アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり13 学習
砦での生活にも徐々に慣れつつある今日この頃、執務室でのお勉強タイムをどうやって逃げだそうかと、そればかり考えていたりします。ごめんなさい。
ポルクス隊長の執務室は再びパネルの壁で囲われ、司令室とは隔離されている。作戦会議用の大きめのテーブルが最近ではすっかり私に占拠され、そこでまたもやシリウスからこの世界についてを色々教わっている。
なにやら真面目に勉強でもしているのかのようでいて、その実、お子様向けの絵本や図鑑を読み聞かされているだけだ。
正直、話を聞けば聞くほど、描かれたものを見れば見るほど、元の世界に近い。学び知ることがこんなにも苦痛だとは思わなかった。
──そんなに似てるのか?
「んー、似てるっていうか、近いっていうか、完全に重ならない気持ち悪さがあるっていうか」
似ているようで似ていない、近いようでいて遠い、そっくりなようでいて明らかに別人、そんな気持ち悪さがある。教われば教わるほど気持ち悪さが積み重なって、結構な重量でのしかかってくる。いっそ上から押し潰してみればスッキリするのかもしれない。
手にしているのは鉛筆に似たペンだ。インクなのに芯になっている。紙はすごく薄いのに破れることなく丈夫で、そこに書き込まれた日本語をシリウスばかりかポルクス隊長も興味深そうに眺めている。
──少し休憩しよう。
休憩ばかりで申し訳なくなる。シリウスは私が来てからというもの、私に付きっきりで自分の仕事ができていない。
──サヤの護衛が俺の任務だ。
「そうだけど……」
私の護衛はシリウスとポルクス隊長、レグルス隊長の三人が交代で行うことになっている。とはいえ、基本的には言葉が通じるシリウスが常に一緒にいることになる。彼にしか言葉が通じないから仕方がないとはいえ、もうひと月以上も働き詰めだ。
──護衛任務なんてそんなもんだよ。サヤの場合は俺に気を遣ってくれる分、任務という気もしない。今は大帝国も大人しいから平和だ。
そう言ってはくれるものの、それに甘えていてはいけない気がする。シリウスのそばにいるとどうしても彼に甘えてしまう。もう今までのように守ってくれる家族はいない。一人で生きて行くにはちゃんと自立しなければならない。
言葉が通じない以上、働くことは簡単じゃない。かといって自給自足も簡単じゃない。実際は家と畑とそれを育てる知識がなければ無理だ。一年を通じて飢えないだけの収穫など、見よう見まねでできることじゃない。
結局、血の珠を使ってお金を稼ぐしかない。力を加減して治癒の力を持っているフリはできないものか。
──無理だな。サヤはいざとなったら全力で治癒してしまう。
そうかもしれない。治せるのに治さないなんて、ちょっとどうかと思うし。
「一人で生きていくって簡単じゃないね」
それに曖昧な笑みで応えたシリウスは何を考えているのだろう。私の思考は筒抜けでも、シリウスの思考が伝わってくることはない。なんとなく機嫌がいい悪いくらいはわかるものの、話しかけられない限り頭に声も響かない。
──サヤは自分の考えが読まれること、嫌じゃないか?
「んーどうだろう。普通に考えると嫌かも」
その瞬間、シリウスの表情が一瞬抜け落ちたような気がした。
「でも、シリウスならいいかなって思う」
理由はない。きっと最初に頭に響いた声が自分で思うよりずっとずっと深いところ、本能的な部分に届いたのだと思う。名前を訊いてくれたことも、助け出してくれたことも、自分が思うよりずっと深いところに刻まれた。
だからといって、思考を読まれていいかといえば、それは理由にならない気がする。シリウスなら、と思う理由はわからない。
「よくわかんないけど、まあ、シリウスならいいかなって思う。ノワやブルグレにだって私の思考は伝わってるし」
もしかして、思考が伝わっているシリウスなら私自身がよくわからない理由もわかるのかもしれない。
「わかる?」
──嫌われていないようで安心した。
「嫌うわけないじゃん」
──サヤは、なんというか単純だな。
「それ失礼だから」
家族にもよく言われていた。単純すぎてわかりやすいと。私自身は色々複雑に考えているつもりなのに、端からは単純に見えるらしい。
──いつか、サヤの家族のことを聞かせてくれ。
思考が読めるシリウスには聞かせなくても伝わるだろうに、あえてそう言ってくれる。だからシリウスならいいやと思える。今はまだ話せないこともちゃんとわかってくれる。
思考を読まれる不快感より、私のことをわかってくれる安心感の方が強い。
「私の思考って負担じゃない?」
──いや。俺もな、サヤのことがわかるのは俺しかいないという、なんっていうかな、ちょっとした優越感みたいなものがないわけでもないんだ。
珍しく照れくさそうな顔で、ほんの少し目を泳がせながら言われた。ついそのすっと通った鼻筋をなぞりたくなった。
「そんなもん?」
──そんなもんだよ。頼られて嬉しい気持ちが強い。
「そっか。それならよかったって思うけど……頼りすぎてたら教えて。できるだけ負担にはなりたくないから」
負担になってもう面倒だと嫌われたくない。
──負担になることはないと思うが……まあ、そのときはちゃんと言うよ。
「そうして。嫌になる前に教えて、って、あ、そっか、こういうのが負担か」
思わず呟けば、ぷっと吹き出すように笑われる。同じテーブルで書類を見ていたポルクス隊長がちらっと一瞬視線だけを寄越した。
──あまり考えすぎるな。
「そうする」
この世界の「今」を知ることが再開される。やっぱり苦痛だ。知れば知るほどいつかこの世界の方を普通だと思ってしまいそうで落ち着かない気持ちになる。知らなければならないことだらけなのに、できれば知りたくないと思ってしまう。
私が知りたいのはいつだって身の周りのほんの些細なことばかりだ。自分で抱えきれないほど大きな世界のことなんて正直どうでもいい。
今までだって身の回りで起きる些細な出来事の方が重要で、日本で起きている出来事や、世界で起きているさらに大きな出来事なんて、直接自分に関わってこない限りどうでもよかった。間接的に関わってくることすら、しょうがないとどこかで諦めながら受け入れてきた。いざというときは誰かが判断してくれるような気がして、無責任に流されてきた。
ゆっくりと過ぎていく日々。ここが最前線であることを忘れてしまいそうだ。
どうやら大帝国では厄災の乙女の大捜索が行われているらしい。しかもだ、いつの間にか厄災の乙女が霊獣を唆したことになっており、厄災の乙女から霊獣を救うべし! みたいなことになっているらしい。とことん私は悪者だ。
おまけに、ここ最近争いがないせいか国境に配備されている大帝国の兵が燻っているようで、ちょいちょいちょっかいを出してくる。大事にはならなくとも負傷者が絶えない。挑発行為にのるのも馬鹿馬鹿しいと相手にはしていないものの、怪我人が出るのは腹が立つ。何をしているかといえば、おもちゃの銃のようなもので石を撃ってくるらしい。弾ではなく石なのが意地の悪い子供の言い訳みたいで頭にくる。
おかげで私の左手が大活躍だ。苦しむことはほとんどないので、ほいほい簡単に治していたら、みんなに心配されてしまった。治癒は命を削る行為なので、軽傷であっても数人治すとぐったりするらしい。
ここにいる人たちは優秀だからか、特に諜報員の人たちは言葉が通じなくても大まかな意思疎通ができる。私の表情や仕草から意思を読み取ってくれる。自分が単純かつ顔に出やすいタイプでよかったと、ちょっと間違った方向に感謝した。
で、ついでだとポルクス隊長の指示で迷彩で姿を隠すことの訓練をすることになった。これについてはポルクス隊だけの秘密になる。
巡回に行く一人一人に「迷彩っぽくなーあーれー」と唱えていく。これが本気で恥ずかしい。もう少しマシな言い方はないのかと色々変えてみたものの、最初に唱えた言葉でインプットされたのか、それ以外だとイマイチ上手くいかない。
ついでのついでに低空飛行用の飛行船にも同じように唱えてみたら、これまたそこそこ隠れる乗り物に変わった。砦の人たち大喜び。やいのやいのと楽しそうに騒いでいる。
「この飛行船って、なんで浮かぶの?」
──この上部に膨らむ合金が空気に含まれる物質と結合することで浮かぶんだ。膨らみ具合によって高度が変わる。低空飛行用は最初からあまり膨らまないようにできている。
なんだそれ。そんな合金があるのか。空気中の物質ってなんだろう。どんな原理だ?
迷彩飛行船が前庭をぐるぐる回っている。見えそうで見えない、目を細めたくなる景色に、みんなが歓声を上げている。楽しそうで何より。
──詳しく知りたいか? 俺もそのへんはあまり詳しくないんだ。
「詳しいこと聞いてもわからないと思う。そういうのあんまり得意じゃなかったし」
そもそも聖女フィルターでもあるのか、固有名詞以外の未知の知識が頭に入ってこない。そういう系は晃が好きそうだ。
──コウ?
「ああ、兄。晃っていうの。弟は晴」
思い浮かべた漢字に不可解な顔をされる。
──サヤカの複雑な文字もあるのか?
「あるよ。明ってひと文字。戸籍上はひらがなのさやかだけどね。本当はこの字なんだって」
──ああ、最初に伝わってきたな、それ。
「そうなの?」
──ああ、サヤカという音と一緒に伝わってきた。どこにも書くなよ。
万が一署名が必要な場合は、ローマ字で書くことにしている。ひとつの言葉を表すのに幾通りもの文字が存在することに驚かれた。
迷彩作戦は上手くいった。相手に見付かることなく見回りを終えたらしい。司令塔から見ても、どこにいるかわからなかったらしく、そこは改良が必要だ。いざという時に味方の攻撃に巻き込まれかねない。
ここにはGPSなどの技術がない。信号を発する無線はあっても、声が聞こえるわけじゃない。
私の思考を読んでいるシリウスが軍事に役立ちそうなことを詳しく訊いてくることはない。今の世界を大きく変えるようなことをしてはいけない、とノワにきつく言われているからだ。ポルクス隊長もそれに同意している。
だとしたら、「祝福の乙女」はどうしているのかが心配になる。ノワが言うには、彼女は与えることができないせいで、知識を伝えることもできないらしい。念のためにブルグレの仲間たちが見張っている。
それが逆に、乙女の周りに精霊がいる! と評判になっているらしく、ブルグレが苦々しい声でノワに報告しているのを聞いた。
そしてついに、こちらの巡回がなくなったと勘違いした大帝国側が、何を思ったのか斥候を放ってきた。当然、迷彩で巡回中のポルクス隊に撃沈されている。それを何度か繰り返したのち、連合軍は妖霊を手懐けた! と大帝国側では言い出しているらしい。
「妖霊って何?」
「その言葉通りよ。そうね、悪魔とか化け物とか妖怪とか?」
「そんなのいるの?」
「霊獣がいるからねぇ」
「いるんだ!」
ノワがはっきりしない。いるのかいないのか。
執務室でのお勉強タイムはお昼前に終わる。シリウスを解放したくて、夕食前まではノワと一緒にいることを条件に自由に過ごすことにしている。部屋の掃除をしたり、洗濯をしたり。
掃除は基本的にモップと細長いデッキブラシのようなホウキだ。私の部屋は最初にモップでこれでもかと磨き、さらに雑巾掛けまでして今では土足厳禁だ。汚れとは無縁そうなノワとブルグレにも念のため足をきれいにしてから部屋に入るよう言ってある。
洗濯はドラム式っぽい洗濯機が何台も並んでいるランドリールームがある。放り込んでおけば勝手に洗濯してくれるのは今までと同じだ。ちなみに洗剤ではなく汚れを吸着してくれる軽石みたいなものを一緒に放り込む。
「ノワみたいなのがいるってこと?」
「私みたい……っていうかね」
「なんなの? ノワが善なら妖霊は悪?」
洗濯物を干しながら訊けば、黒猫ノワが首を傾げた。
「私って善なの?」
「そんなの知らないよ。私的には普通。善でも悪でもない、ノワはノワ」
優しいときもあれば意地悪なときもある。善なら常に優しくて気持ち悪いだろうし、悪なら常に意地悪でむかつくだろうし。ノワはバランスがいいと思う。猫っぽい。ブルグレはどっちかといえば犬っぽい。
「あ? あれ? まさか、妖霊ってノワのこと?」
「昔ね、ちょっとやらかしたの」
やらかしたって……あまり言いたくなさそうだったので、それ以上は訊かなかった。ノワにはきっと言いたくない過去があるのだろう。長く生きていれば色々ありそうだ。
「あなたってわりと寛容よね」
「そうかなぁ。そういうのってうっかり聞くと大抵面倒くさいことになるから聞かないだけ」
「ことなかれ主義ってやつ?」
「そうそう。知らなきゃいけないことって、どう足掻いたって知ることになるんだ、ってのがうちの兄の持論。弟が知りたがりでさぁ、しつこく何度も兄に訊くからいっつも最後には徹底的に言い負かされてたよ。根掘り葉掘り訊かれるのってはっきり言って鬱陶しいし」
思い出したらイラッとした。洗濯物を思いっきり振ってシワを伸ばす。
「あんた……また下着も一緒に放り込んで。もう少し危機感持ちなさいよ」
「えー……それだけ手洗いするの面倒くさいもん」
「だったら、洗濯機の前で見張ってなさいよ」
「えー……」
「えーじゃない。ここはね、あなたが思っているよりも男女の違いがはっきりしているの。諜報の女の人たちが特殊なのよ。あの子たち、任務となればターゲットの男を誑かしたりもするから」
「うそ!」
「本当。あなたにいつもシリウスがくっついていたり、私がくっついている意味をもっと考えなさいよ」
そんなものかと聞き流そうとしたら、ノワが頭突きしてきた。
「あなた、ここでは一応成人しているんでしょ。その意味よーく考えなさいよ。なんで私がこんなこと言わなきゃならないわけ?」
ふくらはぎに猫パンチをお見舞いされた。地味にぴりっと痛い。
うっかりぼんやりしている間に誰かの嫁にされてしまうってことか。拉致監禁搾取強姦。最低だ。聖女の肩書きが重すぎる。
「やっぱりさ、誰も聖女ってこと知らない場所で生きた方がいいのかな」
「知られるから。間違いなくあんたは知られるから」
なにその決めつけ。じとっと睨んだら、ぎろっと睨み返された。毛を逆立てなくてもいいのに。傷付くわ。