切りチップスをもりもり食べている。うまかろう。道中で教えてもらったおいしいのジェスチャーをしてみせたら、笑顔で同じジェスチャーを返してきた。お茶目なおじいちゃんだ。誰だよ、気難しいって言ったのは。この人たらしめ。
奥さんが、おまたせ、とばかりにさらに薄くなったチップスを持ってきてくれた。ぱりぱり感がアップしている。うま! 思わず奥さんにも小指で唇の端をタップするジェスチャーをしたら、いい笑顔と同じジェスチャーが返された。お茶目だ。
ふと見た奥さんの腕がぽつぽつと赤くなっていた。芋を揚げるときに油が跳ねたのかもしれない。手袋を外して彼女の腕に触れる。一瞬にして赤みが消える。
次の瞬間──。
がしっと音がしそうなほど、奥さんに腕を掴まれた。必死に何かを訴えている。切羽詰まったその様子に、シリウスが慌てて間に入った。あまりの必死さがちょっと怖い。なぜかファルさんも族長も怖いほど真剣な顔で何かを話している。
こういうとき、言葉が通じないことをもどかしく思う。
「サヤ、治癒を頼まれている」
「いいよ」
「キリがないぞ」
「誰の治癒?」
「ファルの長男だ。半年ほど前に高いところから足を滑らせ、片足が動かなくなっているそうだ」
「いいよ。ファルさんにはこれからも護衛してもらうんだから、そのくらいお安いご用だよ」
──聖女だとバレるぞ。
『ファルさんたちなら内緒にしてくれるでしょ? もしくは誤魔化せそうじゃない?』
シリウスが何かを諦めたように思いっきりため息を吐いた。
ここで恩を売っておけばきっとこの先いいことがある。そのくらいの打算はある。純粋に助けられるなら助けたいとも思う。
ファルさんに肩車されていた男の子は、嬉しそうに笑っていた。まさか、歩けなくなっているとは思わなかった。偽善だっていい、袖振り合うも多生の縁、だ。
食事を早めに切り上げ、早速とばかりに彼らの住居部分にお邪魔する。
ハンモックがいくつもぶら下がった、少し広めなひと部屋が彼ら全員の住まいらしい。
なんとなく族長というくらいだからアラブのお金持ちをイメージしていたせいか、その質素感に愕然とした。族長でこれなら、他の人の暮らしはどんなものなのか。
ずっと使われ続ているだろう疲れと艶とシミが混在する木製のテーブル、座面が自然と磨かれた簡素なスツール、いくつか積まれた衣装箱らしき大きめの箱、そこかしこに修復の跡が見えるラグ。よく見ればハンモックにも繕われた跡があった。
その全てに家族の歴史を感じると同時に大切に扱われてきたことが見て取れる。質素でも暖かみのある空間に、家だ、と思った。生活の匂いがした。友達の家に遊びに来たような、そんな気になった。
そこで五歳だと聞いたばかりの男の子が必死に赤ちゃんをあやしていた。
伸ばした両足の上に赤ちゃんを乗せ、お尻を床に着け、腕の力だけで妹を落とさないよう気を配りながら懸命に両親の元にいざり寄ってくる。
その右足全体に巻かれた清潔とは言えない布には、血と膿が混ざったような体液が滲んでいた。爪先がありえない方向に曲がっていた。
それなのに、笑っているのだ。
絶対に痛いはずなのに、その子は痛む足の上で妹をあやし、両親の姿を見た途端、うれしそうに笑った。
あまりに純粋で胸がつまった。打算なんて吹き飛んだ。
「医者はいないの?」
「我々が思うような医者はいない。だから、キリがないと言っただろう」
シリウスの言うことはもっともだと思う。
「それでもサヤは助けるんだろう?」
頷けば、シリウスの目が優しく細められた。それに励まされる。
私は深く考えていない。
ただ、目の前のことにショックを受けて、なんとかできるならなんとかしたいというよくわからない正義感や責任感みたいなものを勝手に感じて、それを一方的に押しつけようとしているだけかもしれない。
これからやろうとしていることが正しいことなのかもわからない。
それでも、治したかった。
「サヤが思う通りでいい」
──いざとなれば、飛行船を隠したあの無人島で暮らせばいいんだ。思う通りにやれ。
途中から音が途切れ、残りは頭に直接響いた。
「一緒に?」
「一緒に」
優しく目を細めるシリウスが背中を押してくれる。
男の子の傍らに膝をつく。赤ちゃんは奥さんが抱いてくれた。
足に巻かれていた布を外す。かすかに漂っていた異臭が強くなった。足の怪我はかなり深い。おまけに一部は壊死していた。
手のひらに埋まる血の珠だけでは治せない。血が必要だ。
シリウスから借りたナイフで血の珠を少しだけ傷付けてみた。ちくっとした痛みのあとに、小さな血の珠が埋め込まれた真っ赤な半球の上に浮かんだ。
この人誰? と言いたげな目で見つめてくる男の子の足を小さな血の珠が浮かぶ左手で軽く掴んだ。かすかにこの子の悲しみが伝わってくる。父のように家族を守れない悲しみは、五歳の子供が持つには早すぎる責任感だ。それとも、ここでは当たり前のことなのだろうか。
傷が疼くのか、男の子は口元をぎゅっと引き結び、不安そうに目を泳がせた。それを見たファルさんが、声をかけながら背後から息子を抱きしめた。
終わったことがわかった。おかしな方向に曲がっていた爪先が正常の位置に戻っている。血と膿で汚れてはいるけれど、痕もなくきれいに治っていた。
よかった、元に戻った。
ファルさんたちがしきりに何かを言っている。何を言っているかはわからないけれど、たぶんお礼だ。大人たちが揃って目に涙を浮かべ、土下座するように頭を床に擦り付けている。
それを見た男の子が、声を上げ、立ち上がった。
男の子の声に顔を上げたファルさんたちがひどく驚いたように目を瞠っている。奥さんは泣き出し、ファルさんは天を仰いで何かを叫んだ。
何がどうなったのかがわからなくて、咄嗟にシリウスの陰に隠れる。
──彼らは、せめて傷が塞がればと思っていたんだ。
『あ、そっか。治癒って本当はその程度だっけ』
入り口付近で様子を窺っていたボナさんが近付いてきて、シリウスに小声で話しかけた。シリウスが困ったように笑っている。ボナさんは気付いたのだろう。
シリウスに小声で返されたボナさんが目を瞠った。シリウスの背後に隠れた私を食い入るように凝視している。
内緒ね、と人差し指を口の前に立てた。そのジェスチャーの意味が通じたのか、勢いよく頷いているボナさんを見て思わず笑う。
私は人目を引くような美人じゃない。かといってブスだとも思いたくない。
誰かにとって特別なかわいいであればいいと思っていた。その誰かが私の特別であればもっといいと思っていた。今思えば、あの頃は反吐が出るほど平和だった。
あの頃の私の特別を独占していたのは家族だった。家族が好きだった。大好きだった。
家族揃って嬉し泣きに暮れているファルさん一家をこれ以上見ていると辛くなりそうで、部屋に戻ることにした。
その場に残してきたボナさんがどこかぼんやりしたままだったのが気になる。
──普通に生きている限り、お目にかかれない存在だからな。
『ノワが霊獣だって知ったら腰抜かすね』
部屋に戻ったら、巨大ノワが無理矢理ベッドの上で丸くなっていた。別の意味で腰を抜かしそうだ。精一杯小さくまとまっているものの、ベッドからそこかしこがはみ出ている。溶けかけたアイスかってくらい今にもベッドから溢れ落ちそうだった。
「ちょっと! ベッド壊れるから! ってかはみ出てるじゃん」
「ベッド大きくなれって呪文唱えなさいよ」
「そんな魔法みたいなことできるわけないでしょ」
ちっ、と舌打ちするノワの顔が真夏の涼的だ。つまりおどろおどろしい。
巨大化が一番楽だとは聞いていたし、このところなかなか巨大化できなかったとはいえこれはない。なぜ床で丸まらない? まさか、このノワ様が床なんぞに這いつくばれるか! とか思ってる? うわぁ、何様? ノワ様?
「あんた、いい加減にしなさいよ」
だからね、その大きさで威嚇されると怖いんだってば。
後退ったらシリウスにぶつかった。ごめん、と言いながら振り返ると、シリウスが思いっきり笑いを堪えていた。どこに笑う要素があったのか。
「まったく、あんたくらいよ、霊獣にそこまで遠慮ないのは」
「えー……遠慮してほしい?」
「別に!」
しゅるんとノワが黒猫サイズに縮まった。ふっかふかの大きなマットを買ってあげればいいのかもしれない。
「買ってくれるの?」
おお、珍しくノワが思いっきり食いついてきた。
「自分で持ち運びなよ」
こくこく頷くノワはかわいい。四畳半くらいのふかふか絨毯を見付けたら買ってあげよう。
「高いぞ」
「そうなの?」
「買ってくれるって言ったもん!」
急にかわいこぶるノワはどうかと思う。ブルグレは何処かと思ったら、椅子の上に無造作に退かされていた洗濯物の上で寝ていた。ブルグレはお金かからないな。そう思った途端、酔いどれのおっさんのように寝ながらにたにた笑い始めた。本当にブルグレは可愛さの無駄遣いだ。
「族長と話して何かわかった?」
肘掛け椅子に腰をおろす。ラタンの肘掛け椅子は背もたれがクジャクの羽のようなデザインで、座っているだけで美人に見えそうだ。
シリウスは長椅子に腰をおろした。ラタンの丸テーブルを囲んでいるもうひとつの肘掛け椅子には洗濯物とブルグレが寝ている。
「やはり何かと引き替えにアトラスから経済支援を受けていたらしい」
何十年も経済支援を続けるだけの何かとは、間違いなく相当価値のあるものだ。逆になぜそれをファルボナの人たちは手放したのか。ここでは価値がなかったからか。それとも、水や食料がそれよりも勝ったか。
「生きることに直結するものじゃなかったのかもしれないな」
「宝石とか?」
「おそらく。族長は、光り輝くもの、と聞いていたらしい」
「じゃあやっぱり宝石かな? アトラスにあった?」
そんな高価な宝石ならきっと国宝だ。
「いくつか考えられるものは浮かぶんだが、そこまで価値のあるものかと言われると違うような気がする。俺はまだ幼すぎて興味がなかったか、その本当の価値を教わっていないか、そもそも見たことがないからこそ消失を免れたのか」
いくら幼くとも、国宝クラスの宝石を覚えていないとは考えにくい。きっと何かにつけ周囲の思考に浮かんだだろうし。
「ああ、俺の能力が発現したのはアトラス崩壊後なんだ。能力の発現はだいたい七歳から十歳前後、遅くとも十五歳までだ。それ以降の発現は稀だ」
少し苦しそうに眉を寄せたシリウスの隣に座り直した。
よく狂わなかったと思う。どんな感覚なのかはわからない。それでも、どれほど大変だったかはシリウスを見ていればわかる。
かすかにファルさん一家の笑い声が聞こえてきた。
シリウスに引き寄せられ、膝の上に乗せられ、抱きしめられる。
誰かにとって特別なかわいいであればいいと思っていた。その誰かが私の特別であればもっといいと思っていた。反吐が出るほど今でもそう思っている。
私の特別はもうどこにもいない。シリウスの腕の中でうずくまる。シリウスの特別ももうどこにもいない。私たちはどこにも行きようがない。
大人になりきれない心が特別を求めて必死に手を伸ばす。
──あなたはまだ子供のままでいいのよ。
初めてノワが頭の中に話しかけてきた。