アンダーカバー / Undercover
第一章 始まり12 偽装工作
そうと決まれば善は急げだ。
聖女は霊獣とともに大帝国方面に逃亡……もとい、お隠れになりましたとさ。
なかなか自国に帰ろうとしない各国の使者たちの目の前で、聖獣の背に乗った聖女は国境方面に飛び立った。目撃者多数。人が集まってくるのをわざわざ待ってから飛び立った。
その後国境の砦からの報告では、制止を振り切った霊獣と聖女は国境を越え、大帝国へと飛び去った。……ということになっている。
ノワのいい加減な提案が採用された。
真実を知っているのはポルクス隊と連合国総長ただ一人。総長がどんな人なのかは知らない。ポルクス隊長が信頼を寄せる人らしい。
実際には、首都から砦まで一直線に駆け、砦のみんなにこっそり手を振りながら通過し、国境を越え大帝国上空をこれ見よがしに駆け回り、比較的高い山を越えたところで姿を消し、砦にとんぼ返りしてきた。
朝にはコルア国から飛び立ち、昼前に国境を越え、夕方には大帝国で姿を消した。砦に戻ってきたのは真夜中だ。ちなみに後ろには姿を隠したシリウスがしっかり同乗している。
『騙せたかな?』
──今のところはな。大帝国でも霊獣が姿を見せたことに驚く声が多い。中には懐疑的な声も聞こえてくるが少数だ。霊獣を初めて見たんだ、こんなもんだろう。
『そのうちバレるかな?』
──まあ、いずれは疑われるだろな。
姿を消したのは大帝国側が霊獣の塔があると主張している山の辺りだ。その主張を利用することにした。勝手に山の中を探せばいい。
さすがにノワの背に乗ることにも慣れてきた。内臓が浮かぶような感覚と時々変なところから「ひひゃー」と情けない声が出るくらいで、吐き気がこみ上げるまでではなくなった。
日が暮れると思ったよりも寒くて、シリウスがどうして分厚いマントみたいなものを着ていたのかがわかった。背後からマントに包まれてぬくかった。
初めのうちは、作戦決行! とはしゃいでいた。わくわくしながら羽ヒョウの背に跨がった。
次第に、上空から目にする景色がこれまで生きていた世界の景色と混ざり合って、全身から溢れ出そうになるたくさんの思いを抑え付けることに必死になった。
シリウスにもノワにも伝わってしまっているだろうに、二人とも何も言わないでいてくれた。
準備のために早朝から起こされ、朝焼けに遭遇し、澄み切った青空には白い雲が浮かび、照りつける日射しの強さに目を細め、暮れなずむ夕日に星の瞬きが見え隠れし、ふと見れば月までもが浮かんでいた。
何もかもが今までと変わらないようでいてどことなく違う。空の青はもっと薄かったような気もするし、太陽はもっとじりじりぎらぎらしていたはずだ。「一番星だ」とシリウスが指さした星は、見たことがないほど大きく瞬いていた。
山も海も、森も湖も、アスファルトではないだけで彼方に延びる道や景色に大きな違和感はない。車のように低空を移動する飛行船があったり、家が基本的にキューブ型だったりするくらいの違いしかない。
大きな違いがなさ過ぎて、目にする景色を懐かしく思ってしまう。懐かしく思って、それが勘違いだと気付いて、泣きそうになる。
息を吸うごとにこの世界に染まっていきそうで、呼吸することすら嫌になる。
大学に入ったら絶対に一人暮らしをしようと決めていた。兄弟には「寂しがり屋のくせに一人暮らしなんかできるわけない」とバカにされていた。兄が進む中学高校へと進み、弟もそれに付いてきた。大学も兄が進むところと同じにするつもりだった。「じゃあ三人とも同じマンションの別の部屋にすればいい」とむくれると、「それじゃあ一人暮らしとは言えないなぁ」と父や母に笑われていた。
一人は淋しい。当たり前にいた家族がいない。
似たような景色なのに、ここは別の世界で、私は一人きりで、家族はどこにもいない。
お風呂に入りながらさめざめと泣いた。お風呂が懐かしすぎて感傷的になってしまう。
お風呂は、桶と言っていたから木製を想像していたら、琺瑯の大きなバケツみたいなものだった。頭に大きなボタンがついた蛇口から少し温めのお湯が出てくる。それがいつも入っていた温度と同じで、足を入れた途端、痺れるようにじわじわ染み込んできた熱に泣けた。
いっそ劇的に何もかもが違う世界だったらよかったのに。
寝室には一人で寝るには大きすぎるベッドが用意されていた。前よりもずっとふかふかなマットレス。
真ん中にブルグレがしっぽを抱えて寝息を立て、端の方にノワが丸くなっている。ベッドに潜り込むときに反動でブルグレがころんころんと転がっていき、ノワのそばまで移動した。
それを見て、いつもの光景だ、と思った。ここにも「いつも」が根付き始めた。それが嬉しくて悲しくて淋しくてやるせない。
私のためにと改装された部屋は、本気で私好みだった。
諜報員って本当にすごい。どこでどんなふうにリサーチしているのか、やわらかめの色が好きなことや、ころんとした形が好きなこと、シンプルさの中に可愛さが隠れているその微妙なさじ加減まで完璧に私好みだった。
ベッドサイドにはころんとした花瓶に活けられているのは、マーガレットに似たジェームの花。耳を飾るのと同じ花が三輪咲いていた。
窓の外からは鳥のさえずりと一緒に、ミーンミンミンではなく、ジーミジミジェンという何かを間違えたような蝉らしき虫の声が聞こえてくる。
砦の辺りは今は夏らしい。体感的にはやっぱり初夏だ。五月の爽やかな暑さ。半袖というよりは長袖を腕まくりして快適な感じ。朝晩はそこそこ冷える。
昨日は真夜中に到着したせいで、部屋の中の様子がはっきりわからなかった。
砦ではあまり煌々と明かりを点けない。上げ下げ式の窓には分厚い暗幕みたいなカーテンが下がり、外には両開きの雨戸もついている。そうそう明かりがもれることもないのに、普段から節約や暗視訓練も兼ねて薄暗い中での生活だ。
明かりは、LED並に明るい光石という蓄光する石がある。最初は本気でLEDのようなものかと思っていた。本来はぼんやりと光る程度にしか蓄光できない石を何かの薬品に浸けておくとその何倍もの光を蓄えるようになる。一年も使っていると照度が落ちるらしく、再度その薬品に浸けて復活させるらしい。
砦には五年ほど使用して経年劣化した光石が床から一メートルくらいの位置に設置されている。
お城での煌々とした明るさから一気に薄らぼんやりとした明るさに落ちたせいで目が慣れない。
ちなみにこの光石を砕いて混ぜた金属で作った剣がレーザーソードだ。斬ると傷が塞がりにくくなるという嫌な効果を生む。
元々はかつての聖女を守るための剣だったらしい。それが別の聖女を傷付けた。皮肉なものだ。
私に用意された部屋は、砦から少し離れた場所にある真四角の建物の二階の一室だ。寝室とリビングの二間に洗面所兼お風呂付き。一階には隊員たちの個人所有の飛行船が格納され、隣にはシリウスの部屋がある。
元々は来客用の宿泊施設だったものを、頭に思考が聞こえ続けていたシリウス用に改装したらしい。そこに私もお邪魔することになった。マンションかアパートのような造りの部屋はあとふたつ空いている。今のところ誰も使う予定はなく、名目上は来客用のままになる。
砦の人たちはノワにもひと部屋用意しようとしていたのに、ノワは私の部屋でいいと断ったらしい。ブルグレには誰も訊いてくれなかったらしく、ほっぺたをこれでもかと膨らませむくれていた。
──サヤ、起きたか?
『起きてるよ』
──飯はみんなと同じで食堂でいいだろう?
不意に頭に響くシリウスの声。すぐ隣だからか、お互いの部屋にいても会話できる。
みんなと一緒に食事ができると聞いて、慌てて洗面所に駆け込む。蛇口のボタンを押してお湯を出し、顔を洗い、口をゆすぐ。基本的に蛇口から出てくるのは水ではなくぬるま湯だ。
ここでの歯磨きは大きな味のしないガムみたいなものを噛むことで口内をきれいにする。基本的に食事のあとに用意されるものなので、寝起きはうがいするだけだ。
鏡に映る耳に咲くジェームの花におはようと挨拶しながらブラシで髪をとかす。鏡は金属の薄い板のようで、ブラシは豚毛みたいな感じだ。
軍シャツにカーゴパンツを着込んで、軍ブーツを履く。私用のサイズをちゃんと用意してくれた。
──用意できたか?
『できた!』
同時に部屋のドアを開ける。足元には黒猫のノワ、肩にはちゃっかりブルグレが乗っている。
砦は勤務に合わせ三交代で食事する。これから仕事に就く人、仕事中の人、仕事が終わった人と休みの人の順だ。その最後の一団に加わる。
仕事上がりだったのか、レグルス副長と一緒になった。あの足を治した人だ。聖女の力が疑われずに済んだのは、レグルス副長が完治した足で連合国本部に顔を出していたからだと聞いて、お礼の代わりに笑ったら、照れくさそうな笑顔が返された。
大帝国からの「厄災の乙女」の噂は、連合各国にも聞こえているらしい。私がそれまでどのように扱われていたかを公表することで、聖女の力が本物であることを知らしめることにも繋がった。逆に、なぜ大帝国ではそれがわからなかったのかと首をひねり、聖女の扱いの酷さに憤慨したとか。
『その総長ってどんな人か会ったことある?』
──人前には滅多に姿を現さない。
『あー、暗殺とか暗殺とか暗殺とか?』
──そうだな、暗殺とか暗殺とか暗殺とかを懸念しているのか、うちでは隊長と副長しか知らない。
笑いながら「暗殺」を繰り返された。
国の象徴にもなる国王などは顔を出してなんぼでも、連合国の総長は国同士をまとめる裏方的仕事らしく、顔を出す必要はない。ポルクス隊の諜報員たちですら普段どこにいるかは掴めないらしい。
『シリウスもわからないの?』
──わからないことにしている。
『ってことは! 知ってるの?』
──まあな。
それはそうだろう。思考を読めるシリウスが知らないことはない。知りたい。けれど、知ったら間違いなく顔に出る。
──いずれ知ることになるだろうから、そのときまでは知らなくていいんだよ。
そう言って笑うシリウスはコルア城にいた時とまるで違う。お城にいたときはとにかく表情がなかった。唯一ポルクス隊長の居住区にいるときは表情が出るものの、これほどじゃなかった。
シリウスだけじゃない、食堂を見渡すと一緒にお城に着いてきてくれた人たちも、無表情から一転して和やかな表情をしている。
──サヤだってそうだ。城にいたときは始終全身が強張っていた。
私にとってあそこは敵地だ。あんなひらっひらを着せようとするなんて、拷問も甚だしい。
ふと見れば、斜め前に座っているレグルス副長がこれでもかとブルグレに果物を食べさせている。ブルグレが見えるということは、彼も何かしらの力を持つのだろう。
「こいついいやつ」
「食べ物くれる人はみんないい人なんでしょ」
両手で果物を抱えたまま、テーブルの上をてけてけ走ってきたと思ったら、指先をてしっと蹴られた。蹴った拍子にバランスを崩してこてんとひっくり返っても、両手に抱えた果物を離さないあたり、食い意地が張っている。
ブドウみたいな房状の黄色い果物は、小さなミカンみたいだ。人の膝の上に乗って身を乗る出すようにしてブルグレが運んでくる果物をノワは皮ごと食べている。
またしてもブルグレが前歯で皮を剥いてくれた。むすっとした態度で、ほら、とばかりに手に押しつけられる。ブルグレが前歯で皮を剥くのにも慣れてしまった。慣れてしまえば便利で仕方がない。
──サヤ、それ……。
「すっぱー」
ぽいっと口の中に入れた途端、強烈な酸味に襲われる。
──それ、砂糖をまぶしながら食べるものだぞ。
『早く言ってよ』
──言う前に口に入れたくせに。ほら、口開けろ。
口を開けると、茶色い粉がのったスプーンがつっこまれた。
『あとから甘味がきても酸味が中和されない』
涙が滲むほど酸っぱい。ようやく飲み込んでブルグレに抗議すれば、けろっとした顔で「爽やかな酸味だろう?」と返された。酸味耐性がない私には、爽やかどころか鼻の頭に汗が噴き出るほどの酸っぱさだ。
「そんなに酸っぱい?」
「激烈酸っぱいよ! ノワは酸っぱくないの?」
「爽やかな酸味ね」
「そんなわけないよ! シリウスは?」
──俺も酸っぱいのは苦手だからなぁ。
「だよね! ちょっとレグルス副長にも訊いてみて!」
ずっとにこにこ見ていたレグルス副長は、自分の名前が聞こえたせいか、おや、っと眉を動かした。そしてシリウスに何事かを話しかけられると、これ見よがしに皮を剥いただけの酸っぱい実をぽいっと口に放り込んでおいしそうに口を動かし飲み込んだ。
「なんか悔しいんですけど」
──副長は酸っぱいものが好きらしい。
思わずむっとした私に、レグルス副長が同じような赤い実の皮を剥いて渡してくれた。
──それは甘酸っぱい。うまいぞ。
ふんふんと匂いを嗅げば、柑橘系の爽やかな香りがする。恐る恐る口に放り込めば、今度はシリウスの言う通り甘酸っぱくおいしかった。甘みの強いグレープフルーツみたいだ。どちらもほんの少し苦みがある。
おいしくてにこにこしていると、レグルス副長がせっせと皮を剥いて次々渡してくれた。これはおいしい。レグルス副長いい人。
「おいしいものくれる人はみんないい人なんでしょ」
どこかで聞いたようなセリフがノワから聞こえてきた。