隣にいる人
第二話──このところお天気のいい日が続きますね。
どこか他人事のように聞こえるお天気お姉さんの声を耳にしながら、テレビに映し出された週間予報を見れば、お日様マークがずらりと並んでいた。
あの日、自分から言い出した覚悟の意味が今も分からないまま、もう二週間も雨は降ることなく、お隣さんとの交流は変わりなく続いている。
互いに時々口にする名前の所為なのか、どことなく親しみを感じるようになってきた。
基さんは火曜日と金曜日だけ出勤しているらしい。あとは在宅なのだそうだ。ホームページの更新や管理のようなことをしているらしい。私が建築設計事務所で働いていると知って驚いていた。
「へぇ。何か意外。そこ結構大きな仕事しかしてないだろう? 柚は同じ建築設計でも住宅とか、そっち系かと思ってた」
「知ってるんですか? うちの事務所?」
「知ってるよ。学会賞取ってる人が過去に何人かいるだろう?」
「よく知ってますね。詳しいんですか? 建築」
「いや、詳しいって程でもないけど……」
何となく言葉を濁しているような気がする。触れられたくないことなのかもしれない。
今日のコーヒーはホンジュラスらしい。これも好きかも。
「たまたま拾って貰えたんです、私」
「たまたま? あの事務所ってそんな簡単には入れないだろう?」
「そう言われるんですけど、本当にたまたまみたいなんです。周りはすごくいい大学出た人しかいなくて、同期も在学中にいくつも賞を取ってた人もいて、地方から出てきた私はすごく浮いてるんですよね」
自分で言ってて情けなくなる。多分私は雑用係として雇われているんだと思う。実際にそうはっきり言われたこともある。何年かに一人か二人、そういう人を採用するんだ、って。
「なんでその事務所に入ったの?」
「友達とみんなで記念に受けたんです。そしたら書類審査に通っちゃって。トントン拍子で面接が進んでいって。周りがとにかく喜んで。断れなかったって言うか……」
「そうなの?」
「大学側も喜んじゃって。もう後に引けないって言うか……」
うわ、面倒くせぇ。呟かれた言葉に本当にそうだと思う。実際面倒になってそのまま就職してしまった。周りの期待とやっかみがすごくて、元々少なかった友人関係もこじれてしまった。
入ってみれば案の定、まるでその空気に馴染めず、高橋チームが拾ってくれなかったら、今頃総務で働いていたかもしれない。むしろその方が良かったんじゃないかって気さえする。あんなに好きだった建築に何の未練も持てなくなるほど、僅か数年で疲れ切ってしまった。
雑用が嫌な訳じゃない、それを同期や後輩に揶揄されるのが一番堪える。
「仕事自体は嫌いじゃないんです。元々人の補佐をするのは好きでしたし、それで喜んで貰えると嬉しいですし。でも、一々同期や後輩に馬鹿にされるのがすごく嫌で」
「仕事は楽しい?」
「そうですね、仕事自体は楽しいです。今のうちのチームの人はみんないい人ですし」
「その人たちは柚を馬鹿にする?」
「思っているかも知れませんが、言われたことも態度に出されたこともありません」
「だったら、思ってないんだよ。いいチームに入れて良かったな」
確かにそうだ。高橋チームに拾って貰ってからは、チームの雰囲気同様、色んなことが穏やかになった。馴れ合わないのもいい。なのにいざという時はチーム全体で助け合う。
「そう、ですね。うん、そうかも」
今まで半信半疑だったことが、すとんと自分の中で腰を据えた。穏やかな彼の声のせいかもしれない。
「基さんはどんな会社に勤めてるんですか?」
「俺? どんな会社だと思う?」
「んー。ホームページの更新が仕事って事は、マメに情報を更新しなければならないって事ですよね」
「そうだね」
「なんだろう? そういう方面には詳しくないから分かりません」
「でも、柚も俺の作ったページ、一度は見てると思うよ」
「ってことは、有名なサイトなんですか?」
「どうかな? そんなに有名じゃ無いんじゃない?」
言葉に笑いが含まれている。なんだろう、この声を聞くとどうしてか対抗心や反発心が生まれる。
「いつか当てますから!」
「楽しみにしてるよ」
そっと手摺りに飲み終わったマグカップを置けば、いつものようにすっと向こう側に消えていった。
さっきまでの楽しい空気までもが消えてしまったかのようで、どうしてか急に心許なくなる。風が冷たくなってきたからか、人恋しいのかもしれない。
うっすらとマンションからの光や街灯に浮かび上がる公園の木々も、気の早いものは僅かに色付き始めている。
葉が全て落ちたら公園に散歩に行こう。
枝だけになった木々と、赤や黄色に染まった大地。木々が染まるより、それが落ちて大地を染め上げた景色の方が好きだ。きっとそれは踏みしめる度に、カサカサと冬を呼ぶかのような乾いた音を立てるだろう。
週末に雨が降らないまま今年も残りひと月ほどになり、目の前に見える公園の木々も秋の色が随分と濃くなってきた。一緒に食事をしないときに降った雨はノーカウントだ。
今日は大根がこれでもかとばかりに送られてきて、本当にもうどうしようかと頭を悩ます。
「おでんは?」
「おでんは大根の消費にはあまり向かないですよね」
「そうだよなぁ。大根メインじゃないとなぁ」
「本当は実家みたいにたくあんにすればいいんでしょうけど、さすがにここでたくあん漬けるのはどうかと思いますし」
「確かにたくあんは旨いけど、匂いがキツイよな」
ふろふき大根の夕食を済ませた後で、ブランケットを羽織ってコーヒーを飲みながら、明日の日曜日と水曜の献立を話す。どうしても持て余す時は水曜日も食べて貰っている。
基(もとい)さんとはもう随分と気心も知れて、昔からの友達のようになんでも話せる。
「事務所に持って行くのは絶対に嫌ですし」
「大根持って電車に乗るのが?」
「当たり前です。それもう色々終わっちゃいますから」
「そう言えば、柚っていくつ?」
「二十四です。年が明けたら二十五になります。基さんは?」
「今年三十。ついに三十」
「三十路ですか?」
「そう、ついに三十路だよ」
その瞬間、ざわわと公園の木々が一斉に葉を鳴らし、大粒の雨が前触れもなく大きな音を立て始めた。
ふわっと立ち上る雨の匂い。これは濡れた植物の匂いなのか、土の匂いなのか、雨そのものの匂いなのか。
「ようやくか」
聞こえてきたのはしみじみとした声。雨粒が手摺りに跳ねて飛沫を上げている。
「ずっと週末は晴れてましたもんね」
ついに顔を合わせる。すごくドキドキする。一応いつ顔を見られてもいいようにはしてある。とは言っても軽いメイクだけれど。いつまで経ってもメイクは上手くならない。でも美容院には行ったばかりだから、髪はいつも以上にさらさらだ。
都会では、女の人はみんな綺麗で、男の人はみんな格好いい。平均点がすごく高いというか、どんな人もそれなりに垢抜けている。いつまで経っても垢抜けない私とは大違いだ。
「では柚さん、明日、三十路の私とデートして下さい」
「えっ? っと、顔を合わすだけじゃないんですか?」
手摺り越しに顔を合わせるだけだと思っていた。デートって事は二人で一緒に出掛けるって事?
「折角だし、明日一緒にコーヒー飲もうよ。隣で」
「このマンションの隣の? あの、珈琲何とかって難しい漢字のお店?」
「あれ纁(そひ)って読むんだよ。赤い色のことらしい。あそこで焙煎して貰ってるんだよ、うちの豆」
「そうなんですか? そっか、確かに時々コーヒーの香りがしてますよね」
「じゃあ、明日の十時に」
「十時、ですか?」
どうしよう。何を着ていけばいいか分からない。
──お姉ちゃんが選ぶ服はダサいんだから。
不意に浮かんだ言葉に、一瞬立ち眩むかのように意識が遠退きかける。
「柚?」
「あ、はい」
心配を滲ませた声に慌てて散りそうになった意識をかき集める。
「嫌なら無理しなくていいんだよ?」
「いえ、嫌じゃなくて……」
何と言っていいか言い淀む。
「嫌じゃなくて?」
確認するかのように同じ言葉を繰り返す声が、いつも以上に優しく聞こえたから、恐る恐る打ち明けてみる。雨音にかき消されないよう、お腹に力を入れて。
「あの、何を着ていけばいいか、分からなくて」
「普段着でいいよ。俺も普段着で行くから。そうだな、ニットにデニムかな。柚は?」
──お姉ちゃんが選ぶ服はダサいんだから。これから自分で選ぶ時はなるべくシンプルなワンピースにしなよ。
「えっと、私、ワンピース、しか、持ってなくて」
「いいね、ワンピース。ニットのワンピース持ってる?」
「あっ、はい。持ってます」
「じゃあ、それ着ておいで。ニット同士になろう」
まるで労るかのように聞こえる声に、どうしてか泣きたくなる。
私はこの人に嫌われたくない。悟るかのように辿り着いたその気持ちに、一気に不安になる。
「あの……」
「ん? どうした?」
「服、選んで貰ってもいいですか? あの、センスがないんです、私」
微かに笑われたような気がした。嫌われた。やっぱりダサい子は嫌なのだろう。途端に気持ちが萎んでいく。
「俺が選んでいいの?」
「えっ、と、はい。出来れば」
あれ? 嫌われたわけじゃない?
「何を心配してるのか分かんないけど、じゃあ、十時に柚んちに行けばいい?」
「いいですか?」
「いいよ。なんか色々本末転倒な気がするけど」
「えっ?」
「ああ、いや、なんでもない。心配しなくていいから、一緒に服を選んで出掛けよう」
「はい。お願いします」
ほっと胸を撫で下ろす。選んで貰えば、とりあえずセンスのない組み合わせにはならないだろう。もうワンピース一枚で出歩ける季節じゃない。事務所へは妹が選んでくれた決まった服装で行っているから迷うことはないけれど、こういう時は何を着ていいか分からない。
地味な私とは違って、妹は華やかな容姿をしている。昔からセンスがよくて、私の服は大抵彼女が選んでくれていた。都会に出る時に言われたのは、自分で選ばずお店の人に選んでもらう事。お店の人に声をかけづらいなら、シンプルな、彼女が選んでくれていたようなワンピースを選ぶようにする事。
結局自分では選べなくて、帰省する度に一緒に出掛けて選んで貰っている。
ピンポーン。
十時を少し過ぎた頃、聞こえたインターホンの音に慌てて玄関に向かい扉を開けると、そこにはこのマンションを案内してくれた不動産屋さんが立っていた。なんだろう?
「柚、ちゃんとインターホンで相手を確認してから開けなよ」
「えっと、不動産屋さん?」
「とりあえず中入れて」
ぐいっと扉を大きく開けられ、背の高い不動産屋さんがぐいっと中に入ってきた。目の前に迫った大きな体に思わず後ろに後退る。不動産屋さんの背後でパタンと扉が閉まった。
「あの、不動産屋さん?」
「柚、気付いて。俺だから。基だから」
あっ、と声が出たきり、まじまじと顔を見上げてしまう。不動産屋さんが基さん? 言われてみれば基さんの声だ。
改めて見た基さんは、すごく背の高い、都会の男の人だった。そう言えば不動産屋さんを初めて見たときも、背の高い格好いい人だなと思っていた気がする。都会の人は不動産屋さんまで格好いいのかと、感動したことまで思い出した。
「基さん、不動産屋さんだったんですか?」
「正確には不動産屋さんじゃないんだけど。不動産屋さんと契約しているフリーのSEなんだよ。SEって分かる?」
「えっと、システムエンジニア? ですよね」
お客さん用のスリッパを出しながら、あれ? っと違和感を覚える。その違和感を掴もうと見上げれば、基さんの眉間に皺が寄っていた。
「柚さ、もうちょっと警戒心を持った方がいいと思うよ」
何に警戒すればいいのかが分からなくて、思わず見上げた基さんをじっと見ていると、眉間の皺が更に深くなった。何かを諦めたかのように小さく溜息をつきながら「おじゃまします」と片足ずつ反対の膝の上に持ち上げてサイドのジッパーを降ろし、ショートブーツを脱いでスリッパに足を入れた。なんだかその仕草がドラマや映画の中で見たような都会の人という感じでドキドキする。
「もしかして、基さんを警戒しろって事ですか? でも昨日約束しましたよね」
「そうだけど。一応知らない男だろう?」
「えっと、基さんは知らない人じゃないと思うんですけど」
「そうだけど。まあいいよ。俺以外の男には簡単にドア開けたり、家に上げたりするなよ」
何を心配しているのかと思えば、そんなこと有り得ないのに。基さんの脱いだ靴を揃えながら笑ってしまう。
「私を訪ねてくる男の人なんていませんよ。基さんくらいです。知らない人はここまで上がって来ないですし」
このマンションは小さいながらもちゃんとオートロックだ。
「オートロックは安全じゃないんだよ。あれは単なる開け方がちょっと面倒なドアってだけだから」
そう言いながら目を細めた基さんは、私の頭の上にぽんと手を置いてから、内扉を開けて部屋に入っていく。
「ちょっとこざっぱりしすぎじゃない? この部屋」
「そうですか?」
「シングルベッドと小さなテーブルと椅子ひとつって。テレビ床置きだし」
「えっと、あまり物を増やすなって」
「誰に言われたの?」
「香ちゃんに」
「コウ? 柚って付き合ってる男いるの?」
また眉間に皺だ。それにしても本当に背が高い。並んで立っているのに見上げるほどだ。
「ああ、違います。香は妹で、香るって書いて、こう、って読むんです」
「姉妹で柚子の香りか。いいな」
眉間の皺がなくなった。
「基さんは彼女いないですよね?」
「なんだよ、その決めつけたような言い方。いないけど」
むっとした顔の基さんに、慌てて否定の意味で顔と両手を小さく振る。
「だって、デートって言ってたから。彼女いたらデートって言わないかなって。そもそも彼女いたら隣の人にご飯貰わないですよね」
「ん。デートの意味は分かってるんだね」
「なんですかそれ。そのくらい誰だって分かりますよ」
思わずむっとしてしまう。
「本当に分かってる? お付き合い前提でデートしましょうってことだよ?」
お付き合い前提って。お付き合い? ちょっとお出掛けじゃなくて? 問いかけるように見上げれば、どこか当たり前のように平然とした眼差しで見下ろされる。
「えっ? っと、お付き合いするんですか?」
「しないんですか?」
「あ、いえ。よろしくお願いします?」
「はい。よろしくお願いされます」
お互い真顔でのやりとりによく分からなくなる。いきなり初彼が出来た?
なんだか昨日から色々急展開で頭が付いていかない。ちょっと一息入れたい。そもそもさっきから立ちっぱなしだ。
「お茶入れますね」
「それより、早く服選んで出掛けるよ。朝からコーヒー飲んでないから早く飲みたい」
基さんがクローゼットの前に立ち、開けてもいいかと言いたげに指を指す。頷けば遠慮の欠片もなくクローゼットが開け放たれた。同じ造りの部屋に住んでいるから、勝手知ったる何とやらだ。
「うーん、今着ている服も可愛いからそのままでもいいんだけどなぁ」
「でもこれは家でしか着ちゃダメだって」
「妹さん?」
「はい。服は妹が選んでくれていて」
クローゼットを眺めながら、基さんが軽く首を傾げた。
「もしかしてこっち半分は通勤用?」
「そうです。よく分かりますね」
「もしかして組み合わせも決まってる?」
「はい。妹が決めてくれてます」
「なるほどね」
クローゼットの右半分を見ながら、基さんが腕を組んで考え込んでいる。それがまた何とも格好良く見えてドキドキする。不意に今度は左半分の普段着用のワンピースを一枚一枚見ながら、基さんが着ているニットと同じオフホワイトのニットワンピースを取り出した。続いて基さんもニットの下に着ているような、黒がベースのタータンチェックのシャツも取り出す。
「これとこれ着て。タイツはさすがに自分で出して……そうだな、何色を持ってる?」
「黒しか持ってません」
「そっか。じゃそれで。着替えておいで」
クローゼット内に造り付けられている小ぶりのチェストから今日は寒いからと裏起毛のぬくいタイツを取り出し、洗面所に行って言われた通りに着替えて戻れば、上から下まで眺めた基さんが、小さく頷いて柔らかに笑った。
「うん。可愛い」
かあっと顔に熱が集まる。可愛いなんて男の人に初めて言われたかも。
「隣に行くだけだからコートはいいよな。ほら、行くよ。鍵持って」
慌てて通勤用の鞄の中から鍵を取り出し、急かされるように玄関に向かい、玄関クロークの中から踵の低いブーツを基さんが選んでくれる。
「あっ、お財布……」
「いいから。早くコーヒー」
一度履いたブーツを脱ごうとした手を取られて、そのまま繋がれる。手を引かれるように外に出て、階段を一気に降りて、息が上がる頃にはお隣のコーヒーショップの前にいた。