隣にいる人
第三話アイアンのロングハンドルの付いた濃い茶色の重そうな木製の扉を開けると、ちりりんと澄んだ高い鈴のような音が鳴る。
ふわっと香るコーヒーの香り。中は思ったよりも明るい。カウンターの真上からその内側にかけて勾配天井となり、そこに横に細長い天窓が設けられている。そこから降り注ぐ自然光が柔らかい。カウンター八席と、デザインが全て違う二人がけのテーブル席が三つだけの、すごく居心地の良さそうな、少し古めかしいような、どこか懐かしいような、そんな雰囲気のお店。
「ああ、モトか。今日は遅かったんだなって、あれ? 彼女?」
「出来たてほやほや。柚、この店のマスターで俺の友達の蓮(れん)。レンコンの蓮」
「初めまして。ゆうさん? ここのマスター? の野々宮蓮、ハスの花の蓮です」
レンコンとわざと言っている基さんを睨みながら、これまた都会的な雰囲気を持つ蓮さんが訂正を入れる。格好いい人の友達も格好いいとは。類友だろうか。
「初めまして。佐々木柚です」
脚がアイアンで出来たお洒落なカウンターチェアを基さんが引いてくれた。よじ登るようにして何とか座ると、基さんの口元に笑みがある。
「柚はちんまりしてるな」
「この椅子が高いんです」
小さくはない。平均身長より少し低い程度だ。
「身長いくつ?」
「……百五十七。基さんは?」
「俺、百八十五」
「基さんが大きすぎるんです」
カウンターチェアに軽く腰掛け、それが妙に様になっているから恨めしい。
「今日はどうする?」
「そうだな、ちょっと落ち着きたい」
「わかった。ゆうさんは?」
基さんと蓮さんの会話がよく分からない。蓮さんは注文を聞いたんだよね?
「ここ、その日の気分によってブレンドもしてくれるんだよ」
「へぇ。面白いですね。えっと、じゃあ、……私も少し落ち着きたいかも」
蓮さんが「了解」と可笑しそうに笑いながら、いくつかのコーヒー豆が入っているガラスの保存容器をカウンターに並べ、豆の量を量りながらブレンドしていく。適当に混ぜているように見えるけれど、きっと蓮さんの頭の中では計算されているのだろう。
「柚、ケーキ食べる? ここのケーキも確か旨いよ」
「食べます」
がりがりと豆を挽く音が響き、コーヒーのいい香りが漂い出した。
「蓮、今日のケーキ何?」
「レアチーズ」
基さんに、いい? って顔で見られ、頷けば、基さん自らお店の奥にある小ぶりの冷蔵ケースの中からケーキを持ってきてくれた。すでにお皿にのってフォークも添えてある。
「これも蓮さんが作っているんですか?」
「いや。これは蓮の奥さんが作ってるんだよ。蓮の奥さんはほら、駅に行く途中にあるポッケってケーキ屋があるだろう? あそこのパティシエなんだよ」
「あっ、知ってます。お給料が出ると必ず買いに行ってます」
ドリップしながら蓮さんが「毎度どうも」と少し嬉しそうに笑う。雑誌にも載るほど有名なケーキ屋さんだ。甘すぎず可愛らしケーキは私も大好き。
「でもこのレアチーズは見たことないかも。お店のレアチーズは丸い形ですよね」
目の前のレアチーズは長方形だ。
「試作なんだよ。蓮の奥さんの趣味で作った試作がここで食べられるんだ」
いただきます、そう言ってフォークを入れれば、思ったよりも抵抗がない。口に入れれば、ふわっと軽くて舌の上でとろけていく。それなのに舌に残るのは仄かな酸味と濃厚なクリームチーズの味と香り。
「これ、レアチーズ?」
「旨いだろう? これは俺も旨いと思ったんだよね」
蓮さんが得意気な顔をしながらコーヒーを目の前に置いてくれた。基さんは黙ったまま大きな口でぱくぱくぱくと三口で食べ終える。呆気に取られて凝視していると、ん? って顔で見られるから、なんだか少し恥ずかしくなって慌てて前を向く。前を向けば向いたで、今度はにやにやしている蓮さんと目が合った。
「で、出来たてほやほやの彼女ってことは、ゆうさんがモトにご飯をちゃんと食べさせてくれてた人?」
彼女だって。初めて言われた。
にやけそうになる口元を誤魔化すのと、蓮さんのにやにやから逃げるようにカップに視線を落とし、そうです、と返しながらひと口含めば、まろやかな香りと味が口一杯に広がり、それは頭のてっぺんからふわっと抜けていくようだった。これもまた美味しい。
「何だろう、まろい?」
「ああ、確かにまろいな。角がない」
基さんを見ればふわっと柔らかに笑う。
「基さん、ご飯ちゃんと食べてないんですか?」
「食べてないんだよ。放っておくと三日くらいコーヒーばっか飲んでる」
答えてくれたのはにやにや顔の蓮さんだ。
「お腹空かないんですか?」
「空いても作るのも買いに行くのも注文するのも面倒がるんだよ、こいつは」
「おい。俺抜きで俺のことを語るな」
むっとした顔の基さんに、思わず「普段何食べてるんですか?」と聞いてしまう。
「柚の作った飯と、打ち合わせ先で食べる飯と、ここで食う飯」
「ここって食事も出来るんですか?」
「出来ません。こいつが腹減って死にそうな顔してるから仕方なく、えーと、賄い? 食わせてるだけ。ここ最近はゆうさんが食べさせてくれていたからか来なかったけど」
蓮さんの呆れたような顔に、基さんの眉間に皺が寄る。賄いってことは……。
「ちゃんと飯代も払ってるのに」
「当たり前」
「あの! 蓮さん、大根いりませんか?」
思わず叫ぶように声を上げると、隣から大きな笑い声が弾けた。蓮さんがきょとんとした顔で「大根?」と呟いている。
基さんが笑いながらうちの状況を説明すると、蓮さんまでもが笑い出す。
「三本、出来れば四本貰って頂けると助かるんですけど」
「うちはむしろ喜んで貰うけど、いいの?」
「助かります」
「柚、残り何本?」
「十二、三本あったから、七、八本くらい」
「なんとかなる?」
「毎日一本食べればなんとか」
蓮さんが、ぶはっ、と吹き出すように笑う。
「ちょっと待ってて、ポッケの賄いに使うか聞いてみるから」
そう言って奥でポッケに電話を掛けてくれる。
「基さん、ちゃんとご飯食べて下さいね。こないだまた送られてきたカボチャもまだありますから」
「あったね。あのこざっぱりした部屋に、野菜のダンボールが三つも」
くつくつと笑う基さんを睨んでいると、蓮さんが電話を終えて戻ってきた。
「ポッケも四本貰ってもいいかって」
「本当ですか? 助かります。あとカボチャもいりませんか? 来週は白菜の予定らしいんですけど。今流行りのオーガニック野菜です。完全無農薬です!」
ここぞとばかりに売り込んだ。隣から笑い声が聞こえてくるけれど、こっちは必死だ。事前に次は何が送られてくるかは妹が毎回知らせてくれる。
「これがかなり美味しいんだよ、佐々木家の野菜」
それを聞いた瞬間、蓮さんが僅かに目を瞠り、嬉しそうでいてほっとしたような、力の抜けた笑顔を見せた。何かに安堵したらしい蓮さんに、一体何にほっとしたのかと微かな疑問が湧く。もしかして、基さんは野菜嫌いだったのだろうか。
「そっか。じゃあ、後でモトに持たせて。来週は白菜ね。ポッケにも伝えておくよ」
やった。これなら残りは普通に消費出来る。
「うちの宅配ボックス使ってるのって、主に柚だよな」
「うちの?」
しまった、って顔の基さんから大きな溜息がひとつ零れた。
「あのマンションの大家が俺なの」
「ついでに言うとここのオーナーもモトだからね」
「基さんが大家さん?」
不動産屋さんじゃないって言われたときの違和感を思い出した。そうだ、不動産屋さんじゃないのにどうしてこのマンションを案内してたのか、って──。
「案内しながら入居希望者の審査をしていた?」
「当たり」
誰も大家さんを知らないわけだ。疑うことなく不動産屋さんだと思ってた。不動産屋のブレザー着ていたし。
基さんが言うには、不動産屋さんだと思って横柄な態度を取る人が中にはいるそうだ。そういう人はもれなくお断りしているらしい。
「えっ、と、じゃあどうして私の名前知らなかったんですか? 大家さんなら知ってますよね、普通」
「管理はあの不動産会社に任せてるからね。何か問題が起きない限り住人の個人情報は見てない」
それって普通なの? 思わず蓮さんを見たら苦笑いしてる。どうやら普通じゃないみたいだ。
こっちのコーヒーショップが一階にある方のマンションは、四階建てで、2LDKが八戸あるそうだ。蓮さん夫婦はその最上階に住んでいる。一階にはこのコーヒーショップと事務所、駐車場があるらしい。
「柚、お昼何食べる?」
カウンターの正面にあるアンティークっぽい柱時計を見れば、お昼になろうかという時間だ。
「家に帰って大根食べます」
蓮さんがまた、ぶはっ、と吹き出す。だって食べないと減らない。
「でも貰い手が見付かっただろう? 蓮、久しぶりにオムライス作ってよ」
「しょうがないな。丁度昨日デミグラスソース作ったし。大根貰うお礼にゆうさんも食べてって」
そう言い残して、蓮さんがカウンターの奥に消えていった。いいのかな? と基さんを見れば、笑いながら頷いている。
「蓮の作る飯も旨かったんだよ。たまには柚も誰かにご飯作って貰いたいだろう?」
旨かった、と言う言葉に微かに引っかかりを覚えつつ肯けば、「だよな」と楽しそうに目を細めて笑う。それがなんだかすごく格好良く見えて、この人が私の彼なんだと思うと急にドキドキし出した。
「どうした?」
「ん、えっと、基さんは格好いいのに私でいいのかなって」
基さんと釣り合うくらい、もっと綺麗だったら良かったのに。自分の何も塗られていない短い爪を見て思う。毎日料理をするからネイルはしない。でも磨いてはいる。少しでも綺麗に見られたいから、自分なりに努力はしているけれど、それが生かされている気がしない。
「は? 俺は別に格好良くはないだろう? 背が高いだけで」
「すごく都会の人っぽいです。垢抜けてるっていうか。蓮さんもそうですけど」
「何その田舎者くさいセリフ」
基さんが眉間に皺を寄せながら、少し面白そうに笑う。
「田舎者ですから」
何だか言い方が卑屈っぽくなってしまう。
「もしかして、妹さんの入れ知恵?」
「何がですか?」
「その田舎者思考」
実際に田舎だ。実家の周りは畑と田んぼが多い。車がないと生きてはいけない土地だ。五台に一台は軽トラックを見かけるような。普通にタヌキやキツネを見かけるし、時々熊も出る。畑はサルやイノシシ対策が欠かせないし、シカ注意の道路標識まである。
「お姉ちゃんは田舎者なんだから都会の悪い男に騙されないように、って言われてましたけど……」
「なにその一昔前のおばさん臭いセリフ」
基さんが呆れ顔だ。でも妹は真剣にそう言っていた。私は騙されそうだって。
「私は香ちゃんと違ってあんまり出来がよくなかったので。見た目も地味ですし」
「地味って……それ態とだろう? 妹さんが態と地味にさせてるんだろう?」
「態と? ですか?」
「多分ね。柚を守るためだとは思うけど、それで柚が自信なくすようじゃ、意味ないから。部屋着とかめちゃめちゃ可愛いのに、通勤用が泣けるくらい野暮ったい」
「そうなんですか? 妹が言うには真面目な社会人風だって言ってました。会社では割ときっちりしてるって言われてますけど……」
「そう言ってるの爺さんたちばっかりだろう? 一昔前の楚々としたお嬢様風だもんなぁあれ。若い人には褒められないだろう?」
言われてみれば。むしろ馬鹿にされたような顔をされていたのは、私自身がどうこうの前に、着ている服が今時っぽくないから?
「違うの着て行った方がいいでしょうか」
「いや、制服と割り切ればいいよ。あれはあれで年配の人には受けがいいと思うから、悪くはない」
でもさっき泣けるほど野暮ったいって……言ってたよね、と基さんを見れば、ふいっと目をそらされた。
「可愛いゆうさんはモトだけが知ってればいいってことだよ。はい、お待たせ」
美味しそうな卵とバターの香りに思わず顔が綻ぶ。蓮さんが目の前でピラフの上に乗ったオムレツにナイフを入れると、とろりとピラフが卵に覆われていく。そこにデミグラスソースをかけられたら、もうたまらない。
はい、と手渡されたスプーンを握りしめ、お行儀悪く「いただきます」と言いながら、スプーンでひと口すくう。「召し上がれ」との蓮さんの声を聞いた瞬間、口の中に幸せの素を入れた。んんん、幸せ!
あまりの美味しさに基さんを見れば、スプーンを持ったままじっと見られていた。ん? と首を傾げれば、心なしか赤い顔で「旨いか?」と聞かれる。
「すっごくおいしいです。とろっとろの卵がたまらない」
「モト、気を付けろよ」
「だなぁ」
何を言っているのか分からずに、首を傾げれば、頭の上にぽんっと手を置かれた。
「柚は旨そうに食うなぁって事」
「だって、すっごく美味しいですよ。すっごく」
「喜んで貰えてよかったよ」
蓮さんに訴えるように言えば、笑いながら基さんの隣に座り、自分も食べ始めた。「我ながら旨い」と言いながら。まさにその通り。本当に美味しい。
基さんの「本当だ、旨いな」としみじみと零した言葉に、蓮さんがすごく嬉しそうに笑った。
珈琲纁(そひ)を後にして、基さんと一緒に公園を散歩する。昨日の雨はさっと降っただけで夜中には上がっていた。小春日和と言わんばかりのぽかぽかとした暖かさと、美味しいものを食べてお腹が一杯になった満足感に気分が上がる。
「もう随分と葉が落ちてますね」
カサカサと冬を呼ぶ音が足元から聞こえてくる。子供の頃に読んだ絵本の影響か、この音を聞くと冬の妖精がやってくるような気がする。
「今年ももうすぐ終わりですね」
踏みしめればハリハリともパリパリとも聞こえる。葉が茂る季節には届かない日の光に照らされた大地が、赤や黄に染まる。
「楽しそうだな」
「好きなんです。紅葉しているよりも落葉した方が」
「もしかして、満開の桜より散る花びらの方が好き?」
「はい。大地が薄紅に染まっているのが好きです。基さんは?」
「あんまり意識したことなかったな。でも柚が楽しそうなのは見ていて楽しい」
目を細め、柔らかに笑いながらそんな風に言われると、すごく照れる。都会の男の人はドラマや映画のセリフのようなことを照れることもなくさらっと言うから困る。誰もがそうなのか、基さんがそうなのか。
「柚、クリスマスは一緒に過ごせる?」
「はい。予定はありません」
基さんが手を伸ばしてくるから、咄嗟にその手を取れば、しっかりと指を交差させるように握られた。恥ずかしくて緊張する。でもそれ以上に嬉しくて頬が緩む。少しかさつき始めた手が、指の長い大きな手に包まれる。もっとハンドクリームを塗り込もう。
「そうだ、あの、ポッケのクリスマスケーキ予約してもいいですか? 毎年一人じゃ食べられないから我慢してたんです。一緒に食べて貰えます?」
「いいよ。その日は外で食事でもする?」
「んーっと、どうかなぁ。その頃になると落ち着くんですよね。後はジャガイモとかサツマイモとか、保存の利く物が送られてくるだけで。あ、リンゴが送られてきます。畑の脇にリンゴの木が生えているんです。あと庭に柚子も生えています。さすがにそれは生で送ってこないでって言ってあるので、後でジャムになって送られてきますけど──」
「柚? もしかして緊張してる?」
言われて初めて、自分が思っている以上に緊張していることに気付いた。
「そう、かも。あの、初めてで。男の人とお付き合いするの」
くいっと繋がれた手を引かれ、基さんのすぐ側まで引き寄せられる。こんな風に指を絡めて手を繋いだこともなければ、こんなに近くに男の人の存在を感じたこともない。
「こういうのも初めて?」
その腕の中にふわっと囲まれた。緩く囲われた基さんの腕の輪の中で、どうしていいか分からなくなる。
基さんといると、まるで自分が十代の頃に戻ったような気持ちになる。子供っぽいというか、その思考や口調までもが子供の頃に戻ってしまう。こういう事は高校生のうちに終わらせておくことだったのかもしれない。
「あの、子供っぽくてすみません」
「ん? 子供っぽくはないよ。可愛いだけで」
どうして都会の男の人は、恥ずかしげもなくそんなセリフを口に出来るのだろう。それともこのくらいは普通なのか。二十四にもなって恋愛経験がなさ過ぎてよく分からない。
「柚」
呼ばれて顔を上げると、目の前に迫る基さんの顔と、唇に触れた柔らかな何か。
「何もかも俺が初めてって言うのは、俺にとっては嬉しいことだよ」
もしかして、キスされた?
「びっくりした?」
何度も頷けば、くつくつと笑う基さんに、今度はぎゅっと抱きしめられた。ふわっと香る基さんの香りに、頭の中がくるくると回り始める。
「のぼせそう」
思わず零れた声は、恥ずかしいほどに上擦って聞こえた。
「俺ものぼせそうだ」
絶対にのぼせてなんていないしっかりとした声に、むくむくと反発心が湧く。
「覚悟しといて」
何か言ってやろうと思っている矢先に、基さんの声が聞こえた。何のことか分からずに顔を上げると、びっくりするほどに真面目な顔で見下ろされている。
「俺、きっと柚を手放せなくなると思う」
「きっと私も基さんの側じゃなきゃ嫌だと思います」
するっと出てきた自分の言葉に、自分の気持ちを知らされた。
そうだ、この人の側はすごく居心地がいい。子供っぽくなってしまうのは、きっとそれだけ心を許しているからだ。
名前も知らず、顔を見ることもなく、同じものを食べ、同じものを飲み。
たくさんのとりとめもないことを語り合い、それを積み重ね、凝縮して、また積み重ね──。
そんな風に先に内側に触れ合ってきたからこその、居心地の良さや、安心感が基さんにはある。
こうして触れ合っていることに、どうしようもないほど安らぎを覚える。
やっと触れ合えた、そんな気さえする。
そっと基さんの体に手を回して抱きつけば、基さんから細く長い吐息が漏れた。
「本当、いい歳してのぼせそう」
その囁きに顔を上げると、そっと体が離されたと同時にかがみ込んだ基さんがもう一度啄むようなキスをくれた。好きな人から貰うキスは、すごく幸せで、うっとりとしてしまうほど嬉しいものだって、初めて知った。
「柚、ここ外だからね。あんまり可愛い顔しないで」
慌てて周りを見渡せば、辺りに人影は無い。慌てる私を笑う基さんは、なんだか余裕があって悔しい。
「帰るか」
「はい。今日の夕ご飯、大根でもいいですか?」
「いいよ。ブリでも買ってきてブリ大根にでもする?」
「いいですね。でもブリ大根は綺麗に出来ないんです。いつも必ずひとつはブリを崩しちゃって」
カサカサと足元で音を立てる落ち葉を目にしながら、基さんと手を繋いで歩く。
「冷えてきたな。柚の手が冷たい。買い物に行く前にコート着てこよう。おでんでもいいな。大根メインのおでん」
「基さん昨日もおでんって言ってましたよね。じゃあ今日はおでんにします? たくさん作って一晩寝かせればもっとしみしみになりますし」
「いいね。おでん」
「食べたかったんですか?」
「そうかも」
見上げると、基さんが照れくさそうに笑った。