アンダーカバー / Undercover
第二章 縁
22 アトラス


 祖国(アトラス)が消えてからの数年間、シリウスは生きることに必死だった。
 それまであった国という後ろ盾をなくし、ポルクス隊長の後見を得たとはいえ微妙な立場となり、ここぞとばかりにコルアの陰険王子にいじめられ、こんちくしょー! と一念発起して連合軍所属の学校に通い、必死に学び、無事卒業。その能力を買われてポルクス隊の諜報部隊に入隊し、下積みを経てようやく独り立ちしたところで連合国総長の話が舞い込み、祖国の滅亡理由を調べることを条件に引き受け、そこから数年、任務の合間に連合主要国に足繁く出向き、滅亡理由を探ってきたらしい。

「あ、ってかさ、シリウスっていくつ?」
「年か? 二十五、もうすぐ六だ」
 思っていたよりも若い。もうちょっと上かと思った。

 ビュンビュン丸にも大帝国の飛行船に見えるよう呪文を唱えてある。大帝国の飛行船は連合国の飛行船より丸みを帯びている。連合国の飛行船がごつい軍用車なら、大帝国の飛行船は流線型のスポーツカーだ。

 大帝国は大きなひとつの国なので検問などはない。ゆるいなぁ、と思いきや、色で見分けが付くからそもそも必要ないのだ。
 次の街に入り最初に向かうのは、その街々の中心付近の広場に設けられている駐船場だ。大抵どこの街にも中央広場があり、そこには必ず駐船場が併設されている。規模の小さな町や村は今回スルーしている。
 姿を隠したノワとブルグレは、始めこそぴったりくっついていたものの、あまりに退屈すぎると離れすぎない距離での別行動となり、今日も街の探索に出掛けた。

 調査といっても、映画で見るようなスパイ的なことをするわけじゃない。
 闇に紛れて壁伝いに進んだり、どこかから縄を伝って降下したり、仲間のフリして偽情報流したり、それがバレて銃撃戦、なーんてアクション的なことを想像していたのは、脳内バレしているけれど内緒だ。

 そんな映画みたいなことは欠片もない。

 中央広場に面した役所みたいなところに行き、受付で学者を名乗り、アトラスについて調べているのだが、詳しい人を紹介してくれ、と言うと、大抵は市長みたいな偉い人のところに案内される。学者だと名乗らないと担当者レベルで終了らしい。

 シリウスは偽造身分証や、偽造旅券も持っている。そこはスパイっぽい。

 案内された先でもっともらしいことをつらつら語り、知っていることや詳しい人を教えてもらったり、別の街の長を紹介してもらったりする。
 その間、当然シリウスは思考を読んでいるわけで、交わされる言葉以上の収穫がある。
 おまけに人タラシだ。
 今もほら、朝一番に訪ねたせいでちょっと不機嫌だった相手の雰囲気が、シリウスが何かひと言相槌を打つたびに、まんざらでもなさそうに和んでいく。で、最後にはいい笑顔になるわけですよ、これが。

 これまで三つの街を巡ってきて、今日は四つ目の街。聞き込みをしている人たちは誰もがシリウスとの会話を楽しんでいるように見える。
 
 国境近くの街だから有力情報があるかと思えば、これがまるでない。
 アトラスという国名は知っていても、日常的に関わっていなかったのか、一般庶民はその消滅すら知らない人の方が多い。
 些細な情報ですら、あっという間に世界中に拡散されることが当たり前だった私には、信じられないことだ。
 ひとつの国が消えたというのに、その事実を知っているのは政治に関わる人たちくらいで、たとえ知っていても、その事実が風化しかけている。
 確かに余所の国で十年前に起こったことなんて覚えていないことの方が多い。とはいえ、一国の消失などというセンセーショナルな出来事が、僅か十数年でこれほど人の記憶から消えるものなのか、それとも情報が制限されているのか。
 どちらにしてもあまりに知らなすぎて、驚きよりもそんなことで大丈夫なのかと余計な心配が先に立つ。

『何かわかった?』
──近くの村に物知りがいるらしい。
『行ってみる?』
──そうだな、念のため行ってみるか。

 で、行ったところで収穫なしだったりする。実に地味な作業だ。
 学者が尋ねてきたことを必要以上に喜ぶ村人たちを見ていると、後ろめたさしか感じない。

「思っていた調査と違って悪かったな」
 飛行船を運転しながら笑うシリウスの背を後ろから指で突く。わかっているくせに。

 何もかもが楽しくて仕方がない。後ろめたさすら今の私にとっては生きている証のように思える。
 国境近くは近代化したキューブ型の家が多かったのに、離れるにつれ映画に出てきそうなちょっとレトロな街並みに変わった。
 石畳をただ歩いているだけでわくわくする。おまけに低空飛行する飛行船は、車に乗っているのとほぼ視点が同じで、あちこち眺めているだけでも楽しい。

 そのまま次の街に移動する。ノワとブルグレを呼べばあっという間に飛んできた。そのまま飛行船の少し先をゆっくり駆けている。姿を隠しているノワが陽炎みたいだ。

「連れてきてくれてありがと。本当は一人の方が効率よかったでしょ?」
「そんなことない。サヤのおかげでこうして白昼堂々と調べられるのは俺も楽だ」
 ということは、やっぱり夜中に忍び込んだりしていたのか。それはそれでちょっと楽しそうだ。
「資料などは大っぴらに見せてもらえないから、夜中に忍び込んで盗み見たりもする」
「あ、そっか。姿隠せば昼間でも堂々と潜り込めるのか」
「そういうことだ」
 よかった。足手まといかと思っていたから、ちゃんと役に立てそうで一安心だ。
「サヤには助けられてばかりだな」
「それは私の方だよ」

 シリウスに助け出されなければ、今もまだあの箱檻の中に閉じ込められていただろう。もしかしたらもう生きていなかったかもしれない。こうして自由でいられるのもシリウスがポルクス隊に所属していたおかげだ。そうじゃなければ、間違いなく拉致監禁搾取、最悪それプラス強制結婚ルートだ。
 おまけに今は毎日が楽しい。それもシリウスが連れ出してくれたからだ。

「サヤやノワがいなければ、大帝国での調査は無理だっただろうな。実際俺は諦めかけていたんだ」

 大帝国首都付近の調査は、仕事のついでにできたらしい。けれど、それ以外はどうしたって無理だ。ポルクス隊に所属しながらでは活動時間が限られるだろうし、隠れてこそこそは基本的に時間がかかる。連合国での調査と同じようにはいかない。
 おまけに学者の調査は敵国の協力者(スパイ)ではないかと疑われることもある。特に王都や帝都などの都市部では警戒の対象になりやすく、田舎に行くほど学者という存在が珍しいため逆に警戒が薄くなるらしい。実際に協力者がいるからこそ学者と名乗って堂々と調査ができるわけで、その潜伏している協力者が表立って活動することはない。シリウスたちはある意味捨て駒だ。

「じゃあ、私が聖女でよかったってことか」
「力があるとないとではできることが変わってくる。力は必ず自分の味方をしてくれる。俺はそう信じている」

 力があってよかったと思えるようになったのは、シリウスやノワ、ブルグレに出会ってからだ。それまでは本当に忌々しいものでしかなかった。
 この力は私の味方だろうか。まだ私にはわからない。

「力がなければ、さっきだって助けられなかった」

 小さな村の駐船場の前で、五歳くらいの女の子が思いっきり転んだ。豪快に擦り剥いた膝があまりにも痛々しくて、それなのに必死に歯を食いしばって泣かないように耐えているのがいじらしくて、つい、小さな怪我ということもあって治してしまった。その程度なら治癒の力を持つ人でも可能だ。

「だって、目の前だったし。あれは知らん顔できないよ」
 そんなことを始めればキリがないことはわかっている。わかってはいても、袖振り合うも多生の縁、情けは人のためならず、だ。

「面白い考え方だな」
「ことわざだよ。先人の知恵だね」
「ああ、あるな、そういうの」
「シリウスの国にもあった?」
「あったあった。施しはいずれ霊果を引き寄せる、とかな」
「霊果ってそんな大層なものなの?」
「普通に生きている限り、霊果どころか霊獣にまみえる機会なんてないんだよ。精霊はわりと身近にいるが、あんなふうに触れあえるものでもない」
「そっか。なんか、普通にいるからすごさがわからない」

 ブルグレがしたり顔で飛行船のフロントガラスにべったり張り付いている。それをドヤ顔と言うんだ。前が見にくい。邪魔だ。

「全くありがたみがないんだけど」
「まあな。実態なんてそんなもんだ」
「あれ? ノワは?」
「飛び疲れたらしく、タラップで昼寝している」
 ある意味すごい。

 ノワはゆっくり飛ぶのが苦手だ。力を抑えながらゆっくり歩くように飛ぶことは、走るように飛ぶよりも疲れるらしい。だからといって、飛行中のほっそいタラップの上で寝るのはどうかと思う。

 街並みがまた賑やかさを取り戻しつつある。きっともうすぐ中央広場だ。

「先に飯にするか。もう昼過ぎだろう。サヤ、何食べたい?」
「えー……あの、パンに具が挟まったヤツ。砦でもよく出た」
「ああ、サンドイッチか」
 なんだ。サンドイッチで通じないかもしれないと思って説明したのに。どんな言葉が変換されているのだろう。

 サンドイッチといっても、薄切りの食パンに具を挟んだものではなく、小振りのフランスパンの片面にやわらかめのビーフジャーキーみたいな肉と、もう片面にしょっぱめのクリームチーズみたいなものを塗って焼き、その間に生野菜を挟んだものだ。これがなかなかおいしい。いつもクリーム多め、肉少なめにしてもらっていた。

「広場に屋台が出ているだろう。少し寒いだろうが、店じゃなく外で食べるか?」
「いいね」

 駐船場に飛行船を止め、屋台で買ったサンドイッチを陽だまりのベンチに座って食べる。
 聞こえてくる喧噪は自分には関わりのないもので、目の前を歩く人々は座っている私たちを視界に入れてもそのまま素通りしていく。かつての日常が戻って来たかのようで、少しだけ淋しい気持ちになった。
 一緒に買ってくれた瓶詰めのフルーツジュースは、少し酸味が強い。ボトル型ではなくキャニスター型の瓶の中に果汁百パーセントのジュースが入っている。ブルグレが顔をつっこんで、お行儀悪く飲んでいる。

「先に宿を取っておくか」

 口の周りをジュースで汚したブルグレが顔を上げた。きゅきゅーん、と鳴くと、わらわらと羽リスたちが集まってくる。
「あの広小路の奥にある宿がいいようじゃ」
 羽リスたちに評判のいい宿をブルグレが聞き出し教えてくれる。ちなみにサンドイッチを買った屋台も羽リスたちに教えてもらった。

 羽リスたちは優秀なナビゲーターだ。ブルグレからジュースを取り上げ、みんなの前に飲みやすいよう斜めに置くと、お行儀よく順番に飲み始めた。いつも独り占めしようとする誰かさんとは大違いだ。
 その誰かさんはノワのおこぼれをもらおうとして猫パンチをお見舞いされている。すかさず自分の瓶の蓋を閉めた。見ればシリウスもだ。おっさん声で喚くな。

「大体ブルグレは食べ過ぎなんだよ。最近お腹がぽっこりしてきたでしょ。完全におっさん化してるから」
「おっさんは燃費が悪いんじゃ!」
 うわぁ。おっさんの開き直りって最低。燃費がシリウスには通じなかったのか、ノワが簡単に説明している。

 宿ではいつも部屋をふたつ取る。シングルにはシリウスが、ツインは私とノワとブルグレが使う。ノワは長く黒猫サイズでいると疲れるらしく、ベッドひとつを占領する。
 砦にいるときも私がいない昼間は部屋で羽ヒョウサイズでまったりしていた。今は日中黒猫サイズになっていることが多いからか、夜くらいは羽ヒョウサイズに戻りたいらしい。
 ツインの部屋にシャワーが付くものの、シングルには付かず、砦にもあったような共用のシャワーを使うらしい。女の人はどうするのかと思えば、そもそも女性の一人旅が一般的ではなく、大抵は誰かと一緒に泊まる。つまりシングルはほぼ男性用だ。

 で、いつかこういう事態になるとは思っていた。

「二人部屋一室しか空きがないらしい。別の宿に行くか?」
「いいよ。シリウスが嫌じゃなければ一緒で。ってかノワは平気? 私と一緒でもいい?」
「仕方ないでしょ。ここ以外いい宿ないみたいだし」
 しばらく顔をしかめていたシリウスは、諦めたように小さく息を吐いて、部屋をひとつ取った。

 ここは比較的小さな街だ。宿はいくつかあるけれど、羽リスのお勧め以外は大抵何か問題がある。部屋が清潔じゃないとか、ご飯がおいしくないとか、無駄に高いとか、ガラが悪いとか。そのうちどれかひとつを我慢するくらいなら、同じ部屋の方が断然いい。トイレさえ我慢すれば。

 外に出てわかる、砦は最新設備だったと。

 なにせトイレがおまるだ。小さな深めの蓋付き洗面器みたいなものに用を足すと、蓋を閉めて、宿にひとつだけある砦にもあった水洗ならぬ薬洗トイレに捨てに行かなければならない。本気で嫌だ。
 大きな街なら砦と同じトイレが完備されている宿もあるけれど、高級ホテル並みにお高いらしい。一般庶民が泊まる宿は、薬洗トイレをトイレとしてではなく宿全体の汚物処理に使っている。

──サヤ、変な我慢するなよ。俺は部屋を出ているから。

 トイレ事情の思考を読まれるとは……。でもありがたい。こういうことをわざわざ口にしなくて済むのは正直助かる。

──サヤはなんというか、割り切りがいいな。
『そう? あー、ほら、うちって家族の過半数が男だったから、生理現象に関しては恥ずかしがっても仕方がないってわりと早いうちに諦めがついた』

 なにせ朝は、誰かの残り香の中で息を止めながら用を足すことなんてザラだ。
 ただ、この年でのおまる使用と、自分の汚物を持ち運ぶのが耐え難いだけだ。

──女性客は自分で運ばないものだ。
『え? だったら誰が運ぶの?』
──お付きや、そのままにして従業員に運んでもらうかだな。

 なにそれ。他人に自分の汚物を運ばせるなんてもっと嫌だ。
 そもそも旅行できるのは富裕層に限られているので、大抵はメイドみたいな人たちが同行するらしい。

「わしが運んでやるか?」
 ブルグレからありがたくない提案を頂戴した。完全に好意から言ってくれているのがわかるだけにかえって微妙だ。
「ありがと、でも自分で運ぶよ」
「遠慮せんでもいいぞ」
「いや、ホントありがと。ここではそれが普通ならそのうち慣れるよ」

 チェックインを先に済ませ、荷物を預けて調査に向かう。ここでもめぼしい収穫はなかった。

 大抵の宿は一泊二食付きで、これまで知るホテルと似たようなシステムだ。ただし、ベッドの大きさはシングルではなくダブル。そもそもベッドはダブルサイズが一番小さいらしい。シングルサイズは子供用だ。
 食事を終え部屋に戻る。

「ベッドふたつくっつけたら、ノワが大きくなってものびのび寝られるんじゃない?」
「誰が真ん中に寝るのよ。私嫌よ、絶対寝にくいもの」
「えーじゃあ、私が寝るよ。なるべくぴったりくっつければ平気だよね」
「わしが真ん中でもいいぞ」

 結局、ブルグレを抜いた三人でくじ引きすることにした。シリウスの微妙そうな顔とブルグレが自分も混ぜろとうるさいけれど、ノワと私は知らん顔してくじを引いた。

「ごめん、シリウス真ん中で平気? 代わろうか?」
「いや、真ん中でもいいんだが……サヤは本当にいいのか? 俺なら一晩くらい寝なくても平気だぞ」
 二人きりなら色々考えるかもしれないけれど、雑魚寝なら特に問題はない。