アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり14 亡命者
「ジェーム!」
「ジェーム」
「ジェーム!」
「ジェーム」
「ジェーム?」
「ジェーム」
何かが違う。
いつの間にか私の定位置になった食堂のテーブルには、毎日欠かすことなく小さな花瓶に一輪のジェームが咲いている。一片の装飾もない実用重視の砦の中で、私のために施されるささやかな彩りだ。
夕食時のほのかな明かりに浮かび上がる花の影を見ながらシリウスとジェームの発音を比べている。
「んー……。なんだろう? 何かが違う」
シリウスの口から聞こえる音と、脳内に響く声、そのどちらも「ジェーム」と聞こえるのに、私の音とは何かが違う。たぶんだけれど、音そのものが違うような気がする。たとえるなら、同じ音を奏でているのに、ピアノとバイオリンくらいの違いがある。ここの人たちの言葉がバイオリンの音色なら、私の言葉はピアノの音色だ。根本的に音の種類が違う。人がいくら猫の鳴き声を上手に真似ても、猫と会話できないのと似ている……ような気がするけれど……違うような気もする。
「またわかりにくいこと考えてるわねぇ」
「じゃあ、ノワはわかるの?」
ふん、とそっぽを向かれた。自分だってわからないくせに。
ノワの定位置はふたつ。私の真横の椅子の上か、私の膝の上。今日は椅子の上にちょこんとお座りしている。シリウスの定位置は私の正面だ。
ここの食事にも慣れてきた。見慣れないものはほぼない。食べ慣れない味はいつの間にか舌に馴染み、食べ慣れた味へと変わりつつある。
「なんだろう、世界の壁を感じる」
「間違っちゃいないわね。だから言葉が通じないのよ」
人の名前については、その人に向けて言葉を発しているせいか、多少の違いがあっても相手にちゃんと通じている。
「つまり、固有名詞を覚えられても、人名以外は通じ難いと」
「そうなるわね」
ものすごく自分の知能指数が低下した気分だ。元々そんなに高くはなかったけれど、ここまでじゃなかった。これじゃあ、三歳児並だ。いや、固有名詞を伝えられる分三歳児の方がマシか。
「正しくは伝わらないけど、なんとなくは伝わるわよ」
それは発音の違いや舌足らずというより、赤ちゃん言葉的な伝わり方なのだろうか。だから、ジャームの花を指さして「ジェーム」を連呼しているとき、みんなが微笑ましげに見ていたのか。ちょっと得意げに連呼してしまった。恥だ。
ブオオーン、ブオオーン、ブオオーン……
不意に低い警戒音が砦中に轟いた。
「亡命者だ」
シリウスの声が聞こえ、同時に頭にも響く。
移住と亡命はその言葉通り意味が違う。移民の場合は大帝国側は見て見ぬ振りをしている。けれど亡命者の場合は攻撃対象だ。連合国側としては、亡命を意味するスカイブルーの旗を掲げられた瞬間から保護対象になる。
国境に位置するこの砦では、陸からの亡命者の受け入れも行っており、その際、軽く戦闘になることもあると聞いていた。
シリウスがノワに私を執務室に連れて行くよう頼んだ後、周りにいたみんなに続いて食堂を飛び出していった。急いで執務室までの階段を駆け上がる。
ポルクス隊長とレグルス副長が険しい顔で何かを話し合っている。私に気付いたポルクス隊長が手招きしてくれた。急いで彼のそばに駆け寄る。
何を言っているのかはわからないけれど、そばを離れないよう言われているような気がする。鳴り響いている低い警戒音に恐怖心が煽られる。
ノワが黒猫から羽ヒョウへと姿を変えた。
司令室からは、次々と飛び出していく低空飛行船、続いて中型の飛行船が低空飛行していくのが見えた。
一瞬の閃光に浮かび上がる地平線。少し遅れて爆音。
画面越しでしか見たことがなかった光景が目の前に広がる。
「ここにまでは来ないわ」
飛び出していった低空飛行船にはシリウスもいた。暗闇の中では誰が乗っているかなどわかるはずもないのに、後方の一機にシリウスが乗っているのが不思議とわかった。
怖くて目を背けたいのに、背けることが怖い。瞬きするのすら怖い。ずっと遠くに見える閃光が次第に激しさを増していく。
「大丈夫かな」
「シリウスなら大丈夫よ、あなたと繋がってるんだから」
じゃあ、ほかの人は? 顔を見れば「サーヤ」と笑いかけてくれるポルクス隊のみんなは?
「即死じゃなきゃ、あなたが助けるでしょ」
じゃあ、即死の場合は? 助からないの? 戻ってくるまでに死んじゃったら?
「そりゃ死ぬでしょ。何当たり前のこと言ってるの。いい? ここは戦場なの。あなたがいたような安穏とした世界じゃないの。あなたはあくまでも後方支援。前線に飛び出すわけにはいかないでしょ」
わかっている。迷惑になることはわかっている。
「でも、私って死なないよね」
隣でノワがぎょっとしている気配がした。考えるより先に言葉が出た。それはきっと間違いじゃない。
「だったら、前線にいても平気じゃないの?」
ぼそっと言葉が吐き出された。
また激しく光った。爆音が聞こえた。窓が音を立てて震えた。なんだか現実味がない。自分の声が遠い。
「平気じゃないでしょ。みんながあなたを庇おうとするわ」
「でも、私は死なない」
「たとえ死ななくても庇うでしょうね、死んじゃう人たちが」
火花みたいな閃光からゆっくりとノワに視線を移す。閃光が映り込む黒の瞳が痛みを堪えているかに見えた。
どれほどの時間が経ったのだろう。閃光も爆音も絶え間なく続いている。
階段を駆け上がってくる足音が次第に大きくなり、最後に一際大きく、たん、と響いて途切れた。入り口で何かを探している女性隊員さんと視線が絡む。そこに縋るような何かが見えた。
考えるより先に駆け出した。すかさず彼女が先導してくれる。背後からポルクス隊長の叫び声が聞こえた。
今まで入ったことがなかった一階にある医務室の扉が開け放たれ、中に負傷したポルクス隊員が運び込まれていた。
ぱっと見た感じ血を失いすぎなければ命に別状はない。いつの間にか一見してそれくらいの判断ができるようになっていた。けれど、おそらく手遅れになれば足の切断だ。衛生隊員によって切り開かれた血だらけのカーゴパンツの残骸が床に散らばっている。血だらけの中心は、膝上の肉が大きくえぐれて骨が見えていた。
白の手袋をはぎ取りポケットに突っ込む。
なんの躊躇もなく左手の血の珠を患部に押しつけた。
苦しくて苦しくて、久しぶりの苦しさにのたうち回りそうになる。呻き声が抑えられない。
意味のわからない言葉の合間に、サーヤ、サーヤ、と不安そうな女の人の声が聞こえてくる。もっと呼んで。それだけでがんばれる。
「同調を切りなさい!」
ぴしゃりとしたノワの声にわけがわからず怯みそうになる。
「あんたはね、相手に同調しているのよ。だから苦しいの。同調を切りなさい」
そんなこと言われても、どうやって切ればいいのかわからない。同調を切る、と何度も頭に思い浮かべても、苦しさに喘ぐだけで何も変わらない。
「いい? あなたは厄災の乙女じゃない。厄災を肩代わりなんかしていない。あなたは聖女なのよ。自覚しなさい」
自覚しなさいと言われたところで、聖女かどうかなんて自分じゃわからない。
「あんたが痛いわけじゃないでしょうが!」
それもそうか。
そう思った瞬間、苦しさがきれいさっぱりなくなった。間抜けにも「へっ?」と声が出たほどの唐突感にきょとんとしてしまう。
一瞬、治癒が終わったのかと思った。左手の下には未だえぐれたままの肉が見えた。いつも感じる終わりをまだ感じていない。
「なんで?」
「あのねえ、あなたが惑わされてどうするのよ。あなた聖女でしょ、乙女よりも上位の存在でしょ」
「そんなこと言われてもさぁ……」
いつの間にか黒猫に戻っていたノワが怪我人のお腹の上に容赦なく乗っている。さすがにそれはどうかと思う。しかもなぜかお腹の上を踏み踏みしている。もしかして、踏み心地がいいとか?
「わりとね」
「失礼だよ」
「もうちょっと」
痛みと苦しみ、傷が癒えていく気持ち悪さ、それを上回るほどの不可解さを滲ませた表情で霊獣を凝視していた怪我人の顔から強張りが解けていく。
最後に彼が「ふーっ」と息を吐いのを見届けると同時に、ノワが力の抜けたお腹の上から飛び降り、私は完治した足から左手を離した。
完治した男の人が軽く身体を起こしながら、自分のお腹の上から飛び降りたノワから私に視線を向けた。うん、何が言いたいかはわかる。だがしかし、ノワがお腹を踏み踏みしていた理由をジェスチャーで伝えられるとは思えない。何より失礼すぎて説明したくない。小さく首を左右に振った。
無事、とは言えないものの、それでも軽傷で済んだ亡命者数名は、それ以上に傷付いたポルクス隊に保護され、夜明けとともに砦にたどり着いた。
あの重傷だった人が身を挺して守ったらしい。彼は真っ先に目標地点にたどり着く先行部隊の一人だ。身を軽くしたり、運動能力を付加できる力を持つらしい。
家族でも親しいわけでも自国民ですらもない他人を、重傷を負ってまで守らなければならないなんて──。
「なんか納得できない」
──軍人なんてそんなもんだ。
振り返れば疲れた顔のシリウスがいた。ざっと見た感じ怪我はない。
「おかえりなさい」を言えば、存在を確かめるように頬から顎にかけて指の背がなぞり、まるで脈を測るかのように指の先が首筋に触れ、そして、耳に咲いたジェームが小さく揺らされた。
聞こえているはずのざわめきが聞こえない。
シリウスの指先から、聞こえないはずの肌をなぞる音が聞こえてくるようだった。
そのまま首の後ろに回った手のひらが後頭部をやんわりと掴み、なんの強制力もないのに上向いたままの顔が固定された。シリウスの手が熱いのか、私の首が熱いのか、ふたつが重なる場所に熱がこもっていく。
「シリウスも見ず知らずの誰かのために身を挺すの?」
気付けば腕を伸ばし、シリウスの耳たぶに触れていた。私にジェームの花が咲く場所。
──任務ならば。軍人なんてそんなもんだ。
じっと何かを探るように見下ろされながら、同じ言葉が繰り返された。
そんなもん、で済まさないでほしい。知らない誰かのために命なんて懸けないでほしい。そんな風に思うのは、軍人という職業を否定することになるのだろうか。それでも──。
熱を伝えていた大きな手が思考を遮るかのようにひくりと動き、指が髪を軽く梳くように離れていった。
──報告に行ってくる。
熱を失った首に触れる。ざわめきが耳に戻る。
背を向けたシリウスをその場で見送り、怪我の度合いがひどい人順に左手を押し当てていく。
左手を離すとき、誰もが同じような音を紡ぐ。自分が少しでも役立っているようで、存在理由を与えられたようで、同じ音が聞こえるたびに嬉しさに似た安堵を覚えた。
亡命者たちはポルクス隊長の尋問の末、後方に位置する連合陸軍基地に移送された。ちなみにさらに後方山側には空軍基地、海側には海軍基地もあるらしい。
シリウスは常に戦闘の真っ只中にいる。本来諜報部隊は出撃しない。基本的に後方支援か敵地に忍び込んで暗躍しているか、とにかく戦場に出ることはない。けれど、シリウスは出撃する。彼が部隊に情報の送受信をするための要だからだ。
ここには携帯電話などの通信技術がない。ポルクス隊が最強部隊でいられるのは、シリウスの存在が大きい。彼が戦場において敵から聞こえてくるあらゆる情報を集め、一瞬で精査し、ポルクス隊長に伝え、その指示を隊員たちに伝えている。彼の力は傍受されることもない。状況によっては後方の陸空軍にも応援要請を伝えたりもする。今回は要請せずに済んだらしい。
亡命者が犯罪者の場合、保護ではなく大帝国側に引き渡すことになる。その際の生死は問われない。その判断もシリウスにかかっている。引き渡す場合はそれ用の照明弾が打ち上がる。
基本的に銃撃戦だ。そんな中で頭に響いてくる声に集中するのは至難の業だ。繋がっていてよかったと言うよりない。ざっと見た感じ怪我はなかったけれど、彼の戦闘服はあちこち破れたり穴が空いたりしていた。そこから見えた古傷が痛かった。思考が読める彼だからこそ、致命傷を免れてきたのだろう。
──今回は特にひどかった。通常ここまで荒れることはない。
出撃した隊員たちは状況によるものの、通常帰還した瞬間から丸二日間の半休暇が与えられる。半と付くのは、待機状態での休暇だからだ。人手が足りなければ駆り出される。
押しかけたシリウスの部屋で、上半身裸になった彼の古傷に血の珠を押し当てていく。たとえ動きに支障はないと言われても、どうしても嫌だった。私の自己満足だからと無理を言った。
「暇だったから戦争するの?」
──暇……そうだな、やることがないと碌なことを考えないんだろう。
「戦争しかすることないなんて、かわいそうだね」
同情ではなく侮蔑。戦争のない時代に育った、ノワ曰く、安穏とした世界で生きてきた私にとって、戦争は最も忌むべき行為と刷り込まれている。忌むべき行為なのに、決してなくなることはない。
シリウスの古傷には、どう見ても拷問を受けた痕がある。目の前にある醜くひきつれた火傷の痕にそっと触れる。
折角切ることができたのに、今は同調したくなる。
きっとこの人は、拷問の最中でも、敵に撃たれた瞬間にも、得られた情報を仲間に伝え続けてきたのだろう。
──サヤと繋がっているおかげで集中できた。
これからはそうかもしれない。だからといって、これまでの痛みがなくなるわけじゃない。
──それはサヤも同じだろう?
「でも、助けてもらったから」
──俺も同じだ。助けてもらった。これからもだ。
「あのね、みんなに言わないの? 力をコントロールできたこと」
──言ったところで今更だろう?
シリウスはポルクス隊のみんなと仲がいい。みんながシリウスを信頼していることも見ていればわかる。けれど、誰一人シリウスと個人的に親しくしている人はいない。
──俺の方が避けてきたことだ。
思考が伝わる。それは残酷なことだと思う。
家族にすら時に頭の中で取り返しが付かないような暴言を吐くこともある。口に出さないことで関係が続いていくことの方が多い。私なんて、脳内でどれほど兄弟を抹殺してきたことか。本当はもっと優しくてお金持ちの親がいつか高級車に乗って迎えに来てくれるはずだと考えたことだってある。近所にいたいじめっ子なんて姿が見えた瞬間に脳内で狙撃していた。
くつくつと声を抑えて笑っているのが背中に触れている左手から伝わってきた。
彼のサイズに合わせた椅子は、私にしてみればカウンターチェアーかと思うほど座面の位置が高い。座っているにもかかわらず、背後に立つ私と同じ位置に肩がある。私が知る男の人たちの背中よりずっとずっと広くて厚くて逞しい。
男の人たち……ひょろい兄にか細い弟、中性脂肪を隠し持つ父しか知らない。それなのに複数形で考えるあたり、見栄っ張りな自分がいたりする。
「なんで笑ってるの? 見栄っ張りだから?」
──サヤは銃を使ったことがないだろう?
「ないねぇ。私のいた国では銃を所持しただけで逮捕されるから」
水鉄砲は撃ったことがある。わりと本格的なヤツも。命中率は最低だった。
──それなのに両手に拳銃なのか?
最悪だ。そんなことまで伝わったのか。
「映画でね、こう、腕をクロスさせながら敵を撃ちまくっていくヒロインがいたわけですよ」
──それに憧れてたってわけか。実際には両手で撃つことはできても命中させることはほぼ不可能だぞ。
なんたる辱め。顔から火が出そうだ。なぜ誰にも言ったことがない妄想で恥をかかねばならぬ。
「だから、親しくなりたくないんだ」
声にも出してそう呟いたシリウスの強張った肩におでこをそっと付ける。
「伝わった?」
強張った身体からゆっくりと力が抜けていく。
どれほどの恥を晒したとしても、この世界で私のことをわかってくれる人はシリウスしかいない。
「たとえばね、シリウスをいじめていたコルアの性悪王子が同じ力を持って私を助けてくれたとするでしょ。でもね、私きっと何があっても名前は教えない。拷問されても教えない」
──訊かれたから答えただけじゃないのか?
「確かにそうだけど、きっとそれだけじゃないよ」
後ろから首に残る傷痕に左手で触れる。そこにそっと重なる大きな手は、初めて触れたときと変わらず優しかった。