隣にいる人
第五話基さんとのことがあったからか、その週は気分よく仕事が出来た。相変わらず嫌味を言ってくる同期の言葉は軽く流せたし、高橋チームの人もさりげなく庇ってくれる。本当にこのチームに拾って貰えてよかった。
朝ご飯に簡単なおにぎりやホームベーカリーで焼いたパンを用意したり、自分のお弁当と同じものを基さんの分も作るようになった。
朝炊いておひつに入れておいたご飯や、作り置いたおかずを温め直したり、アレンジし直したりして、夕食を一緒に取る。食べ終わると食器を洗っている間にコーヒーを淹れて貰い、顔を合わせてその日のことや他愛も無いことを話して、互いの部屋に戻る。
私の中では、とにかく基さんにご飯を食べても貰うことが最優先事項になっていた。
家に帰ると互いにきゅっと抱き合いおかえりを言い合う。互いの部屋に戻るときはおやすみとキスがセットになった。少しずつ基さんの外側も知っていく。
週末になり、届いた野菜を基さんが部屋まで持って来てくれたり、一緒にスーパーに買い物に行ったり、野菜を勝手に蓮さんに押しつけに行ったり、お返しにとコーヒーをご馳走になったり、土曜日は近所でまったりと過ごした。
夕食にその日届いた白菜と豚肉のミルフィーユ鍋を作り、はふはふと頬張る基さんが美味しそうに食べてくれるのを見てほっとする。顔を合わすことなくご飯を作っている間は、本当に口に合っているかどうかが分からなかった。だからか、こうして目の前で食べているのを見ると安心する。基さんが美味しそうに食べてくれるのを見ているだけで幸せな気持ちになる。
「俺、次の金曜日、忘年会なんだよ」
「私もです。同期の忘年会なので本当は参加したくないんですけど、そういうわけにもいかなくて」
うん、と優しく相槌を打ってくれるから、いつもならもつれてしまう言葉も基さんの前だと滑らかになる。
「チームの忘年会はその次の週の金曜日です。チームの忘年会は本当に美味しい物を食べられるので楽しみなんです。去年はかにしゃぶだったんですよ。今年はすき焼きにしようかふぐちりにしようかで随分と悩んでました」
「いいな、かにしゃぶ。同期の忘年会は居酒屋系?」
「そうみたいです。食べるより飲むみたいな飲み放題プランだって言ってました」
「柚、お酒ダメだろう?」
心配顔の基さんは食事をしながら時々お酒も軽く飲む。ビールだったりワインだったり日本酒だったりと、その時の気分で色々変わる。私はひと口かふた口で気持ち悪くなってしまうのでほとんど飲まない。
「だから行きたくないんです。チームの人は飲まなくても何も言わないんですけど、同期には一々文句を言う人がいるので」
「お店もう決まってる?」
「はい」
お店の場所と名前を教える。大規模再開発が行われているその副都心は、人が多い上に迷子になりそうで積極的に行きたい場所じゃない。事務所は同じ区でも比較的閑静な場所なのでそこまで人は多くない。
「俺もその近くだ。一次会で帰る?」
「そのつもりです」
「なら一緒に帰ろう。お店まで迎えに行くよ」
「いいんですか?」
「いいよ。その方が俺も安心」
あんなに嫌だった同期の忘年会が、基さんと一緒に帰れると分かった途端、楽しみなものに変わる。本当に私は単純だ。
「明日は一緒に買い物にでも行こうか」
「本当ですか? 実は通勤用のマフラーを引っかけちゃって。新しいのを買おうと思ったんですけど……」
「自分で選ぶ自信がない?」
「はい。選んで貰ってもいいですか?」
「いいよ。通勤用だから地味なのがいいんだろう?」
「香ちゃんが、通勤用はあまり悪い印象を与えないように地味なものにして、可愛いのはお休み用にすればいいって前に言ってたので」
「そうだな。俺もそう思う。柚が可愛いのは俺だけが知ってればいいし」
またそう言う恥ずかしいことをさらっと言う。恥ずかしさで俯きながらふと思う。もしかしてこの程度は普通なのかも。基さんも普通の顔で言ってるし。一々この程度で動揺する私の方がおかしいのかも。聞き流せるように頑張ろう。
その日の別れ際、初めて基さんから深い口付けをされた。キスなんて軽いものじゃなく、口付けと言いたくなるくらいのそれに、頭がくらくらとして、ほわほわと足元が覚束なくなり、基さんに部屋の中まで送って貰う羽目になった。基さんが家に戻るときにもう一度口付けられて息が上がる。体中が恥ずかしさと緊張で熱を持ち、どうしていいか分からなくなる。
そういう知識がないわけじゃない。ただ、まるで経験がないだけだ。この程度のことで狼狽えるなんて、嫌がられてしまうかもしれない。
「柚、そんな不安そうな顔しないで。嫌だった訳じゃないだろう?」
優しく問いかける声に小さく頷けば、抱きしめられている腕に力がこもる。
「もしかして、初めてで不安?」
「不安というより、基さんが嫌じゃないかって」
「ん? 俺は柚の全ての反応が嬉しいよ。なんか言い方がおっさん臭いけど」
自分の言葉に小さく笑っている基さんに、釣られるように小さく笑みがこぼれた。そっとその腕の力を緩め、かがみ込むようにしっかりと目を合わせられる。
「柚は何も心配しないで、俺のことをただ好きになってくれればそれでいいから」
「基さんが好きです。ただ好きなだけだからどうしていいか分からなくて」
「それでいいよ。不安なことは全部話して。知られたら気まずいなんて思わないで。俺は俺の知らないところで柚が不安になっているなんて嫌だから。気になることは全部話して。それで柚のこと嫌いになったりはしないから」
柔らかに目を細め、優しい音で話す基さんに思わず自分から抱きつけば、しっかりとその腕で捕まえてくれる。
「いいな。柚から抱きつかれるの」
聞こえてきた本当に嬉しそうな声に、恥ずかしがらず自分からも抱きつこうと心に決めた。
翌日、朝ご飯を一緒に取ったあと、基さんに服を選んで貰って一緒に出掛ける。
「本当に柚は平日と休日じゃ別人みたいだな」
「服が違うだけなのに?」
「平日は眼鏡もしてるだろう?」
「パソコンを使うことが多いので、コンタクトだと目が疲れちゃうんです。そこまで視力が弱いわけじゃないので家にいるときはどっちもしてませんし」
「髪も結わえてるだろう?」
「それは仕事しに行くんだから当たり前じゃないですか? 髪が邪魔になりますし」
平日は肩を超える長さの髪を後ろでひとつにまとめている。眼鏡をかけて、基さん曰く、グレーや紺色の泣けるほど野暮ったい服装で通勤している。仕事に行くだけなので、可愛さは要らないと香ちゃんにも言われている上、自分でもその通りだと思う。
逆にお休みの日の洋服は、香ちゃんが可愛いと褒めてくれるだけあって、確かに可愛い。それを着ているだけで自分も可愛くなれるような気がする。ただ、私が組み合わせると時々香ちゃんが顔を顰める事態になるので、なるべく香ちゃんが組み合わせてくれたパターンの中から選ぶようにしている。
「買うお店決まってる?」
「特に。香ちゃんからは悩んだらこのお店って教えて貰ってますけど、今日は基さんがいてくれるので……」
「じゃあ、俺が選ぶのでいい?」
肯けば、色々見て回ろうと、隣のターミナル駅の駅ビルに連れて行ってくれると言う。
なんと基さん、車を持っていた。隣のマンションの駐車場に停められていた一台のステーションワゴン。
地元じゃ車を持っていないとコンビニにすら行けないけれど、都会じゃ車がなくても平気だ。むしろ車は駐車場を探したりと面倒で邪魔になるのではないかと思う。
「この車は蓮と共同で使ってるんだよ。俺は基本週末が休みだし、蓮たち夫婦は平日が休みだからかち合わないんだ」
そう言って助手席のドアを開け、どうぞと乗せてくれた。こんな風に誰かにドアを開けて貰った事なんてない。都会の男の人にとっては普通のことなのだろうか。うちの父が母にしているところも見たことはない。
エンジンが掛かり、ふとシフトを見て驚く。
「すごい。マニュアルですか?」
しかも六速だ。父もマニュアルにこだわっている。
「柚も免許持ってるの?」
「はい。地元じゃ車がないとコンビニにも行けませんから。でもオートマ限定です」
「マニュアルの方が楽しいのに」
「半クラが無理です」
「半クラとか知ってるんだ」
車を運転する基さんは何だか楽しそうだ。そして、その運転はすごく優しかった。ブレーキを踏んでもほとんど体が動かない。母や妹は運転がちょっと荒いので、いつだって体が前後に動く。父の運転すら基さんのそれと比べると荒く感じる。
駅ビルの駐車場は少し混んでいて、敷地内には入れたものの停めるのに時間がかかりそうだった。
「先に降りてお店見ててもいいよ」
「えっと、一緒にいてもいいですか?」
一人でお店を見て回るのは少し苦手だ。つくづく自分一人だと何も出来ない。二十四にもなって、本当に情けないけれど。
「俺は一緒にいたいからそれでもいいけど、退屈じゃない?」
小さく横に顔を振れば、基さんが頭の上に手の平を乗せてぽんぽんと撫でてくれる。
他愛もない話をしているうちに車は少しずつ進み、二十分もしないうちに駐車出来た。地に潜るかのような地下の駐車場なんて地元にはないからか、すごくわくわくする。基さんが手を引いてくれるのをいいことに、きょろきょろと周りを見渡していたら、笑われてしまった。
「地下の駐車場が珍しい?」
「はい。地元にはないので。都会に来て初めてです」
「だから、都会じゃなくて都内って言って」
さもおかしそうに笑う基さんは、行き先が分かっているかのように迷うことなく歩いて行く。その歩みは私に合わせてくれているようで、随分とゆっくりに見えるのに、私にとっては普通より少し早い。きっと基さんのペースに合わせると、私は小走りになってしまうだろう。
そんなことを考えていたら、基さんの歩く速度が更に緩んだ。私がいつも歩く速さになる。もしかして、合わせてくれた? 基さんを見上げれば、ん? って顔で見返された。
唐突に、この人が好きだという気持ちがぐっと込み上げた。
今までも好きだったけれど、それは恋と呼ばれるような淡くふわふわとした気持ちで、今はっきりと恋を超えて、しっかりと重さをもって定まった気がする。
この気持ちは、ちゃんと伝えようと思った。
「基さん、すごく好きです」
思い切って、でも恥ずかしくて小声でそう告げると、基さんの表情がふわっと綻ぶ。
「そう言うこと外で言わない。帰ったらもう一回言って?」
繋いだ手に力を込められた。さっきよりももう少し側に寄って歩けば、二人の間にあった僅かな隙間がなくなる。それが嬉しくてついつい口角が恥ずかしいほどに上がってしまう。
「どんなマフラーにする?」
「今までもグレーだったので……」
「あの黒いコートに合わせるとやっぱり無難なのはグレーかなぁ。本当は赤や白も可愛いけど」
柚は肌が弱そうだから、と基さんが選んでくれたのは、オーキッドグレーの柔らかな手触りのものだった。お金を払おうとする基さんを振り切って自分で払う。
「柚さ、俺のこと貧乏だと思ってる?」
「思ってません。でも自分の物は自分で買います。私だって働いているんですから。それに、どうせなら通勤用じゃなく、普段着用を買って欲しいかも。ちゃんと見て貰えるし。あっ、でもお強請りしてるわけじゃありませんからね」
慌てて否定すれば、面白いものを見るかのような目で見られる。こういう時、もっとスマートに格好良く思っていることを口に出来るようになりたい。
「じゃあ、アクセサリーにしようかな。柚、指輪とネックレスどっちがいい?」
「えっ、と、どっちもいいです」
「欲しくない? 彼からのプレゼント」
少し意地悪そうに笑う。
「そりゃあ、そういうのに憧れますけど……」
彼から貰ったと幸せそうに笑う妹を思い出した。すごく羨ましかったし、いつか自分だってって思っていた。でも、いざとなると本当にいいのかなって遠慮の方が大きい。
「じゃあ決まりだな。どっちがいい? 柚が俺の彼女って印だから毎日付けられるものがいいな」
「えっと、基さんが選んでくれた物ならどっちでもいいです」
「じゃあさ、知り合いの店でもいい? 柚に似合いそうな可愛い感じのがあったはずなんだ」
頷けば、すぐそこだからと歩いて向かう。
お店は駅ビルのすぐ側にあった。小さなお店。ショーウィンドウに飾られたアクセサリーはすごく素敵な物ばかりだ。
「いらっしゃいませ。って、なんだモトか。おっ、彼女か?」
落ち着いた雰囲気の店内には、クリスマスが近いからかそれなりにお客さんがいて、それぞれ寄り添うようにショーケースを覗き込んでいる。見るからに幸せそうだ。
「柚、高校の時の同級生でこの店のオーナー。ここのアクセサリーは全部こいつが作ってるんだ。で、俺がこの店のサイトを作ってる」
「初めまして。佐々木柚です」
「初めまして。みやびの鈴木雅です」
やっぱり格好いい人の友達は格好いい。蓮さんとはまた雰囲気の違う都会の男の人。まさは雅と書くらしい。こういう時、私もゆずのゆうですと言った方がいいのか悩む。大抵後で漢字を知って、ゆうって柚って書くの? と驚かれる。優だと思う人が多い。
「で、彼女へのプレゼント?」
「そうなんだけど、やっぱ指輪かなぁ。似合いそうなのある?」
考え事をしていたら急に雅さんに手を見せるように言われ、両手を出せば、少し笑われた。
「モト、右? 左?」
「左」
ふーん、とにやにやしながらも雅さんがいくつか指輪を見繕ってくれる。そのうちのひとつに目が釘付けになった。小さなピンクの石が真ん中にひとつだけついている細めのシンプルな指輪。その透き通るようなピンクの石があまりにも可愛くて目が離せない。不意に横から延びてきた指がそれを摘まんだ。
「これがいいな。これが一番柚っぽい」
見ていた物と同じ物を基さんが選んでくれたことに、驚くと同時に嬉しさが込み上げる。基さんがそれを左手の薬指にはめてくれた。指にぴったりなサイズに驚きながら、はめられた指に戸惑う。
「まだ先の話になるだろうけど、そう言う意味もあるから」
どう返していいか分からないものの、それはすごく嬉しい。素直にそう思える。どうしようもなく頬が緩んで、自然と口元に笑みが浮かぶ。
「ちなみにこれ、セットのネックレスもある」
「じゃあそれはクリスマスプレゼントだな」
クリスマスなんてもうすぐそこだ。
「指輪だけで充分です。ネックレスはまた今度で。指輪をクリスマスプレゼントにしてください」
「だから柚、俺貧乏じゃないからね」
「貧乏とかどうでもいいです。そんな短期間に二つも貰ったらどしていいかわからなくなります」
「柚、誕生日は?」
「一月ですけど……だから、来年でいいです」
「ゆうちゃん、同じデザインのメンズのブレスレットもあるよ」
基さんと言い合っていたら、雅さんがそう言って見せてくれたのは、ネックレスと同じデザインのシンプルなブレスレットだった。こっちには丸い小さな黒っぽい石が一粒はめ込まれている。真っ黒じゃなくて透明な石の中にたくさんの黒い線が走っている面白い石だ。初めて見た、こんな石。
こっそり耳打ちしてくれたお値段は、何とかなりそうな額だった。
「お前……あくどいな」
「そりゃ、貰うばっかりじゃ気を遣うよな」
思わず肯けば、基さんが苦笑いしている。雅さんはすごく嬉しそうにニコニコと笑いかけてくれる。
「ちなみに同じ石の付いた同じデザインのブレスレットもある。指輪は今日、ネックレスはクリスマス、ブレスレットは誕生日だな。ゆうちゃんピアスホールあるね、ならピアスも作ろうかなぁ」
「お前、本当にあくどいな」
「商売上手と言って」
「まとめて全部」
どれだけ遠慮しても笑って聞き流された。だから遠慮する基さんの言葉を私も同じように笑って聞き流し、雅さんにブレスレットをお願いした。
「基さん、指輪とネックレスもお揃いにしますか?」
「しません。ブレスレットだけで充分。かえってお金使わせちゃったな」
「私も何か贈りたかったので。えっと、彼氏の印? 着けて貰えますか?」
目を細めて二度小さく頷いた基さんが、頭の上に手の平を乗せる。基さんは良く手の平を頭に乗せる。私の頭の位置は手の平を乗せやすい位置なのだろうか。
「毎日着けて」
「基さんもですよ?」
互いにカードで支払いを済ませ、綺麗にラッピングされた商品を受け取ると、雅さんはすごくご機嫌だった。
「モト、一気にうちの上客だな」
「何が上客だよ」
「結婚指輪は俺が作ってやる」
「おう。そん時は頼む。雅、次回の打ち合わせは時間厳守しろよ」
冗談を言いながら誤魔化すように笑う雅さんは、時間にちょっとルーズらしい。
基さんから貰った指輪とネックレス、ブレスレットの全ては、その日のうちに基さんが全て着けてくれた。お返しに基さんのブレスレットは私が着ける。何だか何かの儀式みたいで嬉しいような恥ずかしいような、すごく幸せな気持ちになった。
着けて貰ったそれ以来一度も外していない。自分で外す気にはどうしてもなれない。
普段目に入るのは指輪だけで、ネックレスもブレスレットも服の下に隠れている。時々ちらりと袖からブレスレットが顔を出していて、それを目にするだけで幸せな気持ちになれる。
「佐々木さん、彼が出来たの?」
ヒートカッターでスタイロフォームを切りながらボリューム模型を作っていると、同じチームの守谷さんに話し掛けられた。勤務中に仕事以外のことを聞かれるのは珍しい。
うちのチームは男性五人、私を含めて女性三人、計八人でひとつの仕事をしている。女性は守谷さんと佐野さんの二人で、時々野菜を貰ってくれる既婚者だ。守谷さんにはまだ小さなお子さんがいて、時々どうしようもなくて早退したり遅刻したりしてしまう。それをフォローするために私が入れて貰えたらしい。
この事務所は基本給に各チームの出来高がプラスされる。のんびり仕事をするチームは、お給料はそこそこだけれど一つの仕事をじっくり腰を据えて行う。とにかく稼ぎたいチームは同時にいくつも抱えて、毎日深夜まで働いている。うちのチームはどちらかというとのんびりじっくりタイプで、一度に抱えるのは規模の小さな仕事なら三件、大きな仕事なら一件と決めているらしい。
少し恥ずかしくなって小さく頷けば、守谷さんは「よかったわね」と優しい笑顔をくれた。
必要なパーツをカットし終わり、ヒートカッターの電源を切ったところで、再度守谷さんに話し掛けられた。本当に珍しい。
「婚約指輪?」
「まさか。まだお付き合いし始めたばかりです」
でもそれ……と言ったあと、少し表情を改めて続けた。何を言いかけたのか気になったけれど、それは続いた言葉に掻き消えた。
「その彼に、第二の山木君のこと話してある?」
第二の山木とは、私を目の敵にして顔を合わせる度に嫌味を言ってくる同期だ。最初は親切ごかしに私が所属しているチームのことをあれこれ言い始め、黙って聞き流しているうちにそれは批判に変わり、どうしたものかと思っているうちにその批判を言っているのは私だと周りに誤解されるようになった。
おかげでそのチームからは外され、別のチームに移動しても同じようなことが起き、今のチームに拾って貰うときに守谷さんに予め相談した。守谷さんがチーム内に話を通してくれたおかげで、私も今度ばかりは反論している。
それがまた気に入らないのか、最近は個人的なことを攻撃をするようになってきた。要するにダサいとか、仕事が出来ないとか、そう言ったたぐいのことであり、私自身が気にしなければ害のないことでもあった。
「そこまでは話してませんけど、それらしいことは話してあります」
「今週末、同期の忘年会なんでしょ? 彼に話して迎えに来て貰った方がいいと思う」
「あ、はい。一応一次会が終わる頃に迎えに来てくれることになってます。丁度向こうも近くで忘年会だって言ってたので」
「ならいいけど。あんまり酷いようだと向こうのリーダーに高橋さんから話して貰うようにするから」
心配そうな守谷さんは、いつだってさりげなく私を庇ってくれる。
「大丈夫ですよ。文句は聞き慣れてますから」
「聞き慣れていいことじゃないわ。彼、ちょっと歪んでるっぽい感じがするから……。とにかく気を付けて。何かあったら私か佐野さん、高橋さんやチームの誰でもいいから言うこと。絶対に一人で抱えないようにね。指輪の彼には忘年会までに話しておくこと」
はい、と言いながら頷けば、守谷さんは少し心配そうな気配を残して現場での打ち合わせに出掛けた。
第一から第三まである設計部は、各フロアごとにそれぞれ別れているので、第一のフロア内にいれば遭遇することはない。ときどき一階にある総務に行ったり、コピー室に行ったりするときに遭遇してしまうくらいだ。顔を合わすのが嫌で社食を利用するのもやめた。
文句を言ってくる彼のチームはがっつり仕事をするチームなので、会社の行き帰りに遭遇することもない。出勤時はたまたま佐野さんと同じ路線なので、大抵乗り換えの駅で電車から降りるとその姿を見付け、いつも一緒に通勤している所為もあるかもしれない。
彼は自分より先に入社している人の前では文句を言ってこない。大抵同期同士や後輩のいる場で馬鹿にされている。
守谷さんが歪んでいるというのも正直頷ける。なにせあれだけ馬鹿にしたり悪口を言われたり、嫌がらせのようなことをされているのに、事もあろうか告白されたのだから。あれは告白と言うより強要だ。「付き合ってやる」と、馬鹿にしているのかと思うほどに尊大な言い方で。
当然断った。好きになる要素なんてどこにもない。むしろ嫌わない方がおかしい。それもあって、文句の内容が仕事のことではなく私自身のことに変わっていった。
これもこっそり守谷さんには話してある。言われる内容が時々耐え難くなることがあって、ついトイレで泣いてしまったのを守谷さんに見られ、ついつい愚痴ってしまったからなのだけれど。
「そうしたら責任感の強い守谷さんがとにかく怒りまくって、私の方が彼女を宥める羽目になりました」
守谷さんに言われたこともあって、ノー残業デーの水曜日に基さんに話した。
「柚の部署の同期は?」
「私の他に男の人が二人です。第二はその彼ともう一人男の人、女の人が二人で、第三は男の人が三人と、女の人が一人です」
「女の子の同期は頼りになりそう?」
「どうでしょう。最初に所属したチームが第三で、その時の影響があるから第三の人にはよく思われていないと思います。その後第一の今とは別のチームに入って、更に今のチームに入るときに守谷さんに相談したので、第一では誤解だって分かって貰えていると思いますけど……」
難しい顔をしている基さんは、難しい顔をしながらもすごく心配してくれている。
本当は、話す事が少し怖かったけれど、嫌いにならないって言ってくれたことや、守谷さんに言われたこともあって、思い切って打ち明けてみた。自分ではどうしようもないことで、相手がどうであれ誰かに文句を言われていることなど、出来れば好きな人には知られたくない。
「柚さ、どうしようもないときは仕事やめてもいいからね。柚一人くらい俺が養えるから」
「大丈夫ですよ。今のチームはいいチームなので」
「それでもさ。どうしようもないことだってあるだろう? まあ、金曜日はあの雅んとこの忘年会だから何とでもなるし、少し早めに柚の店に行ってるよ」
「いいんですか?」
「いいよ。雅より柚の方が大事」
まただ。嬉しいけれど恥ずかしいから、そういうことをさらっと言わないで欲しい。でも言われると嬉しいから言って欲しいって気持ちにもなる。最近自分の中が色々とかみ合わない。