アンダーカバー / Undercover
第二章 縁
23 侵しがたい何か


 とろんとした穏やかさの中にとっぷり浸かっていた意識がたゆたいながら浮上する。
 背中から伝わるあたたかさ、抱えている腕の確かさ、包み込まれる気配、絶対の安心。
 手のひらにある小さな毛玉がもぞっと動いて、また静かになった。

 妙に落ち着く。どこもかしこも凪いでいた。

──落ち着くな。
『うん』

 背後から抱きかかえられて抱き枕にされていることも、首の下から回り込んだ腕を抱き枕にしていることも、息遣いや鼓動も、肌触りや体温も、朝の生理現象を察していたとしても、何もかもが自然で落ち着く。

──ああ、気付くよな、やっぱり。
『ん。でも別に嫌じゃない』
──そうか。

 ん、と小さく応えながら、この落ち着く空間を少しでも長く堪能していたかった。きっとシリウスも同じだろう。伝わってきた思考がまったりしている。いつもの彼なら、そうか、のひと言で終わらせたりはしない。
 そんなことも全部ひっくるめて、なんだかすごく落ち着いた。ずっとこのままがいい。動きたくない。

「あんたたち朝っぱらからやめなさいよ。聞いてるこっちが恥ずかしいわ」
「ノワもおいでよ。落ち着くよ」
 背後から聞こえたむっとした声に答えると、しばらくの沈黙の後、黒猫になったノワがシリウスと私を遠慮の欠片もなく踏み越えてきた。抱えているシリウスの腕との間にノワが収まるだけの空間を作れば、そっぽを向いたまま黒い塊が無言で腕の間に入り込み、小さく息を吐きながらくたりと全身の力を抜いた。
 手のひらの毛玉が小さく身動いだ。

 きっとこれが完成形だ。完璧に落ち着く。とろけそうだ。

「起きたくない」
「起きたくないな」
「悪くないわね」
 手のひらの毛玉がもぞっと動いた。もぞもぞもぞもぞ……。



「ブルグレってさ、空気読めないよね」
「あれは本来、空気みたいな存在のはずなのに」

 あの至極まったりとした雰囲気の中、手のひらの中でしばらくもぞもぞしていたかと思ったら、いきなり「朝じゃ! 起きろー!」と寝起きのだみ声で叫ばれたやるせなさったらない。ぴたっとくっついていた三体が、分解するみたいにぱらっと離れた。

「ねえ、朝の生理現象って何?」
「あー、なんかそうなるのが自然なことらしい。そういう身体のメカニズムなんだって」
 妙に感心したように頷いているノワに生理現象はないのだろうか。ぎっくり腰になるくらいだからありそうな気がする。
「そういうのはないわねぇ。自分で気付いてないだけかしら? なんだか、面倒そうだけど面白いわね。あんまりそういうこと聞く機会がないから新鮮」
「うちはわりとそこんとこオープンだったから抵抗ないんだけど、普通はそういう話って抵抗あるみたいだから話題になりにくいかもね」

 私が男の生理現象をきっちり知っているように、うちの兄弟たちも女の生理現象をわりと細かく知っている。他人に話すと「変わってる」と言われるけれど、性に関しては当然のこととして知っておくべきだ、というのがうちの両親のポリシーだ。
 だからなのか、一般的には、うわぁ、と思うようなことでも、そういうものだと知っているせいか、そこまでの抵抗感はない。……わけでもないな。相手による。

「でもシリウスからも抵抗感ってあまり感じないのよね。ここの普通はあんたが考えている普通よりずっと閉塞的なのに」
「そうなんだよね。なんか、ブルグレが言ってた破廉恥云々とはちょっと違うんだよね、シリウスは」
「あんたの生理用品買っておくくらいだしね」
 そうなのだ。うちの兄弟からは少なからず抵抗があると聞いていたのに、当たり前のように用意してくれていた。かといってシリウスにチャラさがあるわけでもなく、どちらかといえばカタブツだ。
「まあ、シリウスもちょっと変わってるから」
「そうなの?」
「他人の思考の中で生きていれば、色々あるんじゃない?」
 それもそうか。女の人の生理現象云々も知りたくなくても知ってしまう。しかも最悪実況で。つくづく思考が読めるって残酷だ。うわぁ、誰と誰が浮気しているか、誰が誰を嫌っているかもわかっちゃったりするのか。本気で嫌だ。
「なんてゆーか、人の気持ちなんて信じられなくなりそうだよね」
「でしょうね。実際信じてないわね」
「だよねー。私なら間違いなく人間不信になる」

 ワンピースの後ろボタンが留められない。基本的にワンピースは後ろボタンか後ろリボンか後ろ編み上げか、とにかく背中で調節するタイプだ。おかげで一人では着られない。
「シリウスー、着替え終わったら後ろのボタン留めてー」
 洗面所から顔を出したシリウスがむすっとしている。
「俺のことを変人扱いしといてそれか?」
「そんなこと言ってないもん」
「じゃあ、サヤは一人で女性用品買いに行けるか?」
「行けないからありがとって思ってる」
「嘘だな」
「本当はちょっと変態って思ってる」
「俺だって恥ずかしいんだよ」
 あ、なんだかちょっとほっとした。

 シリウスはわりとそつなくなんでもさらっとやってのける。表情もあまり変わらない。カタブツというよりは、単純に大人だ。

「シリウスも恥ずかしいって思うんだね」
「人をなんだと思ってるんだ」
 今だって、普通に背中のボタンを留めてくれる。

 ワンピースの後ろには胸の下で固定するよう、アンダー部分に調節用の隠しボタンが付いている。女なら言われなくともなんとなくこうだろうと察するそれを、当たり前のように調節しながら留めてくれる。
 経験かなぁ。なんかなぁ、なんか、なんか……。

「他の人のはやらない。やったこともない」
「あ、そっか」
 物の扱い方も思考を通じて知ってしまうのか。便利といえば便利だ。そっか、そっか。

「私は当たり前のように留めさせるあなたの方がどうかと思うけどね」
 別にワンピースを直接素肌の上に着ているわけではない。ちゃんと下にブラウスを着ている。私だってそこまで恥知らずじゃない。
「だって、ノワじゃ留められないでしょ?」
 最初はノワに頼んだけれど無理で、ブルグレも無理で、結局シリウスに留めてもらう羽目になった。
 ノワには宿の人を呼べばいいと教えてもらったけれど、言葉も通じない見ず知らずの人は抵抗がある。
「あなたのその基準もよくわからないわね」
「んー、あんまよく知らない人に触られるの嫌なんだよね。自分から触るのは平気なんだけど」

 子供の頃のトラウマだ。
 家の前で兄弟揃って遊んでいたら、いきなり知らない人に腕を掴まれて拉致られそうになったことがある。兄の必死の抵抗と弟のギャン泣きで拉致られずに済んだけれど、犯人は捕まらず、それ以来兄弟が過保護になり、他人に触れられるのが苦手になった。
 おまけに、他人からはこれでもかと好奇の目を向けられた。ただ腕を掴まれただけなのに、噂には尾ひれが山のように付いてまわり、最後には「変態に悪戯されたかわいそうな子」にされた。拉致られそうになったことより、心ない噂の方がタチが悪かった。
 あの赤の男が平気になりかけていたトラウマをこれでもかと刺激してくれたおかげで、苦手意識が嫌悪レベルを越え、恐怖すら感じるようになってしまった。

「男だったの?」
「それがわかんないんだよね、男だったのか女だったのか。晃も晴もはっきりわかんないって。たぶん男じゃないかって。そういう曖昧な印象の人だったみたい」
「気を付けるに越したことはない。裏通りに入れば人攫いや窃盗はザラにある」
 言われなくとも、常にシリウスかノワのそばにいるようにしている。私もシリウスと一緒だ。この世界の人を本当の意味で信用していない。

 髪をゆるく三つ編みにして、ヘアゴム代わりの細い革紐を少し濡らして結ぶ。しばらくすると乾いて革が締まる。最初の頃は上手く結べなくて途中で何度も髪から抜け落ちたけれど、最近ではそんなことも少なくなった。
 それが嬉しい分だけ淋しい。ここでの生活に慣れたくないと心の半分が抵抗する。



 そんな話をしていたせいか、次の街で役所に向かう道すがら、脇道からいきなり伸びてきた手に一瞬にして腕をとられ、口を塞がれ、薄暗い路地に引き込まれそうになった。
 同じく瞬く間にシリウスが相手の腕をひねり上げようとして──ぱっと離した。私が頭の中で『静電気びりびり攻撃ー!』と叫んだからだ。あれ、地味に痛いよね。

 人攫いの標的が誰でもいい場合、さすがのシリウスもぎりぎりまでわからない。
 ちなみに、私以外ならシリウスは放っておく。うっかり関わると面倒なことになりかねないからだ。私にとってシリウスは正義の味方であっても、万人にとってはただの通行人だ。こういう割り切りは軍人だと思う。

 弾かれるように私から手を離した物体をシリウスが路地に蹴り飛ばすまで、ほんの一秒ほど。素知らぬ顔で再び歩き出すまで、ほんの三秒ほど。
 わりとよくあることだ。
 人攫いは今回が初めてだけれど、何かを盗もうと手を伸ばされるまでは日常的に起きる。手が触れる前にシリウスが気付いてさり気なく躱してくれる。その前に物色しているような思考が近くにあればがっちり背後にくっついてガードしてくれる。
 今日のは目に入った瞬間に一瞬の思考で素早く動く、プロの人攫いだ。人攫いや窃盗にもプロとアマがいるらしい。で、シリウスもプロなら、相手もプロ。蹴り飛ばされた人攫いは一瞬の判断で素早く逃走した。

「大丈夫か」
 大丈夫、と答えながら、触られた口元が気持ち悪くて袖口で拭った。

 足を止めたシリウスが、腕に傷がないかを熱心に確かめている。そのシリウスが「すまない」と謝るから、シリウスのせいじゃないのになぁ、と思いながら、彼に蹴り飛ばされた人攫いの驚愕の表情を思い出して笑った。いい気味だ。

 シリウスに建物の影に引き込まれたのは、強がりを見透かされたからだろう。慰めるように抱きしめられた。口元をシリウスのシャツに付け、そこから彼の体温を感じた。シリウスがしきりに撫でてくれる腕から、恐怖の残照が消えていった。嫌なものを全て吐き出すように、深く息を吐いた。
 こういうとき、人の体温が一番落ち着く。子供の頃から当たり前にあった兄弟の体温を今でも覚えている。

『私ってそんなに金持ちそうに見えるのかなぁ』
──ああ、そうか。ついいつもの店にその服を頼んだんだ。
『もしかして高級店?』
──俺の服も作っているし、サヤの寸法もわかっているから、つい、な。
『金持ちのお嬢様に見えると』
──そういうことだな。

 言われて辺りを見渡せば、人を従えているお嬢様っぽい人と、一人で歩いている庶民っぽい人ではワンピースの質以前に形が違う。庶民は一人で着られるような形をしている。ボタンやリボンがあまりなく、布の量も少なく、頭から被るすとんとしたワンピースだ。
 なるほど! お金持ちのお嬢様は他人に着せてもらうから、背中で留めたり調整したりするようになっているのか。今初めてわかった。

──そういうことか。すまん、その違いが俺にはわからなかった。買い直すか。
『えー、別にいいよ』

 どのみち撃退できるし、どのワンピースも気に入っている。庶民に紛れて見えるよう、呪文を唱えておけばいいだけの話だ。

──あまり簡単に考えるなよ。

 建物の影から出て再び歩き出したシリウスの呆れ声に「へーい」と返す。簡単には考えていないけれど、簡単ではある。

──中には思考が読めないヤツもいるんだ。
『そうなの? 無なの?』
──いや、思考と行動が噛み合わない。なんの悪意もなく人を殺すヤツもいる。

 シリウスは思考を読んで行動するクセが付いているからか、そういう謎の行動をされると一瞬反応が遅れるらしい。

『あ、もしかして最初に怪我してたのそれ?』
──そうだ。一切の殺意なくいきなりやられた。意気込みすら感じなかった。まるで肩に付いた小さなゴミを払うかのような、そんな感じだった。

 いわゆるサイコパスだ。たぶん私も子供の頃に腕を掴まれたのはそういう類いの人なのだと思う。掴まれたときに何も思わなかった。恐怖も嫌悪も感じなかった。

 もういっそ私たち以外触れられないようにしてしまおうか。バリア的な強烈な加護ってどうすればいいのだろう。
 真剣に考えるあまりつい足元がおろそかになってしまい、躓いた瞬間シリウスに腕を掴まれた。

──サヤ、外で気を抜くな。

 そのまま手を取られ繋がれる。今さっき攫われそうになったばかりだというのに、自分の間抜けっぷりに呆れ、繋がれた手を見て心が緩む。
 どうしてこの手には安堵しかないのだろう。再び考え込みそうになり、慌てて歩くことに集中した。

 役所に到着し、これまで通りの手順で偉い人に渡りを付ける。
 偉い人との会話の途中で、シリウスの気配が変わった。目の前に座る初老男性は気付かないほどの、ほんの些細な変化。私が読み取れたのは単純に繋がっているからだ。

 こういうとき、集中しているシリウスを刺激しないよう、極力頭の中を空っぽにする。とはいっても人は考える生きものだ。結局頭の中で無意味に繰り返したのは、何度も繰り返し聞き込んだ人気バンドの曲ではなく、君が代だった。式典ごとに繰り返し歌ってきた単調でいて美しい旋律は、離れて初めて、日本そのものだと思えた。あの頃はそんなふうに思ったことなんてなかった。単純に式典の時に歌うものでしかなかった。
 頭の中でただ一心に繰り返す、アイデンティティにも繋がるメロディー。

──サヤ、人に会いに行く。
『ん、一緒に行っても平気? ノワと一緒にいた方がいい?』

 ふっ、と気を抜くように笑われた。

──アトラスの生き残りがいるらしい。

 シリウスの母国、アトラス国の崩壊はたった一晩、もしかしたら一瞬だ。一夜にして小さな国ひとつが消えた。文字通り、消えたのだ。
 アトラスは大帝国にも連合国にも属さない、いわば独立国だった。今でも小さな集落などはどちらにも属さず独立した営みを続けていたりもするけれど、アトラスほどの大きさを持つ国の独立は他に類を見ない。どちらかに属していた方が相対的に有益だからだ。

 アトラスには侵しがたい何かがあると云われていたらしい。シリウスもそれについて詳しくは知らされておらず、成人を以て知るはずだった。
 おそらく、アトラス崩壊と「侵しがたい何か」は関連しているのだろう。知っているはずの王家の者たちは、シリウスを除けば誰一人として残っていない。おそらくシリウスが生き残れたのは知らなかったからだ。当時アトラスを離れていた王家の人間は、時を同じくして忽然と姿を消している。

 シリウスが知る連合国にいる生き残りは、ポルクス隊にいるデネボラさんとエニフさんのほかに数人しかいない。
 デネボラさんとエニフさんはシリウスに就いてコルアに滞在していた、かつてのシリウスの護衛と侍女だ。二人とも「侵しがたい何か」の存在は知っていても、それが何であるかはやはり成人前だったせいで知らされていなかった。他にもいた護衛と侍女はやはり姿を消している。

 初めは失踪かと誰もが思ったらしい。けれど、調べていくうちに失踪ではなく消失であることがわかった。

 つまり、生き残りとは、何も知らない人、知らされていなかった人に限られている。

 知ってしまうとどうなるのか。私はシリウスが知ることを恐れている。

──どうにもならないだろう。もしかしたら、どれだけ真実を追い求めてもわからないままかもしれない。

 そうかもしれない。知る人が残されていない以上、真実を知ることはできないだろう。それでも、散らばる欠片を拾い集めていくうちに何かが見えてくるかもしれない。シリウスが手を伸ばし続けるのはそういうことなのだろう。