隣にいる人
第一話


 部屋の中にカレーの匂いが漂い始めた。ひと箱分のカレールウで作ったカレーは、カレーライス、カレーグラタン、カレーパスタ、カレーリゾットと、毎日その姿を変えて私のお腹に収まる予定だ。カレーが特別好きなわけじゃない。色んな野菜を大量に消費するのに簡単な方法がカレーってだけで。
 あとはご飯が炊けるまで火を止めて、ゆっくり味が染み込むのを待てばいい。

 バルコニーに出て、干していたシーツを取り込む。
 週末、一週間分の食事を作り置き、家中の掃除をして、溜まった洗濯物をまとめて洗う。都会に出てきてからの決まり切った過ごし方に、時々無性に寂しさを覚える。

「カレーかぁ。腹が減ってる時のカレーの匂いって拷問だなぁ」
 バルコニーの隣家との間にある仕切り板越しに聞こえた抑えられた声に、思わず動きを止めた。
「カレー食いてぇ!」
 今度はあからさまなほどはっきりとした声。そんなに食べたければ、買いに行くなり食べに行くなりすればいいのに。
「もしもし、……はい。 ……分かりました。すぐに確認します」
 電話がかかってきたのか、急に声が硬さを帯び、その声が遠ざかる。微かにもう一度「カレー食いてぇ」と聞こえたような。

 夏の暑さがすっかり鳴りを潜め、随分と涼しくなってきた。もう少ししたら涼しいじゃなく肌寒いに変わりそう。洗濯物を取り込みながら、そろそろ紅葉も始まりそうだと、そよぐ目の前の木々に目を細める。

 大きな公園沿いに建っているこのマンションは、バルコニーが公園に面しているので窓からの眺めがいい。ただ、駅からは遠い。物件情報には徒歩十五分と書かれていたけれど、私の足では二十分近くかかる。駅の近くの駐輪場は既に一杯で、予約すら受け付けてくれない。

「腹減ったぁ。とりあえずカレーの匂いだけでも腹に入れよう」
 再び聞こえてきた声に、小さく溜息が零れる。間違いなく態と声を上げている。
「カレー食べます?」
「待ってました!」
 やっぱり。



 お隣さんとは八月の終わりからのお付き合いだ。その時はキャベツを大量に消費しようと回鍋肉を作っていた。確かに甜麺醤は美味しい匂いだと思う。その匂いに釣られたのか、バルコニーの仕切り板越しにさっきと同じように「腹減ったなぁ」と低い声が聞こえた。その声についキャベツの消費が進むかもと閃いてしまったのが運の尽き。何も考えず「回鍋肉ですけど食べます?」と声をかけてしまった。顔も見たことのないお隣さんに。
「えっ? いいの?」
「はい。実家からキャベツが大量に送られてきて。食べないと腐りそうなんです」
 マンションのバルコニーにある、隣家との仕切り板越しに会話したのが始まり。
 回鍋肉とキャベツの浅漬け、ご飯を大皿に全て盛りつけて、バルコニーの手摺りの向こうから手を伸ばして仕切り板の向こう側に渡した。わざわざ玄関まで行くのが面倒だったから。

 この部屋は面白い間取りになっていて、玄関を開けると左に脱衣所を兼ねた洗濯機置き場と洗面所、その奥にユニットバスが続く。右にはトイレと玄関収納がある。玄関正面の内扉を開けると十畳ほどの部屋の右壁一面に、アクリルのスライドドアが付いていて、開けると玄関側からクローゼット、食器棚や冷蔵庫を置くスペースがあって、キッチンが順に並んでいる。アクリルドアを閉めるとそれらが全て隠れるようになっている。
 つまりバルコニーへの掃き出し窓のすぐ横にキッチンがあり、換気扇もバルコニーに排気される。バルコニーに洗濯物を干しながら料理をするにはちょっと不向きな部屋だ。

 翌週はカボチャが送られてきた。顔ほどもある大きなカボチャが八つ。カボチャは保存がきくからいいけれど、一人暮らしに八つは多い。
 がっつんがっつんと音を立てながらカボチャを切って、まずはその半分を煮付け、残りの半分でシチューを作っていると、またバルコニーの仕切り板越しに声が聞こえた。「腹減ったー」って。で、思わず「今週はカボチャですけど」って声をかけたら、先週渡したお皿が綺麗に洗われて仕切り板越しに戻ってきた。

〝今までの人生で、一番うまかった〟

 そう書かれたメモを貼り付けて。
 リップサービスだとは分かっているけれど、どうしてか純粋に嬉しく思えて、ついついカボチャの煮付けもシチューも大サービスしてしまった。
 見慣れた製図文字にも似たその筆跡をどうしても捨てる気になれず、手帳の中に隠すように仕舞い込んだ。



 そんなことが毎週のように繰り返されて、気付けば二ヶ月が経っていた。
 二ヶ月経った今でも顔を合わせたことはない。



「お鍋あります? あったら貸してください」
 家の中に戻って行く足音が聞こえ、再び物音が聞こえたと思ったら、前回の器と片手鍋が仕切り板の向こうから顔を出した。
 きっとバルコニーの手摺りからお互いが顔を出せば、顔を合わせることは出来る。でも、わざわざ顔を合わせるまでもない気がして、顔を出したことはない。おそらくお隣さんだってそう思っているだろう。たまたま持て余した料理を食べて貰っているだけだ。

 借りたお鍋に出来ていたカレーを半分入れると、仕切り板越しに向こうに渡す。ミトンをして両手で鍋を持って、持ち手を相手に向けて差し出せば、大きな手が伸びてひょいと鍋が向こうに消えた。続けて炊き上がったばかりのご飯も渡す。三合炊いた半分を大きめの保存容器に入れて。きっと男の人でも二食分か三食分にはなるだろう。
「いいの? こんなに」
「はい。しばらくカレー尽くしになるよりは」
「もしかして今週はナス?」
「あたりです。今年最後の茄子だそうです。水曜日に麻婆茄子作る予定ですけど食べます?」
「食べます」
「八時くらいになりそうですけどいいですか?」
「もちろん。あと食費……」
「いりません。むしろ助かってます」
 毎回最後に交わされるのはお金のことだ。実はそれほどお金はかかっていない。

 実家の母は趣味で畑を作っている。家庭菜園なんて可愛いものじゃない。本気の畑だ。その単位はヘクタール。
 収穫した野菜を持て余し、ご近所さんや知り合いに分けてもまだ余るほどに作っているせいで、一人暮らしの私の所にも毎週のようにダンボールひと箱分の野菜が送られてくる。いっそ直売所でも開けばいいのに。

 日持ちする野菜はいい。でもほうれん草や小松菜がひと箱送られてきた時にはさすがに困る。半分は会社に持って行ってチームの人に貰ってもらい、何とか消費。大きめの紙袋一杯の青臭いほうれん草を抱えて電車に乗るなんて苦行だ。
 茹でて冷凍しておけばいいと言われるけれど、ずっと祖父や母が育てた新鮮な野菜を食べてきた所為か、どうしても冷凍した野菜を美味しいと思えない。それならいっそ新鮮なうちに食べて貰った方がいい。
 お米や小麦粉は、畑仲間から物々交換で手に入れているらしい。それらも私の所にも送られてくる。今日のカレーだって、実際に買ったのはカレールウとお肉くらいだ。しかも鶏肉だから安い。

「でもさすがに二ヶ月だろう? そういうわけには……」
「本当に助かってるんです」
 仕方ないからほうれん草や小松菜が送られてきた時のことを話した。
「袋一杯の茄子を抱えて満員電車に乗るなんて……想像しただけで嫌ですよ」
「まあなぁ。トマトよりいいんじゃないか? 潰れたら悲惨だろう?」
「よく分かりますね。悲惨でした」
「経験済みか」
 どこか呆れたようにも聞こえる声に、思わず笑ってしまう。ほうれん草と小松菜は苦行だったけれど、トマトは惨事だった。出来れば思い出したくはない。
「そういうことなら遠慮なく。ちなみに俺、焼き茄子も好きなんだ」
「……土曜日は焼き茄子にします。あぁ、でも次の土曜日には今年最後のトマトが届くって……トマトソース作らないと」
「じゃあ俺がパスタ買っておくよ」
「いいんですか?」
「そのくらいはしないと」
「じゃあお願いします。茄子とトマトのパスタでもいいですか?」
「いいね、よろしく」
 顔が見えないからこそ、こうして普通に話せる。きっと顔を合わせていたらこんな風に話せないと思う。顔も名前も知らない人だからこそだ。

 軽く話している時とそうじゃない時の声の感じが違う。軽く話している時は少しだけ声が高くなって、少しだけ早口になる。そうじゃない時はゆっくりと落ち着いた話し方をする。低すぎない少しだけかすれたような声は、落ち着いて話す時ほど柔らかに聞こえ、言葉に適度な重みを感じる。きっと私より年上。声しか知らない人だけれど、多分悪い人ではない。むしろ互いの考え方が似ているせいか、話していると妙に落ち着く。
 そもそも大家さんのお眼鏡に適った人なら悪い人ではないはずだ。

 このマンションは駅から少し遠いけれど、広めのワンルームは家賃がかなり抑えられている。だからなのか入居希望者がかなり多いらしい。ところが、大家さんのお眼鏡に適った人しか入居出来ないらしい。おまけに入居者は誰一人として大家さんがどんな人かを知らされないそうで、もちろん私も知らない。どこで見られていたのかすら分からない上、どうして入居出来たのかも分からない。ちなみに案内してくれた不動産屋さんの人に聞いてもちらりとも教えてくれなかった。



 食べ終わる頃を見計らったかのように、ことりと手摺りに置かれたのはマグカップに入ったコーヒー。これを確認するために小さな丸テーブルを窓際に置いて食事を取るようになった。

 手摺りの下は常に無人だ。公園との境は背の高い金網が張り巡らされており、バルコニー側には防犯上人が入れないようになっている。時々管理会社の人が草刈りをする程度。
 だからこそ、開放感がある。公園からは木々に遮られ人の視線を感じることはない。三階建ての最上階、五戸あるうちの奥から二番目に住んでいる。

 三度目の食事を提供した後だったか、食後に一杯のコーヒーを淹れてくれようになった。
 丁寧にドリップされているのだろうコーヒーは、その辺のお店で飲むものより余程美味しい。どれほど高価な豆を使っているのかと聞けば、それほど高価な豆ではないらしく、Qグレードと呼ばれる豆だと教えてくれた。特別な時にしかカップオブエクセレンスは買わないとも。ただ、馴染みのお店で焙煎したての豆を毎週飲む分だけ手に入れているらしい。ブレンドよりシングルオリジンが好きらしく、淹れる直前に豆を挽き、丁寧にドリップするのがストレス解消なのだと聞いた。

「今週はグァテマラ」
 カップを手に取ると、仕切り板越しにそう聞こえた。
 正直に言えば細かな味の違いはよく分からない。単純に飲む前の香りと、口に含んだ時に鼻から抜ける香り、微かに感じる甘みや酸味、苦みの好みを思うまま素直に話していると、喜んでいるような気配がする。
「これは好きかも」
「やっぱり? そうじゃないかと思ったんだ」
 元々コーヒーはそれほど好きではなかった。Qグレードが何かも知らなかった。飲むならカフェオレやカフェラテのように牛乳をたっぷり入れて飲む。それが、隣からもたらされるコーヒーを飲むようになって、すっかりコーヒーが好きになり、その分今まで飲んでいたコーヒーチェーン店のコーヒーが飲めなくなってしまった。まるでコーヒーの味が違う。
「新しく日本に上陸したコーヒーショップ、行ってみました? 一杯ずつドリップしてくれる」
「行ったよ。オープンしてすぐに。なかなか旨かった」
「そうなんですか? これよりも?」
「そりゃ自分好みに淹れた方が旨いに決まってるだろう?」
「ですよね。外でコーヒーが飲めなくなりました」
「だろうな」
 くつくつとご機嫌に笑う声が微かに聞こえる。
 食後のコーヒーをバルコニーで仕切り板越しに一緒に飲んで、そのままカップを回収してくれる。洗って返すと言っても、それもお礼代わりのうちだと言われてしまえば、素直にごちそうさまと言うしかない。



 同じものを食べ、同じものを飲む。
 でも、お互いに声しか知らない。
 それなのに、たくさんのことを話し、その人柄はよく分かっている。
 すごく不思議な関係だと思う。



 水曜日、朝から糸のように細い雨が降っていた。それは一日中やむことはなく、雨脚が酷くなることがない代わりに、しつこくだらだらといつまでも降り続いている。

 この日、うちのチームはノー残業デーだ。私以外はみんな既婚者なので、いつの間にかそう決まったらしい。普段からなるべく残業をしないよう、だらだらと仕事をする人もいない。馴れ合わない代わりに、助け合う。そんなチーム。
 だからなのか、人付き合いが得意じゃない私にはすごく居心地がいい。みんな既婚者だからどことなく余裕もあって、チーム内の雰囲気も穏やかだ。
 比較的規模の大きな設計事務所、その第一設計部の高橋チームに所属している。



 いつもより少し早い電車に乗り、どこか急かされるように帰路に就く。
 スーパーで挽肉を買い、いつもより足の運びが速いことに気付き、なんだか滑稽に思う。顔も知らない人に食事を作ることを、どこかで使命のように感じている。
 ふいに好きな人に食事を作る時ってこんな感じなのかもしれないと思い浮かび、自分の妄想力の逞しさに笑いが零れた。嫌う要素はない。でも顔を合わせたこともない人に恋なんて出来るものだろうか。
 ただ、隣から聞こえるあの心地いい声は、素直に耳を傾けたくなるような何かがある。

 ご飯が炊きあがり、麻婆茄子が出来上がったのは、予定していた八時より五分ほど過ぎた頃だった。
 相変わらず細い雨は降り続いている。
 トレイにセットした食事にトレイごとふわりとラップをかけ、テーブルの上に一度置いてバルコニーの仕切り板を軽くノックする。
「待ってました! 旨そうな匂いがする」
「お待たせしました」
 前回の分の食器を返して貰い、代わりにトレイを傾けないよう、ゆっくりと仕切り板の先、バルコニーの手摺りの向こう側から慎重に隣に差し出す。不意に軽くなったトレイは、瞬く間に仕切り板の向こう側に消えていった。
「おお! 麻婆茄子にナスの浅漬け、ナスの味噌汁!」
「ナス尽くしですみません」
「いや。旨そう。いただきます」
「はい。召し上がれ」
 部屋に戻り、自分の分をテーブルに並べて食べ始める。少し豆板醤を入れすぎたかも。ちょっと辛い。

 しとしとと降り続ける雨音が、静かに部屋の中に降り積もっていく。
 一人で食べる食事が、最近は寂しくない。

 地元の大学を卒業し、地元の設計事務所に就職出来たら上々だと思っていたのに、記念受験的に受けた今の事務所に入社が決まった。有名な事務所の名前に周りは色めき立ち、私の意思などお構いなしに、当たり前のように就職先が決まってしまった。
 地元を離れ、たった一人で都会に出てきて、たった一人で暮らす。三年目となった今でも慣れることはない。友達もいない、知り合いは会社の人だけ。
 だからだろう、あの日隣から聞こえた声につい応えてしまったのは。

 ことりと手摺りに置かれたマグカップにもラップがかかっている。
「雨の日ってさ、何となく心寂しい感じがするんだ」
 カップを手にした瞬間、そんな声が聞こえた。そっとラップを剥がし、窓にもたれて香ばしい香りごと静かに口に含む。今日も美味しい。このグァテマラのコーヒーはすごく好みだ。
「こう、ネガティブな寂しさじゃなくてさ。人恋しくなるような、人の温もりを思い出すような、そんな温度のある寂しさって言うか」
 降り続く雨と同じくらいしっとりと聞こえた言葉に、どうしてかどくりと心臓が一際強く脈打った。
「そうかも知れません」
 どくりどくりと脈打つ胸を片手で押さえながら、かろうじてそれだけを答えた。
「と言う訳で、今更だけど名前聞いてもいい?」
 どういう訳で聞かれたのかがいまいち掴めないまま、声が続いた。
「俺は、かとうもとい。加える藤の普通の加藤に、基本の基で、もとい、って読むんだ」
 教えられてしまえば教えないわけにはいかない。気乗りしないようでいてどことなく期待するような、何かの予感を感じるような、戸惑うような、嬉しいような、自分でもよく分からない色んな感情が一度にぐっと込み上がる。
 それなのに、聞こえてきた静かな声をなぞるかのように、跳ねていた心臓は少しずつ静まっていく。
「佐々木柚です。佐々木はよくある佐々木で、ゆうは木偏に理由の由、ゆずって書いて、ゆう、って読むんです」
「ゆずって柚子胡椒の柚?」
「はい。だから友達にはゆうじゃなくてゆずって呼ばれてました」
「俺もだ。もといじゃなくてもとって呼ばれてた」
「ゆうって呼ぶのは家族くらいで……」
「そうそう、だからちゃんと呼ばれるとなんか照れくさいんだよなぁ」
 ふと湧いた悪戯心。
「基(もとい)さん?」
「じゃあ俺も柚(ゆう)って呼ぶぞ?」
 どことなく照れを含んだような声に、思わず笑いが零れた。
「どうして急に名前?」
「どうしてかな。急に思ったんだよ。何で名前知らないんだ? って。名前も知らない人の作った飯食ってるんだ? って」
「確かに。名前も知らない人のご飯作ってましたね、私も」
 聞こえていた笑い声が急に途切れた。
「雨の所為かな」
 吐息混じりに聞こえたいつもより低く、艶を含んだような声に、再び心臓がどくりと脈打つ。
「そうかも知れません」
「じゃあ、次に雨が降ったら、顔を合わせてみましょうか?」
 からかうようなその声に、跳ね続ける鼓動に紛れて意味を理解する前にどうしてか反発心が湧いた。
「いいですよ。覚悟しといてください」
「何の覚悟だよ」
 お腹の底から笑うような声が隣から聞こえてくる。その楽しそうな気配に、自分が勢いで何を言ったのかに気付くのが遅れた。
「えっ? 顔を合わすって、会うってことですか?」
「覚悟して待ってますから」
 笑いを含むその言葉にどきりとしつつも、やっぱりちょっと反発心が生まれる。
「覚悟しておいて下さい」
 もう一度そう言って、飲み終わったマグカップを手摺りにことりと静かに置いた。そのカップが視界から消えるのを見ながら、一体何の覚悟なのかと考える。自分でもよく分からない。


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