アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり01 箱檻
ずきん、ずきん、と手のひらが痛みを刻む。小さな四つの丸窓から仄かな光が落ちてくる。
今日もまた、眠れないことを確かめるように瞼を閉じ、小さく息を吐いたその時、どん、と何かがぶつかるような音と同時に箱檻が少しだけ揺れた。
かつてないことに浮かぶのは、不安や恐怖よりも平べったい好奇心。
音を立てないよう静かに窓に近付き、小さくぽこんと膨らんだ丸窓をそーっと開いた。こそーっと外を覗き見れば、暗闇の中、少し離れた位置にある外灯の灯りにぼんやりと浮かぶ全身黒尽くめの長身。箱檻に背を預け、闇に溶け込もうとして失敗しているのは、押さえている片腕から血が滴っているせいだ。
その血だけが光を跳ね返し、暗闇の中にくっきりと浮かんでいた。
珍しい色──そう思いながら左手に巻いていたハンカチを外す。
二十センチほどの内開きの小窓から手を出しながら、手のひらにぐっと力を入れて握り込む。慣れつつある鋭い痛みとともに血の珠がひとつ傷口から滲み出てきた。
さて、どうやって伝えよう。
そう思っていた矢先、耳の奥で声が響いた。
──いいのか?
意味のわかる言葉が聞こえてきたことに心底驚く。と同時に、耳からではなくその奥、頭に直接響く低い声に必死さが滲んでいることも伝わってきた。
ぐっと前のめりになって小窓からできるだけ腕を出す。
手首を掴んだ手が血に濡れている。ぬるっとした感触以上に驚いたのは、掴む力の優しさだった。手のひらに浮かぶ血の珠ごと傷付いた腕にそっと優しく押しつけられる。
まるで気遣うような力加減に驚いてしまう。
心臓を締めつける苦しさは傷が癒えていく証だ。うう、と小さく呻きをもらすほどの苦しさに、傷が思っていたよりも深かったことを悟る。きっとそのままにしていたら腕を切断するほどに……。
──どういうことだ? なぜ光の聖女がこのようなところに……。
響いてきた声にどう答えればいいのか悩む。誤解だと伝えるにはどうしたらいいか。
──誤解?
「えっ?」
──ああ、意思は届いている。
考えていることが伝わっている。驚きながらも、そんな力を持つ人か術があるのだろうと当たりを付ける。何より、話せる人がいたことが嬉しくて仕方がない。
さっきの声が思ったよりも辺りに響いた。頭の中で会話するように話しかけてみる。これまで見張りを見たことはない。だからといって見張りがいないとも限らない。きっと見付からない方がいい。
『私は聖女ではありません。たしか、厄災の乙女だったかな』
頭に浮かぶのは忘れもしない、「あんたはね、厄災の乙女。私はね、祝福の乙女なの」と声高に人を指差すドヤ顔。
そもそも、厄災と乙女という単語の組み合わせはナンセンスだ。厄災の悪女ならまあ納得もする。
──厄災? そんなはずないだろう。現に私の腕の傷は有り得ない勢いで治癒されている。
『それは、私が厄災を肩代わりしているからだと思います』
その瞬間、驚いたような気配がして、彼は傷口に触れる私の手を離そうとした。そんな、以前は当たり前だと思っていた思いやりに鼻の奥がつきんと痛む。彼の傷から手を離さないよう、傷付いた腕をやんわりと掴んだ。
『この国の厄災をこの身に移し取るのが私の使命だそうです。だから、癒やしの力ではありません』
頭に響いていた声が途絶えた。
まあそうだろう、と溜め息を吐きたくなる。それでも手首を掴む手が離れることはない。傷が治るまでの我慢だとでも言うのだろう。ここはそんな人たちばっかりだ。
やさぐれていると、手首から離れた手のひらが労るかのように傷を掴む左手の甲に重ねられた。
──いや、違うんだ。少し考え事をしていた。悪いが、もう少し力を分けてもらえないだろうか。
再び聞こえてきた声に驚く。厄災の乙女と知ってなお、それまでと変わらず接してくれる人はいなかった。ましてや、お願いなどされたこともない。
『ほかにも意思を伝えたり読めたりする人はいるんですか?』
──いや、私の知る限りはいない。
まさか答えが返ってくるとは思わなかった。さっきから驚かされてばかりだ。
万が一こんな風に思考が読まれていたならば、この先気を付けなければならない。
私に真偽を確かめる術はない。それなのに、彼が嘘を吐いているとはどうしても思えなかった。触れている手は変わらず優しい。それだけでも信じられる気がした。
──名を、教えてもらえないだろうか。私はシリウス。
今度こそ涙がこみ上げた。あの一等星と同じ名前。苦しさが少しずつ薄れていく。胸が別の意味で騒ぐ。なんとも言い難い感情が一気にこみ上げ喉を塞ぎ、脈打つ心臓が別の苦しさに喘ぎ始める。
『さやか。さやかといいます』
不意に腕に触れていた手が離された。まだ傷は完治していない。
──ここを気に掛けている者が近付いて来る。
ああ、言われてみればそろそろ夜が明ける。エサの時間だ。ここに人がいれば容赦なく排除されるだろう。
丸窓から出していた手を急いで引っ込める。
『行ってください。最後まで治せなくてごめんなさい。お元気で』
──ちか……ち…かな……。
窓を閉めたせいか、シリウスが離れたせいか、頭に響く声が急速に霞んでいく。最後に何かがふつりと途切れたような感覚がかすかにした。
箱檻の扉が開く。
目が覚めるような赤を持つ男に無言で差し出される小さな塊。きっとこの人は私のことを自分と同じ人だとは思っていないのだろう。
彼の血がついたままの左手をさりげなく背に隠し、右手で受け取ると、何もない檻の中を真っ赤な瞳で素早く見渡し、無言のまま出て行った。
壁も床も白銀に艶めく長方形の箱の中には私の存在以外何もない。前方側面にある半球状の四つの小窓は、側面の上下左右にひとつずつある。後方には長方形の扉がひとつ。
おそらくこの箱は乗り物なのだろう。小さな窓から見える魚眼レンズのように歪んだ景色から、宙に浮いたり前に進んだりしているのがわかる。
渡された小さな塊は味のしないショートブレッドのようなものだ。もそもそと噛み砕き、なんとか飲み込む。水すら与えられない。水がほしいとどうやって伝えればいいのかもわからない。
言葉が通じない。ここは今までいた世界とは違う。
どれほど叫んでも私の言葉は通じなかった。相手の言葉もわからないまま。
血が足りなくなるのが先か、脱水症状で乾涸らびるのが先か。
最初の頃は泣いてばかりいた。泣くことも嘆くこともその先に希望があるからできることだと知ったのは、生きることをやめたときだ。
生きることをやめた瞬間、自分でも驚くほど気が楽になった。死ぬことでしかここから逃れられないと悟った瞬間、笑いさえ出た。
それなのに、あんなふうに話し掛けられたら、気遣われたら、名前なんて訊かれたら──。
期待しちゃうじゃないか。死にたくないって思っちゃうじゃないか。生きたいって泣きたくなるじゃないか。助けてって縋りたくなるじゃないか。殺してくれって頼みたくなるじゃないか。
「シリウスのバカ」
思わず呟いた声に滲む懇願があまりに情けなくて泣けてきた。
「痛いよバカ。乙女って言うならもっと優しく扱え」
言葉が通じないのをいいことに、手首を掴む男に思いっきり文句を言う。ただし、感情を滲ませないようフラットな声で。
私の腕を掴む男が軽く舌打ちをしながら、お城みたいなバカでかい家に住んでいる人に話しかけている。舌打ちしたいのはこっちの方だ。最近ではほんの少しの抵抗ですら息が上がる。体力がなくなってきている証拠だ。
男の言葉にか、呪いのように聞こえればいいと思っている私の声にか、家と同じでバカでかいベッドに寝ながら血の珠が浮かぶ左手のひらを押しつけられた男の人が、痛みとは別の恐怖に全身を強張らせた。
胸を締めつける苦しみの中、せっかく助けるのだからせめて笑ってほしいと思う。
傷が癒えていくうちに相手の顔から強張りが解れていくのがわかる。最後にほっと息を吐くのは誰しも同じようで、安堵に緩んだ頬がほんの少しだけ胸の苦しみを和らげてくれる。
「私の分も長生きしてね」
いつからだろう、そんなセリフが口を衝くようになったのは。きっとあれだ、生きることをやめて開き直ってからだ。
せっかく助けたのだから、せめて私よりは長生きしてほしい。この苦しみが無駄になるなんて絶対に嫌だ。
右手で心臓の上を強く押さえる。苦しさに喘いだところで助けてはくれる人はいない。
左手を力一杯掴まれたまま、容赦なく引き摺られて箱檻に放り込まれる。そして、次の人のところに移動する。
私が助けているのはその服や家の豪華さからおそらく地位の高い人ばかりだ。
ドヤ顔の彼女との対面後、病院のような施設にいた負傷兵らしき男の人たちに血の珠が押しつけられた。
今にして思えば、おそらく実験だったのだろう。
訳がわからないまま引き摺られるように連れて行かれ、いきなり左手を押さえつけられたかと思ったら、一切の躊躇もなく手のひらの真ん中にレーザーソードみたいな光る剣が突き立てられた。痛みと驚きとショックに泣き叫んでも誰も助けてくれなかった。
欠損した手足が元通りになることはない。死を思うほどに心臓を締めつける苦しさと引き替えに、内臓がはみ出ていた人の傷が治っていく奇跡を見た。
無くなってしまったものを元通りにすることはできない。皮一枚でも繋がっていれば、かすかにでも息があれば、治癒することができる。
のたうち回るほどの苦しさと引き替えに、次々と自分が引き起こす奇跡に呆然とした。
それ以降、何もない檻のような大きな箱に入れられ、行く先々で手のひらの傷を開かれ、左手から滲み出る血の珠を知らない人の身体に押しつけてきた。
左手の傷が生きているうちに癒えることはないだろう。
どういうわけか、滲み出る血はまるで宇宙船の中に浮かぶ水のように、手のひらの上に珠となって浮かぶ。
お風呂にも入っていないのに身体が汚れる気配はない。トイレに行きたいと思うことすらない。どうやらこの箱檻は特殊な何かなのだろう。
この箱の中に入れられると、外でかいていた汗や涙が蒸発するように消えていく。自分の血で汚れたハンカチから、今染み出したばかりの汚れ以外が消えていく。
魔法なのか科学なのか、よくわからない術のような何かを使う人がいる。そのせいで逃げることもできない。たとえ逃げたところで言葉も通じず、明らかに見た目が違う私はすぐに見付かってしまう。
ここの人たちは派手だ。髪や瞳の色が真っ赤からオレンジ、黄色までを見たことがある。赤い髪の人は赤い瞳、オレンジの髪の人はオレンジの瞳といった具合に、髪と瞳の色が同じで、金髪碧眼など異なる色を持つ人はいない。
黒い髪と瞳は私とドヤ顔の彼女以外見たことがない。どういうわけかあの日、彼女の髪はきれいなストロベリーブロンドに、目には気持ち悪いとすら思えるピンクのカラコンが入っていた。
朝夕に渡されるショートブレッドをひと囓りし、下の方の丸窓を開けて細かく砕きながら外に撒く。すると、真白な翼が生えたリスみたいな薄い灰色の生きものたちが次々と飛んできては、砕けたショートブレッドを必死に頬に詰めていく。
ここでの私の癒やしだ。
「あーほらまた、ひとりで欲張りすぎ。みんなにも分けてあげなよ」
どういうわけか、この灰色の羽リスたちには言葉が通じるらしい。おまけに、どうも一匹が味を占めてこの箱檻についてきているようで、最初に飛んでくるのは必ずほんの少し青みがかった灰色の羽リスだ。それに続くようにほかの羽リスたちも飛んでくる。
渋々といった感じで場を譲ったブルグレがぱたぱたと飛んできて、窓枠にぶら下がる。驚かさないようゆっくりと左の人差し指を差し出すとそこに頬ずりしてくれる。ショートブレッドを詰め込んだぱんぱんの頬が指先に触れると、ほんの少しだけ手のひらの痛みが引いていくような気がする。
もっと仲良くなったら、手乗りになるかな。
淡い期待は生きることを思い起こさせる。
「怪我したらすぐに来るんだよ。ここに来れないほどの怪我はしないでね」
話し掛けると、きゅっ、と鳴く。それが返事をしているように思えてならない。
初めは、渡されたショートブレッドなど食べる気もしなかった。そのままにしていると次に扉が開けられたときに容赦なく口の中に押し込まれるので、外に捨てることにした。それも見付かってしまったので、細かく砕きながら捨てるようになった。そのうち羽リスたちが寄ってくるようになり、必死に頬に詰め込んでいるのを見て思わず一口囓ってみたら、びっくりするくらい味がなくてまずかった。なんとなくそれ以来、ひと口だけでも食べるようにしている。
こんなかわいい生きものがいる世界をもっと見てみたい。そう思う以上にこの境遇が耐えられない。もうどれほどこの檻の中にいるのか。
朝が来て夜が来るのは元の世界と同じだ。
人は髪と瞳の色は違えど同じ姿をしている。この箱檻や建物、布などの素材が何かはわからないものの、やはり元の世界と似ている。
明らかに違うのは、ドヤ顔の彼女が言っていた「力」があることだろう。
この箱のような乗り物がタイヤもないのに前に進むのも、プロペラや羽もないのに空に浮かぶのも、きっとその力か術が関係しているのだろう。誰も説明してくれないから勝手にそう思っている。
「今日も毒を持ってきてくれなかったのかぁ」
きゅうん、とせつなげに鳴かれると少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「でもね、助けると思って、どこかで私くらいの大きさの生きものが即死できるほどの毒を見付けたら持ってきて。あーでも、苦しむだけで死ねないのはやめてほしいかなぁ」
笑いながらのわがままに、きゅっきゅ、と抗議らしき声が上がる。
「死ぬまで痛くて苦しいのが続くなんて嫌でしょ?」
ぎゅん、と渋い声が上がる。きっと知っているのだろう、私が何をされているか。
「そうだ、あのね、話せる人がいたの。久しぶりに会話してちょっと嬉しかったんだよね」
それに、片方の前足が掴んでいた窓枠から外れ、指先がぱちぱち叩かれる。もしかして嫉妬? 自分がいるのにって?
「でも会話ができるって貴重でしょ?」
小さなブルグレとは、なんとなく意思の疎通はできても、言葉は交わせない。
会話することがあまりに久しぶりすぎてずっと心臓が騒いだままだ。だからなのか、いつもより左手が痛い。
ぷいっとそっぽを向いたまま飛んでいったブルグレの膨らんだ頬がなんだかむくれているように見えて思わず笑った。