隣にいる人
第四話


 マンションに戻り、揃ってオートロックを抜けて階段をゆっくりと上がる。背の高い基さんは当然足も長い。歩幅が絶望的に違うのに、私に合わせてゆっくりと歩いてくれる。

「家で待ってて。コート持ってくる」
「わかりました」
 私の部屋の前で別れ、鍵を開け家に入る。蓮さんの所とポッケに持って行く大根を用意していると、インターホンが鳴った。基さんだ。急いで玄関に向かいドアを開けると、真っ黒なトレンチコートを羽織った、呆れ顔の基さんが立っていた。
「だから、ちゃんと確認してから開けて」
 そう言いながら靴を脱いでスリッパを履き、部屋の中に入っていく。慌てて基さんの靴を揃えて、その後を追えば、クローゼットから普段着用の白いコートを取り出していた。
「基さん、蓮さんの所とポッケにもカボチャ入れてもいいですよね」
「大丈夫じゃないか? 佐々木家のカボチャ、甘くて旨いし」
 母の野菜を褒められるのは嬉しい。実際にすごく美味しいと思う。外で食べるサラダが美味しいとは思えなくなるほどに美味しい。
「ちょっと重いけど、紙袋破けないよね」
 独り言ちつつ試しにひとつ持ち上げてみれば結構な重さだ。いつも一階の宅配ボックスから野菜の入ったダンボールを持って来るのも一苦労なのに。
「なあ、柚は宅配ボックス使ってるよな?」
「はい。部屋の前まで配達の人に持って来て貰えば楽なんでしょうけど、なんだかちょっと怖いので。もう毎週のことなので配達の人も勝手にボックスに入れてってくれます」
「いつも届くの土曜日だっけ?」
「はい。土曜日の午前中です」
「じゃあ、来週からは俺が取りに行くよ。三階までは重いだろう? うちエレベーター無いし」
「いいんですか?」
「もちろん。飯作って貰うお礼」
 それはすごく助かるかも。嬉しくなって自然と笑みがこぼれる。なんだか今日はずっとそんな感じだ。ずっと笑ってる。都会に出てきてこんなに一日中笑っているなんて、もしかしたら初めてかもしれない。
 今までの私にとって都会は、あまり住みやすい場所ではなかった。



 紙袋を二つとも持ってくれた基さんと一緒に蓮さんのところに寄った後、近くのスーパーでおでん種を買う。自分の分の買い物は昨日のうちに済ませているので、基さんが食べたい物を買っていく。
「結構買いましたね」
「スーパーなんて滅多に来ないからなぁ。つい色んなもの買っちゃうよ」
「歯ブラシとか?」
「そう。ボックスティッシュとか」
 片手にエコバッグとそれに入りきらなかったスーパーの袋の二つを持っている基さんが、少し照れ臭そうに笑う。私はティッシュ五箱パックをひとつ持っているだけだ。本当に色んな物をここぞとばかりに買い込んだ基さんは、普段はコンビニかネットで買っていた物が、スーパーでは思ったよりも安く買えると驚いていた。男の人ってスーパーに行かないものなのか、基さんが行かないだけなのか。
「柚は土曜日に買い物に行ってるんだろう? 来週から俺も行こうかな」
「基さん、土日はお仕事しなくていいんですか?」
「障害が起きなければ、基本的には休みだな」
「それだと旅行には行けませんね」
「そうでもないよ。出掛けるときはPC持っていけばいいだけだから。さすがに海外は時期を見ないと無理だけど。どこか行きたい?」
「いいえ。こうしてスーパーに一緒に行くのも嬉しいですから」
 言ってから恥ずかしくなって下を向いてしまう。繋いでいる手に少し力を込められた。そんな基さんからの些細な仕草すらすごく嬉しい。繋いだ手の温もりが体中に広がってほかほかと暖かい。
 もうどうしようもないほどに浮かれている。嫌われたくないと思っていた人とお付き合いすることになって、そうなると一気に好きって気持ちがあふれ出す。
 私という人は、すごく単純なのかもしれない。



 おでんを作っている間に部屋を片付けておくと言った基さんに、彼の部屋で一緒に食べようと誘われた。私の部屋には一人用の小さなテーブルと椅子がひとつしか無い。基さんの部屋には大きなテーブルがあるらしい。そこで仕事も食事も何もかもを行っているそうだ。

 大根一本分を研いだお米のとぎ汁で下茹でし、うちにある一番大きなお鍋で煮込んでいく。基さんははんぺんが好きらしい。今度はんぺんを使った何かを作ろう。
 一度火を止め味が染み込んでいくのを待っている間に、大根のサラダも作っておく。残り三本の大根を見て、これなら何とかなりそうだとほっとする。

 母の野菜はすごく美味しい。薄給の一人暮らしで食事に困らないのはすごく有難い。ただ、如何せん一度に送られてくる量が多い。田舎と違ってご近所付き合いがほとんど無い都会では、持て余すだけになってしまうと何度言っても分かってくれない。祖父の畑を譲り受けて以来、母の畑への情熱は冷めるどころか毎年勢いを増している。



 インターホンの音に、今度こそちゃんとそれで対応してから玄関の扉を開けた。よく出来ましたと言わんばかりの基さんがちょっと憎らしい。
「いい匂いがする」
「今は味を染み込ませているところなので、ご飯が炊けるまでもう少し待って貰えますか?」
「柚の部屋に俺用の椅子を一脚持ち込んでもいい?」
 頷けば、基さんが部屋に戻ろうとするので呼び止め、鞄からキーケースを差し出した。いちいちインターホンを鳴らすのも面倒だろうと思ってのことなのだが、基さんの眉が寄り、無言で差し出した鍵を見つめた後、やっぱり無言で鍵を受け取って部屋を出て行った。もしかして大家さんだからスペアキーくらい持っているのかもしれない。わざわざ渡さなくてもよかったのかも。

 持ち込まれた椅子は建築家でもあった有名なアメリカのデザイナーのものだ。私が使っている物と同じ。私のはダウェルレッグのホワイト、基さんのはエッフェルベースの黒だ。
「うちにも同じのがあったから、合わせてみた」
 そう言って自分の持ち込んだ椅子を私の椅子の隣に並べて、にこにこしながら座っている。
「これ、ここに置きっ放しにしてもいい?」
「いいですけど、基さん困りませんか?」
「うちには椅子がたくさんあるから」
 その言葉通り、招かれた基さんの部屋には椅子がたくさんあった。バルコニーに面した掃き出し窓の前に、人が通れるほどのスペースを残してワイド二千四百ほどもある細長いテーブルが置かれ、そこにデザインの違う椅子が六脚、散らばるように並んでいる。部屋の入り口に近い、クローゼットの正面に位置するベッドは基さんの体に合わせたのかダブルサイズで、その両脇にもサイドテーブル代わりにやはりデザイン違いの椅子が置かれている。クローゼットの前にも椅子、バルコニーにも椅子、とにかく椅子だらけだ。逆にそれ以外には大小いくつかのスピーカーがあるだけでテレビすらない。
「ここの椅子のほとんどは蓮の物なんだ。あいつ椅子好きでさ。自分の所に置くスペースがないってうちに勝手に持ってくるんだよ」
「あのアイアンのカウンターチェアも素敵でしたよね」
「あれは職人に作って貰ったものなんだ」
 まるで自分が褒められたかのように基さんが嬉しそうに笑う。

 お鍋ごと持ち込んでご飯の準備をしながら、初めて入った男の人の部屋をつい観察してしまう。基さんはキレイ好きなのか、キッチンなどはちゃんと綺麗に片付けられている。ただ、大きなテーブルの半分くらいは、何台ものパソコンと資料や本が乱雑に積み上げられていて、それは近くに置かれた椅子の上も同様だ。片付けられたキッチン側の残り半分がダイニングテーブル代わりなのだろう。
 ウォルナットと黒でまとめられた部屋は、片付いているのか散らかっているのか、よく分からない印象だ。床にはお掃除ロボットが彷徨いている。

 おでんを食べながら基さんが自分の事を話してくれた。ご両親は現在海外で暮らしていること。それ故にお祖父さんの遺産相続は一人息子の基さんがしたこと。このマンションと隣のマンション、路地を挟んだ目の前の二区画もお祖父さんの土地で、そのうち街道沿いの二区画分を売却して相続税と二つのマンションの建設費用に充てたらしい。まだ少し残っている負債も、来年の春には支払い終わるそうだ。

「すごいですね。二十三歳で相続したんですよね」
「相続するだけであんなに税金持ってかれるとは思わなかったよ。知り合いにそういう系が強い人がいて、相談に乗って貰ってあれこれ計画立てたんだ。それでも借金抱えることになって、結構キツかった」
「まさか、だからご飯食べないんですか?」
「そこまで貧乏じゃないから」
 苦笑いする基さんは、でも、と言葉を続けた。
「不動産所有してるって聞くと、金持ってるって思うみたいなんだけど、俺の場合はそうじゃない。だから、柚に贅沢なことはさせてやれないと思う」
「贅沢がしたくて基さんの側に居たいわけじゃありませんから」
 なんだかその言い方だと、そういう人が過去にいたかのように聞こえる。
 一緒にいられるだけで嬉しいのに、今はそれ以上のことは考えられない。
「一緒にいられるだけで嬉しいですから」
 どこか不安そうな基さんに、念を押すようにそう言えば、目を細めて苦笑いのような、諦めのような、何とも言えない複雑な笑顔を見せた。
「柚は俺が初めての男だもんな。贅沢はさせてやれない代わりに、大切にするから」
「だから、別に贅沢はいいですから。私だって基さんに贅沢はさせてあげられませんから」
 きょとんとした顔の後、声を上げて笑う基さんに、何かおかしな事を言ったかと自分のセリフをなぞってみるも、何故笑われているのかが分からない。
「柚は、誰かに幸せにして貰おうとは思わないんだな」
「当たり前じゃないですか? 自分が幸せかどうかは自分が決めることですから。誰かにして貰ったりすることじゃないですよね?」
「少なくとも俺は、柚のご飯を食べられることは贅沢で幸せなことだと思ってる」
 何ともしょぼい贅沢と幸せを嬉しそうに語る基さんがちょっと心配になる。
「基さん、もう少しマシな贅沢や幸せを見付けましょうよ」
 部屋中に基さんの笑い声が飛び跳ねる。そのくらい軽くて楽しそうな笑い声だ。
「柚とは顔を合わせる前に色んなことを話していたからか、ずっと前から知ってるような気がするよ」
「実際基さんはずっと前から知ってたじゃないですか」
 恨めしそうに言えば、「それはそれ、これはこれだろ?」と笑う。
「でも、最初から私のこと知ってたわけですし」
「知ってたって言っても、ここを案内しただけなんだから顔を見たことがある程度だろう? それは知ってるうちに入らないよ」
「そうですけど。なんだかずるい」
「柚は負けず嫌いだからな」
 自分の嫌なところをずばりと言い当てられて、なんだか落ち込む。何も言えなくなって黙々と大根を口に運んでいたら、含み笑いの基さんが「そんなところも可愛いけどね」と、さらっと言う。馬鹿にされている訳じゃないのは分かっているけれど、なんだか悔しい。でもその言葉自体は嬉しくて、むっとしながらも照れるという、何ともおかしな感情に支配された。
「都会の男の人は口が上手いって、本当だった……」
「都会の男って! せめて都会じゃなく都内か東京って言ってよ」
「うちの地元では都会で通じます」
 お腹を抱える勢いで笑う基さんにむっとする。
「誰にでも言うわけじゃないから。柚だけだからね」
 笑いながら言われても説得力は無い。

「そうだ、柚は年末は実家に帰るの?」
 気を取り直したように聞かれるも、何となくむっとした気持ちは収まらない。
「帰りません。帰っても誰もいませんから」
 ん? と疑問を顔に乗せ、続きを促す基さんに、年末年始のお休みは、両親は毎年決まった温泉に出掛けのんびり二人で年越しをすること、妹の香は長く付き合っている彼の所で年越しをするので、毎年独りになっていたことを話せば、基さんも一人で過ごしていたらしい。
「じゃあ、一緒に初詣行く? 行ってみたい神社ある?」
「本当ですか?」
 さっきまでむっとしていたのに、あっさり気分が上向く。有名な神社の名を上げると、基さんは少し嫌そうだ。
「えっと、ダメですか?」
「ダメじゃないけど、人がすごいよ」
「そっか。なら、どこでもいいかな。基さんは毎年行ってる神社があるんですか?」
 人混みは苦手だ。田舎育ちだからか、流れるように歩く都会の人について行けない。そもそも都会の人は歩くのが速すぎる。競歩かって勢いで男の人も女の人もみんながつがつ歩いて行く。
「いや、俺基本寝正月な人だから」
「だったら、無理に行かなくてもいいですよ。家でのんびりしているのもいいですよね」
「それは俺と二人でって事?」
「えっ、と、ダメですか?」
「ダメなわけないだろう。じゃあ、気が向いたら行くって事でいいか」
「はい。あっ、お節作ります?」
「いや。俺は栗きんとんがあればそれでいい」
「栗きんとんは実家から送られてくるので、それでいいかな。あとお餅も送られてきます。えっと、のし餅って分かります?」
 軽く首を傾げる基さんに、実家から一升分のお餅が平らに伸されて送られてくることを告げる。それが三枚だ。本当にこれも泣ける。一人で三升も食べられるわけがない。さすがに冷凍保存しているものの、ひと月ほど毎日主食がお餅になる。
「白いお餅はちょっと苦手なので、青のりや豆や昆布が入ったお餅が送られてきます」
「美味そうだな」
「美味しいですけど、毎日お餅だとさすがに嫌になりますよ。そうだ、蓮さんの所、お餅食べるか聞いてみてください」
「食うぞ。あの夫婦は和菓子も好きだから」
「じゃあ、あんこも送られてくるんです。これは母が作った物じゃなくて物々交換で手に入るらしいんですけど、地元の老舗和菓子屋さんのあんこだから美味しいんですよ」
 今年は基さんがいるから何とかなりそうだ。
「お節、デパ地下の買ってみる?」
「基さん食べたいですか?」
「柚が食べたいかと思って」
「いいえ。全く。むしろお節はあまり好きじゃないかも」
「なんだ、俺もだ。普通にご飯が食べたくなる」
「ですよね。お正月こそ出来たて作りたての普通のご飯が食べたくなります。それこそお鍋したり、すき焼きしたりって」
「それいいな」
「じゃあ、お鍋でもいいですか? 一人じゃお鍋にしても寂しい感じがしてあまり食べなかったんです」
 ひと月先の予定にわくわくする。今年のお正月は一人寂しかったからすごく嬉しい。家を出た最初の年は香ちゃんが気を遣って実家に残ってくれていた。それがなんだか申し訳なく思えて、今年は一人で過ごした。
「基さんともっと早く出会っていれば、今年のお正月も一人で寂しくなかったのに」
 そうだな、って笑いながら頭の上に手の平をぽんと乗せられた。そのままくしゃっと撫でられ、滑るように後頭部に回された手で、そっと基さんの方に寄せられた。軽く音を立てて離れていった唇に恥ずかしさが込み上げる。
「来年は寂しくないから」
 キスの恥ずかしさと、基さんに言われたことの嬉しさに、顔を上げることが出来ずに俯いたまま頷けば、もう一度ぽんぽんと頭を撫でられた。